烏が鳴くから
帰りましょ

信仰のお話

 深夜、ウルスラは一人で思索に耽っていた。
 いや、彼女にはそもそも、思索するという行為は難し過ぎる。なんとなく、ぼんやりと、考え事をしていたという方が正しいだろう。
 手には一振りの短刀。十字架を模した柄には人の脂が染み込み、刃は骨に当たってところどころ欠け、ただの装飾品としてしか使えなくなったもの。〝拝柱教〟の暗殺者が、教団から与えられて使う武器だ。
 この短刀は、決して質は良くない。だから、定期的に教団側から、新しい物を支給される必要が有る。古い短刀と引き換えにそれを受け取り、教団側は短刀の交換数を記録し、信者の篤信の証とする。
 幼い頃、自分の名前もはっきりと口に出来ず、年齢も定かでない頃、ウルスラは教団に拾われた。洗礼名一つを与えられ、それなりに恵まれた環境で、魔術と暗殺術を、そして大聖女エリザベートへの信仰心を叩きこまれた。日の本に於いて本格的活動を開始する十年以上も前から、拝柱教は土台固めをしていたのだ。
 別段、身につけなければ命が危ういとか、そんな切羽詰まった状況だった訳では無い。出来が良ければ褒められるが、それに依存する程、居心地が良かった訳でも無い。ただ、当たり前だからと、その行為を続けていただけである。
 命じられるまま、何人も殺した。透明化と陰形の術には長けていたから、無防備な所に忍び寄り、さくと喉を掻き切れば仕事は終わり。血飛沫や死に際の顔が不快だから、決して殺しは好きではないが、所詮は食べ物の好みと同程度の好き嫌いだ。
 それが人間だろうと考えていた――いや、考えはしないが、おかしいとも思っていなかった。ところが奇妙な事に、今の旅の同行者は、人が生きる死ぬで長々と問答を重ねているのだ。

 まずは、雪月桜という人間を思う。人を殺す事に対し、何ら抵抗を持たない――そう言った面では、ウルスラと同類と呼んで良いだろう。
 その気になれば簡単に人を殺せるだろうし、それを示唆する発言も多い。だが、ウルスラがこの二人の旅に同行してから、彼女は一度も人間を殺害していない。
 例えば、坑道の一件にしてもそう。自分に危害を加えた人間は、逆恨みからまた手を出されないように、確実に葬っておくべきなのだ。少なくともウルスラはそうならった。だが桜は、遊興の為にはした金を揺すり取っただけであった。
 箱根でも、拝柱教の暗殺者や武装信者を、酷く痛めつけはしたが誰も殺していない。殺されなかったからこそ、ウルスラはここに居る。
 何故、楽でない道を選ぶのか? 殺せる相手なら殺した方が、後の憂いも無いのでは?
 また思うに、彼女は神の教えについて一定以上の知識を持っているが、その実は神などまるで信じていないのだ。
 亡霊だ何だと超自然的な存在は、魔術と同様に実在する事は、もはや常識となっている。ならば神が居たとしても、何も不思議は無いだろう。なのに桜は、芯から神など無意味無価値と、存在を否定している。
 そうまでも神を――嫌う、と言って良いのだろうか。嫌悪し、嘲り、然して神について考える事は止めようとしないし、その考えの一端をウルスラにも説く。
 彼女は、桜は何故、合理を嫌わぬ癖に、殊更に合理から遠ざかる事を続けるのだろうか?

 また、ウルスラは、村雨という亜人を思う。狩る側の生物として生まれ、その為の凶器も狂気も備えておきながら、人が殺される事を激しく恐れ――いや、その言い方は妥当ではない。
 彼女は、人が人を殺すという行為、それ自体を忌み嫌っている。人の死体を見るだけならば、気分は良くなくとも耐えられるらしい。
 全くおかしな話だ。彼女にとって人間の死体とは――こう言っては何だが――美味な食料では無いのか? 自分とは別の生き物が同族を殺していた、それが何故、彼女には耐え難い出来事となるのだろうか?
 彼女の種族、人狼は、強者に喰らい付く事を喜びとする種族だ。生まれついての殺戮者、自然が設計を間違えた殺人者。個人としての資質がどうあれ、彼女の心の奥底には、殺しに対する渇望が渦巻いている筈だ。
 その証拠に――あの時、桜を拳足で打ち据えていた村雨は、ウルスラが止める事を躊躇ってしまう程に楽しげだったのだから。
 殺す手段を持ち、殺したいと願い、だが殺さない。他人が殺すのを見る事さえ我慢ならない。彼女の思考は、まるでウルスラの理解が及ばない。

 だが、この二人の共通点は、長々と考え続けてやっと見つけた。どちらも、自分が楽になる道から外れ、わざわざ苦労と苦痛を重ねているのだ。
 殺さない戦いの方が苦手な癖に、太刀も抜かず拳を振るい、結果、無意味に苦戦する桜。殺したいくせに、本能の叫びを理性で押し潰し、日夜煩悶する村雨。彼女達を見ているに付け、ウルスラの中で、一つの思考が膨れ上がっていく。

「……試してみれば、分かるのでしょうか」

 これまで、特に何を思う事も無く繰り返してきた殺人行為を、明確な自分自身の殺意で遂行する。そうすれば自分も彼女達の様に、殺人を厭うようになるのだろうか。
 試してみたい。誰を殺そうか。何気なく短刀を放り投げ、掴み、また布団に仰向けになる。
 とある宿の夜。隣室では桜と村雨が、すう、と寝息を立てている。襖を開けてみようかと、好奇心が疼いて、結局はやめた。








 浜松での蜘蛛騒動の後、桜一向は、一つの宿場につき一日という鈍行で旅を続けていた。
 この速度でも九月の頭には、京に辿り着く計算なのだ。やはり、旅の序盤に急ぎ過ぎた感が無いでもない。此処から先はもう少し余裕を持って、一つ一つの街並みを堪能しようという訳だ。
 さて、ここは赤坂宿。男旅人の心の癒し、飯盛女の多く集う町である。そういう町であるから、自然と宿は多くなり、商店が増える。東海道中にも、こう賑わっている宿場は、そう多くは有るまい。
 昔堅気の江戸の町から随分と離れ、ハイカラに染まった京に近付いただけはあり、町並みは鮮やかで華やかである。赤い煉瓦作りの洋風建築の前には、小袖の上にエプロンを重ねた娘の呼子に、男どもが鼻の下を伸ばしている。肩で風切る粋な若者は、袴に革の靴を合わせ、髭の無い顔に釣り合わぬ山高帽を載せている。馬の代わりに人が車を引いて、ロングスカートで色目を振りまく町遊女を運んでいった。

「うーむ、華やか華やか。生き馬の目を抜くのは、江戸の特権とばかり思っていたぞ」

 五人に一人は洋風の装いにある町の中、普段通り黒一色の和装で、桜は上機嫌に歩いていた。この町の活気は、宿場の性質的にいかがわしさを孕んでいて、それが堪らなく心地好いらしい。女の身故、袖を引かれて宿へ連れ込まれる事は無いが、様々の艶華を眺め愛でるだけでも、釣り目が垂れる程に楽しいようだ。
 だが、弛みきった表情とは裏腹に、左手は脇差の柄に乗り、刀身を半分程露出させている。物騒な事と言ったら、擦れ違った飛脚がぎょっとして、数歩行ってから振り向く程である。

「もう、しゃきっとしてよー……着いてくるって言ったのは桜なんだからさぁ」

 小言を言うのに慣れてしまった村雨は、だが今日は、不貞腐れた様な表情はしていない。程良い緊張で引き締まり、幼げな顔に精悍さを添え物としている。昂っているが足は地に着いている、と言ったところであろうか。実を言うとこの一向、これから、とあるヤクザ者の屋敷に殴り込みを掛けに行く所なのである。



 この町に着いてすぐ、『錆釘』の支部に立ち寄った村雨は、丁度良いからと仕事を依頼された。町の鼻つまみであるヤクザ者の屋敷に忍び込み、抜け荷をしている証拠を盗んでこい、というものだ。ヤクザという連中は、権力と絡み合っているのが世の常。役人も下手に動きが取れないらしい。
 御禁制の品を運んでいると証拠が出れば、多少の悪事は見過ごしていた役人も、重い腰を上げる必要が出てくる。探し物得意の村雨には、持ってこいの仕事であった。
 だが、そこで口をはさんだのが、他でもない桜である。

『面倒だな。屋敷ごと潰してはいかんのか?』

 誰もそんな事を考えなかっただけで、確かに、そうしてはならない理由も無い。下手に力を持っているから手出しできないのであって、爪も牙もへし折ってしまえば、縄を掛けるなど容易い事だろう。問題は、食客数十人を抱えるヤクザの屋敷に、誰が踏み込んで行くかという点だけだ。

『私にやらせろ、良い運動になりそうだ。まあ心配するな、殺しはしないから』

 構成員への福利厚生はしっかりしている『錆釘』だが、外部の物好きがどうなろうと知った事ではない。赤坂支部受付の娘は、頭の箍が外れた様な笑みを見せて、

『あー、うー、えーっとね、それじゃあね、それでいいよ。いってらっしゃーい』

 こんな所でも西洋被れ、ハンカチを振って一向を見送った。



「あーあ、穏便に済ませられそうだったのに……なんでまたこんな変な事言いだすかなー……可哀想に」

 村雨も、此処まで旅を続けてきた以上、今更桜の心配も自分の心配もしない。寧ろ、数で覆いに勝るヤクザ者に、同情さえする始末だ。常識的感覚から随分と外れてきたが、然し当人はそれにも気付かない様子である。

「後に憂いを残して町を立つより、悪事を根から断つ方が早かろうが。まあなに、怖ければ屋敷の外で待っていれば良い」

「そしたらあなたが何をやらかすか分からないじゃん、もー……程々にしといてよ?」

 軽口をたたき合いながら、建物の間から覗く、広い屋根を見やる。瓦がずらりと並んだ屋根は、古き良き和の、豪勢な屋敷のものである。あの下には、ドスを持った刺青衆がたむろしているのだろう。桜は愈々上機嫌であった。

「所詮はヤクザ、腕の三本も折る程度なら何も言われまい。なあ、ウルスラ?」

「…………え? あぁ、はい、そうでしょうね」

 二人から後ろに数歩離れて、地面を見つめながら、ウルスラは歩いていた。名前を呼ばれてから僅かに間を開けて、首を持ち上げ、煮え切らない返事をする。

「どうした? お前の事だから、腕は三本もありません、と言いだすかと思ったが」

「……そうですね、三本も腕が有っては着物に困るでしょう」

「そうそう、その調子だ。今日はどうした、やけに静かだぞ?」

 いえ、と生返事を返して、ウルスラはまた、地面と自分の足の甲に視線を落とした。








 ぐるり張り巡らされた塀を、乗り越えても叩き壊しても良いのだが、敢えて桜は正面門から抜ける。この時点でまず、村雨が異変に気付いた。

「……血の臭い」

「ヤクザ者の屋敷だからな。別に珍しくもなかろう」

 最近のヤクザは賢くもなっているが、いざとなれば武力に訴えるのが彼ら。ドスの脂は落ちる間も無しであろうと、桜は意にも介さず答える。

「違う、濃過ぎるし新しい……何人分の血か分からない」

 村雨は、横に小さく首を振った。桜は反射的に、背の大太刀を右手に、脇差を左手に抜いた。
 離れて見ていても、まるで異変は目に映らない。だが、屋敷の中では、どれ程に凄惨な光景が繰り広げられているのだろうか。村雨の嗅覚は頭蓋の内に、死屍累々を想像させる。
 数十人の食客――刃物使いから魔術師から、多芸多才――を、相手取ろうなどという無謀、そも桜以外に居るという事も、村雨の心胆を寒からしめた。

「他には分かるか?」

「火薬の臭いは無い、けど焦げた臭いはする。魔術師かも知れないし、それがどういう人間かは分からない」

「上等だ、行くぞ」

 銃器爆薬さえなければ、魔術の備えはウルスラに任せられる。刀も槍も拳も、桜はまるで恐れていない。恐れてはいない、が――今回は、最大限の警戒を払う。
 足音を完全に消し、地を滑る様な足取りで、玄関ではなく縁側に回り込み、屋敷に入った。
 ――然しながらその発想は、名も知らぬ襲撃者と同じだったらしい。

「背後から一撃、辛うじて生きているな。頭の形は変わったが……獲物は、杖か?」

 障子に凭れかかる様に、背の刺青を開帳した男が倒れていた。身を守った形跡もなく、暴れた形跡もなく、後頭部が陥没する程に殴りつけられている。傷口の形状から襲撃者の武器は、金槌の様な一部分が突き出した形状のものではない、と判断した。
 土足のまま、障子を開け、奥へ進もうとする。近くの襖から、異常なまでの熱気を感じた。太刀の切っ先を向け、突きを入れて切り裂こうとすると、村雨が手を翳して制止した。

「待って、危ない。この向こうから、焦げ臭い臭いがする……煙は立ってなかったのに。多分、開けたら一気に燃え上がる仕掛けなんじゃないかな、火事の時ってそんな事が有るらしいから。それから、うぁー……」

 部屋の中に、生きている人間の気配は無い。焦げ臭いと村雨は言うが、桜の鼻では分からない程度――つまり、外へあまり漏れ出してきていない、という事だ。

「まだ、何かあるのか」

 訝しげに、桜は太刀を引く。近くに、動く物の気配は無い。

「……すっごく、こんがりと美味しそうな臭いが、この部屋からしてる。ここ、絶対に厨房じゃないからね」

「よーく分かった」

 それ以上、焦げ臭い部屋に拘泥する事は無かった。
 挨拶も無しに上がりこんだ屋敷だが、廊下を歩いていても、誰に咎められることも無い。そして、屋敷のあちらこちらの部屋で、村雨は同様に食欲をそそられる臭い――それは、彼女にとっては、と注釈が付くが――を嗅ぎ取った。
 つまり、この屋敷の食客達は、縁側の一人を除いては、部屋に居る所を、生焼けの箇所を残さずに焼かれてしまったという事だ。紙の襖も木の梁も、おそらくは畳さえ燃えていない。屋敷自体は無傷である、というのに。

「ウルスラ、難しい術か?」

 襲撃者の意図がまだ掴めない以上、その技量の程を推測しておく必要はある。視線は前方に向けたまま、背後に控えるウルスラに訊ねる。

「いいえ、私は出来ませんが。特別に訓練を受けた、所謂魔術師と呼べる程の術者なら、時間さえ掛ければ誰でも実行できるかと」

 嫌悪も驚愕も浮かばない、常の表情でウルスラは答えて、

「……一部屋につき、用意に四から六時間……一般的に言うなら、二から三刻。燃やされた部屋は八つ有りました、不眠不休でも二日がかりですね」

 効率が悪い方法です、と付け加える。気の長い話だと、桜は呆れ果て、キツい目を更に細く吊り上げた。
 生きている何者かが居るとは思えなかった。数十人分の焼けた肉が芳しく、また、焼け爛れた皮膚から滲み出た血液は、錆びた鉄釘の臭いを発していた。死体に付き物の腐臭は無い。だから、寧ろ村雨に取っては、居心地がよい場所だと言う事が、酷く居心地悪い思いをさせた。
 だからだろうか。その中に――僅かに、だが――動き回る臭いを見つけた彼女は、弾かれた様に、廊下右手奥の、薄暗い部屋を指差した。

「あっち、誰か居る!」

 するり影を縫う様に、板張りの廊下を音も無く、桜は指の向いた方へ走る。部屋に踏み込み、だが争う音は聞こえない。村雨とウルスラが追い付いた時、桜は部屋の入り口に立ち尽くしたままで、奥まで踏み入ってはいなかった。
 部屋の中には、二人の先客が居た。一人は、顔に大きな傷が有る、如何にもな極道の大物と言った風情の男。衣服は豪奢に鮮やかなのだが、贅を尽くした刺繍は、赤黒く汚れて見るも無残な様だ。当然の様に、男自身の血であった。屋敷の主、近隣のヤクザ者を束ねる大親分。その肩書も、顔を潰されて仰向けになっていれば、虚しいばかりである。
 もう一人、そこに立っている男が、きっとこの屋敷への襲撃者なのだろう。それが――あまりにも、威圧感に欠けていて、桜は拍子抜けをしていたのだ。

「……おや、おや、おや。見た所ではこの国の者の様だが屋内で下足履きのままとは、これはこれは田夫野人の所業と呼んで差し支え有るまいね。玄関に戻り靴を揃えて来るが良い、お前達の為に靴を取る殉教者は生憎とこの世に生まれ落ちてはいないのだから」

 アルバと呼ばれるローブを纏っているが、その色は、喪に服すかの様な黒。首にストールを掛け、胸に十字架を吊るし――そう、一呼吸で長広舌を振るった男は、疑うべくも無い、神父の格好をしていた。あまり背の高くない、日に焼けた、そして髭を剃って数日放置した様な顔の男だった。

「あ――あなたが、こんな事を……?」

 男からは、まるで恐怖も威圧も感じない。桜ばかりではなく、問いを投げた村雨も、同じ感想を抱いていた。本能の領域で、この男は恐れるに足りないと、そう判断していた。
 有り得ない事だ。この現場に居合わせたのなら、屋敷の惨状を生んだのは、まずこの神父である筈なのだ。数十人を焼き殺した男が、危険でない筈は無い。

「こんな事、こんな事とは何か? 成程確かに其処で横たわっている彼は、天にまします我らが父の教えに従わぬ暴と愚と醜怪悪嫌を究め尽くした者であったからこそ、私がこの手で地の獄の炎に投げ込む寸前だ。だが然しそればかりで他の全ての殺人までを私の仕業と見做すは、救国の聖女を魔女と断じたが末に辱め辱めて殺した愚王達と同列の呆け振りとは言えないかね?」

「気が早いな、神の僕。私も私の連れも、この屋敷に死体が有るなどとは知らんぞ?」

 神父の手には、メイスなどと呼ばれる、金属の棍棒が握られていた。重量の割りに振り回しやすく、強度は高く、防具の上からでも人を殴り殺せる凶器。縁側で倒れていた男の傷は、間違いなくこの凶器による物であろう。そう断定した桜は、軽い嘘を付いて、神父を揺す振ろうとした。

「それは、それは失敬。地獄に落ちる前に焼かれた死体が、この屋敷には四十と七も存在するのだよ。路上の金貨は数分で拾い上げられるが、よもや屍のたった一つにさえ気付かず此処まで踏み込んで来よう楽天的な眼球と脳髄を持った人間が三人も居ようとは思ってもみなかったのでね」

 かまを掛けるまでも無く神父は、几帳面に数えたらしく、焼き殺された者達の数を答えた。頬を捻じ曲げ肩を上下に揺らし――笑っているのだろう――顔の腫れあがった男の横にしゃがみ込む。

「さて、さて、さて。ところでお前達は役人か托鉢僧か物乞いか強盗か、それともこれまでの怠慢を恥じて私を地獄へ連れていこうと思い立った死神と悪魔の一向かね? 死神であるならこれは連れていって貰って結構、既に聞くべき事は聞き出したのだから。役人であるなら我らが父の御名に於いて、お前達の立身出世に大いに役立つ手柄を授けてやる事もやぶさかでは無いが、どうするね」

 頬骨は内側に陥没しているが、肉が膨れて空洞を埋めている、極道の男。彼の髪を掴んで首を引き上げ、神父は笑みを消し、真摯な表情で尋ねた。

「……どれでも無いよ。強いて言うなら役人の側に近いけど……その手、離してよ」

「うん? これは、これはまた善良な少女も居たものだ。おそらくお前の目的も私の目的も、最終的に至るところには全く食い違いが無いと思っているのだがね。紆余曲折の末に殺すか私がこの場で殺すかの違いなど、せいぜいが数十日の時間と数百人の徒労しか生まぬ下らぬ下らぬ下らぬ誤差だろうよ。……おお、おお、そう牙を向くな野の獣、私は人を殺める事は有っても獣殺しは慣れていないのだから」

「――っ、このお喋り……!」

 対象がどんな悪人であれ、目の前で人が殺されるのは見たくない。警告した村雨の表情は、相手が自分より弱いだろうという直感も有って、かなり凶暴なものだった。神父は変わらず立て板に水で、その口ぶりは、村雨の灰色の髪を揶揄している様にも聞こえた。
 男の髪から手を放した神父は、だん、と床を踏みつける。静寂を作る為か。人前で話す事には慣れている職業なのだろう――彼の衣服が、飾りでないとすれば。

「怒るな、怒るなと言っているのだ。……さて、重い腰をようやく上げた役人でないとするならば、役人に手柄を売りつけて小遣い銭を稼ごうという悪童共と認識をしても大きな間違いではあるまいな。ならばだ、娘。そこの壁、仙女と菩薩と聖母の同居する奇妙な絵の裏の壁だ。5603」

「は……?」

 長広舌が、後半だけ速度を落とし、聞き取りやすい声に代わる。神父が顎で示した方向には、確かに、宗教を幾つも混ぜた様な掛け軸が飾ってあった。めくり上げると、壁が削られて凹んでおり、そこに金庫がめり込んでいた。西洋式の、数字を合わせると扉が開く、頑丈な金属製の品だ。
 5603、村雨は、神父が告げた通りにダイヤルを回す。かち、と金具が外れた音がして、軽く軋みながら、金庫の扉が開いた。

「わ、うわ……凄い、何これ……!?」

 金庫の内容物は、山積みにされた金塊、宝石、それに巻き物であった。貴金属相場は村雨も詳しくは無いが、これだけあれば船団が買えるのではとさえ思える目方である。薄暗い部屋でも、外から入り込んだ日光に照らされ、金庫の中は輝いていた。
 巻き物を手に取り、開く。人名、地名、数字の羅列……僅かに見ただけでは意味が通じないもの。だが、その中に紛れこんだ符丁、これならば村雨も解読できる。巻き物は、これまでの商取引の記録と、これから荷を運ぶ場所、荷の量、受け取る金子、受け渡しの手筈などを書き記した者であった。
 荷として挙げられている品は、銃器や西洋の絵画、壺、古刀剣から、政府も幕府も輸入を認めていない動物――珍獣も居れば、二本脚二本腕の喋る種族も居る――まで。
 が、特に毒々しく村雨の目に飛び込んだのは、『阿片』の二文字であった。達筆で綴られていたが為に、無機質にも見えるその自体が、まさしく他人事の様で、背に怖気が走る。

「全く、全く時代遅れの抜け荷だとは思わないかね灰色の獣。西洋の大帝国に於いては栽培すら罪とされ、周辺の小国も帝国の圧力を恐れて同様の措置を取り、僅かな切れ端を持ち歩くだけで投獄の対象と成り得る前時代の異物だとも。斯様な品を何処で作っていたのかは知らないが、文明国の仲間入りを目指す日の本の政治家先生方に於かれましては、大路の中央に横たわる病人よりも尚嫌悪し唾棄すべき最低の嗜好品だろうよ」

「酷いね、これ……」

 言葉も無い、というのはこの事であろう。日の本ではまだ知名度が低いが、大陸で生まれた村雨は、阿片がもたらした悲劇を聞き覚えている。新たな土地に足を踏み入れて、原住民に遭遇した人間が、美酒と並んで用いた悪魔の通貨。労働力を、土地を根こそぎ奪い、抵抗する意思を健康な体と合わせて奪い、人として壊して打ち捨てる。世界全てが憎むべき悪徳、そのものが阿片なのだ。

「では、では、では。ここに居ると言われも無い罪を被せられてしまうという事をお前達から学んだのでね、私は私の有るべき屋根の下に戻る事としようか。私は極めて残念な事にここの屍達へ捧げる祈りを持ち合せていない、可能ならばお前達で適当に地獄での平安を祈ってやってはくれないかね? アーメン」

 最後に神父は、メイスで十字を切った後、倒れ伏した男の頭に、それを振り下ろそうとした。手は半ばまでも進まず、桜に掴まれ、制止される。

「悪いが、私の連れは殺しが嫌いでな。遠慮してもらう」

「殺しが好きそうな顔をして、お前は良くも似合わぬ台詞を吐きだせたものだと関心はするがね。肌の下まで染みこんだ血の臭いに、獣は惹かれて群がると知るべきだ、黒い娘」

 極道の男を殴り殺す事は、今度こそ諦めたのだろう。桜達の土足を咎めた神父は、自分自身も靴履きのまま、廊下を軋ませて去っていく。
 桜は、その背を怪訝な顔つきの侭で見送って、

「……あいつ、弱すぎるな。んん……?」

 腕組をし、首を捻り、難問を前にした寺子屋の生徒の様に唸る。
 その後ろで村雨は、役人を呼ぶ為と、そろそろ同じ臭いばかりで麻痺しかけてきた鼻を戻す為、屋敷の外へと駆けだしていた。
 そして、ウルスラは。

「弱いですか。そうですか……ふふ」

 桜にも村雨にも、何も告げずに姿を透明化し、歩いてその場を離れた。小さく零れた笑い声は、それが何年ぶりかも忘れる程で、彼女自身を驚かせた。誰にも見えないが、無感動な人格に似合わず、期待を一杯に示す類の笑顔であった。







 ヤクザ屋敷が壊滅させられた件が『錆釘』から役人の元へ伝わるや、赤坂の宿場は俄かに、酒樽を逆さにした様な大騒ぎとなった。検分の役人も、殺しの調査に長けた者から、家探しに長けた者から、暗号解読に長けた者から、兎角多分野で掻き集められている。
 瀕死の者が二人、焼死体が四十七。平時ならばこの虐殺の調査に力を入れる所であったのだろうが、被害者が極道の者達である事、彼らが抜け荷に携わっていた証拠が見つかった事から、おそらくは役人達も、法の裁きをせっかちに代行した誰かを、力を入れて探しはするまい。役人達はそれよりも、今回の件で発見された書簡を辿り、阿片密売に携わる者達を芋蔓式に捕まえてやろうと、正義の意気込みを燃やしていた。

「……分からんな、どうにも。擬態か、いやその様にも見えなかったが……いやいやいや、もしかすると」

 さて、これから夜を徹して調査に従事するだろう彼らを横目に見ながら、桜は相変わらず、眉間にしわを寄せて唸っていた。

「どうしたのさ、さっきから? なんだか、ずっと変な顔をしてるけど」

 横を歩く村雨は、その表情を大仰に真似て、それが奇妙に映る事を主張する。

「いや、な。先程の神父の事だ」

 途端、村雨が露骨に嫌そうな顔をしたが、桜は構わず続ける。

「どう考えても、あれが強い様には思えんのだ。少なくとも、数十人を相手取って、傷一つ負わずに勝てる様な腕利きにはな。お前も、そうは感じなかったか?」

「それは、うん……うん、思った。あの神父、そんな強くないよ」

 足捌き、目の配り、立ち方。声の質から窺える胸筋の強さ、武器を握った手の馴染み方、そして何より覇気。何れを取ってもあの神父は、せいぜいが町のチンピラ風情と大差無かった。それが、桜と村雨の共通見解である。
 では、彼は魔術師として有能なのか? ウルスラが言うには、それも否。彼が使ったとおぼしき術は、どう考えても効率が悪い、まともな術者なら決して選ばない様な手段であるという。
 成程、道理だ。わざわざ部屋が焼けないように調整して、そして獲物が全て屋内に居る時を見計らって発火させるなどと、考えるだに面倒な事である。それなら素直に踏みこんで、一人一人、魔術を行使して仕留めていけば良い。外へ一人も逃がしたくないと言うのなら、島田宿で杉根智江がやって見せた様に、屋敷を何らかの手段で封鎖すれば良いのだ。

「……だよなぁ。うーむ、それがなぜ……?」」

「むしろ、弱いからこそ、面倒な手段しかできなかったんじゃないの? 普通にやると絶対に勝ち目が無いから、回りくどくても、一回で確実に仕留められる様に、って」

 それも有り得るのかも知れない。が、一端の術者が不眠不休で二日、それがウルスラが見立てた、あの術の敷設に掛かる日数だ。神父が未熟な術者であるとするならば、果たして費やした日数は如何程にまで伸びるのか――?

「そこまでするとしたら、大した執念だ。……だが、頷けるな。あのヤクザ者の長、顔を見ただろう?」

 村雨は左目の瞼だけを、きゅうと絞る様にして目を細めた。あまり気分の良くない光景を思い出したのだ。

「ヤクザ者が怖いのは、容赦が無い事だ。殴りつけ、倒れた所を踏み、立ち上がる途中で蹴り、逃げようとすれば刺す。警告も無しにいきなり喰らいつくから、武芸を嗜んだ者であろうが、あっさり殺される事もある。が――あの神父はどうやら、容赦の無さで極道の上を行ったらしいな」

 襲撃の光景を、桜は思い描く。屋敷が突然熱に包まれて、方々の部屋から断末魔の叫びが響く。何事かと部屋を飛び出したヤクザの親分は、いきなり全力で、顔を殴り抜かれる。金属製の鈍器、まず鼻か頬骨はこの時に折れただろう。反射的に顔を庇おうとして、続けざまに頭に打撃。
 先手を取って二回も殴りつければ、もう意識などまともに残っていない筈だ。それでも殴る。反撃をせずとも殴る。何を問われようとも殴る。皮膚が避け、肉が削げ、骨が窪み、刃を突き立てられたかの様に血が流れようとも殴る。時折は肘や膝も殴りつけ、僅かな逆襲の目すら摘み取る。尋問を始めたのは、きっとヤクザ者の顔が、まんじゅうの寄せ集めに成り果てた後だったのだろう。

「まあ、さっさと忘れてしまえ。なんだかんだと、報酬は満額受け取ったのだ。『錆釘』も中々気前がよいな、うむ」

 背中を叩かれてつんのめりながら、村雨は、まだ納得いかないと言う様な目をしながら、

「……にしても、ウルスラはどこ行ったんだろー……」

 鼻を幾度かひくつかせて、周囲の空気を吸い込み、一人足りない連れを探していた。








 ウルスラは、ヤクザ屋敷を離れてから、ずっと神父の後を付けていた。
 難しい事は何もない。魔術を用いて姿と音を消し、ただ歩いていくだけで良い。気配を感じとる様な芸当は出来ないらしく、一尺の間も開けずに立っても、存在が露見する事は無かった。
 血に汚れた服を、拙い魔術の炎で燃やし、近くの小屋に隠しておいたらしい服に着替える。着替えた後も結局はアルバにストールだが、色は黒から白に変わっていた。
 向かう先は、宿場町の中心から外れた一角。家々の戸口に十字架が多く見られ、敬虔な信徒が集う集落なのだろうと予想出来る。拝柱教などではなく、れっきとした世界最大宗教の、世界最大の宗派だ。一際大きな建物の屋根には、鐘と十字架が取り付けられていて、そこが教会なのだと喧伝している。両開きの扉の前に、何人かの男達が集まっていた。

「神父様! おお、お待ちしておりました!」

「神父様、聞いてください! 実はですね……」

 戻ってきた神父の姿を見つけた男たちは、どこか語気荒く、一斉に喋りながら集まってくる。神父は両手をそっと掲げ、その動作だけで沈黙を促した。

「構わない、構わない。どの様な事であろうが仔細詳細一から果てまで包み隠さず述べるが良いとも。私如きの非才非力で解決できる事柄であるならば、その為に生を賭すことも厭わぬが我ら司祭の務めであると、天なる父はそう定められたのだからね」

 彼の長広舌は、万人に等しく向けられる者らしい。男達も慣れ切っているのか、神父の言葉が途切れた瞬間に捲し立てる。

「あの長助のやろう、またやりました! 暫く大人しくなっていたと思ったのに、盗み癖は治ってなかったらしいです! 二十軒以上ですよ!?」

「落ち着いて、落ち着いて。まずは心を静めて呼吸を整え、彼が今何処で何をしているのかを教えてくれたまえ……いや待て、長助と言ったね? 彼がまた?」

「ええ、あいつです。神父様に言われたから我慢してたが、もう限界だ! あの野郎はさっさと何処かに放り出すべきです!」

 一人の男が叫んでいる間に、別な男が、一人の少年の腕を捻り上げて連れてきた。まだ背も低く、村雨と然程変わらない程度だろう。良い環境で育たなかった者に特有の、擦れて捻くれた目つきをしていた。

「……長助、長助。お前はまた、誰かが労働の末に得た糧を、我らが父に与えられた正当な報酬を邪な手段で奪い取り、不当に肥え太ろうとしたのだね?」

 少年に呼びかける神父には、威圧感という物がまるで無い。耳と心を安らげる力は有るが、悪事を糾弾して挫くには、少しばかり威厳が不足した声だ。少年はそっぽを向き、口笛など吹いていた。
 暫く周囲の者が捲し立てるのを聞くには、この長助少年、窃盗の常習犯であるらしい。これまで三度、盗みの現場を見つけられて掴まり、その度に神父の口添えで許されてきたという事だ。一晩で十数軒の家を荒らすやり口は、神父が庇わなければ、間違いなく袋叩きにされて集落を追い出されていただろう。
 が、四度目だ。被害に遭った家も、これまでで一番多かったらしい。集落の若い男達は、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。

「役人に引き渡す事もない、俺達で世の中の道理を叩きこんでやります。神父様も、それで構いませんね?」

 この集落では、神職にある者は、多大な尊敬を受けているらしい。男達が私刑の前に確認を取りに来たのも、そういう理由であった。
 数十人を殺してきたばかりの神父は、慈悲そのものの発露である笑みを浮かべ、静かに首を振る。

「いいや、いいや。お前達は誰も、その少年に僅かな傷も負わせてはならない。お前達の誰も、その少年の悪を咎めてはならないのだ。分かるかね?」

「冗談じゃない!」

 反発の声は、当然の事だろう。日々の糧を、こんな子供に奪われていたのでは堪らない。見た所、盗まねば生きられぬ貧困という風情も無いのだ。

「冗談ではないとも、然り、然り。お前達は既に三度、長助を叩き伏せたいと私に申し出た事は、確かにこの些か鈍り始めた脳の内に刻んであるとも。だがね、私はその都度、お前達にそれを許さなかった。だがそれは、お前達が憎いからでも、また盗みを肯定しているからでもない事を……この機会だ、知って欲しいのだよ」

 神父は、慈悲の笑みを崩さぬまま、十字架を右手に握った。一刻も前は、メイスを握りしめていた手だ。血塗られた人殺しの手だ。ウルスラも無意識に、同じく過去に血塗られた手を握りこんでいた。

「他者の糧を奪うのは大きな罪である。周囲の者の寛容な心に甘え、赦された恩義を忘れて罪を繰り返すのは、これは極めて多大な悪徳であると言えようね。だが然し彼は――長助はこの事で、実は何も利益を得ていないのだよ」

 男達は、唐突に始まった説法に気勢を削がれたのか、殺気だった目が僅かに緩む。神父の声は、あの凄惨な殺人現場から離れて聞くと、不思議と耳に染み込む声であった。まるで、誰かの胸に顔を埋め、背を抱かれながら歌を聞くように。

「実利について考えよう。長助、お前は盗み取った物を全て取り返され、その上に捕えられるだろう。窃盗の僅かな収益で得た一時の娯楽など、数倍数十倍する獄中での暮らしに比べて見たのならば、それはまるでノアの洪水を前にして木の枝を頼りにするが如き儚さであると言えようね。
 ところで、本当に重要なのはむしろその次で、つまりは精神の事だ。お前は、お前を過去に赦した者達から再び奪い取った。善意に悪意で報いようという心持ちは、それは間違いなく悪徳と呼んで差し支えの無い物であり、お前がこのままに生きるのならば、死後の安息は例え望んでも届かぬものとなるだろう」

 だが、と、腹の底に響かせ、神父は強く強く言葉を続けた。

「長助を赦したお前達もまた、今日此処で彼を痛めつけるというのなら、隣人に暴力を振るうという至極単純にして原始的な罪を負う事になるのだ。戻る財貨は戻る、使われてしまった財貨は戻らない、それは彼を殴ろうが殴るまいが全く変わらない、天地と同様に不変の事実だ。ならばお前達が彼を殴って一時的な満足を得ようとも、やがてお前達は、暴力の罪に恐れおののく事となるだろう。
 故に、故に、私はお前達に願う。彼の罪を赦し、拳の代わりに愛を以て、彼が善き人となる事を祈りたまえ。罪を為す代わりに彼を赦し、天国の門へ至る為の善行を一つ重ねたまえ。咎めるは易く、赦すは難しい。だが、難しき事を為してこそ、お前達もまた、父なる方に赦しを得られるのだ」

 馬鹿馬鹿しい、ウルスラは声に出さず呟いた。息もつかぬ弁論で誤魔化しているが、要は、少年を赦せと言っているだけだ。既に三度も現場を見られながら心を改めなかった盗人を、それでも赦せと言っているだけだ。
 有り得ない。自分がこの集落の住人であったならば、間違いなくこの少年を殺し――殺す? どうだろう。盗みは殺しに値する罪だろうか。
 拝柱教から何か盗んだ者は、一体どうしていただろう。場合によりけり、殺せと言われれば殺したし、捕えろと言われれば捕えてきた。自分で判断し、殺す殺さないを決めた事など無かった筈だ。そもそも、そんな事を〝考える〟など、した事も無い。

「どうか、私がこうして頼む。お前達自身の手で罪を作らず、私に彼の身柄を委ねてはくれないか。難事である寛容を、お前達は三度見せた。それを無にしない為、あと一度だけ、耐えて欲しい」

 神父は地に膝と手を付き、男達の前で頭を下げた。額を地に付け願うのは、他者への寛容。自身の罪の赦しではなく、他者の罪の赦し。
 ウルスラは今、男達が頑として譲らず、少年を叩き伏せる事を期待――いや、希望していた。

「……分かりました。神父様がそうまでおっしゃっては……頭を上げてください」

 結局、望むようには成らなかった。信心の熱い男達は、目頭を濡らし、神父に手を貸して立ち上がらせた。
 篤信を幾度も称賛された筈のウルスラは、涙を流す事も無く、だが苛立ちの様な物を感じていた。これも何時以来の感情かと、驚きにさえ苛立った。








 長助少年を引き取った神父は、教会の一室で、彼に紅茶を飲ませていた。程良く湯気が立ち、香りも良い。名前そのもの紅茶色の液体は、既にカップから半分程も消えていた。

「……お前の事は、これまでに三度、彼らの手から庇ってやったと私は記憶しているがね。お前はどうかね? 自らの悪徳を自覚し罪に震える生き方をしていればと願ったが……よもや生来の悪癖は、これほどまでに手ごわいとは思ってもみなかったよ」

 神父は肘を机について、長助と向かい合って座っていた。嘆く様な言葉も、やはり慈愛の笑みと共に発せられる。

「はん、それがどうしたい! ちょっとしくじっちまっただけさ、次はあのウスノロ連中なんかにゃ捕まらないよ!」

「その言葉は二度目だ、一度目だけは反省のそぶりを見せていたが為に期待を抱いたのだが、然し人の本質を一度で見抜くには、私もまだまだ未熟に過ぎるという事だろうね」

 少年は、まだ声変わりも済んでいない。細く、産毛しか生えていない腕を振り上げ、自分は曲がらないと意地を張った。

「それで、神父様はどうするんだい。おいらを追い出す? 上等だ、そんなら京まで行って同じ事をするだけさ!」

「盗みを止めよう、というつもりは無いのかね?」

 長広舌が、止まった。

「無いね、真面目に働くなんてまっぴらさ。そんな事をしてたから、父ちゃんだって母ちゃんだって死んじまったんだ。おいらはあんなふうにはならない、誰かに取られるくらいなら先に盗む! 面白おかしく生きてやるって決めたんだ!」

 孤児ですか、呟いてもどうせ聞こえないからと、ウルスラは口を動かした。同情に値する境遇かと問われれば、自分と大差ないとしか答えられない。

「さっさと追い出せば良いだろ、神父様。神様なんて結局、父ちゃんも母ちゃんも助けてくれなかった! こんな所で祈ってるより、馬鹿な爺婆じいばあから財布を掏ってた方がマシさ!」

「気の毒だが、それはもう無理なのだよ、長助」

 ぶつ切りに、三度の息で、神父が言葉を終える。それと同時に長助の手から、紅茶のカップが滑り落ちた。

「……あれ、おかしいな、なんだこれ……」

「眠くなってきたかね? そうだろう、利きの良い眠り薬だ。数分――いや、西洋の言い方では通りが悪い。三百も数えれば、お前は完全に、夢すら見ぬ深い深い眠りの中へ落ちていくだろう……そして、二度と目覚めない」

「……? 神父様、何を言って――」

 神父は立ち上がり、部屋の扉に内側からカギを掛ける。それから、部屋の隅の箪笥を横へ動かし、下の床板を外した。階段が、地下へと続いている。

「この国のことわざに曰く、仏の顔も三度まで。だが然し我らの父は寛容だ、心の底から赦しを乞うならばきっと、五度でも五十度でも赦しを与えてくださるだろう。だが、だがね、私を始めとした多くの人間は、天なる父の御心に倣える程の完成された精神を持ち合わせていないのだと言う事を、お前はついぞ考えもしなかった」

 アルバの内に紐で吊るしていたメイスを取り出し、右手に構える。それに残った血痕に長助が気付き、悲鳴を上げようとしたが、既に喉が痺れているのか、掠れた声しか出なかった。

「お前はこれからも罪を重ね続け、そして罪を償おうとはしないのだろうね。悲しい、悲しい、心が八つに引き裂かれ、破片の一つ一つが悪魔に食われてしまうかの様に悲しい事だ。だが更に悲しいのは、お前の為にお前の周囲の人間が、暴力という悪徳に手を染めてしまいかねない事なのだ」

「……ひっ、ぃ……た、たすけ……」

 逃げようとして、足もろくに動かず、床に倒れた長助。後ろ襟を神父が掴み、地下への階段へと引きずっていく。

「お前の悪癖は治るまい、お前自身もそう自覚が有るからこそ同じ手口の盗みを繰り返し繰り返し繰り返し、そしてつまらぬしくじりで捕まる。赦されるのは気持ち良かったかね? 重畳、一度で満ち足りていたなら、お前はまだ、天国に至る可能性は残されていたのだ。だが既に遅い」

「……ぁ、、神父様……ごめんなさい、ごめんなさい……助けてぇっ……!」

 長助を引きずったまま、神父は階段を下りていく。こおん、こおんと靴音が響いて、無理に後を追わずとも、下が広い空間になっている事は窺えた。

「どうかこの者の地獄が、一層でも天に近い場所で有りますように、アーメン」

 人の体を金属が叩く、鈍く重く残酷な音が幾度も反響する。直前に眠ってしまった少年は、断末魔すら残さず息絶えた。痛みは無かったのだろう。そんな救いは偽善でしかないと、ウルスラは感じた。自分が思考している事自体を、もはや彼女は、違和感を伴わずに受け入れていた。








 夜半である。夏の夜は、虫が騒がしい。しかして秋の夜ほど耳を楽しませてはくれず、梅雨のころの様に蛙の唱和も聞こえてこない。中間、空隙、夜更かしには些か娯楽の少ない頃合いだ。
 にも関わらず、桜は宿の縁側で、何をするでもなく涼んでいた。

「寝苦しいな、まったく。こんな夜でも人肌は恋しいのだが」

 独り言、としか聞こえはすまい。庭の石に目を向けて、桜は溜息交じりに――同行する村雨の意向で、かれこれ一月ほども禁欲生活である故だが――空腹の犬猫の様な顔をした。

「とは言ってもなぁ……この時間からどの店が開いているというのやら。村雨の鼻を誤魔化す手も無い。うーむ、難題難題」

 縁側にうつ伏せて、手足を、周囲が目を覚まさない程度にバタつかせる。基本的に、この程度の事以外、悩みの無い女である。

「どう思う、お前。あれが悋気持ちだというのは分かっているのだがなぁ……?」

「そうですね、彼女もまんざらでは無い様に見えますが」

 あまりにも自然に、桜は、天井裏に潜むウルスラに声を掛けた。ウルスラもまた、自分の存在が気付かれている事を、何の疑問も持たずに受け入れて答えた。

「道中で見てきた限りでは、貴女が少しだけ積極さを押さえれば、彼女も傾きやすいのではないでしょうか。あまり何度も触れようとするから、彼女の警戒心も薄れにくいのだと思います」

「おう、今日はまた随分と多弁だな……どこへ行っていた?」

「少々、気になったものが有ったので。何時から?」

 何時から気付いていた、と聞きたかったのだろう。言葉足りずだが、その意図は通じたらしい。

「音を消したつもりだったのだろうがな、埃がやたらと落ちてきた。天井板が弱いのか、撓んでしまったらしいな。で、適当に声を掛けたらお前だった。まあ、天井裏にお前が潜り込んでから間もなく、という所であろうよ」

「……成程。相変わらず鋭いですね、人の心の機微以外には」

 常より幾分か辛辣に、そして幾分か意思を感じられる声音で、ウルスラはチクリと皮肉を入れる。

「彼女は――村雨は、肉体的にも精神的にもまだ幼い。聞けば大陸の生まれとの事、貴女の様な、同性にあけすけに好意を向ける人間には慣れていないでしょう」

「かもな、人間自体にもまだ慣れが薄い様には見えるが。然しなんだウルスラ、お前実は、割とあれこれ考えて生きていたのではないか」

 精神的に幼い――その言葉が適切なのは、村雨よりも寧ろ、ウルスラであった筈なのだ。今宵の彼女は、主体的に思考を行い、客観的な見解を述べている。自発的思考を極めて苦手とする彼女には、珍しい事であった。
 いや、ここへ来て桜は、彼女に対する認識自体を疑い始めた。そもウルスラという女は、思考を苦手としていたのでは無く――

「桜、初めて人を殺したのは何時でした?」

 天井裏から聞こえる声に、殺気にも近い気迫が籠った。だが、敵意よりも寧ろ、その声には真摯さが有った。
 体を起こし、胡坐を掻き、右瞼を中指で引っ掻き――桜は、細長く息を吐き出す。

「どうだったかな、確か十くらいの事だったと思う。日付とか、そういう概念の無い土地で暮らしていたので分からんが――今の村雨より、もう少し背が低い頃だったのは確かだ」

 その答えに、別段動揺するウルスラでも無かった。寧ろ、思ったより遅いな、などという感想を抱いた。

「何故? 何故、貴女は人間を殺しましたか? 殺人の罪は恐ろしいと、貴女は考えなかったと?」

「自分が死ぬか相手を殺すかとなれば、相手を殺して生き延びたいと思うだろう? まあ、私の師がな、少々鍛え方が粗っぽくてな。本気で殺しに来る相手をあてがわれたから、殺してどうにか生き残っただけの事だ。罪も何も無い、生き延びたからそれで良い。だろう?」

 懐かしげな顔をして、桜は語る。彼女の中では既に、誰かを殺した事さえ、良い思い出となっているのだろうか。

「正気の沙汰とは思えませんね」

「正気で人が殺せるか、馬鹿。大体にして、私が学んだ剣は殺しの術技だぞ。そんなものを教える人間、教わる人間が、正気で居られる筈が無かろうよ。虫を殺す子供は居ても、犬猫を好んで殺す子供は滅多にいない。だのに人斬りは、好んで人を殺す。外道でなくては務まるまい?
 ――とは言うが、そこはまあ、慣れだ慣れ。私も最初はな、人並みに苦しんだ覚えが有るぞ」

「へぇ……」

 自分自身の狂気を、桜は当然の様に受け止めている。狂気と正気を同時に持ち合せて、どちらも飼いならしている。全く、この女こそは人殺しの鑑であると、ウルスラは感じた。

「私は、特に何も思いませんでしたよ」

 だからこそ、桜が人を殺して苦しんだという、〝最初〟の想像が付かなかった。自分自身の〝最初の殺し〟で、自分が苦しんだ記憶が全く存在しないからだ。
 それこそ、虫を潰すようなものだった筈だ。刃物を喉に当て、押し込み、引き抜くだけである。縛りつけられた犠牲者が、動かなくなればそれで御仕舞。次、と声がかかり、後ろに並んでいた、同世代の子供が同じ事を繰り返す。
 主体的な行為ではない。犠牲者に対する感情は、何も持ち合わせていなかった。ただ、殺せと言われたから殺し、帰って良いと言われたから部屋に帰った。その日の夕食が少しばかり豪華だったのは、今を思えば餌付け――行為と報酬を直結させる刷り込みだったのだろう。そしてウルスラは、品数の多い夕食を、別段喜ぶ訳でもなかった。

「桜、貴女だって――貴女だって、どこかでは、自分の意思で人を殺した筈です。殺さなくても良い場面で、気まぐれか嗜虐か金銭欲か、下らない理由で殺した筈です。貴女はそういう人間でしょう?」

「酷い言い草だな、否定はできんが。二人目は、両腕を斬りおとした時点でもう無力だったよ。逃げようとしていたが、私も手酷く脇腹を刺されていてな。腹が立ったので追いかけて、背骨を横に割った。
 ん……思い起こせばあの時は、我が師も流石に渋い顔をしていたな。止めを刺さずとも、どうせ復讐など出来ないのだ。放置しても良いだろう、と言われたよ」

 さもおかしな事で有るかの様に、桜は喉を二度ほど鳴らして笑った。
 その殺しは、非常に合理的であると、ウルスラは感じた。手が使えなくとも、魔術を始めとして、人には無数の武器が有る。復讐の可能性を摘み取るのは、自分ならば寧ろ必須事項。行わない事を非難すべきだ。

「では、その時は……罰される、とは思わなかったのですか?」

 だが、合理的である事と、善良である事はまた別だ。二度目の殺人で、桜は自分自身の意思で人間を殺した。殺人の罪に応報する何かを、恐れなかったというのだろうか? ウルスラが知りたいのは、桜の、超自然的存在への認識である。

「まるで思わんよ。私の師が言うには、神は人殺しを赦さないから、私も師も地獄に堕ちるのだという。が、私が誰かを殺そうとした時に、神とやらが止めに入った事は無いぞ? おかしな話だな。世界の全てを見ていて、人の生を意のままに出来るとされている筈の神は、人間一人の心持ちにも干渉出来んのだ。
 大体だな、自分では人を好きに殺して痛めつけておいて、人間にはそれを赦さないというならば、神とやらはどれ程に自己中心的な俗物なのだ? 聖書を見てみろ。自分が気に入らない生き方をした人間に、神が何処まで残酷になるかが分かるだろう。恐怖政治の愚王、此処に極まれり、だとも」

 桜は、まるで神を信じていない。善良で、人を正しき道へ連れていくという神を、心の片隅にも信じていないのだ。本当に命を尊ぶなら、まず無慈悲に殺される人間を、一人でも救って見せろ。そう天に唾を吐きかけても、唾が己の顔を濡らす事はついぞ無かった。
 罪、そのものを恐れるのか、罪に与えられる罰を恐れるのか。突きつめれば、全ての人間は後者である。前者の論を信じ拝む聖人は、その実は死後の苦痛に怯えているだけだ。神という超越者から与えられる罰が恐ろしいから、現世で罪を重ねず、結果的に人の手による罰も受けないだけなのだ。

「……神はいない、そう思っていると?」

「居るとは思うぞ、大量に。だが、全ての人間を思いのままに出来る、所謂絶対者としての神はいない。自分がそうだと思いあがっている、田舎妖怪の変じた神の端くれ、その程度なら居るかも知れんが」

 仮に神という存在が、例えば日の下の八百万の様に、人に近しい存在ならばどうだろう。村の決まりと同等の緩い規律で人を縛り、或る時は酒の勢いで規律を緩める。死後を縛らず、今この瞬間を、現世にて生きている人間だけを戒める神であるならばどうだろう。
 それなら、桜も信じているのだ。大陸の一神教にて育てられた癖に、桜はどうも、神道の方こそ身に馴染む物と考えているらしい。

「で、お前はどうなのだ」

「……私が、とは?」

 天井裏から縁側へ、上から下へ投げ込まれていた問いの、その向きが変わる。

「お前自身は神を信じているのか。お前自身は、罪を感じているのか。どうせまた、あの神父でも尾行してきたのだろう? それであれこれと思い悩み、私に問答を吹っ掛けてきたという所だろうが。全く慣れない事をさせおって」

「鋭いですね、無意味に。いえ、姿を消した時節から考えれば分かる事、でしょうか……」

 みし、と天井板が軋んだ。暫くの沈黙は、居心地悪いものではない。

「……私は、物心が付いた時には、神が居る事を前提として、全てを教えられていました。ですから、信じる信じないではない。神が居る事が、私の世界では当たり前なのです。それも――貴女の言葉を借りるなら――絶対者としての、唯一である神が。水が無い世界、空気の無い世界を、貴女は思い描けますか?
 そう、私にとって、神なんてそんなものなんです。有るのが当たり前だから、信じるのも当たり前。無いかも知れない物を信じる信徒達に比べて、私の信心は余りに薄い……子供が信じる法螺話の様に」



 ウルスラの魔力特性は〝歪な零〟。先天的な資質が後天的に歪んだ、稀に見られる形である。
 そも魔力特性とは、人や亜人が生まれつき持ち合せる魔力が〝どの種類の魔術に適した物か〟を図る物である。基本的に、これに合致した系統の術は習得が早く、合致しない物は中々習得出来ない。
 とはいえ基本的に、人間の大半の魔力特性は〝無し〟。どの分野にも均等に才を持ち合わせ、どの分野も同様に、習得する可能性を秘めている。
 翻って亜人を見てみると、彼らは生まれつき魔力が少ない上に、特性も偏っている者が多い。例えば村雨の場合は〝水〟、水と流動する物に対する才覚は持ち合せるが、その他の分野には極めて弱い。結果、子供が使えるような魔術さえ、彼女はろくに扱えないのだ。
 そして、ウルスラの特性、〝歪な零〟とは?
 元々、彼女の特性は〝零〟、万物に余計な解釈を与えず認識する、特殊な系統の魔術に適性を持つ。具体的には、見た物をそのまま魔力で複製したり、或いは思い描いた物体をそのまま作りだしたり、だ。だがこの特性は、後天的に変化する事が極めて多く、そのまま成長する者は殆ど居ない。
 ウルスラの場合、彼女の魔術特性を歪めたのは、ただ一つの絶対者を崇める教団の教えであった。世界の全ては神が作り、神の意のままになる。だから、自分自身は何を思う事も無く、神を信じれば良い。極論、彼女に与えられたのは、そんな教育であった。だから彼女は、他者に対し自分なりに解釈をする事を、何時しか放棄していた。
 他者への解釈、理解への努力を捨て、存在する物だけを受け取って生きる。そんな彼女だから、外部に存在する魔力を、扱おうという発想も無い。自分自身が持つ魔力で、自分自身だけに干渉する。それが魔力特性〝歪な零〟の、彼女なりの形であった。



「桜。私は、神は居ると思っています。そう教えられたからです。神は全ての人間を見ていて、悪い事をした人間に罰を与える、そんな子供じみた事も信じています。そうなのだ、と教えられたからです。疑おうという発想は有りませんし、水や空気が存在する事と同様に、それを疑う意味すら無いと信じ込んでいます。
 ……ですが、桜。私が信じている神というのは……本当に、良い存在なのでしょうか?」

「んん……? すまんな、良く話が見えてこない」

 ウルスラの神への考え方は、信仰ではなく常識なのだ。疑う事がそもそも非合理的で無意味な事。だから、これまで疑う事も無く――疑おうとした自分の思考を、封じ込めて生きてきた。

「いえ、構いません。……桜、また少々出かけてきます」

 だが、目の前で矛盾を形にされてしまえば、もう蓋を閉ざす事は出来なくなる。そう、元凶はあの神父だ。神に使える者の衣服を身に纏い、神の名を口にし、善良な信者には徳を以て接し、些細な悪にも多大な罰則を与えるあの神父のせいだ。
 あれのせいで自分は――考えないでいられなくなった。面倒な、考えるという行動を、強制される様になってしまった。元に戻ってしまったのだ。
 何年も押し殺していた、思考に次ぐ思考が頭を埋め尽くし、ウルスラの脳内は灼熱の籠と化している。熱を冷まし、もう一度、考えないようにと戻るには? さて、どうしたら良いものだろうか。彼女の思いつきに、理は介在しない。
 あの神父を、出来るだけ見苦しく、命乞いさせて殺そう。そして、きっと何も感じないだろう自分を再認識しよう。
 良く分からない存在を、自分が理解できる程度の物に貶めて、神が抱える矛盾を、彼に全て押し付けてしまおう。
 そうすれば、これまでの生を費やして組み立ててきた常識を崩壊させ、再構成する苦痛を味わう必要はなくなる。外部の刺激に反応し、与えられた命令を遂行し、何ら思う事無き機械装置で居られる。
 どだい殺人を厭う人間性など、僅かにでも興味を抱いた、その事こそが気の迷いでしかなかったのだ。そんな愚にもつかない好奇心のせいで、無益な思考ばかり頭に留まって、罪だ罰だと下らない事を考えるようになる。

「ウルスラ。朝には戻るのか?」

「さあ……? どうでしょう、戻るんでしょうか?」

「私に聞くな、自分で考えろ」

 考えようとするのも疲れるからと、ウルスラは答えを返さず、また夜の闇に紛れ込む。やはり彼女は、単純明快に一つの目的だけ考えて、その為に動くのが性に合って――楽で、楽で、仕方が無かった。








 日の本の人間は、世界でも特に綺麗好きなのだと言う。この国に作られた教会も、洋風の建築でありながら、その点だけはしかと踏まえていた。
 魔術が普及してより、薪を割ってくべて火を起こす必要は無くなった。少量の木材さえ有れば、火の魔術で着火、十分な熱を取れる。何も銭湯に出向かなくとも、簡単に湯に浸かれる時代なのだ。
 日中に少年を撲殺した神父は、讃美歌など口ずさみながら、肩まで湯船に浸かっていた。狭い浴室だが、洗い場と浴槽は分かれている。灯りは蝋燭二本だけで薄暗い。
 橙と黒の混ざった中で、日に焼けた神父の体は、影に紛れて消えてしまいそうにも見える。然しながら良く良く見れば、縦横無尽に走る傷跡は、色が変わらず白い侭であった。
 見れば、幾つかの傷には、致命傷となっていてもおかしくない物が有る。腕の良い医者がいなければ、この神父はおそらく、十回以上は死んでいるだろう。背の肉の一部は抉られたまま、完全には再生されず、窪地の様な形に固まっている。
 傷の種類が違う――天井裏に潜むウルスラは、声に出さず呟いた。暗殺には、風呂場や厠の様に、対象が無防備になる空間が最適。だから、宿の広い風呂などでは、ウルスラは周囲の人間を観察する――してしまう、癖がある。
 例えば桜の場合は、どれだけ大きな傷であろうが、殆どは骨まで達していない。おそらくだが、内臓まで届いた傷は、一つか二つでは無いだろうか。それもかなりの古傷、雪月桜という人間が〝完成〟してからのものではない筈だ。
 また、獣そのものの育ち方をしたのだろう村雨の場合、そもそも大きな傷が見当たらない。野生の環境で大きな傷を負えば、それは死に直結する。慎重に、細心に、身を守る事を常に頭に置き、村雨は生きてきた筈だ。
 神父の傷は、言うなれば未熟の象徴。力も技も足りぬ者が、無理に戦場に躍り出て、あえなく切り倒された様な――それでいて、偶然生き延びてしまった、そんな傷なのだ。そんな傷だと言うのに、一歩間違えれば即死の傷だと言うのに、傷跡の数は、三十を下らないのだ。
 今も神父は、ウルスラの気配に気づいていない。透明化、消音の並列使用で、一切気付かれる事なく、その脊髄を分断する自信が、ウルスラには有った。実績に裏打ちされた、確信に近いものだ。

「こんばんは、無防備ですね」

「うん? 女人の風呂場を除くのは少年達の若気の至りの特権であるとばかり思っていたが、よもや中年男の風呂場をうら若き少女の声が覗き見しているとは、これはこれは全く予想もつかぬ事だとは思わんかね?」

 だが、ウルスラは、殺す筈の相手に声を掛けた。神父は、今の今まで狙われていた事にようやっと気付き、身を強張らせながらも、常の様に冗長な語り口を見せた。

「お静かに。貴方なら直ぐに殺せます。死にたくなければ――」

「下らん、下らんな。死を怯えて身を縮め竦ませ震える様な者ならば、そもそも誰かを殺すなどという大それた罪は犯さないものなのだ。殺人者に殺すと脅迫するなど、盗人の蔵から盗品を盗み直してくれようと大言壮語するにも似た虚しき徒労だとは思わないかね?」

「――本気にしていない、という事は分かりました。私が誰かは分かりますか?」

 相手に姿は見せていない。刃も針も、視界の中に置いていない。だから、相手に恐怖を与えられていないのだろうと、ウルスラは感じていた。多少の苛立ちを声に交えながらも、まずは神父が、どの程度の力量を持つかを確かめる。

「さて、さて、さて、どうやら。近隣の村々にお前の様な器用な娘がいたとは記憶していないのだがね。だとすれば遠方よりの来訪者となるだろうが、生憎と私は怨みを一手に引き受け過ぎたが故に、誰かに命を狙われようが、それが何時の遺恨なのかまるで見当もつかぬのだよ。叶うならばお前自身が誰の縁者であり、どの件を以て私を罰しに来たのかを教えて欲しいものだとも」

 顔は一度、確かに合わせたが、あの時、ウルスラはほぼ無言を貫いていた。気配で対象を認識する技量は、この神父に無いらしい。いや、そんな高等技術、そもそも期待すらしていない。
 こうして会話している瞬間も、幾度となく、神父は隙を曝している。本人は気を張り詰め、何時でも対応できる姿勢を取っているつもりなのだろう。だが、息の吸と吐の切り替わる瞬間、明らかに意識が緩んでいるのだ。
 何時でも殺せる。この神父が何を言おうが、自分の技量であれば、瞬き二つほどの時間で殺せる。自分の絶対的な優位性を認識し、ウルスラはなぜか、また苛立ちで歯を噛み合せた。

「罰しに来た、ですか。自分の行動は罪であると、貴方は思っているのですか?」

 人殺しを自認し、自分が罰せられる存在であるとうそぶく。桜に似ている様で、似ていない理屈だ。彼女の場合は、自分が罰せられるなど、まるで考えもしていない。

「ああ、ああ、当然だとも。良いかね? 我らが父なる神は、兄弟に対して怒りを示せば必ず皆裁きを受けると我々に教えてくださっているのだ。憎しみの心を持つだけで罰せられる存在が我らであるならば、まして人を殺すなどと大それた悪行、そも神が赦してくださる筈もないだろうね。汝、殺すなかれ、子供でも理解できる理屈を頷けぬと言うならば、誰も天国へ至る筈が無いのだよ」

 神父は、証文を読み上げる様なぶれの無さで、自分自身が罪人である理由を語った。成程、聖職者であれば当然の認識である。神の教えは絶対であり、それに背く者は罪人だと言うのは、神の僕には至って合理的な考え方であろう。
 ウルスラもまた、神が存在する事を常識として与えられてきたが故に、この理屈を、ただ人よりはすんなりと受け入れた。その上で、疑問は尽きない。

「なら、貴方は罰を受けるのですね。それは恐ろしい事ではない、と?」

 罪には罰を。人の法も神の法も、この仕組みからは外れないものだ。

「そうなるだろうともね。私が何時死ぬのかは私の預かり知らぬ事ではあるが、十年か数十年かの後、私は神の御前にて無現の罪に無限の罰を与えられ、地獄の縁に叩き落とされる事になるのだろうよ。恐ろしい事だ、永劫逃れられぬ罰則が待ち受けているなどと知って怯え竦まぬ者がいようなどと聞かされたら、私ならばその者の正気か性嗜好のいずれかを疑って掛かるがね」

 罪から逃れる術は無いとも、この神父は知っている。罪は自分に降りかからないと、桜の様にうそぶきはしない。また、罪そのものを恐れる聖者を装う事もなく、罪に対して与えられる罰に怯え――つまり、凡俗の様な事を言う。

「……では、貴方は善良な者だけを殺したのですか?」

「ふむ、ふむ、言わんとするところが見えてきた気はするがね、まだ断定できない所だ。どうだね少女よ、一つ降りてきて顔を合わせ、その上で語らおうというつもりは? 生憎と風呂場には罠を仕掛けていない、全く我ながら不用心も良い所だと呆れ果てて物も言えず――いいや、口数も減る所だ」

 天井板に、神父は手招きをした。言葉の代わりに、短刀が板を丸く切り抜いて、ウルスラは音も無く床に降り立つ。

「おや……何処かで顔を見た気はするのだが、然しそれが何時の――」

「今日の日中、あの屋敷です。四十人もよく殺しましたね」

「――ああ、あれか。成程、何やらただならぬ表情をしていたが、どうにもお前は思い詰める性質の人間らしいね」

 また長々と語られるより先に、どの場面で出会ったか教えてやると、神父は手を打って幾度か頷いた。思い当る節でもあったのか、日焼けした無精髭面で、さも優しげに眼を細める。

「言い訳をするつもりはないがね、私は善良な人間を殺さんよ、殺す意味を何処にも僅かなりとも見いだせぬが故にだ。然し私が善良でない人間を殺したからと言って、私が善良な人間になるという事もまた無い。むしろ、私は悪人を殺すことで、人殺し以外の大きな罪をもう一つ背負っているのだ。分かるかね、迷い子よ?」

「……その呼び方は気に入らないですね」

 自分を殺そうとしている人間が、直ぐ近くに降り立っても、神父は動じる様子を見せなかった。自分の死が必定と見定めている男を、死の恐怖で縛る事は出来ないと、ようやくウルスラも理解し始めていた。
 それよりも、神父が自分を『迷い子』と呼んだ事が――許せないとまでは言わないが――承服しかねると、小さく反発した。

「善人も悪人も人間です。どちらを殺したとしても……貴方の理屈なら、罪は罪として被るのでは?」

「そうだ、罪が消える事は無い。だろう、と推定の言葉を交える事は無い、こればかりは天地の創造より定められた絶対だ。アダムとイブ然り、彼らは知恵を得た後に深く深く悔いる事も有っただろうが、然し楽園に帰参する事は許されなかった。尤も彼らは、神の威光を地の果てまで語り継ぐ事に貢献もしたのだろうが――それはこの場合、語るまい。
 良いかね、迷える少女よ。アダムとイブは、おそらくは己の罪を悔いた。それと同様に、悪人というものは――長い生の内で、何時かはおそらく、己の罪を悔いるのだ。そして、罪を悔いた罪人は、きっと罪を恐れず振舞う者より少しだけ、神の御心に適う者である筈なのだよ。分かるかね?」

 分かる、ウルスラは頷いた。道理として考えれば理解は出来る――既に、思考は苦にならない――のだ。自分が罪人であると知り、二度と罪を重ねるまいと思ったのならば、それは罪を知らず罪を重ねる者より、数段上等な生き方である筈だ。神が、人に良く在れと命ずるならば、きっと悔いた者は、悔いぬ者より〝良い〟。

「で、あれば、だ。私が悪人を躊躇容赦情け一切を介在せず虐殺灰燼に帰す事は、それは彼らから悔いる為の時間を奪い取り、僅かなりと赦しを得られる機を奪い取るという事なのだ。ただの人間が、一介の司祭でしかない私が、人に与えられる神の恩寵を無碍に為すなどとは傲慢の極み、殺人に並ぶ大罪と見ても良かろう……お前は、そうは思わないかね?」

「思いません」

 強く、短い否定。ウルスラは、内心の蟠りが故に、どうしても神父の論を受け入れられなかった。

「……成程、成程、中々の難物。お前は何が納得いかぬのだね少女よ、神は人を罰するという事かね?」

「違います」

 神の存在、罪には罰を、こんな事はウルスラの中では、世界を構成する当然の要素である。

「では、殺人が罪である、という事かね?」

「違います」

 人を殺してはいけない。言葉を覚えたばかりの子供さえ、ぼんやりと知っている事だ。疑う余地はどこにもない。

「では、与えられる筈の赦しを奪う事、それが大罪であるという部分かね?」

「違います」

 根幹的に、ウルスラの感情と、その言葉は矛盾している。だが、理屈として単体で切り出せば、神父のその言も、また道理なのだ。

「では、お前は何を疑い、何を知らずに迷っているのだね? 私を殺そうというだけならば、もう私はカロンに身を任せる立場となっていように。それともお前は――」

「罪が、赦される事があるのですか?」

 神父の言葉を遮ったのは、これで二度目。然し、一度目に比べて、弱弱しい声である。逆手に構えた短刀は、ついぞ振り上げられる事も無い。

「逆に聞くが、罪が赦されないと思うのかね? 成程、神は我らに法を与えて罪を定め、罰を定めた。然し我らが神は情け深い、真に悔いたものであるのなら、きっと神は全ての罪を赦すだろう。ユダも己の手で死せず、メシアの教えを説いて生涯を終えたのならば、裏切りの汚名を晴らす事も出来たものを――私は、そう思うのだよ」

「それは……おかしいです。人を殺して、罪が赦される筈が無い。赦される様な事であれば、罪とされる筈が無い。決して罪は赦されないからこそ、地獄というものがあるのだと――」

「それは人間の理屈だとも、迷える少女よ」

 ウルスラが神父にしていた様に、今度は神父が、ウルスラの言葉を遮った。浴槽の縁に肘を付き、無精髭の集まった顎を手首にのせ、僅かに身を乗り出す。

「良いかね、神は厳格にして寛大だ。悪であると定めた行為を赦しはしないが、善行を認めぬという事もまた無い。心の底から悔い改めて神に仕えるのならば、神の道を知らずにいた過去をお許し下さる事は、我らの偉大なる先達である使徒たちが証明しているのだよ。神は人を赦す存在だ。何故なら神は、我ら人間の生きる希望にして、生きる為の秩序であるからだ。
 誰も赦さぬ神を誰が信じようか。誰も赦さぬ為政者に、民が従おうか。罰するばかりの主などは無能の極み、我らが偉大なる主は寛大であり、本心から悔いるという条件を定めた上で、我らの罪を御赦し下さる。罪が赦されないと説くのは、人間の社会を円滑に運転する為の理屈に過ぎんのだよ」

「人間の……?」

「そうだとも、人間の社会だ。我らが罪を主が御許し下さるとは言えど、他者に被害を及ぼす善人を放置してはおけない。例えば、善良な信者を殺害して回る悪鬼など居たのならば、彼が後に悔い改める可能性よりも、これから先に殺されるかもしれぬ者をこそ思うべきだろうとも。なればこそ社会は、死刑という刑罰すら用意して有害な存在を取り除く。例え二度と殺すまいと彼が誓うとも、それを信用できないのが人だ。社会の安全と安心の為、罪人の殺害は寧ろ必定とも言える。
 然し、主はおっしゃられた。誰も人を殺してはならず、そればかりか人を憎んではならない。右の頬を撃たれたら左の頬を差し出せ、と。至言であり、全ての人がこの言葉を守るなら、人の世界は地上に在りながら楽園にも等しくなろう。だがね、それでは――誰も、心易く生きる事が出来ないのだ。
 誰か、最低でも一人は、罪を負わねばならない。道理を知らず主の教えを知らず、罪に手を染める者を罰しなければ――殺さなければならない。地獄へ落ちる事を承知の上でも、他の全ての民の為、罪人を殺して殺して殺さねばならない。ならば、そう思い立った私が実行するのは当然ではないかね?」

 人の法を厳格に守れば、それは神の法に逆らう事になるのだ。罰則とは常になんらかの苦痛を伴い、他者に苦痛を与える事は、神が定めた罪である。であれば、人を捌く立場に在る人の全ては罪人では無いのか――?
 当然、その様な事は無い。人が社会を形成して生きる為に、法は必要不可欠。法を正常に作動させる為の人間は、褒め称えられる事はあろうが、罪人と謗られる道理はあるまい。
 だが、法に則ろうが、人を殺す事があるなら、罪からは――神が定めた罪、そして己の心に抱く罪の概念からは、逃れられないのだ。では、誰がその役目を背負うのか?
 この矛盾に気付いた、そして矛盾に気付きながら神を信じる、自分自身が請け負ってやろう。この神父はそう思い立ち、そして実行に移してきたのである。幾度も幾度も罪人を、軽微な罪から大罪までを等しく扱い殺し殺し殺し尽くし、自分が被る罪の総量を増やし続けてきたのである。

「……神は、罪を赦すのでしょう。貴方の罪も赦されるのですか?」

「仏の顔も三度まで。神は仏よりおそらくは寛容であろうが、それも数十度と罪を重ねた私であれば、おそらくはもう見切りをつけられているだろうね。そうでなくては困る、死に際に僅かに改心するだけで天国へいけるというならば、人は容易く堕落してしまいかねんのだから」

「では、私は」

 罪が赦される筈が無い、ウルスラはそう言った。神を当然の存在と信じながら、彼女はそう断言していた。なぜならば、彼女は生まれつき、十分以上に聡明だったからである。
 人が神をどういう存在だと説こうが、人は他者の罪を赦さない。自分の意思で、拝柱教の為にと人を殺し続けても、それはただ、罪を重ねるだけの事であると、どこかで気付いていたのだ。

「私は、もう赦されないのですか。いかに悔いようと、もう」

 だからウルスラは、自分の思考を放棄した。与えられる命令だけを受け取り、与えられる価値観だけを甘受し、自分の欲求からは何事もなさず、ただ機械として働く。恐喝、略取、障害、殺人、全ての罪は命令によるもの。自分自身の意思では無いと――そう、己に言い聞かせた。行動理由を他者に預ける事で、罪も他者に被せ様としていたのだ。

「悔いて、刃を捨て、血濡れた手を斬り落として――誰も殺せなくなっても、赦されないのですか!? 全てを見ている癖に、止めもせず眺めているだけで、高い所に座っていて――そんな神に、悪と断じられて! 私は、地獄を待つだけの身と……!」

 教団の教えを否定され、幾年ぶりかに目を開けてみれば、己の罪は赦されない事であると、改めて知らされてしまった。神が与える筈の罰は、自分に降りかかるものなのだと気付いてしまった。神を信じるウルスラは、それが――恐ろしくて、夜には枕を涙で濡らしさえした。
 人の法に照らしてみれば、死刑に値する大罪人。神の法に照らしてみれば、地獄へ堕ちるべき大罪人。赦されぬ身が、ただ悲しかった。

「過去の罪を赦す事など、出来はすまいさ。どの様な過去であれ、己の為した事なのだから。だがね、これから先を良く生きたいと願う者を……飽く迄私はだが、殺すほどに悪党では無いつもりだよ」

 怒りなのか、嘆きなのか、本人にも検討の付かぬ感情の混濁、叫び。それを押しとどめたのは、冗長で仰々しい言葉を捨てた神父だった。

「勿体無いね、実に勿体無い。お前は何故、その手を切り捨てようとするのだ。それは私には与えられなかった物だ。魔術の才に乏しく、志を持った時には既に体は全盛期を過ぎ、そして筋骨とも逞しくない私には、お前の手が羨ましい。悪を為さんと悪を為し得て、善を為さんと善を為し得る、お前の手が羨ましい」

 浴槽から手を伸ばし、神父は、ウルスラが掴む短刀の刃を摘みあげる。側面に触れて指を切らないようにしているが、ウルスラが気まぐれに腕を振るえば、掌は半ばから裂ける事になるだろう。

「そうまで嘆くならば、お前はもう、誰も殺すつもりが無いのだね? ならば、神はお前を赦さないかも知れんし、人の社会はお前を赦さないかも知れない――が、私一人は誰をも赦そう、そう決めているのだ。
 お前が真に悔いて望むなら、そして二度と悪を為さぬというのなら、お前の罪も私が背負おう。いいや、お前一人ではなく、全ての人の罪を私が背負う。そうして捌きの時には、私だけが地獄へ落ちれば……どうだ、天国の門も少しは広くなろうというものだろう?」

 それは、ある種軽薄な響きを孕んだ、口説き文句の様な誘いであった。刃を持った暗殺者を前に、聖職者が説く様な言葉ではなかった。然して彼の思想は、誰よりも献身的な、博愛に満ちたものであった。
 誰の罪をも、独善的に赦そう。神が赦さない者すら、自分が赦そう。そして神が赦そうが、人の為にならぬ存在であれば自分が殺そう。彼は神を畏れ敬いながらそれ以上に――比較にならないほど、全ての人間を愛しているのだ。

「……私に、何をしろと言うのですか」

 ウルスラの手から力が抜け、短刀の柄が、指から滑り落ちる。空を仰ごうとしたが、自分がくりぬいた天井板の穴から、屋根の裏が見えただけだった。

「そうだね、一つ神の教えでも学んで見るが良い。聖書は面白いぞ、所詮は昔の人間が書いたものだから古臭い部分もあるのだがね。神の言葉を聞いた誰かの言葉の又聞きなのだ、間違いは多々あるだろうが、全体的に見れば良い事を言っている。お前が思い悩んだ事柄の答えも、きっと何処かで見つける事が出来るだろう。
 神の為とは言わんし、全ての人の為とも言わん。暫くは私の為に、盗人を捕まえる手伝いでもしていればいい……殺せとは言わんよ、気が乗らない様子なのだからね。合間には祈りの作法くらい教えてやろう。その内、考えが纏まって――それでも私を殺したいなら、きっとお前が私への罰なのだろう。その時は全力で抵抗させてもらうさ」

「貴方の、名前は?」

 私もお前も地獄行きだ、桜は以前、そう言った。神も地獄も信じない彼女の事、戯れでしかない言葉だったのだろうが――その言の裏の意味も、ウルスラは感じていた。桜もまた、過去の罪が赦されるとは思っていないし、未来も自分達は罪を重ね続けると思っているのだ。桜は厳格に、だれの罪も赦さず――ただ、罰を与えないだけなのだ。
 神だけが持つ筈の赦しの権利を、傲慢にも行使しようとする神父の前に、何時しかウルスラは膝を突いていた。彼に祈りを捧げるのでも、彼の言に完全に心服した訳でもないが――彼女の信仰心が、正しい道に立ち返りたいという願いが、彼女にそうさせていた。

「ヴェスナ・クラスナ修道会、ハイラム=ミハイル・ルガード。これでも洗礼の執行は赦されている身なのだが、いっそどうだね、今宵の内に洗礼を済ませてしまうのも、手間が省けて良い事だとは思わないかね?」

「……はい」

 祈る様に――いや、実際に祈りを込めて、ウルスラは手を組み合わせる。
 気付けば抱いていた、盲目的ともいえる仮初の信仰を捨て、自ら新たな信仰を選ぶ。自分の罪を――赦すとハイラムは言うが、他の誰も赦せる筈の無い罪を背負って、自分自身の意思で道を選ぶ。それは、命じられるままに罪を重ね、殺しの技を磨き続けた日々より、よほど過酷な物となるだろう。
 その苦痛の予感すら、罪を洗い流してくれる気がして、彼女は柔らかく微笑み、また涙を一つ零した。








 結局、桜は明け方まで、縁側でうつぶせたままであった。
 日が昇ってくるのとほぼ同時、障子の向こう側でごそごそと音が聞こえたかと思うと、村雨が眠そうな目を擦りながらやってくる。

「寝てないの? 何してたのさ、こんな時間まで」

「偶には明けの空を眺めるも良かろうよ。冬は寒すぎる、これは夏だけの特権だ」

「床板と睨めっこしてる様にしか見えないけどねー」

 宿に備え付けの――こと西洋の人間には受けの良い、安布の浴衣――寝巻を体に巻きつけた村雨は、朝の涼しさも気にならぬような顔で、顎を板敷きに触れさせた桜の頭を、足の先でつつく。

「……ウルスラ、知らない?」

「昨日から見ておらんよ、お前こそどうだ」

「嘘つき。夜に戻ってきてたのは知ってるんだから」

 しらを切ろうとした桜の頭を、村雨の足が幾度も揺す振る。日が昇っても、彼女は帰って来ていない。身を案じる必要があるか弱い女性でもないが、然し一晩帰らないと言うのは、旅の道連れとして不安にはなる。
 夜間、ウルスラが屋根裏に忍んでいたのは、村雨とて気付いていた。ただ、何か話しこんでいる様だったからと、邪魔もせずに眠ってしまっただけである。よもや、そのまま何処かへと消えていくなどとは考えても見なかったのだ。

「探すなら、直ぐに着替えるよ。臭いは消してないみたいだし、簡単に――」

「やめておけ。戻るなら戻る、戻らんなら戻らんさ。元々私が無理に引っ張ってきただけで、あれが積極的に望んで従ったとも言い難い。朝餉までもう暫く寝ておけ」

 頭に載せられた足を持ち上げ、寝返りを打ち、仰向けになる。常の様に表情の薄い顔で、桜はそう言って、

「ところで、村雨」

「ん?」

「もう少し脚を持ち上げてみんか? この角度だと今一つ肝心な部分が――ぅおう」

 やはり常の様に余計な言葉を付け足した時点で、顎に蹴りを喰らい、強制的に黙らされた。
 蹴りがどうにも軽く、ぎゃあぎゃあと喚かれる事も無く――つまり、覇気が無く。為に、今一つ物足りない桜であった。








 着替えを済ませ、朝食を取り、ついでに朝の運動を軽く済ませて、ようやく日差しが強まり始めた頃。宿の支払いも既に済ませて、後は次の土地へと旅立つのみ、と定まった頃合いの事である。探していた人間は、向こうから二人の元に訪れた。

「おう、遅かったな。寝不足か?」

「ええ、少々。分かりますか」

 ウルスラは、表情こそ晴れやかではあるのだが、目の下に隈を作っていた。髪に僅かの乱れも無い事から、一度も横にならず、朝まで過ごしたのだろうと窺える。姿を消したその時のままの衣服は、些かばかり埃で汚れているが、他に変わったところも――

「――ん、なんだそれは?」

「見て分かりませんか? 十字架です」

 ウルスラの首から下げられた、高価な品にはとても見えない鉄飾り。縦の辺が横より長い、一般的な十字の形は、紛れもなく信仰の証である。
 かつてのウルスラは、ついぞ十字架など身につける事はなかった。十字架を模した短刀は、武器として携帯はしていたが、それは人の目に晒すべき物ではなかったからだ。首に飾りをぶら下げると、彼女が年相応の少女に見えて、桜は思わず、喉をくつと鳴らして笑った。

「その程度は分かるわ、阿呆。お前がそんなものをぶら下げている理由が分からんから聞いたのだ」

「でしょうね、ちょっとした冗談です、怒らないでください。いえ、伊達や洒落で身につけているのではないですよ」

 普段よりも快活に、ウルスラは桜をいなし、靴に履き替えた村雨の方へ向き直った。

「待たせましたね、すいません」

「どこ行ってたのさ、ほんとにもう……寝てないのは桜も同じみたいだし、今日は止まる宿を一つ手前にして――」

 旅人の常として、荷物は最小限。直ぐにでも歩きだせる格好の村雨は、二人に先んじて一歩進み――そして、立ち止まって、後方を振り返る。

「私は行きません、この町に……いえ、ここから少しばかり離れた町に、残ろうかと思います」

 自分の立つ位置から一歩も進まず、ウルスラは静かに微笑んで、首を左右に振った。迷いの無い目、躊躇いの無い言葉に、桜は驚いた様子も見せないでいた。

「……なんで? どうしたの?」

 対象的に動揺しているのは村雨。あまりと言えばあまりに唐突な言葉に、瞬きの頻度が倍近くになっている。

「思いつき、でしょうか。本当にそれだけなんですよ」

 返る言葉は、呆れる程に軽い。

「貴女達と旅を続けるのも、それはそれで良いのかも知れませんね。楽しい、という感情はありました。この先も同行するなら、きっとまた、そう思う事は有るでしょう。貴女達を見ていると、疲労は感じますが飽きません。けれど、私は……そうですね、自分で思っていたよりも弱かったようです」

 一から十まで、明るい話題を重ねている訳でもないのに、ウルスラは晴れやかに、笑顔を保っている。村雨に顔を向けたまま、右足を一歩だけ、後方に滑らせて、距離を広げた。

「村雨、貴女は我慢強いのですね。似た境遇になって初めて、貴女の努力を知りました。私は気が変わっただけ、〝そう〟したくなくなっただけ。貴女と同じ様に〝そう〟したいと思いながら、耐える事は出来ませんでした。
 なのに私は、思い立った事をあっさりと変えてしまった。貴女の様に、曲がらず一つ意地を張る事が出来なかった。私は結局、人殺しで居るのは嫌なのに、自分の意思で止める事もまた難しい……意思の弱い人間なんですよ」

 誰かを殺したい――そう思い、結局は殺さなかった。結果だけ見れば、村雨もウルスラも同じなのかも知れない。
 だが、ウルスラの場合は、殺そうと思い立ったは良いが、結局は殺そうとした相手の言葉に――絆されて、と言うべきか――考えを曲げられ、欲求が消えた結果、殺さずに終わっただけだ。殺したいと思い続けながら、殺さずにいる村雨とは、前提から大きく違う。
 そしてまた、村雨は、殺さないという意思を曲げずに貫いてきた。ウルスラに、貫き続けた信念など無い。誰かを殺してやろうという意思は、殺す筈の対象に容易く帰られてしまった。そして、それを残念だとも思わないのだ。

「でも、私は……意思が弱くて、良かったのかも知れません。手の赤は幾ら洗っても取れませんが、これ以上赤くなる事も無い筈です。貴女の手は白いですから……何時か握手をする時の為、白いままで居てください」

 血の臭いも、色も無い。ウルスラの手は、爪も丁寧に切り揃えられた、清潔な手だ。ただ――ただ、強く擦って洗ったのだろうか、皮膚が僅かに荒れている部分が有った。両手を重ね、胸にかざし、十字架を拳の中に握りこんだウルスラは、村雨の目には、柳の木の様にも見えた。逞しくは無いがしなやかで、きっと暴風の中でも倒れずにそよいでいるだろう木の様に。

「……本当は、拝柱教が嫌だったの?」

「そんな事はありません。教団に居た時は、その生活が当たり前でしたから、快も不快もありませんでした。けれど……そういう事とは別の部分で、私は割と普通な人間だったのかも知れません。誰かを殺した罪と向き合うのが怖い。これ以上、罪を重ねるのが怖い。考えない事で楽になれるなんて、やっぱり無意味な思い違いでした。
 聖書から学び直します、教えてくれる人を見つけましたから。天に至る塔なんて、きっと無くても困らないものなのでしょう。でも、依って立つべき柱は欲しい……一人で立つには、私の脚は弱すぎるんです」

「聖書なら今まで通り、私が教えてやれるぞ」

 桜が茶化す様に――そうでありながら、少しばかりふくれっ面で口を挟む。

「桜、私は学者になりたいのではありません。それに貴女の様に――激しく生きる事もできません」

 やはり小さく首を振って、ウルスラは答える。動作とは裏腹に、表情に声に、嘆きも諦めも混ざりはしない。

「貴女は、自分が罪を為していると知っている……知っていて罰を恐れない。けれど貴女は……罰が無いからと言って、罪が赦される訳ではないとも知っているのでしょうね。貴女の考えでは、私も貴女も、もう決して救われない。確かに、間違ってはいないと思いますが……」

「……そう、見えるのか」

 戯れのように、ウルスラに告げた言葉を、今更のように桜は思い出していた。自分もウルスラも、堕ちる先は地獄だ、と。確かに自分は、そう言ったのではなかっただろうか。

「貴女の生は苛烈過ぎる。誰も――自分すらも赦さず、然して罰せず。貴女は正義を知らないのではなく、知って正義を為すつもりが無いだけなのでしょう。寧ろ殊更に、自分に〝正義を為さぬ事〟を科す。
 ですが、桜。気の向くままに動いている時の貴女は、自分で思っているよりも、人の役に立てる人ですよ」

 また一歩、ウルスラが後方に足を進めた。言葉を交わすには、遠い。

「私は赦されたい。それに、貴女も赦したい。我儘かも知れませんけれど……あの人は、その我儘も聞いてくれるそうですから。だから私は残ります、残って今度こそ、自分で祈る相手を決める。神様は誰も助けないかも知れませんが、神様を信じて助かる人はいる……きっと、私もその一人なんですよ」

 ふぁ、と小さくあくびをして、眠そうな目を擦るウルスラ。それから、再び村雨の方に顔を向ける。

「短い間ですが、割と貴女は好きでしたよ。……これは、前にも言いましたっけ」

「うん、前に聞いた……本当に短かったね」

 もはや村雨は、引き留めすらしない。自分が何を言おうと、ウルスラが意思を曲げる事は無いと、そう気付いているのだろう。元々、深い理由も無く道中を共にしただけの、殆ど他人とも言うべき相手なのだから。
 いや、確かに、旅をした時間は短かった。が、その密度はと問えば――薄いとは言い難い物だった。少し間違えば死ぬような事件が二度。何れも、終わって見れば、三人誰も欠ける事は無かったのだが、それでも。それでも、ただ楽しいばかりの道中とは呼べまい。
 楽しいばかりでないからこそ、寧ろ、同じ苦境を超えた者同士と、そういう一体感が有った。親友とまでは言わずとも――互いに互いを、友人と呼ぶくらいならば、異議を差し挟む余地は無い。
 然し、この別れの場面に、涙を流す者も、また居なかったのだ。

「それでは、また。江戸へ戻る際に、暇が有ったら立ち寄ってください」

 永の離別でもなし、生きていれば会う事も有る。だから、後ろ髪を引っ張られようが、立ち止まる意味はここにない。
 まず桜が、数瞬遅れて村雨が、背を向けて歩き始める。遠ざかる背に一度だけ頭を下げ、ウルスラは、遮蔽魔術で姿を消した。それはあまりにもあっけない、別れの光景であった。








 旅は道連れ、世は情け。然して道連れが、常に在るとは限らない。どこまで歩いても、背後に人の気配を感じない。それが、少しばかり物足りなくなる頃合い。

「勿体無いなぁ、くそ……ええい、二人目は絶対に逃がさんぞ」

「逃げないから襟掴まないで、逃げないから。歩きづらいから放して本当に」

 村雨の襟をがっちりつかんで、未練がましい事を言いながら、桜は道中を西へ歩いていく。
 ウルスラを引き留めたいという気持ちは、桜も持たないでもなかった。十字架を首から下げたウルスラは、これまで見たどの彼女よりも美しく――桜の言い回しで表すなら、〝抱きたい女〟であった。
 だからこそ、ウルスラが望まぬ事を強制しようと、そこまで我儘になれないのも桜だ。赤の他人には自分の我儘を押しつけ、誰よりも身勝手に振舞いながら――本心から欲しい物には、今一つ、我を通しきれない半端。自嘲混じりに、溜息を零す。

 ――貴女の生は苛烈過ぎる。

「そんな事も無かろうが、なぁ……」

「ん? どうしたのさ、いきなり――あと、歩きづらいから放してってば」

 別れ際に言われた言葉を、何度も何度も思い出しては、否定するように呟いた。自分自身は、そんな難儀な生き方はしていないと、自分を信じている桜だ。
 結局のところ、村雨の要求は、次の宿場に到着するまで聞き入れられない。襟元を掴む桜の手は、岩の様に頑強であった。

 八月、炎天下。空は青く高く、雲は少なく、鳶が大きく輪を描く。何気なく振り向き、足跡が自分達を追って来ない事を確認して――桜は寂しげに、足元の石を蹴った。
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