烏が鳴くから
帰りましょ

鬼婆のお話

 赤坂の宿を過ぎて、桜と村雨は、また二人での旅を続けていた。
 宿場一つを一日で過ぎる鈍行、夏の暑さも抜けていく。少しばかり夕暮れの風に、涼しさを感じ始めた、そんな日の事である。

「長かったような、短かったような……この国って結構狭いんじゃない?」

「だな、一月少々で此処まで来られるとはおもわなんだ。もう少し足繁く通っても良いかも知れんが……兎も角」

 最後の一歩とばかり、だんと踏み出した足は、板張りの橋を強く叩いた。

「到着ー! ついに来たねー、首都京都! 凄ーい、空が狭ーい!」

 村雨が、年齢より些か幼いそぶりで都会の風情を味わう隣、桜は自分の足で三条大橋を踏み締める心地を堪能していた。
 ここは京の都。五十三次の終着点にして、二人の観光旅行の目的地である。かの平安の昔より、時の帝がおわします古都は、開国を経た今も日の本の首都なのであった。
 西洋の風情が大きく混ざっただけの街というのならば、既に赤坂宿など見て来た二人は、然程驚きもしなかっただろう。それを、表情の変化に乏しい桜をして高揚させる理由は、偏に和洋を織り交ぜぬ京都人の意地である。
 即ち、加茂川の流れ――桜と村雨が立つ、三条大橋はこの上に掛かる――を境として東、東海道に繋がる町並みは、旧態依然、古色蒼然、木の壁に瓦屋根が立ち並び、商店にのれんが吊るされている。古めかしい宿の二階から、道行く人々に投げられる声は黄色く、だが偶に少年の掠れ声が混ざる所などは、陰間の流行の拠点であると頷ける。
 東男に京女、男は江戸者が、女は京都者が良いなどは言うが、成程確かに京の女は、ただ道を歩くだけで絵になる。がさつに大股で歩く江戸女とは違い、裾を決して乱さず歩幅小さく、肩もあまり揺らさず、土埃を立てず。時折立ち止まって商店の軒先を除く時も、口元を袖でそっと隠し、まこと上品に笑うのだ。 髷は流行りでないのか、髪はすうと背に垂らすばかりで、簪もあまり見かけない。着物の柄に派手さは少ないが、然し楚々とした美しさの中に目立つ刺繍は細やかで、技術と粋を誇るかのよう。豪華絢爛煌びやかを良しとする江戸とは、これもまた異なる美しさ、異なる文化の美であった。
 斯様な町並みを抜けてきたわけであるから、美少女好きを自認する桜の顔が、緩まない道理は無い。あちらこちらと艶やかな華に目を奪われて、首は一時たりと正面を向かず、殆ど村雨に引っ張られて歩いてきた様なものだ。
 然し、大橋の上に立ってみれば、その先の景色は、寧ろ視線を前方に固定する物珍しさが有った。
 まず目を奪うのは、村雨曰く〝空が狭い〟と思わされる程に、背の高い建造物の群れである。木ではなく煉瓦や漆喰、更には金属の柱を用いて組み上げられた建物は、城でもないというのに五階建て、六階建てと呆れる様な高さ。看板がぶら下がっているが、それを読み上げると『洋服』『牛鍋』『古物』『貿易』と様々で――なんとこの塔の様な建物は、個人が経営する商店だというのだ。
 これで視線が高い位置に奪われたかと思うと、更に高い所に、何やら丸っこいクジラの様な物が浮かんでいる。気球と呼ばれる物を小型にした、宣伝看板であるらしい。ふわふわと浮かび、垂れ幕をぶら下げて喧伝しているのは、全商品一割値引き但し掛値無しの売り文句であった。
 首が疲れたと目を地上に戻そう。そうすれば今度は、足元に敷き詰められた石畳に目が向かう。雨が降ろうが雪が降ろうが、裾を汚す事が無くなる石畳は、これまでの服装文化から、鍵を一つ取り払った。その結果、足首を超える様な丈の、洋風ドレスを身に付けた幼い少女が、同い年くらいの男の子と並んで走りまわっているという光景が展開されている。
 と、向こうからやってきた馬――いや、馬車だ。馬二頭に車を引かせた馬車の御者が、危ないから前を見ろ、と二人を叱りつけていった。馬車には窓が付いていて、僅かに開いている中に見えたのは、顎髭を蓄えた白髪の男。紳士然とした雰囲気である。
 暫し立ち止まったまま眺めていれば、政府の直轄組織である『警察』などという集団の構成員が、洋風の軍服を真似た格好――紺を基調に金糸の飾りで、刀を腰に刺して歩いていった。その後ろを、ズボンに草鞋履きの鼻たれ小僧が、行進の真似事をしながら追っていく。
 はて、ここは何処の国であろうと考えて、日の本であると思い至れば、頷ける要素も無いでもない。白基調のエプロンドレスで銀盆を運ぶ喫茶店のウェイトレスが、軒先に腰掛けた客に置いていったのは、団子と茶と、それから沢庵だったりするのだから。

「凄いなー、凄い……この国、こんな街が有ったんだ……大陸でもあんまり見ないくらいじゃない?」

「どうだろうな、大陸では田舎暮らしだったので分からんが……うむ、確かにこの規模の街は見たことが無いぞ」

 なんだかんだと、どちらも純粋に日の本の人間ではない二人であるが、然しこれほどに栄えた街を見るのは初めての事。国籍の混在する街に相応しく、洋装と和装で二人並び、まずは宿を目指すのであった。
 余談ではあるが、宿の扉を潜った向こうでは、天井からぶら下がる硝子製の照明に、二人してまた、おうと驚嘆の声を上げた。








 旅に出る当初に組んでいた予算は、想像以上に残っている。選んだのは、この近辺でもおそらく最も格調高い高級宿、『皇国首都ホテル』。壁や床に金属の柱を使って、煉瓦と合わせて組み上げた、七階建ての宿。そして借り受けた一室は、その宿の最上階である。

「ホテル、ホテル……ホテルとはなんだ、夜の虫か?」

「それは蛍ね。H・O・T・E・L。Отельかгостиница……このあたりで分かる?」

「ああ、宿の事か」

 最上階の部屋は、半分が畳敷きで、半分が絨毯敷きであった。東側が畳になっている辺り、京の街並みを意識したものであるらしい。畳の部屋に備え付けの物置きには布団、絨毯の部屋にはベッドがある。折角だから物珍しいからと、二人ともベッドに仰向けになり、内部のばねの感触を楽しんでいた。

「村雨、この宿は食事は?」

「時間の指定は無し、料金は別。その代わり、部屋の豪華さの割には安かったかな……二十日で五両だって」

 単純計算で、一人一日五百文程度。これには、桜も片方の眉を持ち上げて驚いてみせる。

「食事なしでも安過ぎはせんか? その三倍でも驚かんぞ、私は」

「三倍は懐が辛いけどねー……ふっふっふ」

 普段は桜がしている様な笑いを見せつつ、村雨は、一通の書状を取りだす。

「それは?」

「私が躊躇なくこんな高級そうな宿を選んだ理由、それは! えーと、この辺りに書いて――ああ、これこれ、見てくれる?」

 書状は、所謂身分証明の様な物であった。内容を簡単に示すと、村雨が『錆釘』の構成員である事、桜が村雨を長期的に雇用している事を、何人かの署名と印で証明しているものである。
 『錆釘』――西洋風に染まったこの街でなら、『ラスティ・ネイル』という正式名称を使うべきだろうか。言わずと知れた人材派遣業であり、基本的には何でも屋。こうして旅をしているのも、桜『錆釘』に探し物得意の人材を求めた、それが始まりの切っ掛けである。

「ここの三階、実は『錆釘』の事務方が入っててさ。京都に滞在中、こっちの構成員の手伝いをするならって条件で、結構な額の割引されてるわけなの。お得でしょ?」

「ほう……割引率は?」

「ざっと六両」

 ベッドのばねで体を弾ませながら、桜は、凄いなと一言だけ呟いた。現状、それくらいの予算が無い事も無いが、節約できるならそれが一番。その為ならば、少々の手伝いなど軽い条件で――

「待った。構成員の手伝い? 拘束時間はどの程度のものだ?」

「んー、今回依頼されてるのは一件だけだからさ。往復で、そうだねー……二か三刻くらいのもの、だと思う。手紙届けるだけーって内容なんだけどさ」

「尚更怪しくは無いか?」

 美味い話には裏が有る、それが世の常。あんまり待遇が良いからと、桜は険しい顔になる。寝返りを打ってうつ伏せになり、村雨が掲げている書状とは別、もう一通に手を伸ばした。

「薄いな、これを何処に届けると?」

「一応、京都の北の方だってさ。『神山』って名前の山に住んでて、一応はその人も私の同僚って事になってるらしいんだけど……」

 構成員への連絡ならば、ただ呼び付けるだけでも良い様なものだ。別な構成員に、仕事として依頼しなければならない事情が何処にあると言うのか。そんな困惑を示す様に、村雨の眉根が僅かに下がった。

「……その変人、もしくは我儘の名前は?」

「ここに書いてある。松風まつかぜ 左馬さまだってさ、それ以外の情報は――」

 無し、と村雨が良い終わる前に、桜は弾かれた様に立ち上がっていた。床に置いた太刀を背負い、脇差を身につけ、部屋の鍵を手に取る。

「え――ちょ、いきなり何、何!?」

「出かけるぞ村雨、付いてこい。土産も見繕っていかねばならんのでな!」

 その時の桜の表情は、道行く美女を眺めている時よりも明るく、凶暴な獣の笑みにも似て――そうでありながら、遊びに出かける子供の様に、生き生きと世を楽しむものだ。
 部屋を出て、扉に鍵を掛け、長い階段を下り、通りへ。一連の行動の間、兎角、桜は動かない事に耐えられぬといった様子であった。








 華やかな異国情緒あふれる街も、北へ北へと進むにつれて、何処となく日の本特有のひなびた風情が戻ってくる。目に慣れた農村の風景を、少しばかり歩いた先が神山、然程背が高くも無い山だ。
 ここへ向かうまでに、桜は酒屋に立ちより、そこそこに上質の酒を購入した。量が少ないからまだ安価なのだが、正直、あまり飲まない村雨には価値の分からない品である。それに、山登りの供とするには、壺に納めた酒は、運びづらいばかりではないだろうか。
 そんな愚痴を零しつつも、まだまだ葉が落ちない木々の中を歩いていけば、直ぐに登りは終わり、平坦な道になる。改めて周囲を見渡し、ここが本当に、ただの山でしか無い事を、村雨は確認した。
 有る物と言えば、木か木の枝か、もしくは少しばかり落ちてきた緑色の葉。時々は虫の姿を見たり、頭上を鳥が飛んで行くのだが、然し頻繁ではない。ましてや、獣など全くおらず――

「……ん? 桜、なんだか変じゃない?」

「いいや、全くおかしい所など無いぞ」

 ――異変に、一つ気付いた。この山は、大きな獣の臭いが少ない。リスやらムササビやら、それから鳥やら虫やら、小さい生き物の臭いはいくらでもあるのだが、或る程度以上の大きさの獣が、この山に住んでいる様子が無いのだ。
 こと、獣の生体を探るならば、人狼である村雨の鼻は正確無比である。そして、いくら小さな山であろうと、他の山と地続きになっているからには、大きな獣がいない道理も有るまいに。
 そうして、何気なく、近くの木を見上げる。熊が縄張りを示す為の爪痕が残されていて――そして、熊の臭いは無い。この爪痕は一体、どれだけ昔に刻まれたものであろうか。この近辺を縄張りとしていた熊がいたのなら、果たしてその臭いが完全に消えるまで、何カ月の月日が必要なのだろうか。

「……ねえ、桜。松風左馬って、知ってるの? というか……誰? そもそも誰?」

「知っているとも。そうでなくては、土産など持ってくる筈もあるまい?」

「そうじゃなくてね――ぁ……!」

 風向きが変わった途端、異変を察知したのは、やはり村雨の鼻が先。桜は暫し遅れて、笑いながら、遥か頭上を見上げた。

「なんだ、居たのか。村雨、少しこれを持って離れていろ……まあ、すぐ終わる」

 背の高い広葉樹の森の、その中でも特に大きな一本の、張り出した枝。そこに人間が、〝逆様に〟立っていた。
 重力が正常に働いている事は、枝が下へ向けてしなっている事から分かる。だが、そこに居る人影は、木の枝にぴたりと足を触れさせて、自分の体を逆様に吊るしているのだ。
 葉の中に隠れる為なのだろうか、光を反射しづらい黒の布を、頭から足まで巻きつけている。目の部分だけは隙間が有るが、然し表情を読み取れる程ではない。
 桜が、運んでいた酒の小壺を村雨に押し付ける――と、人影は枝から落下。体を空中で捩じり、両手両足を使い、音も無く着地した。猫の様な身のこなしは、然し人影の発する臭いが人間の物であることで、尚更の驚愕を生む。
 手を地面につけたまま、人影は前傾姿勢を取る。ここから始まる行動なら、村雨には検討が付く。自身も得意とする、低姿勢からの高速の踏み込み――つまりは体術、それも敵対者へ向ける技術。人影には、戦闘の意思が有るらしかった。
 僅かに離れて身構える桜――刀は抜いていない。腰を落とし、胸の前に両手を置く。右手は胸から拳一つ、左手はそこから更に拳二つ離した、
 その構えは村雨にも見覚えが有る。というより自分自身が、あの構えを取った桜に、殺すつもりで襲いかかった経験がある。その経験から村雨は断言できるが、あの頭も腹も守らない構えこそは、攻撃こそ最大の防御という認識を持つ、雪月桜という人間に最適の形なのだ。
 不動を貫く桜に、人影が踊りかかる。超低姿勢の疾走から、左足一歩の踏み込みで制止、勢いを右手に乗せて、桜の喉元へ突きだす。中指を付きだした異形の拳だ、加減が有る様には見えない。それを桜は、左手で手首を打ち回避、右掌で人影の顔面を打ち据えようと腕を振るう。
 腕が動き始めた瞬間に一打、腕の下を潜り抜けながら一打、そして腕が引き戻されるに合わせて一打。人影は合計三度、桜の脇腹に、左の拳を打ち込んだ。横から見ている村雨だから全て見えたものの、仮に対峙していたら、腕を引く影さえ見えたかどうか。驚愕の波が引く前に、人影は、僅かな踏み込みから、肩を桜の胸に叩きつけた。ただそれだけで、桜の体が浮き、後方に一間も押し返された。

「嘘、凄っ……!?」

 動き続けているから確かな事は言えないが、人影の背丈は、桜より幾らか低い。然し、体格の差も意識させない程、響いた音は重かった。

「ふん、こんなもんかっ!」

 すぐさま姿勢を立て直した桜は、左手で人影の顔面へ突きを――いや、それは囮だ。回避の為に側面へ回り込んだ人影が、足を地面に着ける瞬間を狙い、片腕を掴んだ。
 掴んでしまえば、桜には一撃必殺の技が有る――投げ、だ。ただ持ちあげ、力任せに落とすだけで良い。頭から落とせば、首をへし折り、一撃で絶息させうる攻撃手段。それを、躊躇無く行使した。
 腰で跳ねあげるなどと、技術の必要な動作は介在させない。鞭を振り上げるかの様に、腕力だけで、人影を宙に舞わせる。村雨は止めに入ろうとしたが、その間すら見いだせなかった。一連の攻防が早過ぎて――それ以上に、投げを避けた人影の動きが、異常な程に速かったからだ。
 桜は、空中で人影を反転させ、頭から叩きつける様に振り落とした。それに対して人影は、持ちあげられる前に自分から跳躍、体勢をねじれさせておくことで、頭を打つことを防ぎ、脚から着地。そして、落下の勢いを腕に乗せ、手刀を振り下ろす。首筋、頸動脈を狙って斜めに落ちる軌道。桜の首ならば耐えきるか、いや――そんな逡巡も、結局無意味ではあった。手刀は、紙一枚の厚さ程度を開けて、桜の肌に触れずに止まっていたからだ。

「ふむ、まだ素手では勝てんか。やはり速いな」

「お前は相変わらずかかりが遅いね、もう少し気を張りたまえ」

 特に何事も無かったかの様に、桜は人影に語りかける。答えた声は、村雨の予断より高く、またどこかツンと澄ました響きも有った。
 互いに半歩だけ引いて、桜と人影は、会話に適切な間合いを取る。それから僅かに押し黙って――同時に村雨を見て、笑いだした。

「いや、すまんすまん、何も言ってなかったが――ッハッハ、そう緊張した顔をするな! 別にこいつ、私を殺そうというつもりではないぞ?」

「お前は殺す技を使ってきたじゃないか、酷い奴。だけど……フフ、そうそう。私は悪人だと思うけど、お前達を殺すつもりは無いし、寧ろ桜の連れならば歓迎させてもらうよ。……連れ、だね?」

 人影は、体に巻き付けていた黒布を剥ぎ取る。木の葉に隠れる為の布の下には、殆ど同色の、薄い衣服を着込んでいた。桜の顔を見て、村雨の顔を見て、何事か納得したように頷いて、また桜へ視線を向けて。分かっている事を確認する際の、語尾は上がるが断定的な声を出す。

「え――ええと、うん、そうだけど……ちょっと待って、いきなり何? 何でいきなり殴り合い始めて、いきなり談笑してるの? というか貴女、誰――……あ!」

 貴女――そう、人影は女性であった。桜より年齢は幾つか上に見える。背丈は桜より低く五尺と四寸少々、髪は耳に届かない程度の長さで切ってある。表情は涼やかで、自分自身が優れていると強く確信している様な、自負心と尊大さに満ちた顔をしていた。
 彼女が誰なのかを問うた村雨は、そも、この山を訪れた理由を考え、ようやっと得心が行く。名前の響きだけを考えて、相手が男性だと思っていたから、ここまでピンと来なかったというだけの事。良く良く考えれば、そう難しい問題でもなかった。

「村雨、紹介するぞ。こいつが松風左馬、素手なら日の本一と豪語する女だ。ちなみに酒癖は悪い」

「お前に言われたら御仕舞じゃないかと思うよ。あと日の本一は本当の事だから。数年以内には国中に認めさせて見せるよ、私の強さも美しさも」

「……まあ、こういうノリの奴だからな、気にするな」

 腰に手を当て、左馬は胸を逸らせ、ふん、と鼻を鳴らした。自分自身が優れている事を、微塵も疑わない物言いに、桜も苦笑して見せた。

「然しお前、仕事なぞしていたのだな……村雨、届け物が有るのだろう?」

「あ、うん、ええと――はい、『錆釘』から業務連絡です!」

 預かり物の書状をずいと突きだす村雨を、左馬は物珍しげな目で見て――書状では無く、酒の小壺を、半ば引っ手繰る様に手に取った。

「よしよし、確かに受け取ったよ。二人ともおいで、急ごしらえのボロ家だけど、床に座って飲めるだけ良いだろう?」

「……あのー、業務連絡なんですけどー」

「おう、飲むために持ってきたのだ、飲まねば始まらん。なあに、量は無いが強い酒だ、十分だろう」

「あのー」

 先導する様に歩いていく左馬を、ややはしゃぎながら追って行く桜。それを見て、村雨は一言、どうにもならぬ現実を呟いた。

「……駄目だ、似た者同士だあれ」

 この手の輩は、他人の事情を考慮しない。溜息が出る程、身に染みて分からされた、まさしく実感であった。








「では、我が旧友、雪月桜との再開を祝して」

「おう、飲め飲め。半分は残せよ」

 木材を掻き集め、強引に繋いだだけといった風情のあばら家。今にも抜け落ちそうな床に胡坐を掻いて、日も高い内から酒盛りを始めている駄目人間が二人ばかり居た。小壺に直接口を付け、ぐうと傾け口内に喉に注ぎ、喉を鳴らし、相手に差し出す。こんなやり取りが、暫し繰り返される。

「……あーのーさー……頼むから話を聞いてってばー」

 素面は、この場では一人、酒をあまり好まない村雨だけ。彼女はこのボロ家の主に早く書状を渡したくて堪らないのだが、それが為せずにじれていた。元凶の一つが、彼女の傍若無人の雇用主である。

「いや然し、よもやお前が定住先を決めていたとはなぁ。数年ばかりは会えないものと思っていたが」

「冬には出払うつもりで居たよ、お前は本当に悪運が強いね。私に出会えたんだ、目の保養になっただろう?」

「言いよるわ、毒華めが」

 子供がじゃれあうように互いに拳を突き出しながら、桜と左馬は笑いあっている――が、空中で打ち合わされる拳からは、釣鐘の様な音が響く。然して敵意の様なものは無く、二者共に、完全に気を抜いて姿勢を崩していた。
 暫く続いた雑談を村雨が聞いたところによると、この二人、会えば殴り合う程の親友であるらしい。交友の在り方としては珍妙だが、そういう関係も有るものなのかと、おかしな納得をせざるを得ない村雨である。
 勝敗は数えていないが、〝素手に限れば〟左馬の全勝。桜の化け物染みた身体能力が、この自尊心の塊には通用しないというのだ。
 俄かには信じがたい事だが、実際に目撃した村雨は、頷かざるを得なかった。左馬の拳足は、速度も重さも尋常に非ず、正しく魔域の技巧と映ったからだ。然しながら、村雨が彼女の技術に目を奪われた所以は、寧ろ別な場所なのやも知れない。

「ねえ、えーと――左馬、さん? さっきの見てたけど、あれは……何か、武術なの?」

 自分に意識を向けさせる為にも、村雨は、左馬の用いていた技術を話題に挙げた。自分の事を話すのが好きなのか、左馬は酒臭い息を吐き出し、胡坐を掻いたまま首だけを村雨に向けた。

「拳法、って呼ばれてる物だよ。決まった流派は無いけれどもね、強いて言うならば……北派?」

 恐ろしく、良い笑顔であった。度重なる受打で変形した、球状の拳を見せつけるようにして、左馬は歯を剥き出しに笑う。

「土をしっかり踏んで、手足をがっちり固めて、思いっきり叩く。これが出来るんなら誰にも負けない、素手の喧嘩で負けた覚えは無いんだ、私は。凄いだろう?」

「素手に限り、だがな。武器を持てば私の方が強いぞ」

 あまりに自信ありげ様子が気に障ったか、桜が口を挟む。が、左馬には鼻で笑い飛ばされるだけだ。

「お前は例外だよ化け物。私は美人なだけの普通の人間だよ? 象も投げる様な怪物と一緒に語らないで欲しい」

「象とはなんだ、象とは」

「ずっと西の方に住んでる動物。熊の十倍は重いそうだ」

 怪物と呼ぶその相手を体当たり一つで弾き飛ばす自分は棚に上げて、僅かに残っていた酒も飲み干す左馬。空になった小壺を投げ上げると、これ見よがしに四本貫手――人差し指から小指まで揃え、先端で突く技――を放った。

「……勿論、お前にも負けるつもりはないけどね、桜」

 小壺は鉈で断ち割ったかの様に二つに分かれ、床の板に落ちた。

「切れ味、上がったな。相変わらずの修行三昧か?」

「勿論。一月二度の仕事をさぼって修業に明け暮れているとも」

 桜には見慣れた光景であったのだろう。村雨が目を丸くする横で、平然と壺の破片を検分している。酒の席の余興程度の勢いで離れ業をやってのけた本人は、己の怠惰を隠しもしなかった――為に、村雨も漸く、本題に入る切っ掛けを得る。

「そう、その仕事! 『錆釘』から業務連絡だって何度も言ってるでしょー! はい!」

 話題が僅かでも途切れた瞬間を狙い、預かっていた書状を押しつける。段々と、身勝手な人間への対応が慣れてきているのか、有無を言わさぬ気迫であった。

「ああ、そうだった、そうだった。松風左馬確かに受け取りました、ただいま確認致します、っと……あ、前のより字が汚い」

 執筆者の苛立ちが窺える、断末魔の苦しみに悶えのたうつ蛇の様な字の書面を、左馬は一文字一文字睨みつけながら読み進め――

「ふんふん……面倒だから嫌だ」

 ――読み終わる前に閉じてしまった。腕を伸ばして座布団を引き寄せ、書状を下敷きに枕にして、仰向けに横になる。決断まで十も数えぬ迅速さであった。

「……いや、私の仕事は連絡だけだからいいんですけどさ、また手紙届けろって言われたら困るよ?」

「だね。だから代わりに桜、お前が行ってきてくれないか?」

「礼金次第では考えてやらんでもないが、五十両以下では動かんぞ」

 自分の興味の無い事には、徹底的に怠惰になれる人間がいる。松風左馬はその一人である。友人である桜は、その性根を叩き直すという発想は無いらしく、気軽に出せない金額を条件に出して婉曲に断った。

「いいや、お前は動くよ。これは多分、お前好みの一件だ……ほら、餞別」

 書状と入れ替わる様に、木版一枚摺りの、質の悪い紙を、壁板の隙間から引きずり出す。はらりと投げられたそれを桜が受け取ってみれば、おどろおどろしく文面を飾っていた文字は、

「……お前、いつからこっちの趣味が出来た?」

「私の趣味じゃないけど、配ってたから貰ってきただけだ」

 些かばかり洒落を利かせた文面。『装いも新たに、西の風を、西の艶を 牡丹登楼』――妓楼の宣伝広告であった。写真技術は、西洋で漸く生まれたばかりで、まだ日の本では一般的でない。文字ばかりの広告だが然し、文字の書体の崩れぶりが、何処となく如何わしさを醸し出していた。

「いやまあ、確かにこういう店は好きだが。悋気持ちの連れがいるのでな、どうも自由に遊べん身分で……」

「下の方、揚代を見てごらん」

 ほう、と普段の様な梟真似の声を出し、桜は広告の上に目を走らせ――幾度か瞬き、目をこすり、それでも足りぬのか二度三度と手元の藁半紙を見直した。

「どうしたの?」

「……お前も見てみろ。縁は無くとも、相場くらいは何かで知っているだろう?」

 怪訝な顔の村雨に負けず劣らず、複雑怪奇な表情で、桜は藁半紙を差し出す。受け取った村雨は、桜の目が先程まで留まっていた位置まで視線を落とし――

「は――は、何これ……? え、慈善事業?」

 客皆馴染み、浮気は甲斐性、一会五十文――端的に言うならば、あまりに客に都合が良すぎる、そんな謳い文句が踊っていた。

「依頼元は朱雀野、島原。このままじゃ商売あがったり、だとさ」

「引き受けよう、五両でいい」

 いざ決断してしまえば、桜ほど行動の早い者もそういない。そして、その友人であるからには、やはり左馬も迷いの無い人間であった。

「そこの隅の歪んだ鍋、紙幣で十両ばかり入ってる。半分持って行くと良いよ」

 京では、大判や小判は流行りでないらしい。紙の束をきっかり半分ひっつかみ、村雨が随伴しているか確認する為に一度だけ振り返り、そうして桜は山を降り始めた。健脚である。再び西洋風の市街地に戻るまで、一刻と掛からなかった。








 時代が移るにつれて、やはり変わっていく物は有るのだ。古き良き島原とても例外ではない。
 日の本の国家機能の中枢が、江戸から京に戻るに合わせて、上方には江戸者が大量に流入した。となれば、文化もそれ相応に混ざり合うのが道理であろう。そして、遊郭と問えば吉原と名が挙がる程、性文化の面で見るならば、江戸は発達していたのである。
 代表的な例を挙げるならば『散茶女郎』であろうか。袋から降り出す煎茶に対し、〝振らない〟散茶に掛け、客を振らない事を売りにする、手軽な遊女の事だ。
 初回で数両、口も利かず、裏を返してまた数両取り、言葉を交わすのは一つか二つ。三度目の登楼で漸く寝所を共にする高級遊女は、確かに見目良し技良し風流良しだが、気軽に遊べる相手とはいえない。商人ばかり強かった時代ならばさておき、一般大衆が活発に遊興費をばらまく時代には、もっと手軽な相手が必要なのだ。
 ちなみに、江戸の遊女遊びは、現在ではかなり簡略化され、揚屋というものが無くなっている。客は直接遊女屋に赴き、そこで初回から遊ぶという事が多い。伝統保守を良しとする京でも、煩雑な手順の解消は進んできている――が、完全ではない。
 例えば一部の大見世は、今でも揚屋を通さない限り、暖簾を潜る事さえ出来ない。初回――初めて遊女を指名し、顔合わせの挨拶、次回の約束を漕ぎ付ける段階――で客が粗相などすれば、遊女は形式的な挨拶だけ済ませて帰ってしまう。一度、床を共にするまで辿り着いたなら、他の遊女を指名するのは礼儀作法に悖る所業とされる、等々。極めて古風のやり方が、洋風の街並みにも残されているのだ。
 では、左馬から渡された広告の文言の意味は? 教養人のやる様な、言葉遊びなどは含まれていない。
 客皆馴染み――初回、裏を強要しない。つまり、全ての来客は、最初の登楼から床入り出来るという事。
 浮気は甲斐性――読んで字のごとく、浮気の黙認。一人の遊女に操を立てる必要性を排除し、自由に何人とでも関係を持って良い、という事。
 この二項目から察するに、『牡丹登楼』は所謂、散茶女郎を扱う遊女屋なのであろう、と桜は推察していた。

「にしても、五十文とはなぁ……髪結い、二度も頼めんぞ」

「えーと、確か……飯盛女の相場が……四百文から六百文くらいの間、だったっけ?」

 あちらこちらに派遣される職業柄、村雨も、売春業に関する或る程度の知識は持ち合わせていた。だからこそ、あの宣伝広告を見て、何の冗談かと疑ったのだ。桜が言う通り、この金額では、そもそも遊女の身なりを整えるだけでも赤字が出そうなものだからだ。

「これで儲けが出るとすると、蚊帳と筵の間に、歯抜けの婆が腰かけて……か? 数日で客が来なくなるな、有り得ん」

「他の店からお客を奪うくらいらしいから……うん、むしろ繁盛してるんだよね。どういう仕組み……?」

「分からん。分からんが、見れば分かるかも知れん……おう、あれか?」

 神山を降り、京の街を南へ進み、二条城を幾分か過ぎて直ぐの事である。赤煉瓦の並ぶ街並みの中に、屋根まで白い奇妙な建築物が有った。形状だけは日の本の豪邸に似ている。だが建材は明らかに舶来のものだ。屋根の下に吊るされた看板には、確かに『牡丹登楼』の四字。呼び子も何も無く、静かな店先であった。
 その大きな事と言ったら、窓の数からして三階は無いと断言できるのに、然し屋根まで四丈はあろうかという背の高さ。剣道場の二つは飲み込まんばかりの横幅で、長く伸びた壁の内、何か所かは格子になっていた。格子は〝まがき〟と呼ばれる、妓楼の格を示す物。この店の場合は、壁の下半分だけが格子になっている――格の低い店、という事である。
 桜は壁に沿うように立ち止まり、腰を曲げて格子を覗いた。目を細めていると、格子の向こうで何人か、女たちが歩き回っているのが見えた。

「……中から中の上。一人二人、上の下。江戸なら一晩で三両から四両という所か……繁盛する訳だな」

「何よその無駄な鑑定眼……羊頭狗肉じゃないよね」

「多分な。一人、後ろ髪が潰れている。朝方に結い、その後で横になった様な潰れ方だ」

 天井知らずの遊女相場であるが、然し下限ならば、比較的常識の範疇で存在する。遊女とて、好色で身を売っている訳ではないのだ――例外は有るかも知れないが。堕ちに堕ちて店に置いて貰えない、三十過ぎの遊女とて、病気が無ければ二百文は稼げるだろう。若くて健康ならば、宿場町で飯盛女でもすれば良い。五十文では、まず遊女が集まる筈が無い――桜の常識の範疇ならば。
 然し現実は眼前の光景の通り。こうして見ている間にも、若い男がふらりと立ち入ったり、或いは満ち足りた顔つきで出てきたり。人の流れは途絶える事なく、恐ろしく繁盛している様子が窺えた。それはつまり、それだけの人数を捌けるだ程、遊女を揃えているという事だ。

「……分からん! が、きな臭いぞ。江戸でもこういう店が無かったとは言わんが、酷い悪徳店主の店だった。ここも大方、裏では何かやっているに違いない」

「多分、でどうにかなるもんでもないでしょ……で、どうするのさ。忍び込むなら朝か昼って思ってたけど……ここ、一日中営業してるみたいだよ? 街のど真ん中だし、闇にまぎれてーっていうのは無理なんじゃないかな」

 この『牡丹登楼』、塀や柵は無いが、敢えていうなら周囲の目が、最強の防壁である。市街地にでんと建てられたが為、そして深夜でも煌々と明かりを灯している為、必ず幾つかは視線が向いているのだ。潜入しようと言うのなら、モグラの真似事でもしなければ難しかろう。

「ああ、それならどうにでもなるだろうが」

 然し、忍び込もうなどと思わなければ、この問題はあっさりと解決できる。桜は一端『牡丹登楼』を素通りして、近くの別な建物へと歩き始めた。

「ん? どこ行くの?」

「ちょっと買い物だ、ついてこい。折角京に来たのだから、こちらの品も買っておきたいだろう?」

「いきなりだねー、どういうつも――……り、って、あー……」

 桜の思考回路を、村雨は理解してきたらしい。言葉の途中で意図に気付き、そしてその意図を覆せないだろう事を察し、がっくりと肩を落とした。桜の視線の先には呉服屋が、当世風に煉瓦建てに、暖簾を構えていた。








 更に半刻程後。時間としては、そろそろ空の色に朱が混じり始める頃合いの事である。『牡丹登楼』の入口で、受付兼用心棒をしている喜八は、珍しい客が門を潜ってくるのを目撃した。
 三条大橋の東か、或いは田舎の出か、若いのに和装で上から下まで固めている。片方は小柄な少年、片方は成熟した女だ。密会の場所を探しに来たとも思えないが、然し女が遊女屋に用が――有るな、と喜八は思いなおす。そういう客も、少ないが、居ないでもないからだ。
 が、そういう客は得てして面倒な性格である事が多い為、この店では基本的に、丁重にお帰りを願っている。場合によっては提携している、そういう客でも引き受ける別な店を紹介したり――勿論そちらは、この『牡丹登楼』程に良心的な価格ではないが。

「お嬢さん、店をお間違いではございませんか? ここは少々、俗な所でございまして……」

「構わんよ、知っている。良い女を揃えているではないか、驚かされたぞ」

 極稀に、勘違いから迷い込んでくる客もいるのだが、やはりこの女は、そういう類ではないらしい。すぐさま喜八は、申し訳なさそうな顔をして、大きな図体を丸めた。

「申し訳ございません、私共の店では、女性のお客様は……」

 客より遊女の立場が上、そういう古風な店が京には多い中、ここは客を最優先とする主義の店。相手が喧嘩腰なら悪鬼の形相になる喜八だが、見ている方が申し訳なくなる程に頭を下げる。

「私ではない、弟がな。こいつ、どうにも女に苦手意識でも有るのか、全く浮いた話も無い。これではいかんという事で連れてきた……それなら構うまい?」

 成程、見れば弟と呼ばれた少年、視線を足元に落として赤面し、固まっている。髭も無ければ喉仏も出ていない、ほんの子供の様な顔立ちだ。それを冷やかす様な口ぶりの女は、頭を下げた喜八に耳を近づけ、

「……勿論、私も楽しめるならそれが良いがな。金なら十倍は出すぞ?」

 やはり、こういう仕事をしていれば何度か聞く様な口説き文句を囁いた。実際、この店の設定料金であれば、十倍を払っても懐は痛まない――と同時に、店側もさして儲かる訳でもない。目先の利益に目を奪われ、災厄に敷居を跨がせては、それは用心棒の名折れである。

「いえ、やはりそういう訳には……お客様、それだけの予算でお考えなら、私共から紹介状を――」

「百倍だ」

 女は無造作に言い、紙幣の束を取り出した。開国以来始まった銀行の、金と交換できるという銀行券なる代物が、目算で約二両――八千文という所だろうか。喜八は、顎が外れんばかりの間抜け顔を曝した。

「ほれ、あの目尻の下がった、簪を耳に引っかけている奴。私も弟もあれを気に入ってな、あれ以外では気が載らんのだ……なあ、どうにかならんか?」

 片手を顔の前に掲げて祈る様にしながら、もう片手で喜八の懐に、紙幣の半分程をねじ込む女。これだけで少なくとも一両、贅沢をしなければ一年ばかりは食っていけるだろう金額だ。

「お、お客様、然しですね……」

「まあまあ、お前にそこまでの権限が無いのは分かる。店主に相談してくれるだけで良いのだ。私も無粋ではない、階段を上らせる手間賃くらいは……な?」

 残り半分の紙幣も、やはり喜八の懐へ押し込まれる。それでいて女は、懐から小判を覗かせていた。ここまで来てこの客を返しては、後で店の主人に何を言われるか分かったものではなく――そして、自分自身の金銭欲も有る。

「しょっ、少々お待ち下さいませー!」

 どかどかと音を立てて喜八は店内に戻り、二階へと駆け上がっていく。暫くして戻ってきた時には、額に珠の様な汗――全力疾走の結果であろう。

「ど、どうぞおあがり下さいませ、ご案内いたしますっ」

 後半、声を裏返らせながら、喜八は女と少年を、店に迎え入れた。それからまた直ぐに走り、今度は指名を受けた遊女――桜が〝上の下〟と表した――を呼び、部屋へ案内させる。

「御苦労だったな、酒でも買って休むが良い」

 去り際、女は、喜八の袖に小判を滑り込ませた。喜八は直立不動で、女と少年の背を見送った。



 改めて言うまでも無いが、この女こそは雪月桜。そして、喜八に少年と勘違いされていたのは、裃を着せられた村雨である。桜から村雨に与えられた指示は単純明快、喋るなの一言。場に慣れている自分が、後はどうにでもするという事であった。
 これは余談でしかないが、ただ村雨に男装をさせるという事ならば、半刻も買い物に時間を費やす意味は無い。単に桜が、着せ替えを楽しんでいただけの事である――丁度、陰間茶々での一件と同じように。

「あの時は陰間の振り、今度は客の振りか……うむ、お前も板についてきたな」

「~~~~~っ!!」

 喋るなという指示は律儀に守りながら、村雨は久しぶりに、男装をしても一目でバレる雇用主を殴りたくなった。まっこと人というモノは、身体の一部分に於いて、著しく平等性に欠けている生物である――この場合の〝人〟とは、亜人も含んでしまうのであった。








 案内された部屋は、簡素だが清潔感が有った。明かり取りの窓は小さく、外から差し込む光は弱い。既に夕刻という事もあり、蝋燭数本の照明では、互いの顔も明瞭に映らない。安遊女屋としてはこれ以上ない環境と言えよう。
 だが、まんまと上がり込んだ桜達の前で三つ指付いている女は、少なくとも、暗さで顔の粗を誤魔化す必要は無いように見えた。垂れた目は、長い睫毛が物憂げで、涙など良く似合うだろう。ややふっくらとした頬はむしろ健康的で、骨と皮まで痩せ細った女より、よほど抱き心地が良さそうだ。そして何より、笑顔が明るい。照明の弱い部屋でも、彼女自身が光源になるのではと錯覚する程だ。
 それが、桜には不思議でならない。苦界に身を落とし、食うにも困るだろうはした金で身を売って――おそらくは、長生きもするまい。過労か病か、四十を迎える事は無いだろう。そんな女の顔にはとても見えないからだ。

瑠璃羽るりばねにありんす、ようお出でなさんした」

 少しばかり東国訛りの響きが強い廓言葉で、笑顔の美しい遊女は挨拶を済ませる。慣れぬ種類の客だろうに、緊張を表に出さないのは、中々に度胸のある女なのだろう。

「ふむ、やはりこれくらいの丸みがなくてはなぁ……胸に触れていきなり骨では、些か興も削がれようというものだ」

 遊女、瑠璃羽の明るさの理由を図り切れぬまま、桜はその手を掴み、無遠慮にぐいと引き寄せる。肩に腕を回し、脚や腹に触れているのは――勿論趣味も三割ばかり有るが――食事量を推し量る為である。食べるだけは食べているらしいと、桜の手に伝わる感触は答えていた。

「あれ、せっかちな。そう御急ぎなさんすな、まずはこれを……」

 飽く迄、主賓は村雨――今回は『犬塚 政樹』などと偽名を使っている。すうとこんな偽名が飛び出して来た辺り、実は『錆釘』の仕事でも、何度か似た様な経験が有るのでは――そう勘繰った桜だが、村雨本人は黙秘を貫いたままだ。
 偽名はさておいて、瑠璃羽は村雨に一枚の紙を手渡す。宣伝広告と同じ質の、安そうな紙だ。手に取ると、何やらこまごまと字が並んでいて、目が痛くなる。声は出さないまま、受け取った手からそのまま流す様に、桜に渡す。

「もう少し明るければなぁ……あー、どれどれ?」

 分かりやすく示すならば、料金表であった。店と遊女が提供する品、或いは部屋、或いは行為に対し、事細かに金額が設定されている。この様な店に慣れている桜が呆気に取られる無茶な物から、大概の店では料金の範疇になっている基本的な行為まで、記載事項は百項目近くにも及んだ。

「……読んでいるだけで日が昇りそうだが……なんだ、その。公言している五十文とやらは、何だ?」

「それは床入りだけのお代でござんすなぁ。例えば、これなど――」

 遊里の言葉に江戸訛り、そして回りくどい言葉選びで中々説明は進まなかったが、以下の様な事である。
 五十文だけで遊ぶことは、確かに出来る。部屋と布団を提供され、ただ遊女を抱くだけなら、だ。この場合、遊女の側から積極的に、何かをしようという接触は無いらしい。客の動きを阻害しない程度に何もせず、客に通り一遍、弄ばれて五十文――これでも、この店の遊女の格から考えれば、極めて安価だ。
 それ以外の事。例えば、遊里でしか楽しめぬ口技であったり、女性上位での技であったりは、追加で料金を取られる。が、それも十数文から高くて三十文、呆れる程に安い。
 むしろ桜の興味を引いたのは、閨の技以外に提供される物――料理、酒、或いは特殊な道具、薬品、按摩、等々。こちらは料金様々で、例えば団子と茶なら数文で帰るが、山海珍味を集めた宴の料理なら、一両二両の世界となる。道具は、錠やら縄やら口枷やら。薬品は基本的に、客に飲ませる興奮剤だの、滋養強壮の薬だので、こちらは殆どが二百文前後。そして按摩は、〝素人技乍〟と注釈付きで、三十文程度であった。

「耳掃除が三文、肩と腕だけなら按摩十文、安酒に酌を付けて四十文。蕎麦の出前まであるぞ」

 相場より少し高いが悪くは無い、と桜も思ってしまった。あちらこちらの店を巡り、見た目に難有る者に接客されるより、少々技量で劣ろうとも見目良き華を。成程、こうして次から次と客の欲を煽り、かつ不要な物を強制しないからこそ、この店の揚代は安いらしい。

「……いいなあ、この店。どれ、それでは一つ足揉みでも――こら、痛い痛い」

 来訪の理由を忘れかけた桜の手を、村雨が、かなり強めに抓った。締まらない顔をしていた桜は、二度ばかり咳払いをして、居住まいを正す。

「瑠璃羽と言ったか。お前、本当に楽しそうに笑うのだな……こんな稼げない店で、何故だ?」

「何故と? お客さんが笑ってくださんすもの、わっちらぁにも嬉しゅうござんすよ。浮世の憂さはここで晴らして、どうぞ晴れやかにおかえりなんし。さあ……」

 問いへの答えも、笑顔の質と同じで、裏を疑う余地のない声で返って来た。やや足音重く立ち上がり、既に敷いてあった布団へ、村雨の手を引いていこうと――手が触れた瞬間、何やら怪訝な顔をする。
 拙いか。寸拍、空気が冷える。幾ら荒事を通過して来ようが、男と女では骨格が違う。未成熟な少年と少女でも、やはり差異は生ずるのだ。幅の広い和装で誤魔化そうと、やはり村雨は細すぎた。

「ああ、そうだ。ここに書いてあるが……縄、などもあるのか? 面白い趣向ではないか。どこに有る?」

「はい? ……ああ、縄、縄……ええとたしか、その物置きの下にござんす」

「そうか、済まんな」

 これ以上は、段々と誤魔化すのが難しくなってくる。そう判断した桜は、音も無く瑠璃羽の背後に立った。突然、至近距離から掛けられた声に驚きながらも返答した彼女に一言だけ詫びて――両腕を、その首に巻きつけた。
 骨や気道を傷めず、頸動脈だけを的確に締め、脳への血流を遮断。迅速に意識を削ぐ、蛇の如き絡み技。瑠璃羽は、悲鳴はおろか助けを呼ぶ声一つ上げず崩れ落ちた。

「おい村雨、そこの物置きだそうだ。あまり悠長な事は出来ん、急ぐぞ」

「……そろそろ私も、私の人権を守る為の活動を始めていい頃合いなんじゃないかな」

 声を出せば一発で少女と判明する、だから黙っていろ。そんな指示にこれまで律儀に従っていた村雨だが、そもここまで入り込む為なら、もう少し上手いやり方が有っただろうと思わなくもない。だが、それをくどくど述べた所で、己が雇用主は決して反省などしない人種である。諦観の嘆息と共に、縄を見つけて、桜へ放り投げた。
 瑠璃羽の手首と足首を背中側で結び、更に両肘を体に固定する形で縛り上げ、適当な布で猿轡を噛ませ、布団と合わせて押し入れに突っ込む。それから桜は、天井を見上げ、黒太刀の鞘でつつき始めた。

「どう、いけそう?」

「板を外すまではいいが、戻せるかどうかが分からんな。覗きが居ない店だと祈ろうか」

 昼も夜も無く活動している店を探るなら、やはり床下か天井裏であろう。一階に通されたのは二人の計算の外だったが、考えようによっては、一階二階を同時に探る事が出来る、真に好都合の事態だ。
 天井板を一枚だけ外し、軽々と跳躍、天井裏に消える桜と村雨。西から差し込む夕日も、照明としては心許無かった。








 馬鹿げて天井の高い作りになっている『牡丹登楼』は、天井裏の作りもまた、人が住める程に馬鹿げた広さであった。
 何せ、桜が背中を曲げずに歩けるのだ。僅かなら跳躍も可能だろう、衝撃で床が抜ける恐れも無い。但し、走りまわれば当然だが、一階に居る者達には、巨大な鼠の存在は露呈する。
 建材の隙間から僅かに入り込む光、それを頼りに、村雨は桜を誘導している。人狼の目は特別製だ。日中はやや疲労が激しいが、吹雪や闇夜ならば馴染みの風景、壁に張り付くヤモリまで見える。

「それで、ここからどうするの?」

「深く考えてはいないが、客としては入れぬ場所まで潜り込む……例えば、金庫でも有りそうな場所など」

「泥棒じゃん」

「既に押し込み強盗の様な真似はやらかしているのだ、今更罪状が増えた所でなぁ。で、どの向きに動けばいいのだ?」

 確かに、やっている事は強盗と大差無い。万が一の場合はどうしようかと悩みつつも、村雨は、右手を顎の下に当てて思考を始めた。確か呼び込みの男は、店主に話を付ける為、二階に上がっていった筈だ。おそらく一階は接客に使い、二階は従業員が職務をこなす空間なのだろう。そう思って鼻をひくつかせてみれば、成程、食べ物やら酒の臭いは二階、人の臭いは一階に、それぞれ偏って存在した。

「……こっちかな。多分、右に何歩か行った真上が厨房。厨房は廊下に面してると考えて、残ってる人間の臭いが……ええと、これは違うな、これも……」

「何を探している? 見えんのだ、説明くらいせんか」

 背伸びをし、天井を見上げ、村雨は見えない何かを追っていく。やっと暗がりに目が慣れた桜でも、村雨が何をしているのかは分からず、尋ねた。

「人の臭いもね、雄と雌はやっぱり違うの。雄の臭いと食材の臭いが、固まってるのが多分厨房、少し薄れてるのが廊下――料理人は男の人が多いから。廊下からは雌の臭いが多くなって、で、階段に向かってたり、何処かに長時間留まってたり……私室かな、仕事に入る前だと思うから」

 獲物の臭いの濃度、種類、位置から、狩りの方策を決定する。これは人狼の種族に共通の、天賦の才とも呼ぶべき直感――或いは種族単位で引き継ぐ経験則である。

「何故、仕事の前と――いや、良い。大方分かる」

「……で、そうやって追っていくと――こっち。少しだけ人の数が多くて、仕事前仕事後問わず女の人が集まって……場所も、多分廊下の突き当たり。ここが一番怪しいんじゃないかな」

 答えずとも分かるだろうと、桜の問いは黙殺し、袖を引いて暗い天井裏を歩く。可能な限り金属製の横組みを踏み、板を軋ませないように。巨大な建築物である為、そして先が見えない暗い空間である為、到着までの体感時間は、実際より数倍は長かっただろう。
 村雨が見当を付けたその場所で、二人は耳を済ませる――意味も、あまり無かった。半鐘の如き大音声は、おそらく一階までは届かないだろうが、天井裏の空間には十分に響いてきたのだ。

千里せんりかなえ葉隠はかげ! アンタ達、そこに並ぶんだよ! ほらさっさと! ほら!」

 一語毎に息を吸い、太鼓を叩く様な力強さで息を吐き出す、老婆の声。遅れて足音が三つばかり、ぱたぱたと桜の頭上を走る。ついで、何やら細こい声が三色、とりどりに老婆に口答した。内容までは、流石に聞き取れない。

「アンタ達、具合が悪いんだってねぇ……客も取らず朝から今まで伏せって……あぁ!?」

「……ふむ、こういう裏事情は、普通の店か」

 面で働いている人間がどうあれ、裏が汚いのは世の常。声を顰めたままの桜は、そこまで大きく感情をゆすぶられた様子も無い――横に立つ村雨だけは、桜が右瞼を閉じ、指でカリカリと引っ掻いているのを見ていたが。
 尚、老婆の声と、三つの足音が止まった位置は、おそらくだが三間ばかり離れている。この声量ならば、それでも十分過ぎる距離なのだろう。

「千里、アンタは……はん! 何でもないよ、軽い食当たりだ! さっさと医者を呼ばせなこの穀潰し、ほら!」

「……ん、意外と親切な」

 言葉はどうあれ正しい処置だ。体調不良の遊女を無理に働かせる事に道理は無い、休ませるべきだ――が、医者を呼ぶというのは、中々に珍しいやも知れない。遊女を医者に見せる機会など、月に一度も有れば良いだろう。勿論、全員纏めて一日に。経費削減の基本である。
 その点、おそらくこの店の長であろう老婆は、かなり気前が良いと言えよう。薄利多売のこの店で、その少ない利益を、遊女の為に使うというのだから。

「村雨、おかしいとは思わんか」

「思うね、うん。これじゃあ、どうしたって……」

 ――いや、違う。この店の設備を考え、初期投資を回収する費用やら維持費やらを考えた場合、どうしてもこれでは足が出る。良心的に経営していたのでは、こんな店、数か月と持つ筈が無いのだ。

「次、鼎は――ぉぉお、おおぅ? こりゃめでたいよ、女の子だねぇ!」

 老婆はやはり動きもしないまま、遊女の一人に懐妊を――暫く働けなくなる、店側からすれば損失でしかない事実を告げた。またその声が、本心から喜ばしい事であるかの様に弾んでいるのだ。告げられた遊女のものだろう、小さな声が、嗚咽混じりに笑っていた。
 微笑ましい光景なのだろうが――その裏を、桜は考えてしまった。そうだ、この店ではきっと誰もが、ここで働けるだけで喜びを得ている。客に奉仕する事だけで喜びを得ている。ならば、衣食住が最低限確保されていれば――それ以上の収入を、誰も望んでいないのでは?
 そうでなくては、そうでなければ、この規模の店が成り立つ筈も無い。家畜の様に食わせ、売り物として管理だけは徹底し、後は何も与えない。おおよそ人としての誇りなど持たせず――そして、誇りを持つなど、そもそも願わせもしていないのだ。
 如何なるカラクリで有るかは分からぬが、桜は、それが気に食わなかった。遊女を抱いた事は幾らでも有るが、やはり抱くならば、影の見えぬ女が良いという、陽性の好みの持ち主であるからだ。同じ金銭の為に働くとしても、せめて自分の意思で道を選び、悔いていない女の方が、掻き抱くに心地好い。況や人並みの望みも持たず、ただ身を玩具として提供する、それ自体に喜びを覚える女など――その為に作られた、人形の様では無いか。

「……葉隠、アンタは分かって黙ってたね? だいたい四月……男の子だよ。要らないね」

 最後の一人に対する老婆の声は、尋問の如き様子である。たった一言、最後に継ぎ足された言葉は――それこそ、がらくたを投げ捨てる様な口ぶりであった。

「堕ろしな、さっさとしないと無駄な時間を喰うからねぇ。ああなんだってこの馬鹿女、男なんか……お前達はどうせ穢れてるんだから、女の子を生む以外の役割なんておまけみたいなもんさ、分かったかい!?」

 荒々しく床を踏み鳴らす音。老婆が立ちあがったのだろう。部屋の中を真っ直ぐ横へ歩き、また元の位置へ戻った。その旅に天井裏――二階から見れば床下――には、埃の雨が降る。肩に乗った綿ぼこりを落としながら、桜は背の大黒太刀『斬城黒鴉』を引き抜いた。

「待ってよ、本気?」

「勿論だとも」

 村雨の制止も聞かず、下段に太刀を構え、頭上を睨みつける桜。軽く胸が持ちあがる程に息を吸い込み、止めた。

「……しぃいいい――」

「それからアンタ達ぃ!!」

 裂帛の気勢と共に太刀が振るわれる、それより僅かに先。老婆の叫びと共に、二階の床板が大きく抉り取られ、巨大な刃物が落下してきた。

「さ――桜!?」

「無事だ、止めた! ……走れるな!?」

 刃物の招待は、薙刀の刃。それも、尋常の丈では無い。刀身部分だけでも子供より重量の有りそうな、正しく鉄の塊といった外観の薙刀。人の胴体など、三つは重ねて両断しかねない代物である。
 頭上に開いた穴から、まず村雨が。ついで、薙刀の柄を踏み台に桜が、二階の部屋まで飛びあがった。急に明るくなり、瞳孔が縮小、目を光に慣らそうとする。先に回復したのは、桜の目であった。

「……ぐお、見たくない物を見てしまった」

「うわー……正直、女帝蜘蛛より怖い」

 部屋の灯りの元で、薙刀を、僅かな間だが観察出来た。柄だけで一丈五尺はあろう、明らかに室内で振るうべきではない長物。その重量からして、とても尋常の老婆では、持ちあげる事さえ適わぬだろう一品で――そんな物で床を割るからには、この老婆、やはり尋常ではないのだ。
 節くれだった手は、村雨の顔より広く。若き日の力を失っていないのだろう背筋は、留め袖を盛り上げる程。猫ならば踏み潰しかねない足、柱の様な首。鉤鼻、皺だらけの顔――身の丈、七尺。

「鼠どもめぇ……アタシの預かった店で盗人のつもりとは、良い度胸してるねぇ!?」

「お前、一応は女だな……だよな? 私の目が狂った訳ではないな?」

 流石の桜も、まるで理解できない存在への――恐怖ではなく混乱に、頬を引きつらせていた。大薙刀を高々と振り上げ、桜と村雨を睨みつける老婆は、対の仁王像すら平伏すばかりの迫力と威厳に満ちていた。








「三途の渡しの代金だ、首の一つも置いていきなァ!」

「ただの盗人に、随分と恐ろしい事を言う。捕まえて役人に引き渡す、それだけでも良かろうになあ……」

 努めて平常心を保とうとしている桜であるが、老婆の巨体と鬼の形相は、どうにも生理的嫌悪感を呼び起こすものであったらしく、未だに頬は痙攣している。だが同時に、この相手が外見の通り、危険な敵であることも理解していた。
 床を立ち割り、床下の桜を過たず狙って振り下ろされた薙刀は、正しく断命の一撃。声を顰めていた桜を、目視する事も無く発見する慧眼。さらに、端からこの老婆、盗人を生かして帰すつもりなどないのだ。その凶暴性、暴力性も、また危険たる所以に数えられるだろう。

「……村雨、あれが魔術を用いた気配は有ったか?」

 敵の戦力を測る事こそは、おおよそ争いごとに於いて必須の行為である。魔術行使に伴う魔力の変動を、大気の異常という形で察する村雨の嗅覚は、この様な場面でこそ生きる筈であった。

「ううん、全然……この建物に入ってから、そういう臭いは無かった」

「そうか、分かった」

 何も分からない、という事だ。断言できるのは、この老婆が怪物染みた存在であること――と、もう一つ。

「逃げるぞ村雨、ここでは駄目だ! 走れ!」

「分かった――その人、任せた!」

 不運にもこの場に取り残された、先程まで老婆の恫喝を受けていた遊女、葉隠はかげである。見れば、些か不健康のきらいがある、痩せ形の女だ。顔色の悪さは常の物か、それとも混乱と恐怖による物か。もしかすれば、誰とも知れぬ男の子を孕んだ、己への絶望やも知れない。
 兎角も、桜と村雨は、老婆を背にして一目散に走りだす。村雨が先行して扉を開け、その後ろを桜が、葉隠はかげを肩に担ぎあげつつ走った。

「ッヒイ!? キャ、キャー!? 降ろしとくれー!?」

「叫ぶな喧しい耳が痛い! 降ろせばお前、子まで降ろす羽目になるぞ!」

「上手い事言ってる場合か馬鹿ー!」

 突然担ぎあげられた遊女は、素が出ているのか、生国の言葉混じりにキンキンと叫ぶ。村雨は既に階段に差しかかり、桜は部屋を出る一歩手前。

「くぉらぁあああっ!! 待たんかい鼠どもぉッ!」

 その頭を叩き割らんと、薙刀が再び振り下ろされる。気配と影で狙いを悟った桜は、振り上げていた右足を強引に外側へ降り出し、左足で床を蹴って直角の側面跳躍を行う。袖に掠らせつつ薙刀を回避し、また直角に方向転換、薙刀が再び振り上げられる前に射程圏外へ逃げた。

「……ちっ、髪が何本か切られた」

 些細な事で怒りを示しながら、角度の急な階段に差しかかる。少し前方に目を向ければ、酒の臭いをぷんぷんとさせた男が、村雨と正面衝突して引っ繰り返っていた。村雨自身は転倒する事も無く、直線の長い廊下で、障害物を横へ蹴り飛ばし道を空けている。この場合の障害物とは、何気なく廊下に置かれた箱であったり、のんびりと歩いている客であったりする。

「お前、かなり私に似てきておらんか?」

「こんな時に喜んでるんじゃなーい!」

「いやいや、喜ばしいこ――ええ、邪魔が入るな!」

 粗っぽく道を空けた村雨に、喜色を大きく面に出した笑みを見せつつ、廊下を走り――背後からの殺気に、床板を剥ぎ取り背中へ回す。盾の代わりにした板は、縫い針が幾つも突き刺さり、それこそまさに針鼠となった。床を軋ませながら走る老婆が、吹き矢のように口から打ち出した針だ。
 店の入り口がどの方角かは、桜は覚えていないが、村雨が嗅覚で先導する。巨体でも老婆は敏捷だが、然し桜と村雨程の、人を外れた速度では走れない。このままならば、問題無く逃げ切る事が出来る筈であった――が。

「――っ!? かっ!」

「ぁ、痛っ……!」

 不意に、桜の視界が真っ暗になる。反射的に手で顔を払うと、肩に担いでいた葉隠はかげが、手首をさも痛そうに胸に抱きこんだ。払い除けたのは、彼女の腕だったらしい。

「何をする、この馬鹿っ!」

「降ろしなんし、人攫い! 鬼! 浅葱裏!」

「誰が田舎者か誰が!? だから掴むな目を隠すな――ああ、もう!」

 逃げる桜を足止めするように、耳を引っ張ったり目を覆ったり鼻を摘んだり――葉隠はかげはそれこそ必死に、誘拐犯から逃げる様な形相で抵抗する。相手が相手である、桜も下手な反撃せず、ただ手を払い、手首を抑える程度の事しか出来なかった。
 そもそも葉隠はかげには、何故、桜が自分を担いで逃げ出したのかも分かっていなかった。彼女から見れば桜は、武器を携えて床下に潜んでいた、ただの盗人か何かでしかない。そんな人間が、自分を助けようと考えているなど、にわかに思い当る筈も無かった。
 そして――葉隠はかげには、この店から逃げる理由が何一つ無かった。

「……降ろしとくれよ、何だって余計な事をするんだい」

「あぁ?」

 長い直線の廊下を過ぎて右に曲がり、後は数間走って外へ出るだけ。茜から黒へ変わり行く外の光に、葉隠はかげの青ざめた顔が映え――いや、より痛ましく、弱く映る。

「どういうつもりだかは知らないけどね、あたいらはみーんな、好きでこの仕事をやってるのさ。無理に連れだそうだなんて野暮もいい所だ、だから浅葱裏だって言ってんだよ!」

「だがお前、このままでは腹の子が……」

 引き離した距離も、立ち止まって会話をしていれば直ぐに詰まる。もうすぐそこまで、老婆の足音は聞こえている。

「……仕方が無いよ、孕んだあたいが間抜けだっただけだ。ちゃんと女の子だったら、お役に立てたっていうのにねぇ……」

 心底悔しそうに、葉隠はかげはぎゅうと眉根を寄せた。涙すら流しているが――その悲しみは、我が子の命を奪わねばならぬ故ではない。あろうことか彼女は、自分の子が男でなかったと告げられた事で、己を罪人と同一視さえしているのだ。

「役に立つ――と言うのは分からんが」

 老婆の足音は、もう直ぐそこだ。息切れをしている様子は有るが、怒りが疲労を忘れさせているのか、気迫は些かも衰えない。

「なら、女の子ならどう役に立つ」

「この世の穢れを受けていない純粋な女の子は、一番神様に近い存在なんだ。だから――」

「余計な事を言うんじゃないよクズ女ぁ!」

 老婆が薙刀を振り上げた。高い天井だが、然し巨躯に長柄の武器、刃の先は梁を掠める。桜は、振り下ろされた刃の側面を拳で叩き、薙刀を側面に逸らした。床が砕ける様を横目で見ながら、葉隠はかげを肩から降ろす。
 老婆の侵入者に対する反応は、明らかに過剰だ。凶悪な面相の歪み方は、そのまま、この店が何か、外へ知らしめたくない事を抱えている証拠である。

「何故、男だと断言――」

「違うんだよ、〝音〟が! 骨だの肉だのの形で、響いてくる〝心音〟が違うのさ! この役立たずと来たら……ぁあ、ええぇいッ!」

 桜の言葉を遮り叫び、廊下を壁ごと切りながら、薙刀を真横に振るう老婆。屈みこみ、脇差の背で刃を受け止め、流す様に反対側の壁へ押し付ける。屋内で長大な得物は向かぬ筈だが、老婆にはまるで関係無い事であるかの様だ。一方で桜は、隣に立つ葉隠はかげが邪魔になり、背中の大太刀を振り回せない。
 焦りは顔に出ずとも、心音に反映される。それを、老婆の耳は聞き落とさない。『聞く』事に特化した異能――特化能を持つ老婆ならば、板の向こうに居る人間の数、体躯など、手に取る様に分かる。心臓など祭りの太鼓も同然、数件先に引きこもっていようが――という訳だ。
 自分が優位に立っていると感じとった老婆は、愈々薙刀を、暴風の如く振り回す。屋根が落ちたかと錯覚せんばかりの高さから、重く響く斬劇。桜は容易く受け止めている様に見えるが、足元の板が耐えきれていない。少しずつ立ち位置をずらしているが、その内に床が抜け、身動きが取れなくなるのは必然。

「――さっぱり分からん、お前達の言う事は!」

 然し、腕は動くのだ。脇差で刃を受け、すぐさま柄の端を掴み――長く掴んでいては浮かされる、一息、握力任せに圧し折る。

「んがっ!?」

「男だ女だ役に立つだ立たぬだ、そんな事がそうも大事か!? 堕ろせと言う方も大概だが、従うお前もまるで分からんわ! 少しは抵抗しろ、ど阿呆!」

 腹の子を堕ろすという事は、ただ赤子の命を奪うという事ではない。母体をも危険に晒す、という事である。西洋医学はまだ日の本に、完全には根付いていない。まして、母体の意思を問わずの堕胎――好んで行う医者などおるまい。結果、半端な知識と技術を持つ物だけがその職に従事し――後は、推して知るべし。桜の怒りは、未だ生を受けぬ赤ん坊の為ではない。己が身を愛さぬ遊女の為、母となる者を労わらぬ老婆へ向けられた物なのだ。
 薙刀の先を折り取られ、僅かだが怯んだ老婆を余所に、桜は葉隠はかげの胸倉を掴む。氷の面貌が怒りで溶け――それに僅かに、暗色が混ざった。

「他人の言うまま自分で考えもせず、僅かに一時悩む事もせず、己の身を捨てるな! どうしても子を殺して死にたいと言うなら、私が念入りにやってやるぞたわけ! ……村雨、任せた!」

 片手で葉隠はかげの体を浮かせ、老婆から庇うように床に置き――それを待っていたかの様に村雨が、腕を引っ張って走る。葉隠はかげは何かを言い返す前に、店の外へと連れ出された。

「まーったく、無い物ねだりも良いところだ……おい婆あ! 八つ当たりとは分かっているが、お前は本気で殴る!」








 片や、店の外。行き交う遊び人達の視線が、流行りの店から転がり出てきた二人に向けられ――そして直ぐ、巨大なサイコロでも転がしているかの様な賑やかさの、暖簾の向こうへと向けられていた。

「……なんなんだい、説明しておくれよ」

 無理に店の外へ引き出された遊女、葉隠はかげは、唖然とした顔のまま、村雨に訊ねた。

「いや、私に言われても」

「じゃあ誰に聞けば良いんだい」

 途中から葉隠はかげの手を引いて走ったのは、誰であろう村雨なのだ。彼女に責任の一端が有ると、葉隠はかげが考えるのもおかしなことではない。

「んー……やっぱり、桜に? 私はただ、桜のやることを手伝っただけだからさー」

 然し彼女は無責任に、腕を頭の後ろで組んで答えた。葉隠はかげの息が整うまで、次の行動に移るのを待っているらしい。

「なんだか分からないけどさ、桜が結構本気で怒ってたから……いや、怒ってたのかな、うん、怒ってた。あなたになのか、あの大きなお婆さんになのかは分からないけど。どっちにしても危ないから、逃げて正解だと思う」

「……危ないっていうのは、つまり」

「つまり、巻き添えで殴られたり切られたりしたら困るから。お母さんになるんでしょ?」

 そう言ってから村雨は、口を滑らせたとばかりに、表情を強張らせた。一方で葉隠はかげ自身は、諦観が浮かぶ顔付きであった。

「ならないよ、大婆様のお言いつけだ。さっさと堕ろしちまえば、次を抱えるのは……上手くいけば来月で済む。そうすりゃあ――」

「迷ってるんだよね?」

 村雨は、葉隠はかげの前でしゃがみ込み、目を閉じ、まだ膨らみの薄い腹に耳を当てる。ただ一言返されただけで、葉隠はかげは何も言う事が出来なくなった。それは、図星とはいえないかも知れないが、否定も出来ない事だったからだ。

「本当はさ、多分もうちょっと前に気付いてたんじゃないかなー……って思うんだ。これくらい育ってたら、やっぱり分かるものじゃない? もう心臓の音が聞こえてるもん。
 ……それとも余計な事をしたのかな、ごめん。桜は多分謝らないと思うし、私が代わりに謝る」

 人材派遣業『錆釘』は、あまり仕事を選ばない。だから村雨も、様々な仕事の裏を、必然的に知ってしまっている。遊女が子を堕ろすのは、子が憎いからではない。そうしなければ生きていけないという事情も有るのだ。他人がおいそれと口出しできる事ではない。当人でさえ、己の意を通せるとは限らない。

「……あたいにどうしろって言うんだい」

「それも桜に聞いて、また胸倉掴まれると思うけど……私は特に希望は無いよ。私が良いと思う事でも、押し付けられる程、ずうずうしくは出来てないから。でもね、参考にしてくれるんなら……誰も死なないのが一番かな」

 それでも、例えこの世界の光を浴びた事が無いものでも、人は人なのだ。人が死ぬ、それが嫌だから、村雨も迷いなく葉隠はかげの手を引いたのだ。

「考えてみてちょうだい。選ぶのに邪魔になりそうな人は、ほら、ああなってるからさ」

 薄明も霞み、夜の帳。俯いた葉隠はかげの顔は名の通り、影に籠って見えなくなる。それを持ちあげさせたのは、妓楼に向けられた村雨の指。
 灯篭が照らす妓楼の壁に、蜘蛛の巣状に罅が入る。ごうん、と除夜の鐘の様な音が鳴って、老婆の巨体が通りに投げ出された。

「……こいつなら、加減せんでも死ぬまい。考えようによっては楽でいい」

 両手の骨をガキゴキと盛大にならし、塵煙の中、雪月桜が歩み出る。氷像の如く冷え切った面貌は常の事だが、固く引き絞られた口元が怒りを叫んでいる、それを村雨だけは見逃さなかった。








 彼我の力量差があまりに大きければ、その戦闘を客観的に見た場合、それはとても戦闘と呼べる代物でなくなる。巨躯の獅子が鼠を貪り喰らう、大蛇が鳥の雛を飲む、一方的な蹂躙、暴虐と成り果てる。
 桜と老婆の戦闘は、丁度その様な、強者から弱者へ一方的に与える暴力であった。

「ぉお――っ、らあっ!」

 防御も何も考えずに踏みこみ、力任せにぶん殴る。あまりに振りが大きすぎる為、老婆の防御は楽に間に合い――そして、何の意味も為さない。薙刀の柄は真っ二つになり、拳はそのまま、老婆の腹を打ち据えた。

「ぎええぁっ――!?」


「そーうら、っさあぁ!」

 くの字に折れて地上に近付いた顎を、次は背足で蹴り上げる。膝を肩まで振り上げる蹴りの軌道は、その見栄えに、通行人がおうとさざめく程だ。打ちあがる頭に引っ張られ直立した老婆の腹に、今度は左右の拳で一度ずつの突き。肉を打つ音は、濡れた布を振り回した際に、空気が布を叩く音に似ていた。

「――っくぁ、かぁ……けぇええーいぃ!」

 老婆は恐ろしく頑丈である。脚をがくがくと震わせながらも、刃を失った薙刀――つまりはただの長い棒――を、桜の喉目掛けて突き出した。鍛え抜かれた背筋、数十年の研鑽によるものだろう技量を併せた一撃は、枯れ木なら貫通するだろう威力を秘めていた。
 桜は、受けない。掴んだり止めたりする事はなく、素直に横へ動いて突きを避けた。一度だけ太刀の柄に触れ、手を離す。老婆の耳に、キン、と鍔鳴りが届くや――手の中の棒は、四つに斬り分けられていた。寸拍遅れ、老婆の指から血の飛沫があがる。

「ッヒィイッ!?」

 骨は切断されていない。腱も繋がっているだろう。丁寧に、皮膚と肉だけが斬られた。
 痛めつける為でしかない無益な傷だ。怒りの発露――にしても悪辣、然して絶技。もはや老婆に、戦闘の意思は無かった。身を翻し、己の預かった店をも投げ売って、巨体に合わぬ速度で通りを掛けていく。

「桜、どうするの!」

 捕えるのか、見過ごすのか。何れの答えが返ろうと、村雨は直ぐに動ける体勢でいた。彼女もまた、あの老婆のやり口は気に入らない。灸の一つも据える程度なら、やり過ぎに当たるまいと構えていたのだ。だが、桜は追う姿勢を僅かに見せ――直ぐに、首を左右に振った。

「元々、私達の仕事ではないからな。美味い所だけ食う奴が来た」

 怒りが醒めきらぬ面構えだが、口角の角度が和らいだのは、慣れ親しんだ気配を見つけたからだろう。呆れた様に溜息を付き、右の瞼を中指で掻いた。

「そうそう、泥臭いのはお前、華の舞台は私。鮮烈に、華美に、そして――」

 人の群れを一瞬で割り、夜から影が抜け出した。老婆の行く手に立ちはだかり――その足を、目一杯踏みつける。ぎゃっと悲鳴を上げて老婆は立ち止まり――影、松風左馬は、もう一歩だけ歩を進めた。

「豪壮にっ――『応』ォッ!」

 腰を落としながら踏みだされた足が、小さな地鳴りを生む。前進する力に『落下する力』をその場で加え、果ては脚力までも、全ての関節を通じ、右手の先へ。爆発的な息吐きと共に、右掌が老婆の胸の中心、胸骨に突き刺さった。
 異音が響いた。村雨は、坂道を荷車が転げ落ち、下の塀にぶつかった光景を思い出していた。人と人が生む音ではない。人の群れに紛れれば消えてしまう様な女がたった一歩の踏み込みで放った一打は、城門を打つ破城槌の如き破壊力で、老婆の巨体を数間も吹き飛ばしていた。
 七尺の巨体が、毬のように跳ねる。野次馬を何人か巻き込んで、老婆は大の字に潰れ、血混じりの泡を吹いていた。

「状況は確認しないで動いたけれど、これを引っ張っていけば良いんだね、桜?」

「多分な。間違っていても責任は取らん」

 やはり似た者同士。己を疑わず、仮に過ちが有っても省みない。拳を打ち合せて仕事終了を祝す二人を余所に、村雨はそっと、葉隠はかげを連れて『錆釘』の事務方目指して歩き始めていた。
 結果だけ見るならば、遊女を妓楼から連れ出して、追手を叩き伏せるという無茶苦茶振り。自分達だけで丸く収められる事態ではない。事務方から散々に嫌味を言われるのだろうと思うと、着慣れぬ男物がより重く感じられて、村雨は乾いた笑いを零した。
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