烏が鳴くから
帰りましょ

黒鷺のお話

 無惨な亡骸が、路上に打ち捨てられている。松風 左馬は、天を仰ぐ虚ろな眼球と、視線を重ねていた。
 屍に触れず、眺める。生きていれば、愛嬌があると言われたのであろう顔が恐怖に引きつって、大きく開かれた口の中には、屍自身の内臓が押し込まれている。――子宮であった。
 胸を左右に切り分けられ、肋骨が裏返って、肉の間から突き出している。胸骨は外側に無い――おそらく、内臓を取り出して作った空洞に、落とし込んだのだろうと思われた。
 そして、体の外側へ露出し、湾曲した剣山のようになった肋骨の先には、女の内臓が吊るされていた。心臓に始まり、肺も、胃も、腸も――。
 殷の紂王は酒池肉林を楽しんだと言うが、内臓が垂れ下がる肋骨は、白木に掛けられた肉にも見える。然し池を為すのは、酒では無く、咽せるような血の香であった。
風向きが故とは言えど、何故、この臭いに気づかなかったか――訝る左馬は、足音を二つ聞いた。

「師匠、今……っ!?」

「……あら、死体ですねぇ……これは酷い」

 正しく猛獣のように跳んで来たのは村雨、その後を女医者が、口と鼻を布で覆いながら歩いて来た。

「村雨。〝今〟と言ったか?」

「え……は、はいっ!」

 左馬は、村雨の顔を見ず、視線を屍に向けたままで問うた。
 応が返って、考える。多少風向きが悪くとも、これだけの血の嵩、人狼の鼻が嗅ぎつけぬ筈は無い。
 人体の胸を開いて臓腑を掻き出すなどすれば、一里先からだろうが、嗅ぎつけかねない鼻なのだ。

「駒鳥先生、そこの死体を――」

「もうやってます。……うわぁ、ざっくりと」

 女医者――名を、駒鳥という――は、屍の開かれた胸の中に、右手を突っ込んでいた。
 血と肉を、指で掻き回す音がする。液体に空気が混ざって、ぐじょ、ぐじょ、と攪拌の音――気味が悪いと、左馬は思った。

「……温かいですねぇ、とても」

 然し、駒鳥が発する言葉の方が、まだ幾分か気味が悪かったかも知れない。

「温かい……? その、死体が、かい?」

「とっても。冬の夜なのに、切り開かれた胸の奥まで、まだ温かさが残っています。流れ出た血も同様ですから、この人が死んだのは――早くても数分前でしょうねぇ。
 殺し、開胸し、そこから内臓を引き摺り出して……〝華やかに飾り付けた〟んです」

 強烈な臭いに、村雨は鼻を抑えていた。人狼たる村雨には、これも食欲を掻き立てる、馥郁たる香りだ。だが、人間に焦がれる理性が、それを許さないのである。
 血塗れの手を引き抜いて、駒鳥は、爪に挟まった肉を落とす。それから、服の裾で手の血を拭って――額に浮いた汗を、手の甲で拭う。冬の夜であるというのに、女医者の額には、汗がじわりと滲んでいた。

「松風さん、ちょっと行けば皇都守護隊の詰所が有ります。人を呼んでもらえますか?」

「……いや、村雨に行かせよう。村雨、南に走れ、灯りが有る所までだ。その後は――」

 言われるまでも無く、村雨はこの場を離れようとしていた。
 これ以上、飾り立てた死を眺めていては、毒される。
 ただの死ならば、戦場に幾つも転がっている悲劇である。村雨はもはや、悲劇の看過に慣れてしまっていた。
 だが――こういう死の作り方は、何処にでもあるものではなかった。
 道楽目的で製造された屍――殺す事そのものが目的の、殺人行為。それ以外の目的を何一つ持たない、無益な、非生産的な死。
 だのに、その死には情熱が込められていた。
 そればかりでは無い、情熱の所以を、村雨は理解出来てしまいそうだったのだ。

「――その後は、みつの無事を確かめたら、日が昇り切るまで絶対に外に出すな。分かったか?」

「はい、必ず……!」

 最短距離――通りではなく、屋根の上を走らんが為、村雨は跳躍する。
 未だ色濃い血の香りが、村雨の後ろ髪を引いた。








 それから程無くして、市中を見回りする兵士達が、村雨の通報で駆け付けた。
 惨たらしい死は見なれている彼等だが、酷く壊された死体には、動揺を隠せずに居た。
 人目につかぬ内に、死体は片づけられた。暗い夜であったのが幸いした。
 そして、今は、翌朝となっていた。
 先の昼に降った雨が土に凍みて、夜の底冷えで凍り付いた、白い朝。靴で大地を踏むと、霜がぱきぱきと折れて、足運びに合わせて鳴る。
 空には鉛の雲が圧し掛かっている。分厚くて、重そうな、水の粒をたんと含んだ雲だ。
 そのうち、雪になるのやも知れない。洛中の冬は愈々厳しく、人の頬を打ち据えた。

「――では、死体を見つけたのは」

「ああ、私だ。私が誰かは、狭霧兵部殿にでも聞けばいい。私のやり口じゃないとも言ってくれるだろうからね」

 皇都守護隊の詰所は、民家よりもなお隙間風の入る、粗雑な作りをしていた。ふすまが傾いていて、ぴたりと閉じないのが主因である。
 そのせいで殆ど吹き曝しの部屋に、左馬は居た。
 聴取を担当しているのは、守護隊ではそこそこに地位の高い、髭の濃く長い男である。戦地には出されないが、度胸のある男という事で、危険極まりないと噂の左馬に宛がわれたのだ――まっこと運の無い奴であった。

「おかしな音を聞いて、外へ出た。そうしたら、もう〝飾られた〟死体が有ったんだ。死体と逆の方向に、女が一人歩いていった。私が見たのはそれだけだ」

「早業だな」

 男は、左馬の言を信じていないような口ぶりで言うのだが、然し目はと言えば、左馬を信用はしていないものの、眼前の女に疑いを向けているという風でも無かった。
 人間を酷く殺すのは、男の場合が多い。何年も一国の首都を守っていれば、人殺しの傾向は読めるものである。
 松風左馬は凶暴で、確かに狂気を孕んだ人格ではあるが、〝こいつ〟では無い。こいつならもっと誇るように、堂々とやるのだろうと、守護隊の男は思った。

「先生、どう見ますか」

「この駒鳥(こまどり) 荒辺(あらべ)が保証しますが、刀傷の一つでほぼ即死ですねぇ。首から胸に掛けてを真っ直ぐに、一太刀で切り分けられています……刃は三寸以上も沈み込んで、胸骨も左右に割って。血は間欠泉のように噴き出したでしょう。
 その後、肋骨や内臓を用いて〝飾り付け〟ていますが、これは――」

 女医者の駒鳥は、詰所で風呂を借りて、今はすっかり綺麗な手になっていた。細筆を手に、幅広の紙に、つらつらと達者な文字を並べている。
 硯で墨をすりながら、駒鳥は暫し、発すべき言葉を選ぼうとした。そのままに伝えて、錯誤は生まぬものか――

「――素手で、解体されています」

「素手……?」

 どうなろうと、良しとしたか。言葉を半ばで区切ってから、残りを一気に吐き出した。

「つまり……切り開いた胸から手を押し込んで、内臓を丁寧に指で切り分け、傷つけたり潰さないように引き出し、同じように折り返した肋骨の先に引っ掛けて――邪魔な筋肉は、多分これは、指先で押し裂いてますねぇ。
 嫌な言い方をすると、人間のお腹の中に手をつっこんで、ぐちゃぐちゃに掻き回した後、中身を引っこ抜いた……これを、体温が死体から奪われる前に済ませた。以上が私の見解です」

「う、ぉ」

 守護隊の男は、声を詰まらせた。駒鳥の見解は十分以上に理解出来たが、そういう事を仕出かした何物かが理解出来ぬ――そういう、混乱の呻きであった。
 一体どんな恨みが、人をここまで変形せしめるのか――そう思う程の、激しい損壊である。
 しかも、それの一部は素手でやったと言うのだ。

「……これは、またやるな」

「やるでしょうねぇ、ええ」

 男が続けて呻くと、駒鳥が同意する。どちらも、確信に満ちた目である。

「こういう人間は、愉しみを捨てられない。一度始めたならば、必ず次をやるでしょう。捕まるか、自分の胸を同じように切り開くまで、もしかすると直ぐにでも――」

 駒鳥が言い終わる前に、がたん、と物音がした。
 ただならぬ気配に、守護隊の男が腰を浮かせるが、それが立ち上がりきらぬうちに、青い顔をして、若い女が飛び込んでくる。

「どうした!?」

 男が訊くと、

「二条の城の、門に」

 駆け込んできた女はそれだけ言って、畳の上に膝を着く。
 全速力で駆け込んできたのだろう、息も絶え絶えになって、ぜえぜえと喉を鳴らしている。これ以上の言葉は無かったが、寧ろその事実が雄弁に、この場に居る皆に告げた。

「……恐ろしく、踏み込んだな」

「外の門か。それとも堀を超えた内門か……さて、私を此処で足止めしておく理由は、無くなったんじゃあないかい?」

 左馬はいつの間にか、縁側に足を出して靴を履いていた――見に行くつもりであるらしい。
 守護隊の男が、髭をばさっと羽打ち鳴らして頷き、

「二つ、訊く事がある。死体から離れるように歩いて行った女とは、どんな姿をしていた?」

 怖いくらいに目をひん剥く。近くでは何人か、記録役の下っ端役人が、筆を持つ手の甲に汗を滲ませて、一言も聞き落とすまいと構えていた。

「……遠目に見たから、正確な背は分からない。低くは無い――少なくとも私よりは高いように見えた」

 語り始める左馬は――明らかに、表情が険しくなる。
 それは、自分が続けて言おうとしている言葉が、どういう反応を呼ぶか分かっているからであったのだが、

「男物の着物だったと思う。血を浴びても濡れては見えないような、真っ黒だったから、意匠までは見えない。けれど……足の動きが見えなかったから、袴を穿いていただろう。
 鍔鳴りがしたし、死体の傷も駒鳥先生が言うには刀傷だ。刀を持っているのはまず間違いなくて――それと、髪が長い。こっちは揺れるのが見えたが、腰を過ぎる程の――そうだね、背にもよるが三尺は有るだろう、見事な黒髪だった」

 言葉の途中から、周囲の役人達が顔色を変えたのが、はっきりと左馬には見えた。

「――黒八咫か!」

「さあ、どうだろう。あれとも遣り口が、違う気がするんだが……」

 黒で揃えた男装と、それに釣り合わぬ三尺の黒髪、刀の腕。市民ならば忘れても居ようが、皇都守護隊ならば、忘れる筈も有りはしない。
 三か月程前、洛中に現れた女剣士――政府を相手に大立ち回りし、果ては最精鋭部隊〝白槍隊〟隊長・波之大江 三鬼とも対等に渡り合った化け物。兵部卿の娘に酷く傷を負わされたと言うが、死体も未だに見つかっていない。
 それが戻ってきたのだとしたら――人体の損壊劇は、確かに頷けるものだ。容易くやってのけるだろうと、守護隊の者達は確信していた。

「……二つ目の質問だ。次の死体の検分まで、駒鳥先生の護衛を頼めるか。駒鳥先生、ご同行願います」

「はいはい、直ぐに向かいましょう。……治せない人間は嫌いですねぇ、人は生きてるからいいんです」

 丹前を二枚重ねて、その上に茶羽織――駒鳥は酷く着ぶくれて、下駄に足を通した。
 夜からずっと起き通しで、顔色もあまり良くは無いが、それは身体の疲労ばかりでなく、精神の疲労に由来する点が大きい。
 欠伸を片手で堪えながら外へ出る駒鳥を、左馬が追い掛け、立ち上がる。

「……あいつが女で楽しむなら、やり方がなぁ、違うと思うがなぁ。……ああ、構わない。引き受けようとも、その程度――」

 既に靴は履いている。具合を確かめるように幾度か飛び跳ねて――それから、適当な石の一つに、目を付ける。
 踵で、それを蹴った。
 転がるのではなく、浮いて、地を這うように真っ直ぐ、石は飛んで詰所の床下へ消えた。

「……? 何をしている、松風 左馬」

「いいや、なんでも」

 短くそれだけを答えて、左馬は誰よりの先に歩き始める。後を守護隊が追って、あたかも左馬が彼らを率いているような、おかしな構図が出来上がる。
 彼らは白昼、街の中に有りながら、隘路を行く兵士のように気を張り詰めて、互いの間隔を狭めていた。
 誰にも――松風 左馬にさえも、畏れが有った。未知への警戒は、獣から分岐した筈の人間が、僅かに残した野生であるのかも知れなかった。





 そして、或る者は二条へ向かい、或る者は建物の奥へと引っ込み、詰所の縁側から人の気配が消えた頃である。

「……っしょ、よい、しょっ……ふぅ、この国の建物は床下まで小さい……!」

 縁側の板張りの下から、匍匐前進で這い出した者が居た。
 西洋人に特有の金髪を、男のように短く切った少女である。
 年は十七か、十八か、そんな所だろう。人種の違いか、日の本の女に比べて起伏に富む体形をしているのだが、だぼっとした衣服の為に、あまり色気というものは感じさせない。
 然し、健康的かどうかで問えば、全くその通りであると誰もが頷くだろう。白い肌の頬は、寒さもあるのだろうが、血色良く赤味を帯びている。

「に、しても……バレてたわよねぇあれ。おー、こわっ……!」

 少女は、左腕を撫でさすりながら小声でそう愚痴めいた言葉を吐いた。
 左馬が床下へ蹴り込んだ石は、過たず少女の腕を打ち据えていたらしく、赤黒い痣が出来ている。
 痛みは然程でも無いのだろうが――表情は多少引きつっているものの、平常と言って良いだろう――知っているぞとばかり、石を蹴り込まれて、心底肝を冷やしたらしい。

「それにしても、それにしても、ふむ、ふむ。惨たらしい死体ですか……」

 けれども少女は、不屈であった。
 塀を一足で飛び越える健脚振りを披露しながら、唇に弧を描かせる昂りは、事件を知らしめねばという少々ずれた義務感と、自らの功名心を内包した好奇心に支えられる。

「なれば今こそ! 不定期刊〝つぁいとぅんぐ〟、非公認にて復刻の時よ!」

 ルドヴィカ・シュルツは虚空に宣言して――それからそそくさと、建物の影に隠れた。
 この少女、過去に政府公認で『新聞』を作りながら、その紙面で政府の行為に批判的な文章を書き、販売許可を取り消されているのである。
 もっぱらの悩みは、木組みで原板を作ったとして、刷る者がいないという事ではあったのだが――もはや今の彼女を留めるのに、その程度の懊悩では足りない。
 ルドヴィカはこっそりと、守護隊を尾行して、二条へと向かった。た、たん、と小気味良い足音は、雪に染み込んで、遠くまで届かずに掠れて、消えた。








「……聞いてきたんですか?」

「ああ。みつには聞かせたくない話だ、ここで言う」

 洛中を北に抜けて、神山を登った、山中の小屋。左馬が戻る頃には、既に夕刻となっていた。
 村雨は、床の上に胡坐で座っている。
 無残な屍を見つけてから、人を呼び、その後は一直線にこの小屋へ戻った。日が昇った後も、小屋の外へは一歩も出ていない――みつを危険に晒しては、と思ったからだ。
 此処まで、かの狂人がやってくるとは思えない。
 好き好んで山奥を訪れて、たった一人を殺そうと考える物好きな殺人者など、考えもつかない。
 だが、狂人であるならば、常道で測ってはならぬ。
 村雨が、人に交わり学んだ事の一つに、そう望まぬ時に限り、物事は予測を上回っていくという事がある。
 自分が横にいれば、最悪でも、みつを抱えて走り、逃げる事が出来る。そう思ったから、みつをずっと、自分の目の届く部屋に置いて、自分は耳鼻を研ぎ澄ませて過ごした。左馬が帰って来た時など、三町先から嗅ぎ付けた程である。
 今、みつは隣室で、夕食の準備を始めている。包丁の扱いなど、すっかり手馴れたものである。規則的に、とん、とんと、まな板を打つ音が聞こえてくる。

「二条の城のも、やっぱり同じだ。駒鳥先生の見立てでは、同じ得物で、同じ手順で殺されているらしい。こっちも女の死体だったよ」

「同じって言うと――」

「胸を割られて、臓腑を取り出され、逆にされた肋に吊るされていた。何か、それは意味がある事なのかも知れないそうだ――先生が言うには」

「意味?」

「そうだ」

 村雨は、直ぐに左馬の言わんとする事を理解して、その丸く大きな目を、きゅうと絞った。
 おかしな奴程、何かに拘る。
 決まった道を歩くのが好きな奴もいるし、同じ言葉を延々と呟き続ける奴が居る。それは、他者の理解は得られずとも、当の本人には意味があるのだ。
 それと同じように、自分だけに理解出来る〝意味〟に従い、殺しを遂げる。

「じゃあ、やめませんね……絶対に」

「だろうね。死ぬまでそいつは、これを続けるだろう。〝あれ〟の楽しみは、これだけなのかも知れない。これからは、〝あれ〟が捕まるまでの間、日が高くないうちは、絶対にみつを街に出すな。街に出す時は、必ずお前がついていくんだ。良いね?」

「はい」

 狂気は、容易くは薄れないが、容易く強まるものだ。
 一度、血の中に手を浸したのであれば、その快楽から抜け出せはしない。
 それを、十分に知っているのが松風 左馬であり、村雨であった。
 一度決めた拘りに、付け足す事はあるかも知れないが、引く事は無い。
 手口はより残酷に。
 標的をより多く。
 頻度をより増して。
 きっと、殺しは続くのだろう。

「……村雨。こいつを、どういう奴だと思う?」

「どういう、ですか?」

 左馬は、戻ってきてから、一度も座ろうとしていない。
 腰を浮かせていなければ落ち着かぬという様子で、村雨は座らせたというのに、自分は部屋の中を歩き回っているのである。
 それが、村雨の真正面に立ち止まって訪ねた。

「駒鳥先生は〝あれ〟を、〝剣術と医術の双方に心得のある者〟と断じた。人の体を知らないなら、ああも綺麗に分解は出来ないんだそうだ。お前、どう思う?」

 左馬が問うと、

「……そんな事は、無いと思います。」

 村雨は首を振って、低い声でだが、はっきりと答えた。

「そうだ、そんな事は無い。確かに生き物を解体するのは難しいだろうし、医者なら簡単にやってのけるだろう。だが、他にもやれる奴は居る。
 例えば狩人(おまえ)、例えば|人殺し(わたしやさくら)。生き物を、命を尊重せずに扱えるんだったら、出来るんだ。料理人が魚を鮮やかに捌くようにね。
 そう考えるとこの街は今、日の本で一番多くの人殺しが集まっている所だ。見つけるのは、簡単じゃあないぞ」

「………………」

「比叡攻めに参加して、それでも足りずに血を欲しがる馬鹿が、居るのかも知れない。もしかしたら、全然違う所に居るのかも知れない。だが――放っておいて良い奴じゃないな」

 どかっ、と音を立てて、左馬はそこに座った。
 前のめりになると、村雨の額に、左馬の額が触れそうになるが、村雨は下がらずに、その視線を受け止めた。

「村雨。こいつを仕留めろ」

「……はい!」

 否も応も無い。左馬の命であれば、余程の無理でない限り、断るという道は無い上に――これは、村雨の望む所でもあった。
 隣の部屋、台所からは、まだ調理の途中なのか、火の粉が爆ぜる音がする。
 火よりも、村雨の腹の中に閉じ込めた感情は、熱く煮えたぎっていたが、それは正義の為では無かった。
 左馬は、話を聞かせぬ為と言って、みつが料理をしている間に、村雨に話をしたのだが、真実は違う。
 左馬は、見慣れた顔が、きっと見慣れぬものに変わるだろうと知っていたから、そうしたのだ。

「……楽しいか、村雨」

「えっ?」

「いや、なんでもない」

 村雨は、酷く暗い目をして、嗤っていたのである。








 理由が己の外にあれば、人は容易く暴力を振るう。
 例えば、誰かを守る為という大義名分であったり、或いは上からの命令であったり、周囲の同調圧力であったり。
 そういったものが集まれば、人間は野の獣よりも攻撃性を露わにして、敵の喉笛を食いちぎるのだ。
 人とて、狂って、空に吠えるのである。
 遠鳴きが響くのは、頬の裏側まで凍て付くような、寒い夜であった。
 朝からの曇り空は何も変わらず、洛中に蓋を降ろしている。
 北西から街へ吹き込む風には、雪の粒が、ほんの小さく混ざっている。
 然し、徒党を組んで肩肘いからせ歩く、皇都守護の小班の一つは、積もる雪をも溶かさんばかりの熱を帯びていた。
 彼等は今朝、二条城の門前に、無残な死体が置かれていたのを、自らの目で見たのである。
 彼等は戦場を知っている。無残な死も、無論、知っている。
 だが、彼等が見た死体は、それとは趣を異にするものであった。
 その死体は、飾り立てられていた。
 肋骨を外開きの橋に変えられ、先には自らの内臓を吊るされた、丁寧に壊された人体。
 検死をした医師によれば、臓腑の幾つかは、素手で引き抜かれたものだという。
 死んでから解体を終えるまで、きっと、数分程でやってのけたとも見ている。
 死体の顔は、生前の恐怖がべったりと張り付いて、歪に変形したままであった。
 誰がやったのか、何が目的でやったのか、何時の間に、どういう武器を用いて――それら全ての思考は、湧き上がらなかった。たった一つ、〝どうしてここまで出来るのか〟だけが、彼等の脳髄を埋める疑問であった。
 洛中に獣は住まない。野良の猫が、塀の上を歩くばかりである。
 生きる者に満ち溢れた筈の街で、動く気配は幾つ有るか――殆ど見つからぬ程に静まり返っている。
 このまま何も出るなという祈りと、何か有れば我らがとの思いが、四と六に割れて、守護隊小班の腹に渦巻いて居た。
 
「異常は、どうです?」

「有りません、加奈さん」

「班長」

「すいません、班長」

 小班が、寺の焼け跡の前で立ち止まると、班長を務める女――加奈は、部下の若い男に、周囲を確認させた。
 ふた月と半ほど前に、洛中を一飲みにせんと、夜焼きが有った。狭霧兵部の命による、仏教徒の虐殺である。
 それで焼け落ちた寺の残骸は、殆どは片づけられたが、こうして残っているものもある。
 黒く焦げた木材やら、焼けてひび割れた瓦やらが、規則性を失って積み重なった、小さな山が、そこには有った。
 場所が場所ならば、子供が昇って遊びたくもなるだろう程度には、緩やかな山である。

「けども、不気味な場所ですね、加奈さん」

「だから」

「こんなとこには、誰も立ち止まりませんよ、加奈班長」

 然し、誰も好んでは寄りつかない。
 釘やら、陶器の破片やら、危険物が幾らでも紛れている山だ。
 事によると、下の方には骸骨の一つや二つ、埋もれているかも知れない。
 その山の麓の方、少しだけ大きな瓦礫を選んで、加奈は腰掛け、言葉で戯れようとする部下に、少し呆れたように額に手を置く。
 穏やかな女であるが、腕は立つ。それで、訓練を付けて欲しいと跳ねっ返りの部下が言い出して、適当に叩き伏せたら懐かれて、この有様である。不快では無いが、周りの目の事もあり、いちいち言葉で訂正するのが煩わしい。
 座ってしまえば周囲の男達に比べて、半分程の高さも無くなる加奈は、どうにも威厳という点では、長に向いていない様子である。

「はぁ……一度、此処で休憩を取りましょう。〝目〟と〝耳〟は欠かさないように」

「はっ! ……わざわざ、此処で?」

「誰も来ないなら、誰の迷惑にもならないでしょう?」

 柔和な声で命じて、加奈は命じた。
 刀の鞘を地面に、杖のように置いて、柄尻に手を重ねて置き、更にその上に顎を乗せる。
 ぼうっとしているように見えるが、目を凝らしているし、耳を澄ましているし――部下に命じ、手は打たせた。
 〝目〟と〝耳〟――探知魔術の一種の、俗称である。
 単純に、遠くまでを見通せるようにしたり、遠くの音を聞き取れたりするようになる、そんな術だ。
 下手な術者だと、近くの光で目を潰しかけたり、近くの音で鼓膜を痛めたりするのだが、この小班は、加奈の教えが良いのか、そういう事態に陥る者は居ない。皆が皆、全く完全に、周囲に警戒を払っていた。
 十数人の監視網――訓練を受けた兵士が作る、それである。
 猫どころか、鼠の一匹、蚊の姿さえ、決して逃がしはするまい。
 近くの民家の中で、寝苦しそうに姿勢を変える音がする。
 障子の向こうで蠢いているのは、夜間だというのに刀の素振りでもしているのか、筋骨隆々の男の影だ。
 雲の合間に、鳥が飛ぶ――珍しい事に、梟である。山ならばいざ知らず、街で見る事もまず無いだろう。
 小班の面々は、まるで書物に示された文字を追う如く、周囲の全てを把握していた。
 然しこの夜、最初に異変を察知したのは加奈の、〝目〟でも〝耳〟でもなく、第六感とも言うべきものであった。

「樋井」

「はい?」

 先程、周囲の確認を命じられた若者――樋井を、加奈が、指先を内側へ折りたたむような動きで招きよせた。
 名だけを呼ばれた――来い、とは言われなかった。その異常を察して、樋井は足音を消した、猫のような歩みで、加奈に従う。
 加奈は、瓦礫の山を登る。低い山を登るのに、たっぷりと、百も数えるまで時間を掛けたのは、やはり音を立てぬ為だ。
 何を見た訳でも無い。何を聞いた訳でも無いが、息を殺して、登って、

「……!」

 そこに、倒れている女を見つけた。
 瓦礫の山の頂点を挟んで、ちょうど先程女班長が座っていた所と正反対の位置に、仰向けに、女は倒れている。
 黒っぽい着物の帯が乱れ、内側の襦袢までが乱れて、肌を夜空に晒している。
 胸の中央から臍を過ぎるまで、椀に溜めてぶちまけたような、くすみ始めた赤が――血が、広がっていた。

「あなた!」

 加奈は一足で駆け寄り、女の上体を胸に抱き起した。
 肌の色から、生きているだろうとは思うが、然し尋常の寝姿では無い。
 怪我でもしていたか、或いは襲われたか――血に濡れる事も厭わず、女の胸に手をやった。
 拍動は強い。触れた限り、身体の前面に怪我は無いように思える。古傷は有るが、それも一つか二つのものだ。
 口元に耳を運ぶ。規則的な呼吸が、確かに聞こえてくる。
 ――寝ている?
 まさかと、加奈は、女の姿を改めた。
 誰が、冬の寒空の下、瓦礫の上で、この姿で安らかに眠るものか。

「あなた、どうしましたか、あなた!」

 強めに揺り動かしながら、背や腕にも触れる。
 出血は、やはり、無いように思える。
 絹の上からでは分からぬような、強い体をしているのも分かる。野生の獣は鍛えずとも、皮膚の下に強い筋肉を持つが、それに似ているかも知れない。然し、どちらかと言えば戦う為の筋肉というより、舞いを習う者が身に付けるような、柔らかく、粘り強い生木のような体である。
 背は、女としては高い。樋井が五尺と六寸あるが、それと然程変わらない。
 その背を完全に覆って、腰を過ぎる程、女の髪は長い。
 指に通せば、指の隙間から水のように零れて行きそうな、見事な黒髪である。
 加奈は、実際に、その髪を手に取った。
 滑らかな毛髪にこびり付く赤黒い塊は、これも、乾いた血である。
 頭に傷は無い――それも、分かった。

「樋井、離れた者を呼び集めなさい! 誰か、医に長けた者が居れば――」

 加奈は、女を胸に抱いたままで、樋井に命じた。
 事情は知らぬ。奇妙ではある。
 だから一人で当たりたく無いと――臆病も少し、顔を覗かせたものだろう。
 女が怪我人であるのか、或いはそうでないのか、自分では測りきれぬという事も有る。
 応と、樋井が走り去ろうとして、

「加奈さん!」

 止まり、樋井が叫んだ。
 班長だ、と何時ものように訂正しようとして、加奈は、声が出せない事に気付いた。
 腹から持ち上げた空気が、喉にまで届かないのである。
 息を吸いこんでみても、口から入った息が、腹まで降りていかないのである。
 加奈の胸が、縦に真っ直ぐ刃を入れられて、左右に切り分けられていた。

「ぁ、……ぇ?」

 喉をせり上がる筈だった血は、其処まで届く前に、途中に開けられた胸の穴から、間欠泉のように噴き出した。
 その泉に、女は左手を突き込む。
 加奈の胸の中で、肉が千切れる、ぶつんという音が幾度も聞こえた。
 膝が崩れ、加奈が瓦礫の山の上で、頭を麓に向けて、仰向けに倒れる。
 その胸の中から、女は左手を引き抜いた。
 女の左手には、まだ温度を残したままの、加奈の心臓が有った。

「きっ――貴様ァッ!」

 樋井が、声を裏返らせて、瓦礫の山を駆け上がった。
 掛けながら、腰の刀を右手で抜き、併せて左手を前方に突き出す。
 怒りというのも生温い、煮えたぎった感情に動かされながら、樋井は冷静に、口の中で言葉を紡いだ。
 単言による詠唱――魔術の行使。
 用いたのは、身体の硬化術である。
 時間を掛ければ、全身を鋼のように変えられるが、片腕だけで良いならば、ただの一言で済む程度には、樋井は魔術に長けている。
 女の武器が何であるか、樋井はまだ見ていない。
 だが、人間の胸を容易く裂いたならば、相当に切れ味の良い刃物であろうとは踏んでいる。
 それを、この左腕で受ける。
 多少は斬り込まれるかも知れないが、例え斧を持ってしても、斬りおとす事は出来ぬ筈だ。
 その間に、右手の刀で、女を斬る。
 確実に殺し得る算段である。

「しぃいいいいい――」

 噛みあわせた歯の隙間から、漏れ出す息もそのままに、樋井は突き進む。
 女は、眠たげな顔を見せてから、右手を持ち上げた。
 それを、樋井は見た。
 女の得物は、短刀が一振りである。
 殺せる。

「――いいいいいいっ!!」

 短刀目掛け、左手を突き出す。
 同時に、女の左脇腹目掛けて、刀を振るう。
 裂帛の気勢を拭き出した樋井の踏み込みは、氾濫した川の如しである。
 一方向に進む事だけを思っている、そして何があろうと止まろうとは考えない、濁流が、樋井である。
 女は、その流れに、逆らいも飲まれもしない。
 斜めに一歩、樋井のそれと同等か、それ以上の速度で、突き出された左腕の外側へ抜けて、

「くふっ、ふふ」

 女が笑う。
 すると、ごとん、と樋井の左腕が、肩ごと落ちた。
 痛みを覚えるより先に、女の短刀は、樋井の背骨と首の骨を、背後から三度、突き刺した。
 悲鳴などは上がらぬ、上がる筈も無い、迅速な殺人劇。
 然し、加奈をそうしたような、過剰の破壊は与えない。
 女は手短に、樋井を殺してのけた。

「なっ……!?」

 異変を察知して、やや広く展開していた小班の面々が戻ってくる頃には、女は瓦礫の山を降りていた。
 得物はやはり、短刀が一つ。
 刃は、六寸よりは長いが、七寸も無い程度の、凡庸な刃物である。
 既に二人の血を啜って、たんと赤くなった刀身に、女は口付けた。
 女は、唇に紅を差していたが、血の赤は元の色よりも鮮やかに、女の冷たい顔を彩る。
 そうして、べったりと赤が広がった顔で、毒々しく女は笑うのだ。
 それが、皇都守護の小班の、戦士たる精神を逆撫でした。

「っぎ、ぃいいいいいおおおぉっ!」

 叫ぶというよりは、吠える。
 同時に二人、同じように大上段に構えて、女に斬りかかる。
 受けた刀ごと相手を両断せんばかりの剛剣が、二つ同時である。
 挟むように向かった――左右に逃げ場は無い。
 然し女は、当たり前のように、横へ飛んだ。
 二人の男のうち、自分の左手の側から攻め込んだ相手へ、胸の中へしな垂れかかるように潜り込んで――男の脇腹から、一目で致死量だろうと知れるだけの血が、噴き出すのではなく、椀を倒したかのように、ごぼっと零れた。
 右手側の男が、空ぶった刀を今一度振り上げて、女の頭蓋へと振り下ろす。女が一歩だけ足を進めて短刀を振るうと、右手側の男の両腕が、肘で斬られて、路上に落ちる。

「ぐう、ぅがあああぁっ!?」

 耐えられる筈も無い激痛に、吠える声も、長くは続かない。女は次の一振りで、右手側の男の首を、花を抓んで手折るかのように、訳なくすとんと斬り落としたのだ。
 黒い着物の間に見える、白い肌――胸も腹も、脚も股も、赤の濡れ化粧が施されて、女は高らかに喘いだ。
 抱かれて果てる時の、切羽詰まった声にも似せて、殺しの喜悦を女は歌う。
 身をくねらせて、淫らに舞うように。
 身に燻る熱を、寒空へ逃がそうとするように。
 左手で己の体を愛撫しながら、女は鳴き、随喜の涙さえ流した。
 伸びやかな嬌声で、兵士達の耳を犯しながら、女は一度、強く身を震わせた。
 ――これは、何だ?
 理解の及ばぬものを、人は恐れる。
 人か――いやいや、まさか。
 獣か――いやいや、そんなものでは。
 ならば、鬼か――鬼ならばまだ、分かろうものだ。
 兵士達の理解に於いて、この女は、もはや何にも属さぬ一個の怪物であった。

「ひ――ひゃあああぁっ」

 誰からでも無い。皆が、ほぼ同時に、女に背を向けていた。
 悲鳴が上がったが、それは女の声だけでなく、男の声も有る。
 良く知った道――詰め所への道を、彼等は走った。意識的にか、無意識にか、皆、帰ろうとしたのだ。
 つまりは、同じ方向へ走ってしまった。

「ふふっ、ふふ、ふふっ」

 また、女が笑った。
 体の芯から悦が湧き上がって、喉を通り、唇を押し上げた時、初めて声に切り替わった、そんな声だ。
 その声が聞こえた時、最後尾を走る一人が、首を落とされた。
 首を失ってから、その兵士は二歩だけ走ったが、その横をすり抜けて、女はまた別な一人に斬りかかっていた。
 ころり、ころり、人の部品が落ちていく。
 左右を問わず、腕が落ちる。
 背の肉の隙間から、切り離された背骨がはみ出して、落ちる。
 頭が、空を睨んで、或いは大地を睨んで、落ちる。
 骨と肉を切り離しながらも、女は全く力を使っていないような軽い足取りで、兵士の群を追い続けた。
 残りは、二人になっていた。
 体が大きく、特に体力のある二人である。だから逃げられたのだが、それも長くは持たないだろう。
 そんな二人の行く先は、丁度二股に別れていた。
 左右、どちらの道も薄暗く、足元は悪く、何れに逃げても同じであろう。
 大男二人の内、髭面の男は、右へ。皺の深い男が、左へ逃げた。
 女は、躊躇わず右へ走った。

「ぃ、い――ぃいいいいっ、いいいいいいい!」

 足音が離れていかないと分かって、髭面の男は、泣き喚きながら、手足をがむしゃらに動かした。
 刀も、舶来物の銃も、弾薬も、何もかも投げ捨てて、逃げていこうとした。
 知った道である。何処まで走ればいいかを、良く知っている。助けを得られるまでの道程の、その長さを知っている。

「ひいいいいいいっ! ひっ、ひいっ! ひいいっ!」

 大の男が上げるような悲鳴では無かった。
 女子供でさえ、こんな声を出す事は、まず無い。
 この声を出せるのは、負けたものだけだ。
 完膚なきまでに、己の負けを認めた者だけが、全ての尊厳と共に口から吐き出すのが、この音だ。
 戦いを放棄して、髭面の男は逃げていた。
 その右腕が、肘から先だけ、地面に落ちた。
 それでも、足を止めない。
 次は、右肩から先が落ちた。
 重さのつり合いが崩れて、脚の運びが狂う。
 それでも、足を止めない。
 左手首、左肘、左肩。右膝までをバラされて、漸く髭面の男は倒れた。
 その首を、女がさくりと刈り取って、頭を毬のように蹴り飛ばした。
 倒れこむ体の脚を、付け根から切り落とす。
 膝を切り、足首を落とす。
 髭面の男の残骸から、女は胴体だけを選んで掴み、仰向けにさせて跨る。
 変わらず、帯も結ばぬ艶姿――然し、血みどろの凄絶な色香である。何人分とも分からぬ赤に染まった左手を、女は、むくろの腹に置く。
 体を倒して、胸の、心臓の真上に口付けを落としながら、女はむくろの胴体を、逆手持ちの短刀で抉る。
 小さな肉片を、幾つも飛び散らせて、ようやく女は、この玩具に飽きた。そうすれば、残りは一人――遠く逃げて行った、顔に深い皺を刻んだ男だけが残る。
 女は軽い足取りで、道の分岐点まで戻ると、その風情を一変し、正しく狩る側の顔になって、恐ろしい速度で走り始めた。
 蛇は音も立てず、驚く程の速さで動いて見せるが、丁度、そういう具合である。上下に体を揺らさず、女はするすると夜をすり抜けて行った。
 そうして、少し狭い道に入った。昼日中であったとしても薄暗いだろう、建物の影である。
 追って居た相手は、確かにこちらへ逃げ込んだ筈だ――足音や、呼吸音や、色々で、女は確信している。
 何処を通って走ったかは良く分かる、新雪に足跡がはっきりと見える。隠れる場所を探して、右往左往したのも窺えるけれど、悲しいかな、この辺りの道は熟知して居る。そうでなけりゃあ、街の中で獲物なぞ追うものか。
 息遣い、汗、涙やら唾やら撒き散らしたもの、全て想像出来る。年月と共に深い皺を刻んだ顔が、どう歪んだのかを想像出来る。
 ――悦い。
 嬲るだけでは、もう足りぬ。
 掻っ捌いて、赤を浴びたい。
 ぐんと速度を増した足の前に、何かが投げ出された。
 人間の、腕だった。

「……?」

 初め、女は理解が出来なかった。こういう事をするのは、自分の特権の筈なのだ。
 自分がやりたいと思ったから人の手足は落ちるのであって、誰かが壊した中古品を、犬に骨でもくれてやるような投げ方をするのは、道理に沿わぬ事である。

「……ぉ、ぉお」

 理を、女は尊重する。
 これは理を乱す行為である。
 また一つ、また一つ、関節部で壊された人体が、与えるように投げ出されて、女の前に積み上がる。
 肉も骨乱雑に、然し短時間で斬ったと見えて、肉の内に血が残っている。それが重なると、重さで血が染み出して、忽ちに雪を赤で染めた。
 これは、女の理を、無茶苦茶に踏み躙る行為である。

「おおおぉおぉおおおおぉおぉぉぉ……っ!!」

 女は、これ以上の狼藉に耐えられなかった。
 積み重ねられた部品の山を蹴り飛ばし、視界から消し去ろうとする。
 赤く変わった雪を踏み散らして、元の白に戻そうとする。
 そういう無駄な試みをする女の元へ、歩いて近づく者があった。

「喧しいぞ、手間を省いてやったのだ。……然し、良いなぁ、解体は。生きている間にやるのが、最も良い。だろう、お前」

 その男は、三十は軽く超えて居るが、まだ四十にはならぬ程の歳であった。
 髪に白いものが混じってはいるが、顔の皺は少なく、背筋も真っ直ぐ伸びている。胸や腕や脚が、常人と比べれば分厚いので、背丈自体も高いが、それ以上に背が高く見える男である。
 顔立ちも、かなり整っている。背丈と合わせて見れば、西洋の人間とも間違えかねない、鼻筋の通った顔なのだが、表情というよりはもっと根本的な、雰囲気ともいうべき部分で、気難しそうな内面がにじみでている。
 何よりも、男は〝こわい〟。
 恐怖に理由は無い。生きる為に培われた、これに近づいてはならないという本能の警告が、恐怖である。
 この男は、ただ其処に立つだけで、その警鐘を激しく鳴らす。
 男が歩くと、その周りの夜が色濃くなったように見える。男が消えた空間から、夜の色が薄れたようにも見える。
 近づいてくる夜の色に飲み込まれれば、二度と無明より抜け出せぬやも知れぬという、根源的恐怖を、従者として引き連れた男である。

「……で、誰だ、お前は。俺の街で何をしている」

 白髪混じりの男は、左手に掴んでいたものを、高く投げ上げた――女の狂刃から逃げていた、皺の深い男の生首である。
 高く、高く、女の背丈の何倍も上がって、落下を始めたそれを、

「殺すぞ、女」

 狭霧兵部和敬は、右手の大鋸で二つに割った。
 脳漿の雨を浴びて心地良さそうに、偉丈夫は、災禍の笑みを撒き散らした。








 女の理から、狭霧兵部和敬は、そっくりと抜け出した生き物であった。
 女の世界では、人を思う侭に損壊するのは自分であるという大前提が、深く根を貫いている
 全ては世界の中心たる己の意向こそが肝心であり、それ以外の一切は、なんら権利を持たない者である筈なのだ。
 だのに和敬は、その理を根底から覆す。
 無法にも女が為すべき損壊を愉しみ、結果として生まれた無価値の人体部品を、世界の主たる女の前へ投げ出して笑うのである。
 このような無道を、働いた無礼者は、これまでにいなかった。だから女は、どう対処すべきかを知らない。
 けれども一つ、分かる事は有る。
 ――あれは、不愉快なものだ。
 理屈を省いて、感性、直感に任せた時、決して共存し得ない者がいる。女からすれば、和敬はそういう生き物である。
 寄らば侵される、毒を持つ笑い方をする男。
 この時、女の中に、新たな理が構築された。

「おう、構えた構えた。酷い形だな、我流か」

 女は、短刀一つを右手に持って、腕をまっすぐ、限界まで伸ばして立った。
 剣術の心得など、まるで見えない形である。
 が、それで良いのがこの女でもある。
 触れれば、断つ。大きな動きは不要。これで十分、殺し得る。
 新たに生まれた道理の中で、女は、一切の娯楽を伴わずに、和敬を殺そうと決めた。
 這いつくばる虫のように、足取りに妙な重さを背負って、女は和敬へと、刃を近づけていく。
 すると、和敬が動いた。
 柄と鐔までは太刀にも似て、然し刃は乱杭の、大鋸を青眼に構える。奇怪にねじくれた人格に似合わぬ、正道の構えである。
 そうして、左足を前にして、摺り足で進む。
 ざり、ざり、と、二つの足音が近づいて行く。
 間合いより、一歩か二歩か遠くから、女はその、舞手のごとき身体を躍動させた。
 この速度が、歴戦の兵士達を、豆腐か何かのように切り分けたのである。

「ひゃぁっ!」

 瞬き一つ程の間に、突きが三つ放たれる。鳩尾、喉、右脇腹――最後の一つは、肋の下から肝臓まで届くように、斜めに打ち出される。
 和敬はそれを、丁度刃先が進んだ分だけ下がって避け、刃が戻るに合わせて進んだ。それも三度、全く同じ事を繰り返したのである。
 髪一筋の見切り――目を一度たりと閉じもせず、和敬はその芸当をやってのけた。
 これは並の獲物では無いと、女が顔色を変えた時には、和敬が跳ねていた。近づかれたかと思った次の瞬間には、女の鼻の先に、和敬の顔が有った。

「よう」

「なっ……!?」

 一足で踏み込み、わざわざ膝を曲げ、顔の高さを合わせ、気難しげな顔立ちのくせに、和敬は見事に笑ってみせる。
 その目や鼻を切り抉ろうにも、近すぎて咄嗟には手が出ない。
 病毒の如き男の顔が、鼻先に張り付いている――おぞましく感じて、女は喚きながら左手の拳を振るった。
 だが、これも近すぎる。肩やら腕やら、効きもしない部位を打つ手に、さしたる力は無い。和敬は防ぎもせず、女の襟を左手で掴みながら、左足で女の右膝の裏を蹴った。

「そーうら。あやしてやるぞ、糞餓鬼めが」

 がくんと崩れる身体を、和敬は、掴んだ襟から引き寄せ、短刀を持つ右手の手首を掴み――

「ふん!」

 思い切り、それこそ子供にやるように振り回した。
 回転の遠心力で、女の足が伸びきって地面から浮きあがり、一本の棒になる。
 腕を曲げ、体を和敬へ引き寄せよせたとて、この体勢で振るう拳に、猫を殺す力さえ無い。
 和敬は見るにも楽しげに、女をぐるりと振り回し――突然、離す。

「……!?」

 女は、近くの塀へ向かって飛んだ。
 足から飛んだのが幸い、壁に立ち、直ぐに路上に下りたが――これが頭から飛んでいれば、どうだったか。
 頭蓋を砕かれて死んでいたのではないか――それ程の勢いであった。
 然し、凌いだ。次こそはと、刃を構えると、

「まあ、そう急くな急くな。俺はな、お前に話があるだけなのだ」

 狭霧兵部はまた、女の鼻先まで踏み込んで、更には顎をがしと掴んでいた。
 兵部の右手首へ向けられる短刀――短刀が届く前に、女の右手首を、左手で掴み、塀に押し付ける。
 手首と顎を掴まれており、間合いの為に蹴り飛ばす事も出来ず、女は殆ど、磔にされたような有様で、

「ぐ……くう、ぅうう、ううっ!」

「……犬か猫か、何れにしても野良だな。躾けが出来ん類の獣だ、くだらん。くだらんが、お前にも耳は有るのだろう、まあ心して聞けよ。その首が今宵無くなるか、これからも楽しく人間をバラして遊べるかの瀬戸際なのだ」

 易々と狂人を取り押さえた狂人は、視線を一度、女から外した。
 視線の向こうから、鉄兜で顔を隠した、狭霧兵部の側近が歩いて来る。
 その手に有るのは――

「おい、女。あれに着替えろ」

「……は?」

 着物が一式と、装飾も豪奢な鞘に収まった刀二振り、それから桶であった。
 着物とは言ったが、男物だ。小袖に袴、肩衣と、武士の正装で――これが見事な黒備え。安物の黒では無く、艶を消した上等の絹である。
 刀はと言えば、太刀と脇差で一揃えだが、これの片方だけでも町民の家族が一年ばかり生きていけるような、これも高級品である。
 当然だが、何を言われたかが理解出来ぬという顔で、女は兵部の顔を見上げた。

「そのみすぼらしい姿をやめて、あれに着替えろと言っているのだ。分からんか!」

 すると、狭霧兵部は嚇怒し、顎を掴んでいた手を離すと、女の胸倉を掴み――着物を引き千切りながら、路上へ投げ倒した。

「あ、っつ……!」

「おい、どうにかしてやれ!」

 狭霧兵部が側近に言うと、

「はい」

 側近は短く答えて、女の傍に立った――抜け目なく、短刀は踏みつけて、拾い上げられないようにしてだ。そして、女の頭の上で桶を引っ繰り返すと、大量の水が、女の頭に降り注いだ。

「ひっ……!?」

「抵抗は構わんが、ずたずたの服に濡れた体。お前がどれだけの術者だろうが、夜明けまでに死ぬかも知れんぞ。……なあに、案ずるな。俺はな、人殺しは大好きだ。同好の士を無碍には扱わんよ」

 そういう兵部の視線の先で、側近は何度も、桶を傾けた。不思議と、一度逆さにして水を全て吐いた筈の桶は、元に戻す度に、また並々とした水が戻って来る。
 雪降る夜に眠っていたような女だ、始めは顔色こそ変わらないが――次第に、唇が紫色に変わって行く。
 熱を発し体温を保つような術でも使っていたのだろうが、その熱を上回る程、水で体を冷やされる――水攻めは拷問の基本である。
 頭から足先まで、豪雨を潜り抜けたかの有様になってから、側近が、女を石鹸で洗い始める。
 襤褸衣になった黒い衣を剥ぎ取って、その下、乾ききった血の汚れを、指先と爪で削ぎ落とす。

「ひ、ひ……」

「動かないでください。手が滑って首を絞めてしまいそうですから」

 体中、濡れている箇所一切――それこそ、頭頂からつま先まで、側近は、野良犬を洗うように女を洗った。鉄兜の下に有るのは、嫌悪か、それとも無表情なのか。何れにせよ事務的な声の中、一匙ばかり毒を混ぜて、側近は言う。
 それから、着物とは別な布で、水気を拭き落とす。それが終わると、血の衣を捨てた女の体は、その罪業に似合わず、あでやかであり、また華やかであった。
 立たせ、着物を纏わせる。小袖、袴、肩衣――腰に鞘を通させて、髪は紐で結い上げる。そうして〝仕上がった〟様を見て、

「……馬子にも衣装だなぁ、流石は俺の見立て。後で鏡でも見ておけ、自分がどういう面になったかを」

 狭霧兵部は、満ち足りた顔で頷いた。
 その満足の理由も、愉快な見世物を見物したという、それだけではない。
 これから起こる出来事が楽しみでならない、そういう顔だ。

「それでは、和敬様」

「おう」

 側近が呼び掛けると、狭霧兵部は、女に背を向けて歩き始める。その後を側近が、小走りで追い掛けていく。
 無防備に晒された背中――追って、刃を突き立てられるだろうか。そう思った女は、押し付けられた刀を抜いて――動けず、蹲った。
 寒さだけでは無い。それ以上に、体が震えて、足で体重を支えていられない。

「そういえばな、お前の顔は見覚えがある。親父とおふくろは元気か?」

 言い残した狭霧兵部を、ついに女は、追う事が出来なかった。








 それから、暫し後の事。
 二条の城の地下で、狭霧兵部は脇息に凭れ掛かり、その横で側近が正座していた。

「和敬様。あれだけで、良いのですか?」

「他に何が必要だ。俺と格は違うが狂人だぞ? 命じたように動く筈も無い、放し飼いで十分な人種だ。……が、まあ、脅した意味は有るだろう」

「有るんですか?」

「有る。次に俺に噛み付く時にな、あいつ、尻尾を腹に巻いたままで来る筈だ。何を言おうとも、狂気で取り繕おうとも、あれの骨まで叩き込まれた負け犬根性は消えんだろうさ」

 確信を持って、狭霧兵部は断言する。
 常々自信家である上司とはいえ、何故、此処まで断言するのか――側近はそれが気になり、訊ねた。

「何故、そうとまで断言を」

「あの女、見覚えがあるのだ。十五年も前の事だが」

「随分前ですね。あの子達が一歳か、二歳か、それくらいの頃ですか」

「おお。逆算するとあの女、今はどうやら二十という所だな……確か、五歳だった。俺は、一度見た顔は忘れないが、あの頃から良く整った顔をしていたな。おかげで高値で売れた」

 側近の動きが、舶来の写真のように固まった。鉄兜の下の困惑を読み取り、狭霧兵部は腹を抱えて笑う。

「そうだ、売った。ああ、俺じゃあないぞ、あの女の両親だ。いかさま賭博に連れ込んだら財産全部使い潰しても、返しても返しても借金だらけだ。夫婦揃って命を取られるか、子供二人を売るかと問われて、後者を選んだのが、あれの親だ。
 いや、まさか生きているとは思わなんだなぁ。生きていたとて狂って壊れているかと」

「実際に、狂ってはいますが」

「言葉は発するし、まともに手足も動くだろう。それにな、俺の楽しみの為に走り回ってくれる。
 あの恰好で、あの刀の腕。きっとな、俺が押し付けたあの服を、暫くあいつは使い続けるだろう。服従するのが生きる術だったのだから、解き放たれようと、強い相手には尻尾を振る癖が抜けまいて。
 それでな……あれが、女を殺し続けると、どうなるね、どうなるよ?」

 こういう時の兵部の問いに、問いとしての意味が無い事は、側近も良く知っている。
 黒備えで着飾った剣士が、女を狙って殺し飾り立て、居合わせた者もただ殺すという異常事態。
 その犯人が誰なのか――その目で見ていないものなら、或いはと、勘繰るやも知れない。

「本家がつられて出てきても良し。出ぬなら出ぬで、人死にが見られるから良し。俺にとっては、何の損も無い話では無いか。なあ?」

「ええ、確かに」

 側近が同意すると、狭霧兵部はけたたましく笑った。








 洛中と江戸は、何れも都会では有るのだが、やはり違いは多々ある。
 江戸は飽く迄も、日の本の町。火の見櫓より背の高い建物など、城の他には存在しないし、石畳などまず何処にも無い。洋装も外国人もあまり一般的とは言えないので、異国の商人が歩いていると、良く視線が集まったものである。
 洛中には、全てが有る。
 おおよそこの国で、全ての古いものを残していくだろう町が大江戸八百八町であり、全ての新しいものを取り込んでいくだろう街が、京なのである。
 そう考えると、村雨に似合いなのは江戸では無く、この街であるのかも知れなかった。
 大陸に特有の白い肌も、黒くない髪も目も、この街ならば溶け込んでしまえる。老人に言わせると、男か女か分からないような服装も、一切の奇妙が無い。
 街に溶け込んでしまった村雨は、人の群を追い越し、擦り抜けながら歩き回っていた。
 追い抜く時、擦れ違う時、村雨は鼻を小さく動かす。
 吸い込んだ臭いからは、その人間の生き方が分かる。
 染料の臭いは染物屋、油と肉の臭いは料理屋、鉄の臭いは兵士かも知れないし、兎角様々な生き方の人間と擦れ違う。
 然し、村雨が探している人間は、見つからない。

「………………ふう」

 最初の〝飾られた〟死体が見つかってから、もう七日が過ぎているが、手がかりは依然として見つかっていない。
 街の方々でも、黒装の剣客の噂は流れている。恐ろしく腕が立ち、酷く残虐で――ついでに噂に尾ヒレが付いて、誰もが目を奪われる絶世の美人だとも言われている。
 夜、一人歩きの女を狙い、悲鳴を聞いて駆け付けた時にはもう遅い。
 あの夜から、死体はまた、幾つか増えた。最初の一件以降、目撃者は誰も生き残っていない――見事に、遭遇した者全て殺されている。
 どだい、この時間に探そうというのが無理なのか――高く天頂に届いた太陽を仰いで、村雨は嘆いた。
 自分が獲物を狙うなら、やはり夜にやるだろう。天性の狩人は、そう確信している。
 昼間はねぐらに隠れて、夜の闇と吹雪に紛れ近づき、獲物の喉笛を噛み裂いて、喰う。これなら、群を作らずとも、獲物を取れる。故郷の雪原では、積雪を掘り進んでの奇襲さえもやった。
 だからきっと、〝この〟殺し屋も、同じ事をするのだろう。

「……やっぱり、夜に出て来ようかなぁ……」

 村雨は、道端に落ちている政府広報を拾い、質の悪い紙の皺を広げた。
 記述は単純で、昨夜は何処で人が死んだと、そういう事実を淡々と書いてある。
 どういう死に方をしたかは書いていないが、自分の目で見たあれと、さして変わらぬ躯だろうとは予想がつく。
 皆は、あれを、損壊を主として見た。
 どうすれば人間が、あれだけ酷く人間を壊してのけるのか――そういう事を、脅威として見た。
 その損壊が自分に及んだならばと、そういう恐怖が有るから、皆がこぞって黒服の剣客を捉えようとするのだ。
 村雨に言わせれば、狂の根幹は、違う。
 あれほどに損壊しながら、躯の部品が減っていない事が、村雨には恐ろしかった。
 血は流れ出たし、肉は切り裂かれたが、それだけだ。
 骨も臓腑も、配置が変わっただけで、ほんの一口も減っていない。
 喰う為に殺すのではない。目的が有って、殺したのでも無い。敢えていうならば、殺す事が目的の殺しであった。
 そういう性質の人間を、村雨は知らない訳でも無い。
 同じ『錆釘』の同僚には、離堂丸という女が居る。人を斬ったり、骨を砕いたり、そういう事を無上の喜びとする女だが――あの狂気は、極めて正しく制御されている。戦場以外であの狂気が、無暗に花開く事は無いのだ。
 今回の殺人者は、場所を問わずに狂う。
 狂っている癖に、太刀筋も、解体の技も、恐ろしく的確である。
 きっと、普段はその性情を抑えている。何か引き金を引かれると、抑えがたい狂気が溢れ出て、人を殺さずには居られないのだろう。もしかすれば日常は、健全な隣人の顔をして、この街を歩いてさえ居るかも知れない。
 だから、離堂丸よりも寧ろ、本当に似ているのは――

「ありゃ……ありゃ!?」

「……ん?」

 そうまで思案を回した所で、村雨は、少し離れた所に声を聞いた。
 雑踏の中であったが、不思議とその声は、自分に向けられたものに思えた。
 何故だろうと思い、鼻をすんと動かして――臭いと音を、同時に思い出す。

「あれっ?」

 そちらを見ると、鏡に映したように村雨と同じ表情――つまり、奇縁を喜ぶより先、驚きが勝った時の顔をしている少年が居た。
 村雨より五寸ばかり高い背に、気が良いようで油断の無い目――も、丸く見開かれていては形無し。

「ありゃりゃ、村雨のお嬢さん、御無事だったんで!?」

「源悟……どうしたのさ、こんなとこで」

 人の群をぽうんと擦り抜けて、二人は再開を祝い、握手を交わす。
 江戸の町方同心、傘原 平三郎の懐刀、『八百化けの源悟』は、底も蓋も取れたような陽気さで喜んでいた。








 背丈は五尺五寸と、そう高くは無い。
 育ちざかりの子供のような、まだ大きくもなりそうな体格をしている。
 が――ここ数年、ずっと同じ顔を続けている。
 彼より背の低かった子供が、彼よりずっと長身になっても、彼は少年の姿を保っている。
 本当の年齢は、誰も知らない。
 本当の姿も、誰も知らない。
 そういう奇怪な生き物――人間が、『八百化けの源悟』であった。

「いんや、目出度い! 姐さんがお一人で江戸に戻って来たときゃあ、この源悟恥ずかしながら顔を赤くして白くして、右へ左へ動転百辺――」

「源悟、口上は良い」

「ちょっ、つまんねえ」

 足運びの速度まで優雅な洛中では、江戸っ子訛りの早口はやはり悪目立ちするものらしく、周囲の目が幾つも源悟と村雨へ向いた。
 然し、村雨には懐かしい響きである――あの喧しい町を出て、もう半年も経ったのだから。
 あの町は何もかもが早い。半年でどれだけ変わったか、きっと想ったものの幾段か上を行くのだろう。
 だから、変わらない顔が目の前にあると安心する。遠く異国の雪原の他に、この国にも帰る場所が有るのだ。

「江戸は、どう?」

 変わった事は幾らでもあろうが、村雨は、源悟に訊ねた。

「……洛中は、どうでござんすか?」

 源悟は、笑みを消して問い返した。ただならぬ顔になって、声を潜めての問いであった。

「どういう意味かな」

「今じゃあ洛中から江戸まで、書面だけなら一日で届きやす。そっから宿場を、早馬を乗り付いでまいりやしてね。
 以前、お江戸を騒がせた悪党が、こっちに出稼ぎに来たと聞けば、まさか黙っている訳にいきゃんすめえ」

「出稼ぎ……?」

「仔細までは記述が有りませんでしたが。こっちでもその野郎は、女のハラワタを素手で引き抜いてるんですかい?」

 次は、村雨が表情を変える番であった。
 周囲に目を向ける――もう、視線はこちらへと集まっていない。
 それでも、近くの細い道を指差し、そこで話す意思を伝えた。

「……何処まで聞かされてるの?」

「酷い殺され方をした。腹をかっさばかれ、内臓を引っこ抜かれた、そこまでは聞いてやすがね。肋を逆に圧し折って、その先に吊るしてるなんてえ事は、流石に書面にゃ書いちゃおりませんでしたともさ」

 源悟は、村雨に従って歩き、周囲に聞こえない程度に声を潜めて続ける。
 片手を懐に入れているのは、十手を掴んでいるのだろうか。洛中では権力を翳す事は出来ずとも、ちんぴら相手なら十分に通用する武器になる。

「どうです、お嬢さん。やっぱり、そういう死体でござんしたかい?」

「うん……ぴったり、源悟の言う通り。見て来たみたいにその通りだよ」

「何度か見やしたからねぇ」

 油断無い目を左右に走らせる源悟は、ほんの僅かの間、息継ぎの為に言葉を切る。
 息と共に、その言葉を言う覚悟まで吸い込んだかのようで、その後の台詞に淀みは無い。

「かれこれ五年前、つまりお嬢さんが江戸にくる二年も前ですか。同じように、女だけを狙って〝飾り付ける〟事件がありやした。
 男も殺す事は殺すんですが、こいつは積極的に殺しに行くというより、居合わせたら殺すというだけのもの。首やら腕やらをすっぱりと落としてるんで、腕利きの武士崩れかと噂も立ちやしたが……やはり奇妙は、女への酷な遣り口で。
 胸腹切り開き、中身を素手で引き抜いて、逆に圧し折った肋骨に引っ掛ける……っけえ、口に出すだけでむかむかすらあ。結局下手人は捕まらず、自然に殺しも止んじまった」

「そんな事が……」

「ええ、有ったんですよ。傘原様は、犯人は自殺でもしたか、もしくは飽きて何処かへ消えたんだろうと仰いましたがね、どうにもこいつは後者のようで。はるばる都まで上って、また人殺したあふざけた野郎だ!」

 成程、確かに同じ犯人だろう――村雨は、特に証拠も無いが、そう思った。
 この日の本にまさか、こうまで同じ殺し方をする者が、二人と居るとも思えない。
 生き物の体内は複雑に出来ていて、それに外から手を差し入れ、目的の器官を引き抜く――そんな芸当を、死体の体温が逃げ切らない内に終わらせる。どれ程に人体を熟知していれば出来るのか。
 医者か狩人か、或いは生粋の人殺し――犯人はこのどれかだろうと、松風左馬は言った。村雨も同意見である。
 そしてこの犯人は、五年も前から同じ事を続けていると聞けば、その人物像は――

「源悟、協力して」

「はい?」

「その犯人を、捕まえる」

 ――きっと、生粋の人殺しだ。
 改善の余地は無い。生きている限り、人を殺し続ける大悪。
 まだ村雨は、身近な誰かを殺された訳では無いが――人が死んでいると聞いて、黙っていられる程に麻痺しても居ない。
 戦場を知って、一つ分かった事が有る。あれは、日常と全く切り離して考えるべき場所だ。
 戦場で鬼となる兵士も、平時はただの人間であり、人死にを忌む感性を持っている。
 だから村雨は胸を張って、自分は戦場に出る人間でありながら、人殺しを忌み嫌えるのだ。
 源悟は初め、村雨に言われた言葉の中身を、良く理解していないようであった。
 源悟の中の認識では、村雨は、桜の気まぐれに付き合って走り回る少女である。
 圧倒的な意思の化け物に従い、その意思を達成する為に動く少女。それが村雨だと、源悟は思っていた。
 然し、今の村雨はどうか。主体となる筈の桜は、ここに居ない。然しこの言い草は――

「……似てくるもんですねぇ」

「えっ?」

 源悟は、ぱんと両手を打ち合わせて、それから両腕の袖を捲った。

「ようがす、存分にあたしを使って頂きやしょう! この『八百化けの源悟』、関の東西なんざぁ問いません、必やにっくき悪党をば――」

「源悟」

 余程の昂揚か、舞い上がり天へ登って行きそうな調子の源悟の、唇の前に、村雨は指を立てた。

「口上は良い」

「そんなぁ……」

 一点しょげ返って、源悟は石ころを蹴っ飛ばした。








「はてさてしっかし、探すとなればどうしやしょうねえ。まっさか向こうから、はいお呼びですかと面ぁ出すってえ訳も無えでしょうし」

「それなんだよねぇ……」

 源悟を後ろに引き攣れ、村雨は洛中を歩いていた。
 別に、後ろを歩けと命じた訳では無いが、自分が上に仰ごうとした相手から、一歩下がってしまうのが源悟である。
 江戸の町でならず者を取り締まる時と同じ油断の無い目で、源悟は周囲をぎろぎろと見回している。
 が、その目が捉えるのは、平和な日常ばかりなのである。
 決して明るい表情とは断定できない者が多い。だが、絶望に沈んでいるという事も無い。
 洛中を東へ抜けて比叡の山では、今も仏教徒に対する城攻めが行われているし、洛中では異教徒狩りに加えて黒服の人斬り。憂いは幾らでも有るが、それでも飯は食えるし、下手な事を言わなければ家も保てる。欲を出さねば、生きるだけなら楽なのだ。
 この中に、人殺しが紛れているのかどうか――否、という気がする。
 源悟は特に思うのだが、人殺しはどんな時でも、何か普通の人間と違うものだ。
 顔立ちというか、雰囲気というか、そういう事に慣れている者ならば、近づいただけでそれと分かる異常を抱え込んでいる。
 今、源悟の視界に写る人間には、そういう異常は見受けられなかった。

「そういや村雨のお嬢さん。そちらは犯人捜し、どういう手立てを考えてたんで?」

「んー? ……そうだね、やっぱり……一番簡単に、囮を使う」

「囮?」

「私」

 ああ、と源悟は頷いた。
 江戸でも洛中でも、あの人斬りは、女だけを狙って飾り立てていた。
 男は飽く迄も、居合わせたから斬るだけだ。一人歩きの女を狙うのなら、実際に、女一人に歩かせれば良いという事だろう。

「よろしいんで?」

「一番早いだろうからね、それが。源悟は三十間くらい開けて私を追い掛けててくれれば、多分前後で挟み撃ち出来ると思うし――その距離なら風向きが悪くても、どうにか」

「相変わらずの鼻で……となると、今暫しは何処かで休憩なりと?」

 村雨の案を実行するなら、この時間帯に外を歩き回っていても仕方が無い。そう考えた源悟は、夜に備えての休息を提案する。が、村雨はそれへ、首を左右に振って答えた。
 足も止めず、向かう先は洛中でも北西の方角。次第に人の数も減り始める。
 それに連れて、吹いて来る風まで、音を変えてきたような――

「……おんやまた、あたしらの好む臭いがしてきやしたね」

「だろうね、〝看板通〟だもの」

 武術の道場が立ち並ぶ、通称〝看板通〟――洛中でも此処だけは、まるで雰囲気が変わらない。
 か弱い女人などまず立ち寄らず、人斬りなど自分で仕留めるという自信過剰者が集まる所だ。
 特異な理は有るが、真っ当な法が通用する場所でも無い。源悟は既に、十手を懐から引き抜いていたが、

「源悟、物騒だからやめなよ。今からちょっと、お医者様の所に行くんだから」

 村雨がその手を制して、もう片手で、近くの建物を指差す。
 そこは、通りから少し外れた場所にある、小奇麗な建物であった。女医、駒鳥(こまどり) 荒辺(あらべ)の診療所だ。

「ほほう。こういう所に門を構えてちゃあ、朝夕ひっきりなしに患者が担ぎ込まれそうなもんで」

「実際そうだろうね。ほら、今も治療中みたい」

 言うに被せるようにして、門の向こうから野太い悲鳴が上がった。
 大の男が此処まで喚くのは、果たしてどんな痛みである事か――想像するだに寒気の起こるような、長く続く悲鳴である。

「……お医者様、でござんすよね?」

「間違いない。……うん、間違いじゃないんだ、本当に」

 奥には地獄が待つ門を、村雨は怖気づきながらも潜る。
 一度訪れた場所では有るので、特に差支えも無く奥まで進み、滅多に使われない待合室で、村雨は靴を脱いで座った。
 暫く待つと、先程まで悲鳴を上げていたのだろう大柄な男が、治療室から比喩でなく蹴り出される。手足のどれを見ても正常に動いているので、治療結果自体は問題が無いのだろう――が、過程はやはり、大いに問題がある様子であった。
 治療室を覗き込めば駒鳥 荒辺は、部屋の中央の拘束台を、愛しげに磨いている所であった。

「駒鳥先生、ちょっと良いですか?」

「はぁいはい。……あら、また怪我したんですかぁ? 素晴らし――じゃなかった可哀想に。さぁさ、そこに横になって――」

 可哀想にという言葉とはまるで正反対、駒鳥は喜色満面、村雨の肩に手を置いて拘束台へ誘導しようとする。
 無論、健康体でなくとも遠慮したいような、荒っぽい治療が待っているのは知っている。村雨はその手をそっと押しのけて、

「先生。あの、〝飾られた〟死体について、聞きたいんです」

「……あら」

 押しのけたその手に、僅かな震えを感じた。
 この医者も大概おかしいが、おかしいからこそ、自分以上の狂気には敏感なのだろう。すまし顔に汗も掻かず、だが、確かに駒鳥の手は震えている。

「……どういう事を、聞きたいんです?」

「ちょっと助言が欲しくって……先生から見て、犯人は、どういう人間に見えるか」

 村雨の本業は、『探し物屋』である。見つからぬものを見つけて、江戸では飯を食っていた。
 その経験から分かっている事だが、人を探す時には、その人を知れば良い。そうすれば、その人間がどう動いて、どこに現れるかも予測が出来る。
 今回、惨殺事件の犯人を追うには――知る手がかりが、死体しか無いのだ。ならば、その死体を検分し、また死体を見なれている駒鳥 荒辺にこそ訊ねるべきと、村雨は考えた。

「犯人、ですかぁ……嗚呼」

 駒鳥は、手近な椅子を引いて、その上へ、崩れるように座り込んだ。
 ほんの数度の会話で、酷く疲労したような弱弱しい目で、駒鳥は暫し天井を眺めてから、呟くように言う。

「……治らない病気って、私は大嫌いなんですよぅ。いえ、治せないようになったものが、全部、嫌いです。あの犯人は、もう絶対に、何が有っても治らない病気だと思いますねぇ……。
 いいですか、まずこの犯人は、知恵が回っているという事に気を付けてください」

 村雨と源悟は、少し身を乗り出し、清聴の構えを取る。

「夜に動く事だけならば、その人の中の理に適うからと、それだけの事もあります。けれど、顔を見た相手は確実に殺して――なのに松風さんに見られた時は、無暗に斬りかかろうとしなかった。
 ……本当の事は分かりませんけれど、〝遠くて見えなかったろう〟と、〝手に余る相手だ〟と、どちらも思ったのではないですか?
 この犯人は、獲物を選ぶ。そして一度始めたら、自分を止めようとは、決してしない……理知的な狂人なんですよ。野放しにしていればしているだけ、やり方は上手く賢くなり、狂った頭が自分を殺すまで、人殺しを続けるでしょう。私は、この犯人が私の家の門を潜ったらと思うともう、怖くて怖くて……」

 人の死に慣れた女でさえが、怯えをありありと浮かばせていた。
 この犯人は屋外で獲物を狩る。家の中には踏み込むまいと思えども――何時、そう変わるかは分からない。
 知性が有り、学ぶ事が出来る狂人は、歯止めが利かぬならば、何処まで狂うのか。誰も、計る事など出来ぬのだ。
 村雨は改めて、この狂人を狩らねばならぬと決意した。

「先生。その犯人は……どういう人を狙ってるように見えますか?」

「どういう、とは?」

「私は鹿や猪が好きで、小さい獲物はあまり好きじゃないです。そういう風に、この犯人も、好き嫌いが有ると思うんです」

 人を探すなら、その人を知るべし――獲物の選び方というのは、その人間の人格にかなり近づける分野である。天性の狩人である村雨は、それを、他の人間よりも肌で感じて知っている。

「私が夜に出歩いて、そいつをおびき出します。その時に、例えば服装を変えるなら、どういう恰好にすればいいのか。何かお香を焚けばいいか、とか……それが分かれば、見つかるのは早くなると思うんです」

「成程、傾向ですかぁ……うーん」

 やけに踵の高い靴を、かんかんと床に打ち鳴らして、暫し駒鳥は思考した。そして、思い当たるものを見つけたのか、あ、と言って両手を叩くと、

「〝飾られた〟女性の共通点ですが――」

「うん、うん」

 身を乗り出している村雨と源悟へ、応じるように駒鳥もまた、ぐいと体を突き出す。額三つを付き合せ、言った。

「――女性的な曲線が目立つ、女らしい起伏豊かな体つきの人ばかりでした」

「………………」

 しん、と沈黙が降りた。
 暫しの間、誰も口を開こうとはしなかった。
 或る種の緊張――音を発して良いのかも計り知れぬ、胸に鉛を呑んだが如き重圧。

「……そいつぁ、絶望的で」

 勇気を奮って発言した源悟は、一瞬後、村雨の蹴りを受けて床に引っ繰り返っていた。








「おーっ、痛え! ったた、村雨のお嬢さん、またすっかり逞しくおなりで……」

「自業自得!」

 お天道様も空高い、真昼の洛中を、村雨が憤然として歩いている。そしてその背を、顎を押さえながら、源悟が小走りで追いかけていた。
 抑えきれぬ余計な一言を発したが為、村雨の痛烈な蹴りを受けた源悟は、暫く歩いても痛みが消えていない様子である。
 村雨は村雨で、源悟を蹴り飛ばす羽目になった理由が理由。怒りは飛ばしても、反論の術が見つからないので、憤りは尚更であった。
 ――それにしても、人間はこんなに軽かったか。
 源悟の軽率な言葉が原因とは言え、少々やりすぎた気がしないでも無い。
 というのも、江戸を出てから洛中に至るまでの道中、軽口を叩いては蹴り飛ばされていたのは、あの雪月 桜なのだ。全力で蹴り込もうが揺らぎもしない怪物と歩いていて、それに感覚が慣れてしまっていたらしい。
 洛中では洛中で、蹴り一つを打てば三倍に返す師匠やら、そも親しくなる筈も無い道場破り先やら、そういう類の相手とばかり接触してきた。遠慮が必要な相手など、久しく出会っていないのだ。
 軽く引っ叩く程度の心積もりで居たが、思った以上に威力が有った。少し慎まねばならぬかと思いなが、村雨は内心で源悟に詫びた。

「しっかし、蒸し返すようで悪いんですが、どうしやすかい」

「……どうしようねえ」

 さて、話は戻って、囮作戦は早くも瓦解しかけていた。
 街医者、駒鳥 荒辺の見立てに寄れば、犯人が狙うのはどうやら、豊満な女性であるらしい。
 これまでの犠牲者を振り返ってみると、その傾向が明らかなのだという。
 優しげな目、何処となく丸みを帯びた頬から顎の線。髪はあまり飾らないものを好み、そして豊かな胸や尻。成熟した女を、獲物にしていると見えた。
 翻って、村雨を見るに――

「……どーせ私は貧相ですよーだ」

 平らな胸、引き締まっている尻。髪は短く、飾り気がないという所には合致するが、目は優しいというより、丸く大きな子供の目。見事に殺人鬼の好みから外れているのである。

「いやいや、人にはそれぞれの良さが有る訳でして、つまりお嬢さんにはお嬢さんなりのですね、そう、魅力ってもんが有るんでさぁ。だから桜の姐さんも、連れだって京にまで行くなんて言い出した訳で」

「慰め有難う、余計に虚しくなった」

 がくりと肩を落として歩く村雨であったが、

「お? お? お言葉とは裏腹に、ちぃとばかり嬉しそうなお顔で……ははん、あれだ。姐さんの名を出したからで――おぶっ」

 二度目は軽くを意識して、左拳。それでも源悟の膝は笑った。








 そうして、暫くは道行く人を探りながら、二人は歩き続けた。
 日が頂点から降り始めたものの、まだ空は青いまま。少しばかり雪の嵩は減ったが、夜の内にはまた積もるのだろう。
 碁盤の目を東西南北、歩き回って分かった事は、これではどうにもならぬと言う事。そして京の都は、解体殺人鬼には垂涎ものの、彼女好みの女を幾らでも見かける街だ、というものであった。
 通りを一つ移る度、一人か二人は、これという女を見かける。
 ――誰が死ぬのだろうか。
 村雨は、益体も無い思考を、首を振って散らす。
 そうさせない為に、自分達は歩いているのだ――だのに、何を考えているのか。
 然し、そうは言うが、手がかりが無い。
 一度でも犯人の臭いを捉えれば、それで追いかける事は出来るだろう。
 だが、犯行現場に残るのは、大量の犠牲者の血の臭い。それに掻き消されて、迅速に立ち去っただろう犯人の臭いまでは、とても嗅ぎ分ける事が出来ない。
 最大の武器の鼻が使えぬのなら、残る武器は足と根気のみ。夜を徹して街を回ろうかと、村雨が考え始めた頃合いであった。

「……しっかし帝がおわすこの街も、っちゃぁ、すれたもんで」

「源悟、何か見つけたの?」

 たん、と舌を強く鳴らして、源悟が誰へともなく毒づく。
 村雨が振り向けば、源悟はその手に、ぐしゃぐしゃになった紙切れを掴んでいた。

「こういうゴミを投げ捨てる輩が出る所ぁ、大概は荒れ始めてるもんでさぁ。風流が染みついてると聞いちゃいましたが、どうにも剥がれ始めてるようで……」

「……それは……あれま、瓦版」

「の、残骸ですがねぇ」

 広げて見ればそこには、如何にもな安印刷の掠れた文字で、昨今の洛中の様を謳う文面が連なっていた。
 外へ出てはならぬ――警告文。
 政府は無力か――批判文。
 心当たりは筆者まで――募集文。
 文章はやや特徴的。事実を伝える瓦版でありながら、何処か物語仕立てにも見える。
 主語である〝私〟が、世の本に比べて随分と多い。主観的な報道とは、また奇妙なものだ。

「……あー」

 こういう文章に、村雨は見覚えが有った。
 顎を軽く上げて、鼻をひくひくとさせ、とある一方へ首を向けると、

「しゃっ!」

「あ、ちょい、ちょい待っ……!」

 たんと一飛び、近くの屋根まで飛び乗った。
 その勢い、まさに矢の如しである。天性の跳躍力に、此処暫くの左馬の鍛錬、更に戦場の経験と重なった、見事な八艘跳び――となれば、源悟では追い付けぬのだ。
 忽ちに後方へ、哀れな少年を置き去りにして、村雨は一直線に屋根の上を駆けて行く。道行く者の好奇の目も、幾つかは追い掛けてくるのだが、あっという間に振り切った。
 そうして暫く走って行くと、細い路地に降り立つ。其処から村雨は、足音を消して歩いた。
 森林ならば、鹿にも気取られぬ歩み。真後ろを歩かれたとて、ただ人ならば気付きはするまい。
 そういう、狩人の性を剥き出しにした歩の先に、小さな人の群が出来ていて、少女を一人、囲んでいた。

「さーあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、ついでにお一つ買ってらっしゃい! 国を支えるは真摯な報道、此処に出でたは新誌が一刷! 近代国家の礎は、正しき報道に有ると知りましょう!」

 中央で声を張り上げていたのは、この国では珍しい、金色の髪をした少女だった。
 少女の背は、村雨より幾分か高い。
 髪は――村雨も女性性としては短いが、それよりまだ短く、男童のようでさえある。だぼっとした服に、色気というものは何処にも無い。
 が、悪い顔立ちでは無い。寧ろ顔立ちだけで言うなら、擦れ違った男が振り返る類の、端的に言えば美人である。然しそういう事を思わせない程、兎角、活動的である事が先に立つ雰囲気であった。

「昨日も出たよ、昨日も出ました! これでひのふの、ええと八人目! 結局今宵も姿は見えず、尾羽を残して黒八咫は飛び去ったそうな! これまで同様の無惨、嗚呼無惨な屍の有様、知りたいならば是非是非に――」

 口上を途中まで延べれば、銭が飛び、手が伸びる。たちまちに少女――ルドヴィカ・シュルツの手から、非公認誌〝つぁいとぅんぐ〟は消えていた。
 その迅速たるや、ご禁制の品を密輸する商人のようであるが、事実この少女、お尋ね者である。政府公認の立場にありながら、政府に対して批判的な記事を書いた為、追われていた身であるのだ――ちなみに今は、何処かの雇われの読み本書きが、頭を捻って公認誌を捏造しているとか。

「ふーい、売れた売れた! ……これで次が刷れるし、ご飯も買い込めるし、家賃も払えるし……ひやひやしたわぁ……」

 売り切れ御礼、ルドヴィカは胸をなでおろす。成程、金には困っていると見えて、服の裾が草臥れている。じゃらじゃらと銭を胴巻きに流し込んで、意気揚々と歩き出そうとした、まさにその時であった。

「売れてる?」

「ええ、そりゃあも――」

 呼び掛けられ、振り向いた時には、ルドヴィカの右手首を、村雨が両手でがっしりと掴んでいた。
 持ち上げるように捻りながら、その腕の下を潜り、背中側へ――流れるような動作で、村雨はルドヴィカの右腕を背中側へ折り畳む。

「――おうったただあああぁっ!?」

「やー、お久しぶりー。元気だったー?」

 酷い大根役者の棒読みであった。
 ぎりぎりと音も聞こえそうな程にルドヴィカの腕を捻り上げつつ、片手で、道端で拾った瓦版を広げる。その間、痛みに大騒ぎするルドヴィカには構わずである。

「〝かつては政府に嘴を向けし狂鳥、今は無辜の民草を爪に掛けるか〟……これ、桜の事を書いてるんだよねー」

「あだだ、た、痛い痛い痛いやめ、折れる! 折れるから! ちょっと!」

「桜がどういう人間か、直接に見て知ってる筈じゃなかったっけー。あれー、おかしいなー?」

「お、お嬢さん、止めときましょう! ちぃとありえない方向に曲がりかけとりやす!」

 一度完全に極まってしまうと、関節技というのは抜けられぬものである。左手一本でルドヴィカを痛め付ける村雨を、源悟は少し遠巻きにしながら制止していた。
 結局の所、解放したのはそれからもう暫く、そろそろ腱がいかれるのではという線の半歩手前という所であった。

「おー、痛っ……何すんのよ! 折れたら自然に治らないのよこの腕! 鉄骨入りだから!」

「いっそもぎ取れば直す必要は無いと思うんだけどねー」

「あんた前にも増して腹立つな!?」

 涙目で肩を抑えるルドヴィカに、村雨は恐ろしく乾いた反応である。
 源悟から見ると、どうも珍しい光景に想えた。村雨は基本的に、人当りは良い部類であり、こうして他者を粗雑に扱う事は少ない。例外と言えば、桜のように親しく、且つ雑に取り回しても問題の無い頑丈な人間程度のものである。
 ルドヴィカ・シュルツ――かつてこの少女は、村雨と全力で殴り合った。
 いや、殴ったばかりでは無い。村雨は蹴りを幾つも放ったし、ルドヴィカは村雨の首を絞めて落とした。然しその理由は、当人達以外からすれば、さして重大でも無いものであった――端的に言えば、同族嫌悪に近いものだった。
 その後、ルドヴィカは己の在り方を見つめたか、思う侭に政府批判の記事を書いて姿を消していたのだが――

「……ったく。ちょっとは見直してた私が馬鹿だったわ」

「うっさいわね、お金が無いと腹は膨れないのよ」

 ――それが、あの三文記事である。
 村雨はもう、呆れるやら何やらで、溜息を零す他は無かった。
 何せこの少女、確かに同族嫌悪の対象だが、そればかりでは無い。村雨には無いものをやたらと持っている癖に、同じような僻み根性を持っているのが気に食わないという、中々に根の深い相手なのである。
 広い見識やら学門やらという〝経験〟などもそうだが、〝才能〟の部分――まず人間として生まれている事と、発する端を遡れば、もはや当人同士でどうにもならぬ所。一方でルドヴィカはルドヴィカで、天性の身体能力を持つ亜人種に生まれついた村雨が、無い物強請りをしているようで腹が立つと、そんな理由で、顔に青痣を作る程にやりあった仲である。
 そういう相手が、その日の暮らしの為、人目を惹くだけの記事を書いているとなれば、村雨も怒りより脱力感が先立つのであった。

「で?」

「で、って何よ」

「売れてんの? そのインチキ瓦版」

「インチキとは失礼な。……そうねぇ、馬鹿売れしてるわよ。だってあんた、考えても見なさい。殺人鬼がこの街の何処かに居るのよ、街の何処に居たかくらいは知っておきたいでしょ」

 村雨が手に持っている、捨てられていた瓦版を奪い取りながら、ルドヴィカは諭すような口ぶりで言う。

「そんなもの買わなくても、いやという程噂にはなってるだろうにねー」

「あれ、あんた……ああそっか、あんたそういえば、『ラスティ・ネイル』の構成員だっけ」

「……なんで知ってるの」

「兵部卿に聞かされたのよ。前は私のスポンサーだったもの……あー、またあの贅沢したいー……」

 素性を言い当てられれ、次いで上がった名を聞けば、村雨の表情も俄かに引き締まる。
 ちなみに『ラスティ・ネイル』とは、帝国本土での『錆釘』の正式名称――錆釘と言う名の由来は、元の名の直訳なのである。ルドヴィカはどうやら、殴り合いをする前に、村雨が『錆釘』の所属である事は知っていたらしかった。

「贅沢はどうでもいいのよ。あんた、今の政府がどこまで情報を開示してるか、知ってる?」

「さあ」

「殆ど、何にも。噂話で流れてくる以外の、正確な情報源なんて無いのよ。政府の兵士だとか『錆釘』みたいな天下のお抱えなら、そりゃ内々の話も聞けるでしょうけれど、町民は本当に噂だけ。
 ためしに適当な人を何人か捕まえて聞いてみなさい。死体の数だとか、見つかった場所だとか、かなり噂は入り混じってる筈よ」

 情報の開示を、国民の権利として認めるのは、民主的な国家だけではなかろうか。
 現行の日の本政府は、洛中を騒がせる解体殺人鬼に関しての情報を、殆ど民衆には知らせていないのだと言う。
 村雨は所属が故に、また左馬が最初の死体を見つけたが為に、関係者として正確な話を知っていた。だから、街の誰もが、事件の詳細を知っているものだと錯覚していたが、

「だから、書いてるって言うの?」

「当然! 何処で誰がどういう風に、分かるなら何時頃に殺されたのか! これ以上に洛中の良民が求める情報など、今は何処にも有りはしません! つまりちょっと割高でも飛ぶように売れて、つまり印刷代も、足元を見られて高額にされた家賃も全部問題無く――っとと、後半は無かった事に」

 村雨が思う以上に、洛中は何も知らないのだ。
 ルドヴィカは一度、大袈裟に咳払いをする。私欲は多大に混ざっているが、その行為の向く先は、事実の周知――即ち報道。
 生きるだけならば、その術は幾らでも有るだろう。敢えて報道という道を選び、政府から隠れ住む日々を送るからには、彼女とて一個の思想人であるのだ。
 そして、更に深く入れば、ルドヴィカの根幹は〝書く〟人間である。桜や左馬のような人間が、戦う事から切り離されて生きられないのと同じに、どういう場所に居ても、書く事に拘るのが、ルドヴィカなのだ。

「……ふぅん」

 村雨は、そういう人間が嫌いでは無かった。いや――嫌いでは無くなった、と言うべきなのか。
 根が張っていて、一本の筋が通っていて、それに沿って生きる人間というのは、近くに立っていて気持ちが良いものだ――短い旅で学んだ事である。
 とは言え、憎まれ口を叩き合う仲の相手を素直に称賛するのも気恥ずかしく、鼻先であしらうような言葉で会話を終わらせようとすると――

「ふんふん、ふむふむ、ふーむふむ……こりゃまたこりゃまた、良いんでねぇですかねえ」

「……源悟、何してるの」

 源悟が、ルドヴィカの顔をまじまじと眺めながら、立ったりしゃがんだり、あれこれ視線の角度を変えていた。

「うわ、なんですか貴方、気持ち悪い」

「き、気持ち悪いってそりゃ――っと失礼、あたしは源悟、こちらの村雨お嬢さんの舎弟を務めておりやす」

「舎弟違う」

 誰何に対して、源悟は腰を折りながら、然し視線は相手から外さない、油断の無い礼を見せた。
 その後はまた、角度を変えてルドヴィカの顔を眺めるのである。
 そして、頷いたり、首を振ったり、挙動不審を暫く続けていたが、ふと動きを止めると、こんな事を言い出したのだ。

「ええと、金髪のお嬢さん」

「あ、ルドヴィカ・シュルツと申します」

「おう、こりゃご丁寧に。……ルドヴィカさん、化粧ってのはした事がおありで?」

「はい?」

 聞き返したのは、ルドヴィカばかりではない。村雨も全く同じように、源悟の発言を聞き返した。
 源悟は懐から、小箱を一つ取り出した。
 開けて見れば、内側には小筆やら墨やら白粉やら――化粧用具が一式揃っていて、

「いえいえ、あたしもこれで、変装にはちぃと自信が有りまして。ルドヴィカさん、大和撫子に化けてみようたぁ思いやせんかい?」

 化かし、騙しはお手の物。〝八百化けの源悟〟は、指先で筆をくるりと回した。








 夕暮れから夜へと変わる頃合いの事。一人の少女が、洛中を歩いていた。
 積もる雪に負けぬよう、高下駄を履いているのだが、それがどうにも履き慣れぬようで、ふらふら、よろよろとした足取りである。
 すると、しきりに男に声を掛けられる。傍目に、人を心配にさせては置かぬ姿なのだ。
 然し、例えば彼女を呼び止めて近づいた男は、遠目に見た印象が払われて、すこうし目を丸くする。
 刺繍も鮮やかな振袖で着飾った少女は、深く広い海のような、真っ青な目をしていたのである。
 薄く施された化粧の為に、元より大きな目がより際立ち、抜けるような白い肌の上で、瑠璃の玉にも似る。唇赤く、不安定な足取りも手弱女ぶりと見えて、兎角、男の心をそそる様であった。
 また、体も、仕草に似合わず大人びていた。背が高く、またそれ以上に、体の線は柔らかな丸みを帯びている。特に胸は豊かで、起伏の浮きづらいゆったりとした振袖姿でも、そこらの娘より二回りは大きいのが見て取れた。
 少女は、男を寄せては返し、引き寄せては追い返しを繰り替えし、そうして夜になっても歩いていた。
 そして、その後方、十数間程も離れた所では、村雨と源悟が、息を潜めて少女を――ルドヴィカ・シュルツを尾行していた。

「へっ、どうでさぁお嬢さん、あたしの化粧の技は! ……いやねぇ、女人の姿に化けたって、化粧は自分でやらにゃあねぇし、着物もてめぇで着付けにゃならねえと来たもんだ。そりゃ必死に覚えましたともさ、その果てが――」

 源悟が思い立ったのは、解体殺人犯を誘い出す囮に、ルドヴィカを使ってはどうかという事であった。
 村雨は初め、あまりに唐突だとは思ったが、然し同時に良案とも思った。
 ルドヴィカの戦闘能力の程は、村雨が良く知っている。本当に、相手を殺しても良いとまで制限を緩めたら、果たしてどこまでやってのけるのかは分からないが、並みの兵士の比ではあるまい。雷撃に特化しているが、魔術師の端くれである。

「……ああ、うん、よかったね、すごいね。みんな抉れてしまえば良いよね」

 然し村雨の表情は虚ろであった。その理由は一つ、格差である。
 村雨の背丈は五尺、対してルドヴィカは、源悟とも然程変わらぬ五尺と四から五寸。加えて、胸囲にもかなりの差が有った。
 成程、解体殺人犯の求める要素は満たしている。胸や尻が豊かな、成熟した雰囲気を漂わせた女。目立たぬようにと選んだかつらは黒髪で、結い上げはしない、洒落気の薄いものである。
 これが独り歩きをしていれば、成程確かに、与しやすい獲物と見える。村雨はそう納得する反面、己では囮の用を為さず、ルドヴィカならば叶うという事実に打ち拉がれていた。主因が体型にあるというのが、精神へのとどめであった。

「して、お嬢さん。どの辺りを探すおつもりで?」

「そうだね……」

 とは言うものの、村雨は狩人であり、そして『探し物屋』である。心が荒んでいようとも、獲物を探すとなれば、思考は巡るのだ。

「……二条城の辺りで」

「ほ? 日の本政府の議場じゃありやせんか」

 二条城は、洛中でも一際目だつ、大きな城である。
 日の本の政治体制は少々複雑であり、まず頂点には帝がおわす。その下に日の本政府があり、政府の一組織として徳川幕府が組み込まれている。
 関八州やら奥州やらは、遠方という事もあり幕府主導での管理体制が敷かれているものの、関の西側は政府直轄の土地が多い――無論、首都たる京も例外では無い。
 そういう、一国の半分を直接に、半分を間接的に支配する組織の、例えるなら王城に当たるのが、二条城なのである。
 当然ながら敬語の兵は、質、量とも他の城の比ではなく、また城内の銃砲弾薬は、それこそ一国分の火力を有する。
 如何な無法者とて、秩序の中心たるこの城の見えるところででは、盗みの一つも働くまい――そう思うからこそ、源悟は信じられぬと言う風に聞き返したのである。

「うん。だから、かな」

 然し村雨は、その政府の中枢に巣食う大悪を知っていた。
 残酷を好み、血を好む、理知的な狂人。知性を有しながら本能の赴く侭を無し、本能が求めるものを、知に任せて全て成そうとする男。
 ――狭霧和敬。
 その名を、村雨は、落とすように呟いた。
 兵部卿として、洛中の兵権を預かる男の、悪逆なる本性を、村雨は知っている。
 あの男ならば〝そういうこと〟をしてもおかしくはない。
 自分の手で臓腑を抉らずとも、他人が作った酷景に浸る事に、楽しみを見出しているかも知れない。
 この確信は図らずも、ルドヴィカ・シュルツに与えられたものであった。町民は連続殺人の仔細を知らない――知っていて然るべき事を知らされていない。人の口に戸を立てるからには、外へ出したくない言葉の、十や二十も在るのではないか、と。

「……とんでもねぇ話だ、お偉い方が主導してらっしゃるってんなら」

 源悟も、村雨の言わんとする所は見えたのだろう。ふつふつと沸く怒りを、喉の奥に飲み込んで、色を変えるのは声だけに留めた。
 ルドヴィカは高下駄にふらつきながらも、二条城近くの通りを、大きなものも小さなものも問わず、目についた所から歩いて回る。
 道の脇に店など見かければ趣味と実益を兼ねて――本国へ戻った折の書き綴るネタ集めと、犯人が見つけやすいようにとを兼ねて、ちょこちょこ立ち止まっては覗き込んだ。
 和紙貼りの扇子などを見れば、ルドヴィカは思わず手に取って唸り、暫しそのまま立ち尽くしたりもした。店を出て最初の独り言は、『後進国の癖に紙の質は良い』であり、その懐にはきっちりと、畳んだ扇子が差さっていた。








 そうして、洛中の夕を堪能して、夜となった。
 人の気配は薄い。人家の灯りが次々に消えて行く。
 まるで夜に接する事さえ厭うように、洛中は、人の街らしさを失って行くのだ。
 取り残されたのは、暗く静まった道の上に積もる雪が、月光を照り返すぼんやりとした明るさである。
 ――月が良い夜だ。
 ルドヴィカは空を眺めて思った。
 西洋は、月より寧ろ星を好む。月を愛でる習慣が無かったが為、日の本の人間が夜空を見上げる姿に、この国は星占い師ばかりかと思ったものである。
 月は狂気の源である。
 獣の目のような月が、白と黄の合間の色で煌々としているのを見ると、訳も無く気分が昂ぶる事がある。
 それは、月光が含んだ狂気が、目を通して腹に染み入るからではないのか。
 狂気を悪と見るのが、西洋の在り方。この島国は狂気まで興じてしまうらしい。
 取り止めも無く湧き出す思考を、敢えて奔放に放ちながら、ルドヴィカはふと立ち止まった。
 気配を読むような武練は無い。その代わり、魔力を変換した微弱電流を周囲に放ち、己に近付くものを探っている。背後に二つ、何十mか離れて二人居るのも確かめた。
 それとは別に、ルドヴィカの行く先に、誰か立っているのが感じ取れた。
 冬の夜、大路の真ん中に立ち尽くす影が有った。

「……ふぅ」

 白く息を吐き出し、ルドヴィカは道の端に寄った。それから、その場で屈んで、高下駄の鼻緒を弄り始めた。
 さも夜歩きの手弱女が、鼻緒を切らしてしまったかのような――江戸ならば美人画が一枚仕上がる構図である。そうしていると、立ち尽くしていた影が、ゆったりと歩き始めた。
 間も無く、白い雪の上に、黒い足袋が足跡を刻みながら、暗がりから抜け出して来た。
 女であった。
 夜の中に、女の手と顔だけが浮いて居るように見えたのだが、それは、女が上から下まで、黒い衣服で揃えていたからである。
 ルドヴィカより一寸ばかり背が高く、幾分かは細身。袴と小袖ばかりか、堅苦しく肩衣まで重ねて、更に大小の刀を差していた。
 然し、堅苦しい筈であるのに、妙にさまになる女でもあった。
 三尺はあろうかという黒髪が、高い位置で一本結びにされて、馬の尾のようになびいている。それが、風で舞い上げられた積雪と合間って――

「……おおう」

 ルドヴィカは呻き、立ち上がる。
 血に狂う殺し屋を待っていれば、随分と雰囲気のある女が現れたのだ。
 ルドヴィカが絢爛の多色刷りなら、この女は山水画である。無彩の美が、気付けば、目と鼻の先に居た。

「もし、いかがなさった」

 女は芝居がかった口振りで言い、ルドヴィカに笑いかける。無彩の姿に、口だけは血を思わせる赤さである。

「いえ、鼻緒が少し……」

「切らしたのか、それはいけない。ぼくが肩を貸しましょう」

 言葉の使い方だけでなく、発し方まで男のようで、男装には似合いある。左手をルドヴィカに差し伸べて、女はルドヴィカが応じるのを待った。
 然しルドヴィカは、手を伸ばしはしない。
 当事者でないとはいえ、曲がりなりにも戦場を見てきたルドヴィカである。おかしな人間と、本当に危険な人間の区別は着く。頻繁に身を清め、香を焚いたとて、骨身に染みる血の臭いまでは消せぬのだ。

「いいえ、名も知らない方の手を借りるなんて」

「おや、名を知っていればいいのかい?」

「名も教えられない人が、どうしてその人自身を教えてくれるでしょうか。一会の縁の、一期も無碍にする人が」

「はは、違いない」

 ルドヴィカは言葉で戯れながら、伸びてくる手をひらりと躱す。
 下駄の鼻緒は切れていない。
 眼前に翻る鮮やかな振袖を見て、女は少し薄暗く笑った。

「ぼくは爛というんだ。これでもう知らない人じゃあない」

 逃れようとした方向を遮るように、爛と名乗った女は腕を伸ばし、ルドヴィカの背後の塀に左手を着く。
 二つの顔が、鼻先が触れ合う程に近づいて、互いの目だけが視界を埋める。

「綺麗な目だ」

「あら、嬉しい」

 ルドヴィカが下駄を脱ぎ捨てて、足袋だけで雪の上に立つ。

「この目を抉ろう」

 爛の右手が、腰へと伸びた。
 ルドヴィカは咄嗟に、両手で拳を作り、目の前の女の、何処でもいいから殴りつけようとした。
 外科手術で、骨の代わりに鋼を埋め込んだ腕である。何処に当たろうと構わぬ、鈍器の如き重量と強度がある。
 然しその拳が爛に触れるより先、爛の左手が、人差し指だけをぴんと立てて、ルドヴィカの右肩を軽く突いた。

「あっ……!?」

 ルドヴィカの右肩に激痛が走る。
 指で軽く触れただけのように思えたが、その指先は僅かの内に、皮膚と肉をへこませ、出血させぬままで関節の継ぎ目を叩いていたのである。
 たったそれだけの事で、右腕が動かなくなる――損壊は無いが、痛みで感覚が無い。
 爛はこれ見よがしに、腰の大小の内、太刀を引き抜いた。装飾も鮮やかな鞘から抜け出す刀身は、月より、雪より強く輝く白刃である。
 ゆったりと、高く掲げた。
 掲げるまでの間、爛はじっと、ルドヴィカの青い目を見つめていた。
 ――今までの獲物にも、こうして来たのか。
 目に滲む感情が、困惑から恐怖、絶望へ切り替わるのを、堪能してきたのだろう。

「ひぃいやっ!」

 刃が落ちる。頭蓋にではなく、ルドヴィカの胸目掛けて、である。
 胸を割り、心臓を引き抜き、それから腹を手で裂いて飾り付ける――蛮行の手口はいつも同じだ。
 だから、ルドヴィカは、最初に何処を狙われるか分かっていた。
 ぎぃん。
 金属音が、振り下ろされた太刀を弾いた。

「おっ……?」

 爛は、音に驚いて三歩ばかり後退した。
 太刀の刃が欠けて、そこに、鉄の文鎮が一つ張り付いていた。

「なんだこれ、なんだ……む、う……?」

 爛が引き剥がそうとしても、文鎮はどういう訳か、刀身に吸い付いて剥がれない。僅かに浮かせたとしても、直ぐに勢いよく戻って行って、何時までも纏わりつくのである。
 己の所有物が、己の意に沿わぬようになるのは、爛には耐え難い事だ。なんとしても外してやろうと、やっきになって文鎮を掴んだ。

「……『Anmachen』!」

 その瞬間、ルドヴィカが動いていた。
 痛みが残る右腕で胸を抑えながら、左手を伸ばし、爛の持つ太刀の刀身に触れさせ――指先が触れた瞬間には、直ぐにまた、次は脇差へ鞘越しに触れた。
 かしぃん、と高い音がした。
 脇差が、鞘に収まったままで跳ね上がって、爛の太刀に張り付いたのである。

「へっ、掛かったわねバーカ!」

 すかさず踵を返し、ルドヴィカは、女が来たのと逆方向へ走り始めた。
 爛の太刀を封じたのは〝磁力〟である。
 初撃は胸に来ると知っていたルドヴィカは、振袖の懐に、横に長い文鎮を幾つか入れておいた。
 その文鎮は、魔術によって持続的に帯電させ、磁力を持たせたものであった。
 加えて、太刀と脇差に触れたのも、それと同じ。環状に電気を流し込み、刀身二つを巨大な磁石に変えてしまったのである。
 これでは、思うように切れない。重さも狂い、ただの棒切れとして振り回すにも、邪魔なだけの代物である。
 爛は、太刀を捨てた。
 そして、そうせざるを得なくしたルドヴィカに対し、憎悪の感情を燃やした。
 ゆらり、ゆらりと体を揺らしてから、左足を前に出し、足袋で雪をがっしりと掴む。赤い唇が半開きになり、す、と息を吸い込んだ時――

「いっ、やあああああぁっ!」

「!?」

 背後より、強い衝撃が、爛の後頭部を打ち据えた。
 正面へ、受け身も取れずに倒れ込む欄の背へ、容赦無く跨って押さえつける者が居る。
 村雨であった。








 人の街ならば有り得ぬ、濃厚な血の香を嗅ぎつけた瞬間、村雨は屋根伝いに、臭いの主の背後へ回った。
 ルドヴィカに近づき、何事か話している間も、身を低く伏せて、雪に半分も体を沈めながら這い寄った。
 そして、ルドヴィカが逃げ出した瞬間、跳躍し、爛の頭へ蹴りを打つ。
 此処までは、正に段取りの通りの手際であった。

「く、があぁっ!」

 爛は組み敷かれながらも、後方へ腕を振るいつつ、どうにか体を仰向けにする。
 然し、村雨に跨られた体勢であるのは変わらない。

「しゃっ!」

 拳が落ちる。
 躊躇せず、顔面を狙っての拳である。
 裸拳で人の顔を殴るのは、拳を鍛えていなければ、寧ろ己の手を傷つける事に繋がる。
 然し村雨の手は、前足として、岩場でさえ自重を支える強靭な物。骨も肉も皮膚も、強度が、人間のそれとはまるで違う。
 ごっ。
 鈍い音がした。
 爛が首をひねって避けようとし、拳が頬骨に当たったのだ。
 すかさず、もう一つ。もう一つ。もう一つ。
 重ねて、拳が繰り出される。

「が、ぐっ!」

 両手を伸ばし、拳を掴もうとするが、叶わない。
 闇雲に腕を振り回すばかりでは、正確に一点を突き刺す槍の如き拳を、絡め取る事は出来ない。
 村雨は酷く冷静に、拳を落としていた。
 これが、左馬から盗み取った、最大の変化と言えるだろう。
 必要な時、必要な技を、躊躇わずに敵対者へ振るう事。
 同じ実力の者が向かい合い、片方は殴る事も躊躇い、片方が遠慮無く眼球を抉りに行くなら、無論後者が勝つのである。
 武術とは、闘いに勝利する為の武器である。少なくとも松風 左馬は、そう考えている。
 弟子入りを認められ、村雨が最初に習ったのが、この事実であった。恨みも無い、適当な場所に道場が有っただけの相手を、或る者は目を潰し、或る者の喉を潰し、後々まで残る傷を他者に負わせながら、左馬は村雨に教えた。
 ――武術を身に付けるのは、武器を持つ事と同じだ。
 刀を首へ振るえば、人が死ぬのは当たり前だ。同じように、拳もまた、人を殺すに足る凶器である。
 然し、凶器は、持ち主の技量で加減する事も出来るのだ。
 村雨は冷静に、戦力を削ぎつつも殺さぬよう、爛の顔を殴りつけて行く。
 狙うのは鼻、それから目の周り、唇の上。呼吸の阻害、視界を狭める、そして歯を食い縛れぬように叩き壊す腹積もりであった。
 爛が体を反らせ、村雨を振り落とそうとする。爛の胸に左手を当て、馬を乗りこなすように体重を移動し、村雨はあっさりとそれを避けた。
 然し、その左手を、爛が両手で握っていた。
 ごきん。

「く……ぁっ!?」

 村雨は、爛の顔にもう一度だけ拳を落としつつ、左手を無理やりに引き抜いて飛びのいた。
 ほんの僅かに触れただけであったのだが、爛は、村雨の左手首を外していた。
 間合いが開いた隙に、爛はしなやかな獣の動きで跳ね起き、懐から短刀を取り出した。
 鞘を投げ捨て、左手に構える。右手には、立ち上がる際に雪を拾っていたようで、それで顔を冷やし、目の周囲の腫れを抑えようとしている。

「……痛い、痛い、痛い」

 恨み言を述べながら、爛は村雨の方へ足を向けた。
 低く跳ぶように馳せた。身体能力に任せて、上体から突っ込んでいくやり方である。
 短刀の切っ先は、村雨の左胸へ向いている。

「殺された人は、もっと痛い!」

 切っ先が届く寸前で、村雨の体が、爛の視界から消えた。
 刃の外側――爛の左側へ、体を反転させつつ回り込む。勢い余って爛が、その前を一歩通り過ぎた。
 其処から、村雨の方へと振り向くまでに、村雨の右拳が二度奔った。
 顎へ二発。

「おっ……!」

 脳を横に揺さぶられ、爛の膝がガクガクと揺れる。
 力を入れず、速度重視の打撃ながら、当たり所さえ間違えねば、十分すぎる程の威力を与える。
 爛が体勢を立て直そうと、両足を突っ張った時には、もう眼前に靴が迫っていた。
 村雨の左足が翻り、爛の頭を打ち抜いていた。








 まだ爛は倒れない。然し、見るからに手足の力は弱まっている。
 一方で、まるで疲労を感じていない村雨は、己の力を改めて自覚した。
 ――自分は此処まで動けるのか。
 解体殺人鬼は、ほんの一太刀で、獲物と定めた人間を、部品に切り分けたという。どれ程の物かと、酷い緊張を抱きながら、村雨はこの戦いに臨んだ。
 どうという事は無い。
 成程、動きは早いが、この程度ならどうという事は無い。
 外された手首を己で嵌め込み、指を動かす。左手で拳を作り込めば、その中に力が握り込まれるのが分かった。

「ぐ……ぎいぃ、いっ!」

 村雨の喉目掛け、爛が短刀を横薙ぎにする。袖がはためき、髪が風で舞い上がるかの如き一閃である。
 それさえも、村雨が見るならば、遅い。
 迫ってくる左手の手首を、村雨の右肘が突き刺す。痛みに手が開き、取り落とされた短刀は、すかさず蹴り飛ばされて、雪の中に埋もれて消えた。
 左拳喉打ち。
 右拳鳩尾打ち。
 右下段膝蹴り。
 右振り上げ顎打ち。
 右中段振り打ち。
 一呼吸に五連撃を放ち、まだ疲れを感じない。そして目の前の相手は、一撃ごとに疲弊していく。
 これまで、道場破りに連れ回された事は有ったし、そこで武芸者気取りを叩きのめしもした。
 だが、その時は全て、左馬が近くで見ていた。いざとなれば乱入し、助けるでは無いが漁夫の利を拾いに来る師は、心強い後ろ盾であった。
 今、村雨は、自分一人で戦っているが――まるで負ける気がしない。
 左貫手、右肩へ。
 右手刀、左肩へ。
 左拳、左胸へ。
 右裏拳、右上腕へ。
 左掌底、左腰部へ。
 雨霰と、両手で打撃を降り注がせる。全てが面白いように当たって行く。
 手に返る手応えの重さも、重さを受けて揺らがぬ自分の腕も、全てが真新しい感覚であった。
 ――まだ、まだ、もっと。
 反撃を許さずに繰り出される拳は、何時までも、何時までも続けられそうに思える。それ程に村雨は、気も体も充実していた。
 さて、幾つを叩き込んだ事か。
 だが爛は、まだ二本の足で立っていた。
 ――何故。
 右拳、左肩に突き刺さる。
 初めて村雨は、この違和に気付いた。
 自分は相手を仕留める為の打撃を放った。狙ったのは顎か喉――正中線上に有る部位である。
 だのに、狙いがずれている。
 思えば、先の五連打も、一つとして致命打にならぬ場所へ吸い込まれていた。
 左拳、爛の右肘に刺さる。
 外されている。
 そう村雨が気付いた時には、爛の右手人差し指が、村雨の胸を軽く突いた。

「がっ……!?」

 ただそれだけで激痛が走った。
 呼吸を阻害する程の激痛――骨の内側から這い出して、周囲の内臓に染み入るような痛み。
 例えるならそれは、分厚い針で貫かれたようなものだろうか。
 痛みを超えて、熱ささえも感じる程。
 その痛みに蹲る間に、爛は後方へ跳ねのいて、幾分かの間合いを開けた。

「……この、この女が……!」

「あんたも女でしょうが……ったた」

 呪詛を込めて呻く爛を睨みながら、村雨はまだ痛む胸を抑えた。
 そして、こう思う。
 ――こいつは、人体を知りすぎている。
 村雨は幾つも打撃を放ったが、爛は途中から、その大半を、急所からずらして受けていた。
 無論、体は痛むだろう。負傷も疲労も蓄積するが、倒れはしない。
 そして攻撃に転じれば、身体の弱い部位を適切に、最適な力で打ち抜く。肉が薄く、神経が多く、そして骨が直ぐ下に埋まっている部位を。
 知識では無い、これは才覚だ。
 人体を一刀で解体する技術も、これならば頷けよう。脆い部位から脆い部位まで、刃を斬り通すという離れ業を、呼吸より容易くやってのけるのだ。
 徒手でさえ、十分以上の殺傷力――

「まだ、いけるかな」

 ――こういう時には、この体がありがたい。
 一人ごちて、村雨は馳せた。
 村雨は純粋な人間では無い。内臓も、神経系も、配置は似ていようと、完全に一致する訳では無い。
 同じ器に違う中身――この差異が、痛みを辛うじて、過ぎ去れば立てるまでに抑えた。
 自分は強いのだと、村雨は知った。
 昂揚が重なり、疲労せぬまま心拍数が増して行く。血が指先に至るまで、酸素と狂熱を運んでいく。
 そういえば今日は、良い月が出ていた。
 あと二日もすれば満月になる――あまり好きでは無い夜だ。
 二年ばかり前から村雨は、満月の夜が嫌いだった。月が大きくなっていくのを見ながら、暗澹とした気分に包まれていたものだ。
 月は狂気を運んでくる。
 胸の中から、抑え切れぬ衝動を引きずり出して、自分が誰であるかを否応無く知らせて来る。
 お前は獣か、人殺しだ。さもなくばこうまで狂えはするまい、と。
 そうなのだろう、自分は人でもあり、だが獣でもある。
 然し目の前の人間に比べれば、よっぽど自分の方が人間らしい。
 あれは人殺しだ。
 人間を人間と思わず、部品に切り分けて、美術品のように扱う人殺しだ。
 肝要なのは殺して飾り付ける事であり、何かを守る事でも、戦う事でも、ましてや喰らう事でも無い。
 こういう生き物は、野山には住んでいない。人の街だけに居る化け物だ。
 どうしたら良い、そうするべきか?
 このまま殴り続け、打ち倒すべきか、それとも。
 生かしておけばどうなる。血を求める衝動は消えない、それは自分が知っている。ならば、消えぬ衝動を止めてやる為には――

「……!」

 ――いけない。
 己の思考さえが狂い始めている。自覚した村雨は足を止めた。
 その両目を狙って、爛の右手指が伸びてきていた。

「おわぁっ!?」

 突っ込んだ勢いが、体を前へ運ぼうとする。それを、反射速度と背筋力に任せ、体を後方に反らせて避けた。
 爛は右腕を伸ばしている――右脇が空いている。そこへ村雨は、左脛を思い切り叩き込んだ。
 体をくの字に折り曲げた爛の背後へ、村雨の細身の体が、それこそ雪に影も落とさぬ速度で回り込む。
 背後から、両脇の下を潜らせて腕を通し、爛の後頭部の後ろで両手を重ねた。
 ――殺さない。だが、逃がしもしない。

「ルドヴィカ! 来い!」

「私に命令すんなこの!」

 逃げた筈のルドヴィカ・シュルツは、物陰に潜んで、虎視眈々と機を窺っていた。
 右腕は、肩から指先まで、真っ黒に変色している――腕の鉄骨に電流を流し、砂鉄を鎧にした腕である。
 速度ならば村雨に劣るとしても、鋼の強度と重量を持つ拳は、もはや鈍器の威力である。
 それが、ごうと唸りを上げて、爛の腹目掛けて振りかぶられた。
 磔の贄を貫く、黒鋼の槍であった。

「――っ、女共、ふざけるなあぁっ!」

「なっ……まだ、こいつ!」

 然し、それが爛を穿つより先に、爛が足を跳ね上げた。
 ルドヴィカの胸を蹴って、その反動で村雨を後方へ押し倒し、腕から逃れようとしたのである。
 だが、村雨はまた、それをさえ、後ろへ伸ばした右脚一本で耐えた。
 苦しはするまい――もがくのならば、それも叶わぬ所へ、

「しゃっ!」

 村雨は、爛に組み付いたまま、垂直に高く跳ね上がった。
 人間一人、それも自分より長身の相手を抱えたままでさえ、村雨の体は一丈半も、回転しながら舞い上がった。
 そして、組み付かれた爛が下になる向きで、村雨は落下してくる。
 体重を浴びせて地面へ落とす――成程、殴る蹴るより余程効果的だろう。
 だが、爛は両脚が自由だ。
 自分が下になって落ちるのを良い事に、足を地面へ向かって伸ばし、着地を図っていた――そしてこれは、一対一であれば防御に成功しただろう。

「は? は――はぁ!?」

 村雨が落ちて行く先は、ルドヴィカの真上であった。
 二人分の重量を乗せて落下してくる爛の顔面は、そのままであれば、ルドヴィカの頭へ、鉄槌となり降り注ぐ筈であった。
 故に、反射的にルドヴィカは腕を振り上げた――砂鉄に覆われた、鋼の右腕を。
 がつん、とも、
 ごずん、とも、
 兎も角、恐ろしく鈍く、重く、分厚い衝撃音がした。
 村雨が地面に両脚で降り立つのと、鼻が潰れた爛が、ルドヴィカの体に鼻血の線を引きながら崩れ落ちたのは、ほぼ同時の事であった。

「あっ、危な、危なっ……何すんのよこらぁっ!?」

 声を裏返し、足を縺れさせながらもルドヴィカは、己を巻き添えにしようとした村雨へ抗議する。
 村雨は、俯せに倒れたままの爛の首筋へ、手を触れさせながら、

「大丈夫、生きてる」

「私の事! こっち!」

 ずれた答えを返し、胸をなで下ろした。








 爛――洛中を恐れ戦かせた解体殺人鬼は、村雨とルドヴィカ・シュルツの手により拿捕された。
 当人達としては、政府に身柄を引き渡すのもどうか――おそらくは後ろに狭霧兵部の影が覗くのだろうと――悩みもしたが、他に殺人鬼を、拘束しておける場所が思い当たらず、『錆釘』を通じて、厳重な監視の元、牢に叩き込んだ。
 暫くは裁きを待つ身柄となった爛ではあるが、当人の罪状を顧みれば、死罪は免れない。後はそれが、早いか遅いかの違いでしかなかった。
 その牢は、京の南側に有った。
 首を落とした際の流血が、洛中を流れぬようにと定められた、ほぼ寒村に近い端の端である。
 堀は深く塀は高くの、小城にも似た建物の中に、爛は囚われていた。

「……ふふ、く、く、くく……ふふふふ」

 虚ろな声が響く。然し、目は死んではいない。
 寧ろ爛は、己が生きているという事実が、愉快でたまらぬ様子でさえあった。
 ――成る程、あれは確かに負けた。
 二人相手とは言っても、実際にやりあったのは殆ど一人。技量では遠く及ばぬのは、あの短時間で重々理解した。
 然し、負けながらも自分は生きていて、腕も脚も動く。潰れた鼻も、窒息せぬようにか、簡素な手当てをされたと見えて、痛みは幾分か引いて居る。
 武器は無い。然し、両手の指が有る。
 いずれ、刑場へでも引き立てるか、或いは公平に裁きの場へ連れ出そうという時に、必ず自分の牢に誰かが入る。
 錠はそれまでに壊しておいて、指で迂闊な看守を刺し、得物を奪って逃げれば良いのだ。
 爛ならば、それが出来る。いや――そうして生きてきたのが、彼女であった。


 彼女の両親は、小心な人間であった。
 夫が政府の小役人であり、決して貧しくは無かったのだが、二人の子を抱えての将来に不安を感じ、蓄財に励んでいる人間であった。
 然し、大きな稼ぎは無い。財は緩やかに重なって行くが、いつかたった一度、子供が大病などすれば、消し飛ぶ程の財でしかなかった。
 そんな夫婦に、博打の勝ちを教えたのが、狭霧兵部和敬である。
 酒の席で博打を開かせ、言葉巧みに僅かの銭を出させて、そして大勝ちさせた。
 翌日も、その翌日も、酒は飲まずとも博打の場を設けられ、そして夫は勝ちを重ねた。
 夫が持ち帰る小銭が増え続けるのを見て、妻の堅実が揺らぐまでは暫しの時間を要したが、然しひと月とは掛からなかった。
 そこからは、坂を転げ落ちるが如し。
 積み重ねた勝ちは数日で消え、数年に渡っての蓄財も、十日も持たずに消え去った。
 時折は勝つ。勝ちを増やそうともう一度挑めば、負けて、結局は懐を空にして帰る。
 金貸しを訪ねて、博打に使う金を作り、そして一晩で失っては、次の朝には金貸しの元へと出向く。
 そうして、家も着物も全て失って、それでも借金ばかりが残った夫婦に、狭霧兵部は言ったのだ。

「おう、まさか俺の部下がここまで身を持ち崩すとは思わなんだ。初めに誘ったは俺の責だが、然し表で叫ぶ借金取りを、これ以上抑えておく術も無い。奴らはきっと、お前も妻も、二人の子も殺すだろうよ。
 だが。お前の妻君は美人だな? 子供もきっと、見目良く育つ。何事も幼いうちから仕込めばこそ大成するが、それは今のお前では叶わぬのだ。ならば――どうするね、どうするよ」

 役所の門を開き、雪崩れ込む借金取り達を背に、和敬は右手の指を立てる。

「子供二人、幾らだ! 値を付けろ、さあ競り落とせ!」

 元より算段は決まっていた。夫婦はなるように欺かれ、全ての財と我が子を奪われた。
 狭霧兵部が得たのは、ただの愉悦のみ。実利の一切は、付き合いも短い闇商人にくれてやった。
 小役人の夫婦は、今もまだ生きているが、死んでいたとて何も変わらぬような生である。日々の業務を粛々とこなしながら、給金の半ばは今も奪われ続け、かろうじて命ばかりを繋いでいるという有様だ。
 然しそれも、彼等の娘に比べれば、まだ幸福であったのだ。
 爛は、当時一歳になったばかりの弟を抱え、五歳で、人買いに連れていかれた。そして一年後には、弟を飢えさせぬ為、娼婦として扱われるようになった。
 身体の機能も整わぬうちから爛は弄ばれ続け、心身ともに酷く歪に成長し――その果てがこの、牢獄の中である。
 そしてこの境遇を、爛は決して嘆いてはいなかった。
 十二か、十三か、それくらいの頃合いに、飼い主を殺した頃から、世界は爛に甘かった。今回もまた、獣に食い殺されず傷を癒し、逃げ遂せる為の救いを与えられたのだから、ほくそ笑みこそすれ、嘆く筈は無い。

「……お」

 爛は、向こうから近づいてくる足音を聞いた。
 かん、こん、と鳴る音は、きっと下駄履きなのだろうと伺えた――屋内で下駄履きというのも珍しい。
 足音の主は、己の為に吉報を運んできたのだと信ずる爛は、牢の外側へ背を向け、寝ている風を装った。
 案の定、牢に掛けられた錠が、ごとんと落ちる音が。次いで、気配が牢へと入り込んで来た。
 一歩。
 二歩。
 遠慮も憂慮も無い足取り。
 ――来い。
 爛が心中吠えたままに、三歩目。

「ふっ」

 爆発的な息吐きと共に、爛は跳ね起きながら、背後に迫った気配目掛けて指を突き出した。
 相手の姿を目視せず、ただ耳が聞き取った息遣いから逆算して、然し正確に喉へ照準を合わせた突き。
 侵入者の柔らかい喉へ、爛の指先が触れる寸前、

「やっ」

 軽い気勢と共に、暗がりを白銀が一閃した。
 眩い煌めきが描いた軌道は、闇に慣れた目の中に、焼ける程の明るさを残し――そして焼け付くような激痛を、爛の右腕に残した。
 下駄の足音より重く、床板を叩く音が有った。
 爛の、斬り落とされた右手首であった。

「っひ――!?」

 生まれ落ちてから、幾つもの人体を斬り崩して来た爛だが、自分の体を失ったのは、これが初めてであった。
 痛いのは、当然だ。
 だがそれ以上に、何も無いことへの驚きが強い。
 咄嗟に脇を強く締め、手首を握り、出血を極力抑えようとした。何処を突けばどう動くか熟知している筈の人体が、今は血を流し続けて、床板に赤黒く粘った水溜りを広げた。
 その赤を、高下駄が踏んだ。
 下駄の歯は長く、〝彼〟の身に付けた華やかな着物の裾が、不調法に穢れるのを防ぐ。
 然し少年は、敢えて血だまりに手を伸ばし、真新しい赤に指を遊ばせ、袖と唇に紅を引いたのである。

「こんばんは、雁作者さん」

 女のような外見に違わず、小首を傾げて少年は言った。
 日本橋は大紅屋、押しも押されぬ一番人気の、影間の燦丸であった。

「いいい、ぎ、うぐ……お前、お前はっ……!」

「七年ぶりか、八年ぶりか、それくらいかな。何はともあれお久しぶり。元気?」

 一閃して血にも染まらぬ短刀を、白魚の如き指先で弄びながら、燦丸は爛の前に立つ。
 背は少し爛が優っていたが、高下駄と姿勢が、高低差をさかしまにしている。
 獲物を微笑みながら見下ろして、燦丸がもう一度、短刀の刃を煌めかせた。
 ひゅっ。
 ごとん。

「ぎひゃっ、あああああああああっ!?」

 爛の左腕が、肩の付け根から斬り落とされた。
 もはや出血を抑える術は、何は残っていない。人の体内にこれ程も有るのかと、思わず見惚れんばかりに、血がこぼれた。

「気に入らない事が三つ。一つには、僕の友人を騙ったこと」

 右肩。
 右膝。

「二つには、僕を犬のように捨てて、姿を消したこと」

 左脚付け根。
 眼球。
 歯。

「三つには――」

 胸。
 縦に割った。
 その中へ燦丸が手を差し伸べて、心臓を掴み、引き抜いた。
 胸から吹き上がる血を、正面から浴びた燦丸は、嘉福の絶頂にいるようであり、

「――僕の業を、下手くそに真似たこと。さようなら姉さん、最後まで貴女は、僕の露払いでしかなかったね」

 抜き取った心臓を投げ捨て、四肢の無くなった爛の亡骸へまたがった。
 肋をへし折り剣山として、引き抜いた臓腑の花を刺す。
 艶やか、艶やか。牢には忽ち、血みどろの造花が咲いた。
 そして、その様を、数歩離れて見ていたものが有る。
 それは燦丸が捨てた心臓を拾い上げ、口をぐわっと開けると、ぞぶりと噛み千切って咀嚼し始めた。
 暫く牢には、人間が壊れる音が二種類続いた。それの片方が終わる頃――

「いかが?」

「悪くねぇ。しなやか、柔らかく、軽い。動き回るにゃいい姿ですし、面も良いとくらぁ」

 牢の外に、爛がいた。
 いいや――爛の顔をした誰かが、江戸の訛りで、己の体を褒めていたのである。
 四肢も目も歯も、燦丸が抉った筈の部位を、牢の外の爛は全て揃えている。

「それじゃあ、行きますかい。長居なんざするもんじゃねぇや」

「忙しい事だ。彼女に見せびらかしにでも?」

「おう? ……ああ、いやいやいやとんでもねぇです」

 艶やかな女の姿に似合わぬ、袖を捲った岡っ引き姿。

「村雨のお嬢さんにだけは、この面ぁ見せる訳にゃあいきゃんすめえ」

 〝八百化けの源悟〟は、爛を喰らって、奪ったのであった。








 良い事をすると、面倒に巻き込まれるのは常の事である。
 解体殺人鬼を捉え、錆釘の事務所まで引きずって行った村雨は、そのまま足止めを食らって質問責めに遭った。
 どうやって捉えただの、何故に犯人と思ったかだの、事細かく根掘り葉掘り聞かれれば、随分と時間も掛かる。
 結局その日は、夜が明けて再び暮れるまで足止めを受け――捉えた犯人が殺されたと聞いたのは、その頃である。
 村雨は、牢の臭いから下手人を割り出したいと申し出たが、村雨自身が爛の捕縛に携わっていたという事もあり、堀川卿に却下された。

「村雨さん、村雨さーん」

「んー……」

「お昼ですよー、村雨さーん」

 そうして今は、深夜の捕物から二日が過ぎた日中である。疲労の溜まっていた所に夜更かしを強制された村雨は、日が高く登るまで惰眠を貪っていた。
 布団の中で、膝を抱えて丸くなっている村雨を、みつが揺さぶり起こそうとしている。傍には、四角盆の上に、茶碗へ山盛りさっれた白米が乗っかって、もうもうと湯気を立てていた。
 それから、兎肉が少々と、喰える野草を乾かしておいたもので、吸い物が腕に一杯。寝覚めの飯には程良く軽く、だが空腹を煽るには十分の美味な香りである。

「ほら、もう、起きないと片付けちゃいますよ? えーいっ!」

「分かった、分かった、起きるし食べるから……食べるから引っ張らな、……ぅふわぁあ」

 みつが布団をぐいと引くので、気の抜けるような欠伸と共に、村雨は体を起こした。
 そうして、寝間着の帯を解きながら、改めて己の体を見た。
 大きな傷は無い。打撃を受けての痣さえ、この数日で薄れて消えてしまい――解体殺人鬼と戦って、目立つ負傷は無い。
 傷は命の軌跡である。村雨はまじまじと、己の肌を眺め続ける。
 腕、脚、腹も胸も、致命打は何一つ浴びていない。
 幾人もの兵士を惨殺した狂人に、自分は勝利したのだという自覚がある。

「……はっ!」

 湧き上がる高揚を散らすべく、村雨は跳ねるように立ち上がりながら、爪先が己の背面を指す程の起動で脚を振り上げた。
 体にかぶさっていた布団が、半脱ぎだった寝間着ごと天井まで舞い上がる。それが落下に転ずるのを、挙げたままの足に引っ掛け、手に引き寄せた。
 心身共に万全。今宵が満月である事さえ、今の村雨は恐れていなかった。

「ん、いただきまー……」

 器用に布団を畳み、寝間着は肩に引っ掛けるだけにして座り込み、箸に手を伸ばし、

「……みつ?」

「気にしないでください!」

 己へ向けられているみつの熱視線に気付けば、寝間着の前を左手で合わせた。
 そうして、暫くは黙々と飯を食う。
 ふた月も家事を続けていると、みつの料理の腕も随分と上がったものである。米の炊き具合も良いし、吸い物もまた、寝起きの体を温めるには程良い、ほっとする味付けである。
 茶碗が空になる頃、みつは村雨の横に座って、しゃもじと米櫃を構えている。

「はいっ」

「ん」

 村雨が、茶碗に残った最後の一粒を平らげた瞬間、その手から茶碗を掻っ攫い、再び白米を山盛りにする。
 食に於いては、高給取りが二人いる事もあり、かなり豊かな環境にある。村雨が満腹になるまで、みつはきっちり見計らって白米を焚いていたと見えて、食事が終わる事、丁度米櫃が空になった。

「美味しかったですか?」

「大変美味しゅうございました、ごちそうさま」

 食べ終わると、みつはちょこちょこと小走りで、米櫃から茶碗から、一切片づけを始めてしまう。
 以前は村雨も片付けを手伝っていたのだが、この暮らしが始まってひと月もしてからは、仕事を取るなと厨房から追い出されるようになった。でも、と食い下がった村雨に対し、その時の名言は随分なものであった。

「殿方は台所に入らないんです!」

 思い起こす度、村雨は頭を抱えたくなる。

「……みつー、頑張りすぎじゃない?」

「村雨さんが言うことじゃないですよ。……あ、お夕飯は何か食べたいものは」

「お肉」

「何時もと同じって事ですねー、美味しいの作りますよ!」

 若妻を気取るみつと、この会話も何時もの事。心地良いが、罪悪感も無いではない。
 村雨も、人間を何人も見て来た。みつから向けられている好意の種類が、恋愛感情から少し外れているという事も気付いている。
 物語の人物に恋するように、みつは村雨を好いている。
 若侍が悪人をやっつける、年頃の娘に受けの良い読み本の主役――みつが村雨に被せているのは、そういう似姿であるのかも知れない。
 村雨は、みつにどう接して良いのか分からない。物語との混同であれ、純粋な恋愛であれ、一方的にそういう感情を向けられた経験は、たった一人分だけなのだ。
 ――然し、その一人分だけで十分だった。

「これから、どうする?」

「お夕飯の用意を途中までしてから、ちょっとお洗濯をします」

「そうじゃなくて」

 満腹になった村雨は、寝間着から普段の服へと着替えて、みつの直ぐ背後に立っていた。
 音も無く近づかれても、驚く事も無く、振り向きもしない。そこに居るのが当たり前だという顔をして、みつは洗い物を続けている。
 村雨もまた、この平穏に馴染み始めていた。
 日夜鍛錬を続けて、月に一度だけ命懸けの戦をして、良く喰い、良く眠る。
 毎日戦場に立つでも無い。
 城壁の中、何時解けるともしれぬ包囲網に、怯える日々を過ごすでも無い。
 平和で無いながら、この小さな小屋には平穏が有った。
 然し何時かは終わるのだ。
 何時か、〝並び立てる〟と自分に確信を抱いた時、村雨はこの山を去る。
 そして――

「村雨、起きてたか」

 ――その終わりは、近いらしい。
 松風 左馬は酔いも無く、恐ろしく冷えた顔で、小屋の玄関口に立った。

「日が落ちるまでに、一筆したためておきたまえ……桜にでも当てて。今夜から鍛錬を再開する」

 街に下りて買って来たものか、上等な紙と墨を、小屋の丸机に置いた。

「死人はもう、口を利けない」

 みつが、茶碗を取り落とした。
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