烏が鳴くから
帰りましょ

赤い壁のお話

 道連れが一人増えてしまった日から更に三日が過ぎて、桜達は島田宿へと到着していた。
 島田宿の名物と言えば、越すに越されぬ大井川の存在と、それに伴って発展した周囲の娯楽施設、宿泊施設である。万が一の反乱の際に容易く兵を渡らせぬようにと、大井川には橋が掛かっていない。旅人は人足の肩車か輿で川を渡るのだが、増水時はそれも出来ず、島田宿で足止めを食らう事になるのだ。ともなれば、長雨に無聊を慰める為、多種多様の施設が集まるのは当然の事であろう。
 遊女屋、賭場、酒屋は言うに及ばず、按摩に座敷芸、貸本屋、針灸。旅費が尽きた者の為には金貸しや質屋まで、ありとあらゆる設備が整っている。江戸まで行かずに江戸の気風を楽しめるという事で、外来人なども多く立ち寄る様になった。
 その様な理由で島田宿は、東海道中で指折りの大宿場街として栄えているのであった。

 話は変わって、蓬莱屋という宿の一室。雪月桜は畳に仰向けになり、もう何回目になるであろう独り言を零していた。

「雨だなぁ……やれ、困った」

 窓の外では、空が滝に置き換わったのではと疑わんばかりの豪雨が、土を叩いて抉っている。大井川は大幅に増水し荒れ狂い、とてもではないが、人足の一人として踏み込めぬ激流と化していた。
 思えば昨日、ぽつぽつと雨が降り始めた所から、嫌な予感がしていたのだ。夜になっても雨は止まず、深夜にふと目を覚ましてみれば、寧ろ雨足は強くなっていた。結果、見事に川止めを喰らってしまい、先へ進む事が出来なくなったのだ。

「荷物さえ無ければなぁ、泳いで渡るものを……いや、流石に流されるな」

 何事も正面から無理を押しとおす桜であっても、大井川の濁流と競おうという好奇心は起こさなかった。負けるとは思っていないのだが、痛手を負うとは自覚しているのだ。自然とは人間にとって、永遠に打破しきれぬ最強の敵なのである。
 従って、早朝から昼に至るまで、桜は退屈を持て余していた。一人旅、且つ資金が潤沢にあるのなら、遊女屋にでも出向いていた所だろう。が、女遊びは村雨に固く禁じられている。下手な事をしてへそを曲げられては面倒だと、目を盗んで抜け出そうという気にもならなかった。

「……これでは体が鈍るな……よし、決めた」

 部屋の端から端までの寝返りを一往復、突然桜は立ちあがる。脇差を腰に差し、太刀を背負い、ふらりと歩き始めた。
 その向かう先は、宿から続く渡り廊下である。川止めでの客を当て込んだ宿場町である島田では、店と店を屋根付きの廊下で繋ぎ、客人を雨に濡らさないという工夫が広まっていた。
 桜が向かった先は、剣術の道場である。道場破りで運動を、ついでに小遣い稼ぎでもしようと企んだのだ。








 一方で、桜が退屈を訴えていた隣室では、村雨が座禅を組んでウンウン唸っていた。

「うぅー……ねえウルスラ、さっきから全然進展が無いような気がするんだけど?」

「おかしいですね、これで正しい筈なのですが……何故でしょう?」

「私に聞かれても困るよ」

 ウルスラと呼ばれた少女こそ、あの隠蔽魔術を得手とする彼女である――ちなみに、この名前は洗礼名だ。桜に誘われ、また断る理由も特に見つからず同行した彼女は、村雨の正面で正座していた。
 彼女達の間には、一冊の書物が置いてある。やや頁の擦り切れた質の悪い紙の束には、子供でも読めるようにとの配慮か、簡単な文字と言葉を選んで文章が綴られていた。

「それでは……そうですね、最初からまた順を追ってやり直しましょう」

「また? 別に暇だからいいけどさー、これで三回目なんだけど……」

 ウルスラがぱらぱらと頁を捲れば、村雨は溜息を付いた。一言一句同じ台詞を聞かされるのが、村雨の主張の通り、これで三回目なのだ。
 二人が間に挟んでいるのは、『初等魔術入門』という教本である。その名称の通り、魔術という学問の道に入るに際して、身につけねばならない基本的な事項が記されている書物だ。家庭から寺子屋、はては藩校にいたるまで、おそらくこの一冊を手に取らず、魔術を修めた者はいるまいと言われる程の名著である。
 村雨が行っているのは、その書の中でも中盤の項目、体内の魔力を何らかの形で駆動させる修練だ。兎角どのような形でもいいから、魔力を使う事自体に慣れようという内容――難易度で言えば、魔術の道に入って一週間も有れば、辿り着ける内容なのだが。

「まずは深く息を吸い、止め、目を閉じる。自分の魔力の起点を意識し、それが火を噴く様な、或いは水を流す様な意識を保ち――」

「もうそこから分からない! 魔力の起点って何なのさー、もー……」

「……私も実際の所、良く分かりません。何なんでしょう?」

 村雨も、全く魔術を使えない訳ではない。少量の水を小さく、纏めて固体とする術を身につけている。だからこの過程など確認だけで済むだろうと思っていたウルスラは、すっかり途方に暮れた様子だった。
 そも、なぜこの二人が学問に興じているかと言うと、桜の命令である。聖書の内容を暗唱する程度には知識が有る桜だが、ウルスラはそれを習いたいと申し出た。すると、桜はその代金として、村雨に魔術を習わせろと要求したのだ。
 高度な隠蔽魔術に身体強化の術と、ウルスラは高位の魔術師である。だから、きっと指導も分かりやすい物になるに違いないと村雨は思っていたのだが――残念ながら、そうはならなかった。
 そも、能動的に思考する事を極端に苦手とするウルスラは、何かの指導者としての適性が無いに等しいのだ。教えられた内容は忠実に実行できるが、自分で方法を考えて問題を解決する事が出来ない。その為、村雨の予想外の習熟度の低さに、完全に手詰まりに追い込まれていたのであった。

「ええと、座学に内容を変更しましょうか?」

「今でも十分座ってます……そうしましょ、ずっとこの姿勢は疲れたし……」

 結局のところ、このままどれだけ続けても埒が明かないという事で、指導内容は変更と相成った。更なる基礎にして、究めようとすれば無限の時が必要とされる基本概念、『世界解釈』の講義である。

「ええと、これに書いてある事によると……そうそう、まずは此処からでした。最初に確認しておきますが、貴女が学んだ魔術の道は、洋の東西の何れに分類されるものでしょうか?」

「……ごめん、最初から分からない。いやさ、お母さんが大雑把な教え方してくれて、その後もちゃんと勉強する機会が無くってさ……」

「分かりました、一つ一つの項目を説明していきます」

 正座をし、またぴしりと背筋を伸ばしたウルスラに釣られるように、村雨も姿勢を改めて座っている。奇妙なお見合いの様な状況で、ウルスラは、定型文を読み上げる機械の様な口調で講義を開始した。
 曰く、この世界の魔術を大別すれば、錬金術を基盤とした西洋魔術と、五行を基盤とした東洋魔術に分けられるのだという。後者の歴史は前者に比べてやや浅く、普及度もまた前者が圧倒的に高い。これは魔術の効力の優位性というより、歴史に由来するものである。
 然しながら、日の本一国だけで見るならば、西洋魔術の普及率はかなり低いと言える――正確に言うなら、純粋な西洋魔術の、だ。古来より外来文化を飲み下す事に長ける日の本の人間は、西洋魔術も東洋魔術も同時に取りこんだ上で、更に京に根付く陰陽道とまで混ぜ合わせた。まさしく混沌とした学術体系を生み出していたのだ。

「とは言いましても、やはり陰陽道に端を発するこの国の技術は、西洋魔術の影響は薄いと言えます。大きく影響しているのは『えん』或いは『エーテル体』と呼ばれる概念ですが、ここは一先ず置いておきましょう。必要なのは、貴女の魔術が、どの技術体系から生まれているものなのかを知る事です」

「ちょっと頭が容量超えそうだけど……うん、続けて」

 必要無い部分を端折らず、重要な部分もあまり強調せず、ウルスラの説明は分かりづらい事この上ない。知恵熱が出るのではないかと危惧しながらも、村雨は話の続きを促す。

「西洋魔術の母体である錬金術は、世界を三原質と四元素に分けて考えます。一方で陰陽五行を母体とした東洋魔術では、木火土金水の五つに陰陽の二種を掛け合わせて事物を受けとめ――」

「ちょちょちょちょちょ、待って待って待って、もう分かんない、追いつけない」

 危惧がもう実現してしまいそうだった。次から次へと新しい単語が出る上に、その単語の意味が殆ど理解できない。難解な研究書物を読まされている気分だ。これが本当に初等教育における魔術の教書なのかと、疑いさえ覚えてしまう始末だ。

「えーと、さ……ほら、もっと簡単に説明できないかな? 固有名詞とか出来るだけ無くして……」

「はあ、簡単にですか……簡単に、簡単に……うう、どうすれば良いのでしょう?」

「私に聞かれても……あーもー、これも桜の思いつきが悪いんだー!」

 結果的に、今回に限ってはあまり悪くない桜に対し八つ当たりをしながら、仰向けになって手足をじたばたさせる村雨。ウルスラは未だ正座したままで、与えられた命令を遂行するにはどうしたものかと頭を悩ませていた。

「ええい、じれったあああい! ノンノン、文献を頭から読むだけで学習とは片腹痛ぁし!」

 襖の外から突然叫ばれたのは、その時であった。先程から行ったり来たりしていた臭いがこの部屋を窺っていたのだと、村雨は初めて気付く。

「――、誰だ!?」

「ああ、あああら、っどあったぁ!?」

 咄嗟に跳ね起き、襖を思い切り横に引く。すると、それに寄りかかっていた女が、派手にすっ転んで前転しながら部屋に入り込んできた。

「っおおおおぉ……腰が、腰がちょっとグキっていったグキって! 人でなし!」

 一回転し、腰を抑えて蹲っているのは、火の様に紅い髪をした女であった。痩躯だが、背丈は桜よりもさらに上、五尺八寸という所だろうか。流麗に日の本の言葉を使っているが、目鼻立ちのはっきりした顔は大陸の、それも西洋の人間の物に見えた。

「……ええと、誰よ。ウルスラ、あなたの知り合い?」

「いいえ、賊徒の類では無いでしょうか。襖から部屋の内を窺う者は、無警告で確保せよと習いまいたので……」

 村雨にもウルスラにも、その顔に見覚えは無い。どうやら全く無関係の、ただの通りすがりの者である様だ。正座の姿勢からすうと立ちあがったウルスラに、女は両掌を向けて後ずさる。

「ストップ、ストーップ! あ、待った待った! いや、怪しいものじゃあ無いですってえ、ただちょおっと覗き趣味があるだけの――」

「ウルスラ、私がるからいいよ。今なら一発で落とせる気がする」

「ごめんなさい、口が滑りました。真面目に答えますんでその拳を降ろしてください怖い」

 赤髪の女は、背中にばねでも仕掛けてあるかの如き挙動で土下座をした。丸められた背、畳に押しつけられる額、己の非力さと惨めさをこれでもかと主張するその姿。まさに非の打ちどころの無い完全な土下座、悲しいかな熟練の技術であった。
 あまりに見事な土下座を魅せつけられ怯んだ村雨の前で、女はパッと起き上がり、恐ろしく邪気の無い笑顔を作る。

「私は杉根すぎね 智江ちえ、旅の魔術師でありまして。ちょいと通りがかった所、何やら懐かしい練習内容が漏れ聞こえ、ついついこちらに来てしまった次第……貴女、魔術師見習いで?」

「杉根……え、この国の人?」

「いえ、外国人。こちらの国が気に入ったので、郷に入りては郷に従え、まず名前から従ってみたってえ寸法ですよぉ」

 偶に妙な間延びがある他は、発音まで全く不自然さの無い日の本言葉だ。名前までそうならもしや、とも思ったが、それは本人に否定される。それでも村雨は、やはり珍しい物を見る様な表情を隠せなかった。

「まあまあ、私の事はさておきましょう。それより貴女方、錬金術についてはどれ程の理解があります? 三原質と四元素、こいつがまた面倒なもんでしてねぇ」

 そんな村雨の顔つきを意にも介さないように、智江は愛想良く頬笑みながら、ぐいと身を乗り出す様にウルスラに近付いた。

「基本的な分類の仕方は。詳細な世界解釈に付いては、必要ないと判断され、指導されませんでした」

「ふむふむ成程成程、ではではそちらのお嬢さんは? 話を窺っていた所、殆ど知識は無い様に感じとれましたが……」

 腰を支点に上半身を旋回させ、今度は村雨の方へと向き直る。ウルスラは動じていなかったが、村雨は思わず仰け反ってしまいながら、どうにか答えは返す。

「残念だけど、そんな感じ。まず三原質って何か、って所から始めなきゃないくらいなんだよねー……」

「ほうほう了解了解、全く問題ありゃあしません! まあちょいと長くなりますが、寝そべるなり何なりしてゆるぅりと聞いてくださいな」

 斯く言う本人は正座をして、畳に置かれたままの教本を捲り、錬金術についての記述がある頁を村雨の方に向けた。

「そも錬金術の考え方と言いますのは、世界は神に作られた完全な一であり、全てはその一が特性を変えたものだ、という事なんですねぇ。特性を自由に操る事が出来れば、万物を人間の手で作り出す事が出来るだろう。こういう考えから、西洋魔術は生まれています」

「ふんふん……良く分からない様な、分かる様な」

 少なくとも、ウルスラの話に比べれば、出てくる単語が幾らか簡単だ。完全な理解には至らないながら、村雨は相槌を打つ。

「まあ、完璧な物質が一つ有ると過程してくださいな。その物質がこの世界に存在する場合、三種類の性質のどれかを持つ事になるんです。それが三原質――硫黄、水銀、えんという訳ですね」

「あ、この辺りから分からなくなる……名前がちょっと増えすぎるからさー」

「大丈夫大丈夫。分からなくなるのは、名前だけ覚えようとするからです。性質を理解すれば、名前なんざ自然に頭に残る。さらーっと流す様にお聞きなさいな」

 先の難解な講義で苦手意識を持ってしまったのか、早々に弱音を吐く村雨。智江はそれを宥めすかし、教本のページを一つ捲る。

「硫黄と水銀、これは対の性質ですね。硫黄は能動的、自分から外側へ影響を及ぼす事が多い性質の事。対して水銀とは、自分自身が影響を及ぼされる――つまり、受動的な性質を持っている訳です」

「ええと……温泉にある硫黄とか、鉱山にある水銀とかは別物なの?」

「はい、別ですねぇ。飽く迄も性質の名称として『硫黄』『水銀』と纏められているだけですから。複数の性質を一語で説明する為のやり方、という考え方で良いでしょう……此処まで、分かります?」

「んー……まあまあ、なんとか?」

 村雨もいつの間にか、思った程は難しい話でも無いな、と思えるようになってきていた。名前は仰々しいが、要は世の中を三つに分けるやりかたが有り、分け方に基準が有るというだけだ。

「ええとね、それじゃあ……四元素っていうのも、三原質と同じ、性質の名前なの?」

 そうなると、四元素とやらも同じ様に、世界を四分割して考えるものなのか? 単純な思いつきを問いにして見ると、智江は一度大きく頷いてから、然し否定を口にする。

「似ちゃあいますが、ちょいと違う。四元素っていうのは状態です、地水火風って言葉くらいは聞いた事があるでしょ?」

「あ、うん、有る有る。なんとなく、属性が四つあるのかなーとか思ってたけど……」

「ふうむ、ざっくりとした教わり方をしたもんなんですねぇ。まあ良し良し、話を続けましょ」

 続く内容も、知恵はあれこれと言葉を尽くし例えを尽くし、可能な限り単純な表現で村雨に説明を続けた。内容は、以下の通りであった。
 地水火風というのも、やはり名詞そのものの意味では無く、状態に与えられた名である。熱と冷、湿と乾の性質の組み合わせで分類される。
 乾は硫黄に分類され、湿は水銀に。乾にして冷の物を『土』、熱の物を『火』。湿にして冷の物を『水』、熱の物を『空気』すなわち『風』と呼ぶのだ。
 つまり世界は、三つに分類できると同時に、四つに分類する事も出来る。二重の物の見方が存在する、と言えるだろう。
 全ての物質は、これらの特性の比率を変化させる事により、別の特性を示す。これによって卑金属を貴金属へと、そしてやがては不完全な人を完全な不老不死へ導く事が、錬金術の目指す地平なのだ。

「はてさて、これらに加えて説明をすっ飛ばしましたえん、或いはエーテル体。こいつは西洋魔術では『無色の魔力』とも称されます、が――あら、あら、あら、ちょいと長居をしすぎましたねぇ」

「え、もうそんな時か……って、分からないねこれじゃ」

「ほおら、この通り。見てくださいな、かれこれ二時間近くも話しこんじゃって。流石は私、赤の他人に遠慮が無いアッハッハ」

 突然の智江の言葉に、村雨はほぼ反射的に、障子の隙間から外を眺めた。相変わらずの土砂降りと曇で、時間経過を測れる目印など見当たらない。
 智江は懐中時計を取り出し、開いて村雨にも魅せた。西洋に存在する都市国家、ナートラで作られた自動巻き式懐中時計だ。持ち主の魔力をやたら食うという事で、高額な割には使い勝手が悪いと不評の一品である。

「んーん、半端ですねぇ。もうちょっとで西洋魔術の基礎説明が終わったのに……ううむ、惜しい惜しい。これで終わらせるってえのは勿体無い話だ……という事でちっちゃい貴女、夜に遊びに来てもオーケー? 残りの説明もしちゃいますんで」

 膝を解いて一度立ち上がり、長い脚を曲げて、座ったままの村雨に顔を近づける智江。やはり背を反らせてそれから逃げるようにしながら、既に村雨は、その勢いに押し切られかけていた。

「誰がちっちゃいか……じゃなくて、随分強引だね……」

「ふっふーん、楽しそうな事がありゃ遠慮しないのが私です。ねえいいでしょー、そこらで月謝取ってる先生方より優秀ですよぉ私」

 座ったまま後ろへ下がっていく村雨と、追い掛けて前進を続ける智江。ウルスラはそれを、何か考え事をしているのか、上の空の目で見ているばかりだ。
 が、特に断る理由も無い。夜にする事がある訳ではないのだ、桜はウルスラに聖書の読み聞かせをするのだろうし。空いた時間で無料で学を身に付けられるなら、受けておいて損は無いだろうと思い、智江の額に片手を当てて押し留める。

「ん、来てくれるなら、こっちからお願いするよ。でもあんまり寄らないで、身の危険を感じる」

「いやいや私達は女同士、そんな危険な事を出来る器官は備わっちゃあいない訳でしてねぇ。ま、無理に押しても仕方がない、迫るのは後にしましょ」

「性別がどうとかそういう問題じゃなくってね、うん……でも、離れてくれると凄く助かる」

 むやみやたらに近付きたがる智江を押し離し、村雨は夜の予定を話し合った。夕食を終えてから智江がこの部屋を訪れ、講釈の残りを行うという事に決まった。今日が初対面の、しかも部屋を覗き見していた相手とこうも話が進んでいる事に、村雨は何か奇妙な感覚も有ったのだが、利益は利益として受け取っておくべきだろうかとも考えたのだ。
 それに何より、この智江という女の笑みは、人の警戒心を溶かす何かを持っていた。目の前の存在に対し、純粋に好意を抱いている事がはっきりと表れている、優しげな笑み。それが向けられている間、村雨は、智江を警戒しようという考えすら浮かばなかったのだ。

「それじゃ、ご飯の後で遊びに来ますよー。あ、お土産欲しい?」

「貰って困らない物だったら、割と」

「おーけい、適当に見繕って持ってきます、んでは!」

 結局、登場から退散まで、一人で勢いを保ち続けた智江であった。襖が後ろ手に閉じられた瞬間、村雨にどっと疲れが押し寄せる。

「ひー……一体、なんだったんだろう」

「さあ、何だったのでしょうね?」

 途中から、頷いて相槌を入れるだけになっていたウルスラが、久しぶりに口を開いた。居たのかという趣旨の事を、思わず村雨は呟いてしまったが、

「成程、教え方とはああいう風にすればいいのですか……ふむふむ、ふむ」

 ウルスラはそれを気にする事もなく、智江の指導方に思う所が有ったのか、しきりに頷いていたのだった。








 雨避けの通路を、桜は歩いていた。
 方々から美味そうな焼き餅などの臭いが漂ってくるが、それに引き寄せられる事は無かった。軽い空腹は有るが、飢えは神経を鋭利に変える砥石なのだ。
 人間には三大欲求――食欲、性欲、睡眠欲が、生まれながらに備わっている。だが、雪月 桜という人間は、いつの頃からか、睡眠の欲求が他に比べて薄くなっていた。常人の半分も眠れば、身体機能の全てを十全に発揮する事が出来るのだ。
 それを埋めるように発達したものだろうか、桜にはもう一つの渇望が有る。何者かと戦い、力に任せて打ち倒したいという欲求――敢えて名づけるのならば、蹂躙欲とでも呼べば良いのだろうか。
 戦う事、そのものも好きだ。例え負けるかも知れない相手だろうが、噛みつき、酷く手傷を負わせてやるなど、想像するだに心の踊る事だ。だがそれ以上に、鍛え上げた力を以て一方的に他者を捻り潰すのは大好きだった。
 自分自身の歪んだ嗜虐性を、桜は理解している。それを満たす為、どれ程に自堕落な生活を送ろうが、己を鍛える事は怠らずに居た。異常の域に達する身体能力と技量は、情欲を支えに発達したものなのだ。
 この日もまた、嗜虐性向の飢えを宥める為、桜は剣術の道場を訪れていた。門下生は多ければ多い程に良い。気風が荒ければ荒い程に良い。竹刀木刀では飽き足らず真剣長槍まで持ち出してくれるなら、狂喜は抑えがたく、床に就いてさえ淫らな熱の様に身を焼く事だろう。
 願わくば満ち足りる程の戦いを与えてくれ。桜は祈る様な思いで、町の道場の門を押し開いた。

「頼もう、看板を貰い受けに来た! 臆病と笑われたくなくば面を出せ!」

 看板など、本当は要らない。こう言えば、自らの武に誇りを持つ者は、無礼な訪問者に譲るものは無いといきり立ってくれる。それが堪らなくそそるという訳だ。
 然しこの日は、用聞きの末端の弟子さえ、声に答えなかった。人の気配は多々あるのに、だ。それどころか、玄関先から一段高くなった板張りの廊下に、泥の着いた草鞋跡が、奥の戸まで続いている。

「ち、先んじられたか……仕方がないな」

 大方、自分と同じ道場破りの中で、特に無礼な奴が先客として来ているのだろう。足袋が汚れるのを嫌った桜は、自分もまた草履を履いたまま、練習場の戸を開けた。

「……おおぅ、これはまた……」

 無礼を働くからには、腕に覚えのある者だろうとは思っていた。だが、眼前に展開された光景は、桜の想像をもう一段ほど上回るものだった。
 木刀を持った男が二人、血に塗れて仰向けになっている。桜が見るに、出血は何れも腕から。命は有るが呼吸が浅い、背か胸を強く打ったらしかった。年の頃を見るに、何れも道場では端の者であるのだろう。
 高弟達、そして道場主と思われる中年の男は、何れも真剣を構え、無礼なる道場破りを取り囲んでいた。彼ら八人の血走った目は、潰された面子を回復する為に殺人をも辞さない、武道の狂気を垣間見せる。桜は、囲まれているのが自分で無いのが、酷く悔しかった。
 だが、彼らの中心に佇む男を見れば――恋愛感情とはほど遠いが、心奪われたと言って良いだろう。身長六尺六寸(198cm)、然して柳の様に細くしなやかなその男は、徒手空拳で道場門下と対峙していたのだ。
 男は、この暑く湿った天候だというのに、丈の長い洋風の外套を羽織り、やはり洋装に似合いの中折れ帽を被っていた。足元の草履だけが日の本風で、桜には不釣り合いにみえてならなかった。

「き、貴様ァ……此処を兵道無涯流の道場と知っての狼藉かッ!」

「……良いから寄こせよ、金。道場ってのは、来る奴来る奴に頭を下げて、金を払う場所なんだろう?」

 道場主の大喝も、男は僅かにも動じる事なく、俗な要求を返していた。どの様な表情をしているかは、高い襟と帽子の鍔の為に見えない。だが、きっとこの状況を楽しんでさえいないのだろうと、桜は直感的に悟っていた。

「ぅ、ぅうおおおおおおあああぁっ!!」

「……くれねえのか、金」

 男を囲んでいた道場門下達の中で、桜の見立てでは一番未熟であろう一人が、刀の切っ先を男に向けて体当たりを繰り出した。この流派はどうやら、突きを得意とする流派であるらしい。
 男は長い腕を利して、刀を握る手を掴み、切っ先を体の外へ向けさせた。そして、もう片手でその首を掴み、締めあげながら引き寄せる。自分と同じ、掴んで投げ捨てる戦法を中心にする男かと早合点した桜は――次の瞬間、大きく目を見開き、思わず一歩踏み出していた。

「――!? ァ!? ァアアアアグ、アアギャアア!?」

「はっ……おへえよ、おはえ(おせえよ、お前)」

 男は、門下生の手首に噛みつき、その骨までを圧縮して噛み砕いていたのだ。絶叫と共に指の力が消え失せ、刀が床に落ちて突き刺さる。門下生は必死の形相で逃れようとしているが、肉を貫通して骨に食い込んだ男の歯は、釘が角材を固定するように、彼が逃げる事を許さなかった。
 数で優位なのは道場側。だと言うのに、男は先手を取った。上体と首を捻り、まるで手でそうするかの様に、噛みついた門下生を投げたのだ。首と顎を起点に射出した人間砲弾は、受け止めようとした門下生二人を巻き添えに、道場の壁に罅を入れた。

「金くれねえんならよ、良いよお前ら」

「く、未熟者が……掛かれ、掛かれ!」

 道場主は、先走ってやられた弟子への怒りを、苦々しげに吐き捨て、一斉に斬りかかる様にと号令を出した――既に、この時点で負けだ。自分一人では勝ち目が無いと、臆病を見せてしまったのだから。
 やはり先んじて動くのは外套の男。最も近くに居た一人に踊りかかり、やはり刀を持つ手を掴み、引き寄せ、噛みつく。
 だが、今度は投げなかった。噛みついたまま首を左右に振る事で、噛まれた門下生を振り回し、自分の武器に変えたのだ。

「……おお、おぉ……」

 桜は感嘆し、また興奮していた。手を使えば、自分はあれよりも派手に、人間を振り回したり投げたりは出来る。だが、口で同じ事が出来るかと考えると難しいだろう。顎の可動範囲の問題も有るが、筋力と技術もまた足りないかも知れない。
 一人、また一人、振り回された門下生の脚や腕に当たり、軽々と吹き飛ばされていく。振り回されている門下生自身も、手足の骨がおかしな方向に曲がり、鼻からは遠心力で出血してしまっていた。やがて、道場に立っているのが桜と男、そして道場主の三人だけになってから、その門下生はようやく解放された。噛みつかれていた手首は、腱まで潰れただろう。おそらく、治療しても完全な動作は取り戻せまい。

「素直に払っておけば、こうまではしねえってのに……」

「ぎ、ぐぐぐぐ……ぃい、ええええいっ!!」

 口の周りを赤く染めて近づく男に、道場主も恐怖を抑えきれなくなる。闇雲に突きを放った結果、呆気無く男に避けられた。伸びきった腕、流れた体、何れも男の噛みつきが決まる条件を、完全にお膳立てしている。

「ふん……あー、らぁっ!!」

 然し、男の歯が吸い込まれたのは、道場主の腕では無かった。それより更に上、右肩を男は噛み砕いていた。一噛みで肉を抉り、骨を砕き、腱を断ち、腕としての機能を奪い去る。枯れ木をへし折った様な心地よい音に、桜はそっと目を細めた。

「いや、ッギイ、ああああ!? ああ、私の腕、腕が、ああああああ!!」

 右腕が動かなくなり、ただ肩から肉と骨がぶら下がっているだけとなり、刀も握れなくなった。どうにか使える左手で患部を庇い、道場主は痛みに絶叫する。

「……おい、金。看板なんていらねえんだ、金をくれよ」

 男は道場主の胸倉を掴み、前後に強く揺すぶる。痛めつけるという行動は、所詮は目的ではないのだ。最初に金さえ渡されれば、きっと男は、誰を傷つける事なく去っていたに違いない。そう確信出来る程、男は金以外の事に無関心だった。
 道場主は、最後のあがきだろう、左手で男を殴りつける。まるで効き目は無い――が、その行動の結果が、もう一度、桜の目を大きく開かせる事になる。道場主の袖に引っ掛かり、男の被っていた中折れ帽が落ちたのだ。鍔が作っていた影が消え、男の顔がはっきりと晒された。
 男は、若さと力に溢れた、凶暴にして均整の取れた顔つきである。然して首からその頬の半ばまで、頭髪や髭とは明らかに質の違う体毛が生えていた。
 頭髪や体毛の色は、日の本の人間にしては薄く、茶色と黒が混ざり合っている。そして、頭髪を掻き分けて見えている耳は、明らかに人の物に比べて丸く、またそれ自体も体毛で覆われていた。

「……てめえ、こら、てめぇ」

 男は、憎々しげに歯を剥き出しにした。道場主の胸倉を掴んだ両手を、高く高く持ち上げる。襟が首に食い込んだ道場主は、呼吸さえ侭ならずもがくばかりだ。

「そこまでだ、そこまで。やり過ぎるな、誤魔化しが聞かなくなるぞ」

 これ以上やれば死ぬだろうと見て、桜はようやく止めに入る。男に近付き、その腕に触れ、手を降ろさせようとした。

「……あぁ……? ああ、居たっけな……」

 意外な事に、男は素直に従った。道場主を投げ落し、帽子を拾い上げて被り直して、それから桜の方を向く。余計なお節介を焼いた相手に、敵意などは持ち合わせていない様子だ。思考が熱しすぎていたのか、別に気配を隠していた訳でも無い桜に、今更気付いたらしい。

「見事なものだな、だが殺しては拙い。どこに人の目が有るか分からんのだ……ほれ、外套が赤備えになっているではないか」

 口の周りを血に塗れさせ、外套まで滴らせた男は、まるで人間を解体して喰らった後の様でさえある。指摘されて口を袖で拭い、男は桜を、山野の獣の様な目で観察していた。これが敵なのか餌なのか見極めようという、肉食獣に見られる、自分優位を前提とした目だ。

「何の用だ?」

「手合わせ願う、と言いたかった。が、これではまず医者を呼んで来ねばならんな。つまり、用などは無い」

「……そうかよ」

 歯で肉を切り裂かれた傷は、刃物ですっぱりと斬られた傷に比べて歪に開いている為、自然の止血が難しい。男も此処へ来て、少々やり過ぎだったと気付いたのだろうか。立ち尽くす事を止め、道場の奥、おそらくは道場主の部屋だろう方角へと足を進めていた。

「何処へ行く?」

「金だよ、幾らかは有るだろ」

 端的な答えに、桜は思わず笑っていた。欲求は直接的な物の方が、理解しやすくて好ましい。金銭欲だけで此処までやるからには、筋金入りの守銭奴だろう。

「お前、亜人だな? 珍しいな、大陸でもそう見た事は無いぞ」

 だが然し、桜はまた、男が感情を揺らがせた場面も見逃してはいなかった。家探しを始める男の背に、好奇心で問いかけた。

「……嘲笑わらうかよ、あぁ?」

「まさか、田舎者か年寄りならいざ知らず」

 背を向けたままの男だが、牙を剥いたような威圧感が、桜の肌を叩いた。然し、受け流す様な答えを返せば、空気の抜けた紙風船のように、男の長身も縮んでみえる。

「直ぐに医者を呼ぶ。逃げるなら早くしろよ?」

 自分自身の欲求は満たせなかったが、桜は十分に満ち足りていた。良く知らぬ町の事と言い訳をして、医者見つけるまでは随分と遠回りをした。








 さて、夜である。宿の用意した夕食も終わり、また各々銭湯から戻り、後は眠るだけの気楽な時間だ。
 桜とウルスラが聖書の学習を行っている隣室で、村雨は、智江に昼間の続きの講義を受けていた。

「まあそういう訳でして、この辺りまでが昼間のおさらい。んで、こっからが残した説明なんですが……たしか『えん』の部分からでしたねぇ」

「うん。エーテル体、或いは『無色の魔力』だっけ? 『硫黄』と『水銀』が対になってるのに、一つだけ別なものがあるの?」

 あの後、自分でも何度か教本を読み返した結果、村雨も少しは、魔術についての知識面での理解を深めていた。誰かに説明を受けると受けないでは、同じ内容を目にしても、頭に入る内容量が随分異なるのだ。

「ええ、ええ、その通り。『えん』ってのは、対になる二つの存在を繋ぎ合せる――つまりは、地水火風の四元素が流動する為の中間的要素、くっつける為の糊みたいなもんです。細かく言うと、違いはしますがね」

 生徒の理解の早さが楽しいのか、それとも常にこの表情なのかは分からないが、智江は昼間と同じ様に、人を安心させる笑みを見せていた。二度ほど頷いて、指を四本立て、それを反対側の手でぎゅっと握りこむ。これがどうやら、纏めるという行動を表す仕草らしい。

「最初に混乱させる様な事を言っちゃいますが、本っ当に厳密に分けると、『無色の魔力』と『エーテル体』ってのは違うものなんです」

「……はい? あれだけ同じ同じって言ってたのに?」

 理解した内容をいきなり覆されて、村雨はぽかんと口を開けてしまう。

「ええもう、こいつは余計な豆知識ってレベルなんですがね。『エーテル体』ってのは空より更に上、星の運行なんかを示す為に作られた概念みたいなもんなんです。運動とか霊とか、そういうどこかはっきりしないものを象徴させて、実際に起こっている現象を説明する……まあ、後付けですね」

「えーと、えーと……カッコーカッコーって啼く鳥がカッコウって名づけられるとか、そういう話?」

「ちょいとばかしずれてる気もしますが、そういう事にしときましょ」

 例えの妥当性に智江は首を傾げたが、大きく間違えているという事も無く感じ、特に否定はせずに話を進める。

「で、『無色の魔力』。これは単純に『力』なんですよ。何らかの特性を与えられずに居る、大きさだけを持った力の渦……それだけじゃあ何も出来ませんが、何になる事だって出来る。白い紙には絵だって文字だって書けるし、折れば動物の形も作れるでしょう?
 それと同じで、術者の力量次第であらゆる特性を持ち得るのが『無色の魔力』――四元素に対するエーテルの様に、分類出来ないけど確かに存在する物ってえ訳です。こっちは観察が出来ますし、第一にして大概の人は自分の体で作れますもんねぇ」

「ふんふん、そういうのは分かる。なんか他の魔力よりさっぱりしてる感じって言うか、薄い感じがする魔力って有るもんね」

「ですね、薄いってのは確かだ……と、話を進めましょう。そんな訳で西洋魔術の根幹は、無色の魔力を変換して使う、というのが基本的なやり方になっています。この変換の過程に必要なのが、世界に対する認識――敢えて言うなら『こじつけ』なんですがねぇ」

 一段落着いたと、智江は懐中時計を取り出して時間を確認する。まだまだ余裕のある時間帯らしく、懐に直ぐに戻し、軽く咳払いをした。
 村雨の知識と理解が完全に及ばなくなるのは、この辺りからである。世界に対する認識とは、一体どの様なものなのか、未だに納得のいく説明を受けた事が無い。それは、村雨に魔術を指導した者が、せいぜい母親くらいしか居なかったからでもあるのだが。

「その、こじつけって言うの……良く分からないんだよね。私が習ったのって、そこらに有る水を感じとって集めろ、って感じの大雑把なやり方だったから……」

「ふむ? 貴女のはどうやら、西洋魔術に属するやり方かも知れません……と、その辺りは後で説明しますが。さて、世界に対する認識の事ですが、こいつは本当に面倒です。世界には無限の要素があるのに、それを四つや五つの要素の組み合わせで理解しようなんて難しいでしょう? だからまあ、使わなきゃ無い部分だけ理解しようとすりゃいいんです。
 では聞きますが、そこらに生えてる木って、地水火風で考えると何だと思います?」

「え、木? ええと、えーと……」

 いきなりの質問だが、ここまで聞かされた話を振り返って、村雨はどうにか答えを探す。木、乾いていて不動、可視、体温は無い。

「……土、かな。地面から生えてるし、それがしっくりくるんじゃないかと思う」

「上出来。然しながら、もうちょっと深く考えてみましょう。木ってのは、傷つけると樹液を流します。葉っぱの瑞々しさを考えると、此処は水の特性を持ってると見ても良いのではないでしょうか?
 そう、そういう事。世界に対する認識、世界の解釈ってのは、ちょっとだけ複雑に物事を見て、分解して把握するってえことなんです。水の術を得意とする術者は、大気中からでも土中からでも、燃え盛る炎からでさえ、自分の手元に水を作り出す事が出来る。もっと言えば、それが水で作られていると本気で信じる事が出来たなら、他の誰が何と言おうが、貴女の世界ではそれが真実になるんですよ」

 西洋魔術は、錬金術に端を発したが為に、外から世界を観察する事に徹した体系を作り上げた。世界の全てを『自分が理解・使用できる物』に置き換えて解釈し、無色の魔力に特性を持たせ、それを再現する。故に、外に存在する魔力の扱いに長け、結果的に属性使役の魔術に長けている――例えば、燃え盛る火が持つ魔力は火の特性を、流れる川が持つ魔力は水の特性を、それぞれ内包するからだ。
 智江が村雨の術を、西洋魔術由来の体系と推測したのは、外にある水を感じとり集めるというやり方が、外界の魔力を自分の支配下に置く行程と似ている様に思えたからだ。厳しい風土に育った西洋魔術は常に、自然と向き合い、打破する為の技術でも有ったのだから。

「……そういう訳で、まず理論から身につけようと言うのなら、此処までの内容は話半分で構いません。ただ、世界に対する認識を確立させる事、自分なりの解釈を練り続ける事だけは忘れないでください。人間の寿命じゃあ完成出来る筈が無いとまで言われる内容ですから、ぶっちゃけ遅れて始めようがどーにかなるんです。のーんびり気を抜いて、ごろごろしながら考えてみなさいな……と、これで西洋魔術概論はおしまい! お疲れさまでしたー」

「お疲れさまでしたー……ふいー、色々詰め込み過ぎてなんか頭が重い……」

 終了の宣言と共に、同時に畳に仰向けになる村雨と智江。体への疲労は無いのだろうが、慣れぬ方向に頭を使った為、村雨は軽く額に熱を感じていた。所謂知恵熱という所だろうか。
 だが、知恵熱出たなどと言おうものなら、隣で転がっている相手の名前と被ってしまうとおかしな事が気になり、それを口にする事は避ける村雨であった。

「……で、いまさら何だけど、私は村雨。なんかさ、自己紹介する機会、完全に無くしてたよね」

「そーいやそうですねえ。それはお名前? それとも名字?」

「ん……名前、かな」

 代わりの話題と言うのも何かおかしいが、自分が名乗っていない事をようやく気付いた村雨。妙に濁した言葉に対し、智江は体を起こし、首を傾げた。だが、その点についての追及は無い。何か得心がいった様に、深く一度頷いたばかりだ。

「明日、続きでもやります? 東洋魔術は専門外なんですが」

「え? いや、明日って言っても……」

「どーせこの雨じゃ、明日止んだとしたって川止めは解除されませんってえ。西へ向かうんでしょ? こりゃ、あと数日は足止めを食らいますよ」

「まあ、そうだろうけどさ……」

 智江の言う事はもっともで、日中よりもいよいよ雨の勢いは強まり、川の増水も加速している事だろうと思われる。この調子ならば短くとも二日、長ければ五日以上も、この宿に滞在する事にはなるだろう。
 だが、赤の他人にそこまでしてもらうのも気が引ける。あまり一方的に好意を向けられると、村雨も、やはり不安にはなるのだ。

「だから、ねえ、良いでしょう? 貴女の用いる技術体系は、私の得意とする所。ちょいとばかし乗り気になってくれたら、この国じゃ身に付けられない最高レベルの学問まで……」

「っちか、近い近い、あんまり寄らないで。身の危険を感じるんだってば」

 果たして、不安が的中したのかも知れない。横になったままの村雨に覆い被さる様に、智江は身を乗り出してきた。顔の両脇に手を着かれ、後ずさりも出来ない。むやみやたらと近づいてくる顔を、村雨は両手を盾にして防いだ。

「いやいや、大丈夫大丈夫。ほら、天井の染みを数えてるうちに終わりますし?」

「全然大丈夫じゃない例えだよね? 寒村から売られてきた子への常套句みたいなものだよね?」

「あらん、思ったより悪い事を知ってる子。いけませんねえ、こんな子にはお仕置きをたっぷりと……」

「するなっ! どうしてもそっちの方に話を持って来なきゃ気が済まないの?」

「ええもうそりゃあ、美少年美少女はだーいすきですんで」

 何処かの誰かに強引さは似ているが、然し守備範囲は大幅に広い。思っていたより厄介な相手だったと、村雨は今頃になって、身に染みて実感する。とは言え然程力が強くない事もあり、手で顔を抑えられていれば、それ以上の事は何も出来ない智江である。色々と教えてもらった事も有り、何より彼女の笑みは不思議と安心感を与えてくれるものであった為、村雨もあまり強くは出られずに居た。

「もう、離れてくれないと怒るよ?」

「どうぞどうぞ。美少女に罵られるのもそれはそれでばっち来い」

「あ、駄目だこの人、駄目だ……じゃなーい、離れてー……!」

「むぐぐぐぐ、いーやーでーすー……!」

 だが、いつまでも上に圧し掛かられていても動けない。顔を押して引きはがそうとする村雨と、意地でも引っ付いて離れまいとする智江。赤ん坊をあやす際の百面相の様に、頬を耳の方向へ引っ張った顔になりながら、智江は村雨の手を放そうと悪戦苦闘していた。

「ぃ、きゃあああああああああぁっ――――」

「……!? 何、今の……?」

 何も知らない者が見れば、微笑ましいのかも知れない光景。それを破ったのは、耳をつんざくような悲鳴であった。反射的に村雨は、体を横に捩じって、智江を振り落として起き上がる。

「はら、悲鳴……今のは、玄関口の方?」

 畳に転がされる羽目になった智江は、立ち上がりはしないものの、耳を澄ませて様子を探っている様だった。顔から、あの笑みが消えている。笑わなくなると、存外に冷ややかな印象を与える顔立ちだと、村雨は今、初めて気がついた。

「……ちょっと見て来る、待ってて」

 襖を開け、廊下へと村雨は飛び出す。途端、濃密な血の臭いが鼻腔を刺した。確かに、臭いは玄関先。その場所にもう一つ、嗅ぎ慣れた臭いが有った事に気付いて、幾らかの安堵も混じっていたが。
 廊下を真っ直ぐに走り、突きあたりを右。そしてまた直ぐに右へ曲がると、玄関まで真っ直ぐに開けた通路に出る。

「桜、今のは!?」

「仕留めた。が、一人やられた……見覚えは無いか、こいつに」

 嗅ぎ慣れた臭いは、紛れもなく雪月 桜のもの。四尺の大太刀は、赤々と血に濡れていた。何かを斬った事は明らかだった。
 桜の足元には、両断された人体が一人分、つまりは二つ。下半身は、至って尋常の形状である。だが、上半身の方は、歪を纏めて作った様な、奇怪な形状をしていた。

「……これ、何? 確かに、似た物は見た事有るけど……」

 斬り捨てられた上半身は、胴体と首だけは人間のものだった。肩から先の形状、鋼の様な体毛が、明らかに人の物では無かった。大木の様な腕、太く長く鋭い爪は、蝦夷地のヒグマのそれである。

「……まさか、同じもの?」

「おそらくは。私が斬り、お前が壊した『あれ』と同じだ……拙いな」

 村雨と桜は、この怪物の名前は知らない。だが、この『人工亜人』の殺傷力、凶暴性、そして空腹性は十分すぎる程に理解している。

「他におらんか、お前の鼻で探れ。私でも刀が無くては少々手こずる、並みの魔術師などでは太刀打ちできんぞ」

「分かってる、今直ぐに――って、あ、桜! 外!」

「外がどうし――、おう!?」

 桜が村雨に、村雨が桜に気を取られた、ほんの一瞬の出来事だった。おそらくは『人工亜人』の爪で叩き壊されたのだろう玄関の外から、赤い光が差し込む。何事かと目を向ければ、其処には宿の外壁に隙間なく張り付くように、赤い壁が出現していた。
 程無く、宿の他の部屋からも、断末魔とは違うが、驚愕と恐怖に染まった悲鳴が上がり始める。壁が、赤い壁がと叫ぶ声は、小さな宿の中に伝染していった。
 桜は、壁に刺突を放つ。切っ先は壁に触れ、然し衝突音を僅かにも鳴らす事なく、桜の突きは止まっていた。

「……手応えが無い。手に反動すら返らん……なんだ、これは」

「何それ、どういう事……?」

「分からん。私の頭では、さっぱりわからんが――」

 背の鞘の蝶番を開き、太刀を納め、閉じる。怪物に叩き殺された宿の娘は、玄関先に横たえた侭にした。廊下を血で汚して歩きまわっては、余計な混乱を招くだけだ。急場にあって恐ろしいのは、下手に殺す事の出来ぬ味方である。

「――私達は、この宿に閉じ込められた。理由は知らんが、そういう事だろう」

 夜陰に行燈の灯りから、不気味に発光する壁の赤に、宿の景色は染められる。壁一面が血で染められた様な空間に、村雨は、単純な恐怖を覚えた。複雑な訳など存在しない直感、自分の身が危険に曝されているという、獣染みた確信であった。








 日の本の家屋というものは、基本的にはどの空間も開け放たれているようなものだ。障子や襖はただの紙と木、破ろうと思えば容易く破る事が出来る。その守りは、酷く脆弱と言うべきであろう。
 即ち、いざ危機が迫れば、室内に立て籠るという選択は、賢いものではない。然し現在、この蓬莱屋という宿は、外界から遮断されている――突如出現した、赤く発光する不気味な壁によって。
 この夜に宿泊していた旅人九名と、宿の主人を含む従業員五名から、玄関先で化け物に殺された一名を引いて十三名。この人数は自然と、最も広い一室に集まって、僅かでも安心を得ようとしていた。

「どうなってるんだ、ここはあんたの宿だろう!? こんな事をしでかしたのもあんたじゃないのか!?」

「い、いいえそんな滅相もございません! 私は決してその様な事は……」

 子供と妻を連れた父親が、宿の主人に喰って掛かる。冷静さを失っている事は明らかだが、無理もない。この父親は玄関先で、あの死体を見てしまったのだから。妻と子に来るなと怒鳴りつけ、惨劇を見せなかったのは、称賛に値する機転であろう。

「お母様……ねえ、お外の赤いの、なあに……? なんだか、みんなが怖いです……」

「大丈夫よ、大丈夫だからね……ほら、抱っこしてあげるから寝てなさい……」

 良く顔立ちの似た母子だ。宿の主人を怒鳴りつけている夫には、あまり似なかったらしい。紅葉の葉のように小さな手が、母親の顔をぺたぺたと触っている。

 不慮の事態に巻き込まれた親子の不幸を、自分自身もまた当事者である筈の桜は、壁に寄りかかってじっと見つめていた。常日頃の、氷像のように凍てついた表情だ。動転も焦燥も見受けられない。だが、事を楽しむ余裕なども無い。

「桜、さっきからどうしたの?」

 玄関先で怪物を斬り殺し、混乱する従業員を両手に一人ずつ引っ掴んでこの部屋に放り込んでから、桜は押し黙ったままだ。泣き騒ぐ宿の従業員、主人に半ば八つ当たりする父親、そして娘を宥める母を同時に視界に入れ、不動を貫いていた。

「……数を、数えていた。ここに居るだけでも、少々手に余るのだが……」

「何が?」

「二体ほどあの化け物が出た時、誰も殺さず斬り抜けられる人数か、だ」

「……珍しい事を言うね、桜にしては……ん。いや、そうでもないかな」

 桜という人間に似つかわしくない言葉だと思ったが、村雨も直ぐに考えを改める。確かに桜は他人を見捨てる事は躊躇わないだろうが、かと言って積極的に見殺しにしようという人間でも無かった。それは、あの満月の夜の化け物騒ぎでも証明されている。自分に対して不利益を齎さない人間は、生きている事が望ましい。そういう考え方をするのが雪月 桜であった。
 つまりは、人が多すぎるのだ。前回同様に二体の怪物が居た場合、片方を斬る間に、もう片方が誰かを殺してしまいかねない。桜の見立てでは、七人か八人なら、纏めて頭を抱えさせていれば、どうにか守りきれる。現状では、とてもではないが数が多すぎる。
 村雨とウルスラの二人でも、あの化け物一体と互角に戦えるか、微妙な線だ。あの月の紅い夜ならば、村雨一人でも十分だっただろう。だが、今は駄目だ。知的労働を厭う桜だが、こと戦力の把握という点ならば、老練の将軍よりも長けている。

「頼みの綱は、あの男だが……」

 珍しく溜息など吐きながら、桜が視線を向けた先には、屋内でも帽子を被った長身の男――あの道場破りの亜人である。あれならば、化け物と一対一にしても勝つだろう。そう、桜は身立てていたのだが――

「おうい、お前。力を貸す気は無いか?」

「金だ。幾ら出す?」

「……三百文くらいではどうだ?」

「話になんねえよ」

 ――予想はしていたが、この通りである。別に、目の届く範囲に化け物が現れさえすれば、あの男も戦いはするのだろう。然しながら、能動的に化け物を探して叩き潰すという案には、とても応じてくれそうにない。
 ただ立て籠るだけならばまだ良い。問題は、外と内を遮断する壁の存在だ。自分の渾身で傷一つ付かないという事は、あれは物理的な衝撃で破壊出来る性質の物ではないのだ。自信過剰に思われるかも知れないが、桜はそう確信している。
 あの壁がある限り、外に出る事も出来なければ、外から食糧を持ち込む事も出来ない。仮に井戸が壁の内側にあれば良いが、そうでなければ水も無い。厨房に残る食材も数えておかねばならないだろう。移動の用心に、やはり一人は戦える者が欲しい。

「……となると、頼りはやはりお前の鼻か。今のところ、化け物は?」

「血の臭いが濃過ぎるから辛いけど……少なくとも、この部屋の周りには居ない。出てくれば気付く……と思う」

「良し、信じるぞ。暫くは、他の連中の顔と臭いでも覚えておけ」

「了解。これくらいなら無理ないね」

 暫く――少なくとも最初の混乱の波が引き、現状を全員が把握できるようになるまで、桜は動かない事を選択した。下手につついて勝手に動かれては困る。馬鹿が一人で死ぬのは構わないが、往々にして愚か者というのは、周囲を巻き込み悲劇を産むものだ。

 村雨は、部屋の中を見渡し、そこに居る者の集まり方、集団の作り方を観察する。
 この様な事態になっても、まだ見知らぬ者と関わろうとする者がいないのか、集団は非常に分かりやすい構成だ。親子連れ三人で一つ、宿の者が四人で一つ、それから自分達も三人で一つ。残った三人はそれぞれに、他の集団から離れて一人で居る。
 一人は、桜と顔を合わせた事があるらしい長身の男。一人は、やたら周囲を気にしてきょろきょろと視線を動かしている、市目笠を腰に括りつけた女。そして後一人は、先程まで村雨と共に居た智江である。
 最も慌てふためいているのは、見た所では宿の者達だ。同僚が死んだ事も大きいだろうし、宿の主人に関しては、宿泊客の命を預かるという意識も有るのだろうか、特に落ち着きが無い。妻子を連れた父親も焦りは見えているが、然し子供の前という事も有ってか、宿の者達に比べればまだ冷静だ。
 桜に関しては言う事もない、この場の誰より安全だと、村雨は十分に知っている。群れを作らず一人で居る者達は、市目笠の女が挙動不審な以外、落ち着き払っている。
 自分自身も、まだ心拍数は高いが、冷静に思考は出来ていると考えていた。そして残る一人に至っては――

「ウルスラ、居る?」

「隣に先程から、ずっと。何か御用でしょうか?」

 姿も臭いも消し、会話の為に戻した声は、平時の様に冷めきっている。桜が玄関先で化け物を斬り捨てたその時から、実はウルスラは、ずっとその後ろを歩いていたのだ。
 彼女の場合、動じていないと言うよりも、動じる理由を理解していないと言うのが正しいのだろう。物事を判断する力に著しく欠ける彼女は、もしかしたら、外と完全に遮断された現状さえ、正しく認知していないのかも知れない。

「……ええとね、あの女の人。一人で居て、周りを見てるあの人……分かるよね?」

「旅装束の典型例の女性ですね?」

「そう、それ。あの人の事、ちょっと見張ってて貰いたいの。あ、姿とかは消したまま、気付かれないようにね」

「はあ……はい、畏まりました」

 連れだって歩いて分かった事だが、ウルスラは非常に従順だ。命令の理由を理解せぬまま、完全にそれを遂行しようとしてくれる。だが、そこには大きな盲点が有る。

「……一応言っておくけど、何か怪しい事をしようとしてたら止めるか、桜や私に伝える事」

「怪しい事とは、具体的にどの様な内容でしょう?」

「ええとね、魔術を使おうとしてたり、わざわざ人の居ない所へ行こうとしてたり……後は、誰かに危害を加えようとしたり……?」

 ウルスラは、悲しい程に能動的な発想が無い。受けた命令は徹底するが、言葉として示されていない部分は一切行わない――と言うより、そこに考えが至らないし、考えようとさえしない。逐一指令を出してやらねば、見ていろと言えばただ見ているだけで、何が起ころうが報告さえしないという役立たずぶりを発揮してくれる訳だ。

「あの化け物――玄関で真っ二つになってた奴を見つけたら、直ぐに桜に教えて。目と鼻で獲物を探す奴だから、ウルスラなら簡単に逃げられる筈だし」

「承知しました、監視を始めます」

 村雨がその場で思いつく限りに細かい指示を与えると、近くに有った気配が動き始める――確かに音も臭いも無いが、空気の流れが変わる事までは避けられないのだ、動いたという事実くらいは分かる。空気の流れだけで攻撃の挙動を一々読み取れる桜が異常なので有って、村雨が無能という訳では決してない。
 気配が離れていく。おそらくは監視対象の女にぴたりと張り付くつもりなのだろう。見えはしないがウルスラが居るだろう方向へ何気なく目を向けると、何時の間にやらそこに智江が立っていた。何も無い空間を抱きしめているのは、きっとウルスラを捕えたのだろう。

「んん……? ふうむ、確かに此処に居る、魔力の流れも人のものだ、感触も確かに人間だ。しっかししかし見えない聞こえない、不思議なもんですねえ……」

「あー、あの、智江さん? ちょっと、その子を放してあげてくれないかなー……と言うか、どうやったのよ」

「おや、村雨ちゃん。私くらいの術者ともなれば、隠蔽魔術の一つや二つ見抜くのは朝飯前――ところでこの子、貴女と一緒にいたあの子?」

 閉じ込められ、既に一人が死んでいるという異常事態にも、彼女の調子が狂う事は無いらしい。姿の見えないウルスラを抱きしめ、頭が有るのだろう場所に手を置いて、自分の体にぐいと引き寄せている。
 智江の目には、強い好奇心の光が灯っていた。悪意は無いのだろう、ただ珍しいから捕まえて触れている、その程度の気持ちに過ぎない。

「んー、村雨ちゃんもちっちゃめで可愛いけど、こういうスレンダータイプでちょっと大人びて来た所の子もいいですねえ。ええと、ここが後頭部だーかーらー……」

 訂正。邪念は多分に混じっているが、好奇心がそれを更に上書きしている。やはり誰かに良く似ていると呆れながらも、村雨は智江を引きはがしに掛かろうとした――が、先に桜が、そこに割り込んでいた。

「こらこら、あまり触り過ぎると料金を取るぞ。一応私の連れなのだ、そいつ」

「おや、保護者さん? この子、服を着てないみたいですが……貴女のご趣味で?」

 手はやはりウルスラの頭に置いたまま、智江は桜の方に顔だけ向けた。桜を見上げずに会話する女性は、村雨は初めて見たかも知れない。何れも下手な男より背の高い二人は、こうして並べると中々に見栄えがする。

「趣味は趣味だが違うわ。そういう術なのだとよ……誰だ、お前?」

「ふむふむ、自分だけに作用する術でしょうか――あっと申し遅れました、私は杉根すぎね 智江ちえ、お宅のお嬢さんの恋人候補でございます」

「誰が恋人候補よ、誰が」

「そうだぞ、これは私のだ」

「だから違うっつーの……ええとね、なんだか良く分からないうちに知りあいになった人、魔術師。結構な腕利きだよ。それから智江さん、この人は雪月 桜、私の雇い主、危険人物。あまり近づかないように」

 そして残念な事に、性格も割と似通ってしまっているらしい。普段なら一人の言葉だけ訂正していればいい所を、今回は労働量が二倍になる。村雨は早くも疲労感を覚える。
 それでも、この進みそうにない会話に助け舟を出す程度の考えは回る。自己紹介だけで蝋燭の数本を溶かしかねない二人の代わりに、簡単に素性を説明した。

「智江さん、とりあえず手は放してあげてくれない?」

「ちぇー、さわり心地が良かったのにー。ああもう手が寂しい、代わりに村雨ちゃんカモーン」

「いや、行かないよ?」

 ようやくウルスラは解放されるが、やはり智江の調子は変わらない。この状況下でここまで気楽に居られるのも、ある種の才覚だろう。

「……っと、いけないいけない、我欲に走り過ぎて本題忘れてました。玄関のあれ、斬ったのは貴女でよろしいんで?」

「ん? ああ、確かに私だが」

「ほう、成程成程。単刀直入に聞きますが、あれに苦戦するとお思いで?」

「いいや、周りに誰もいなければ一太刀で斬り伏せられる。あの腕は下手な刀なら弾くが、私の『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』であれば、まるで問題にもならん」

 話題を切り替える速度は、二人とも良い勝負。軽口の押収から一転、声に真剣味を存分に含ませ、智江はここから見えない玄関の方へ視線を向ける。

「……私もそこそこに覚えは有りますが、あの化け物を倒せる自信は無いんですよねぇ。いざとなりゃあ、貴女に頼らにゃならないと来た訳だ。ですが、貴女は二人はいない。そいつが問題な訳ですよ」

「それは考えていた。状況を把握しに行きたいが、確実に安全だと言い切れるのがウルスラしかおらん。あいつは機転が利かんからなぁ……」

 本当に、宿から出る場所が無いのか。食糧はどの程度あり、水はどの程度確保できそうか。何時まで閉じ込められるかが分からないのだから、その程度は調べておきたい所だ。だが現状では、能動的にあの怪物と戦い勝利出来るのが桜しかいない。万が一の事を考えると、その視界から人をあまり外したくは無い。

「……そこでなんですがねぇ、お宅の村雨ちゃんを貸していただけませんか? わたしゃ勝てないが、逃げ足は自信がある。然しながら化け物が隠れていた場合、それを見つけるのはちょいと苦手な部類なんですよ」

「と言うと、お前が宿を見て回るつもりか?」

「はい、とりあえずは食糧を片っ端から持ってきます。腹が減っては戦が出来ぬ、飢えの恐怖は人を狂わせますからねぇ」

「……いいんじゃないかな、桜の居る所まで逃げるだけなら、出来ない事は無いと思う」

 智江の提案は、桜にも村雨にも、最良とは言えないが良案である様に思われた。現状で冷静に行動出来る者の内、桜から見て信用が置ける者となれば、村雨くらいしかいない。だが、村雨一人で行動させるのは不安だ。桜には――この言い方は適切でないかも知れないが――弾除けとして、村雨の同行者が増える事は好ましかった。
 村雨としても、智江の実力の程はまだ知らないが、魔術師と名乗る程の者が同行してくれるのならば心強い。一般的に、ただ魔術を扱えるというだけならば、魔術師と名乗る事は無い。相応の力量を持ち、それだけで生計を立てられる者をこそ、魔術師と呼ぶのだ。

「良し、決まりだ。智江と言ったな、お前の言に従おう……すぐ動くか?」

「そうですねぇ、食糧だけは直ぐにでも。脱出経路の探索は、ちょいとばかし時間を開けてからにしようと思います。他の方々の様子も知っておきたいですしねぇ」

「分かった。村雨、協力してやれ。どうにもならんと思ったら直ぐに叫べよ?」

「心持ち早めに呼ぶ事にするよ、大丈夫」

 村雨は軽く脚を曲げ伸ばしして、何が起ころうとも最初から全力で走れるようにしておく。その横では智江が極短の詠唱を済ませ、左手の五指に手袋状の金属を纏わせた。拳を握る程度の柔軟性は有る様だが、然し村雨が見る限り、下手な刃物などでは貫通出来ない程度の強度も備えている様に見える。

「そんじゃ、行きましょうかねえ。さーてさて、怖い怖あい探索行の始まりですよお」

「あんまり縁起の悪い事を言わないでよー……」

 気楽な気分では居られないが、重苦し過ぎては息が詰まる。廊下を歩いていく智江の直ぐ後ろに、警戒心を張りつめさせて、村雨は付いて歩き始めた。背に聞こえた声を聞く限り、まだあの親子連れは、完全に落ち着いたとは言えない様子だった。








 時間の経過と共に、激していた者達も、次第に状況を把握して冷静になっていく。
 例えば、妻子連れの父親は、いかに子供を飢えさせないかをまず考えている様だ。宿の従業員やら、外套の男やらの方に脚を運び、食糧を分けてもらえないかと相談を持ちかけている。
 然しながら、保存食などは持ち歩かないのが旅の慣習であり、一室に集まった全員が、干し芋や干し肉の一切れも持ち合わせていなかった。

「くそ、っくぅ……、ああ、すいませんそこの人。申し訳ないんですが……」

「無いぞ、何も。酒なら有るが、あれは飲むと喉が渇く」

 桜も、やはり話は持ちかけられたが、分けてやれる様な物は何も無い。突き離す様な言葉になってしまうのも、仕方が無い事ではあった。

「……こうなりゃ、外へ出るしかないか」

「こら待て、下手に動くな。面倒事を余計に増やすのではない」

 男は、護身用なのだろう脇差を鞘から抜いて、廊下へ出ていこうとした。その襟首を桜は後ろから掴み、室内へ引き戻す。

「食い物を探してくるんだ、あんただって飲まず食わずじゃ居られないだろう? こういう時は男が働くもんだ」

「その心意気は素晴らしいがな、危ないぞ。あの死体を見ただろうが」

 男の表情は俄かに曇る。顔が判別できない程に潰された女性従業員の死体を、そして胴から両断された怪物の死体を、思い出してしまったのだろう。あの化け物は、常人が武器を備え魔術を用いた所で、到底抵抗しえない存在だ。この父親は、彼我の技量を測る力に長けずとも、本能の領域で勝てない事を悟っている筈だ。

「……っだけど、だけどよ! このまま閉じこもってた所でどうにもならないんだぞ!? 外へ出る手段か、助けが来るまで食い繋ぐ手段を……」

「それは分かっているが、お前では駄目だ……と言うより、無理だ。大体な、子供連れが自分から死にに行く様な真似をしてどうするか、この馬鹿。頭を冷やして、ここに居る人数を数えてみろ」

 桜は、男の襟を高々と、猫を掴むように持ち上げた。女に持ち上げられるという異常事態に、父親は驚愕を顔に浮かべながらも、素直に室内の人数を数え始める。

「いち、にい、さん、よん……はち、きゅう、俺を入れて十。あ、ありゃ?」

「そうだ、十人。慌て過ぎて気付かなかったのかも知れんが、既に食糧を取りに二人――ん、んん?」

 もう別な誰かが動いている、と言う事を、桜は教えたかったのだ。だが、男が数え上げた人数と、自分の記憶している人数が合わない。部屋に集まったのは十三人だから、村雨と智江が抜け出しているなら、ここには十一人居る筈なのだ。

「ひい、ふう、みい、よお……確かに十人だな。んん……?」

 妻子連れの父親から手を放してやり、桜は改めて室内の人数を数える。やはり十人しかいない。誰が抜け出したものだろうと考え、それはあの外套の長身男だろうと気付いた。

「金の臭いでも嗅ぎつけたか……?」

 あの男なら心配も有るまいと、安堵の溜息を一つ。勝手に死なれる事よりも、混乱が広がる方が余程怖い。そのどちらも、あの男ならば問題は無いだろうと桜は考えていた。








「……よし、周りは安全。今の内に持っていこう」

「はい、はい、はいな。とは言うものの、このザマではねぇ……」

 村雨と智江は、別段何事もなく、厨房に到着していた。長居して楽しい場所でも無い故に、早々に食材や必要最低限の調理器具だけを持って戻りたい所である。幸いにも現在、周囲にあの化け物はいない。
 だが、村雨達の予想以上に、この厨房の食材は貧相であった。おそらくは、今日辺りに何処かから纏めて運び込む予定であり、それが大雨で果たせなくなったのだろう。
 大根やごぼう、なす、ふき、それに切り干し、豆腐、漬けものが何種類か、米、味噌、塩、醤油。魚の様に、極端に悪くなりやすいものは無かった。だが、どれもこれも、調理しない事には食えそうもない食品ばかり。辛うじて豆腐に醤油を掛けて食うとか、漬けものと味噌で飢えをしのぐという手段も有るだろうが――

「全部料理出来て、十三人なら三日か四日……水が使えなきゃ、今日一日で食いつくす程度ですかねえ……」

 ――とてもではないが、足りない。脱出の見通しが立っていない現在、この量の食糧しか無いのでは、とてもではないが安心などしていられない。

「油揚げとかありゃ良かったんですが、仕方がない。とりあえずこれだけでも運びましょ、何も無いよりゃ随分増しだ。夕食が済んでた事を幸運に思うべきですねぇ」

「本当にね。少なくとも、明日の昼くらいまでは食べ物の心配はしなくて良いし……」

 本当なら、それまでには脱出の術を見つけていたい。赤い壁からの光で照らされ続けるのは、灯りも無しに歩き回れるのは良いのだが、やはり心地好いとは言い難いのだ。
 だが、今は夜間。外からの助けは期待出来ないし、昼行性の生き物の性で、その内にどうしても眠気は訪れる。次に空腹を感じるまでに打開策を見つけられるなどと、自分に都合の良い未来を描ける村雨では無いのだ。

「さぁてさて、そんじゃ手に収まるだけでも運びましょ。そのまま食えるもんだけ今は運んで、残りは必要な時に取りに来りゃあ良い」

「そうだね、漬物の桶を私が運ぶから、豆腐と醤油と、あと――いいや、待って」

 荷車の様な物でも有れば良かったと思いつつも桶に手を掛けた村雨だが、直ぐにそれを手放し、人差し指を立てて唇に当てた。床に両手を付き、頭を低くする。鼻を小さく動かしながら、智江にも姿勢を低くする様にと、後ろに回した手で合図を出す。
 それが何を意味するものか、智江も直ぐに理解したのだろう。何を尋ねる事も無く床に膝を付き、村雨の耳元に口を寄せた。

「……出ましたかねぇ、何匹居ます?」

「近くに一、ちょっと離れて……多分、二。ヤバいよ、一気にこんなに……いきなり、出てきた」

「いきなり?」

「臭いも何も無い所に、いきなり臭いが出て――来る、しっ……」

 村雨達が居た場所は、厨房の入り口から見れば、棚に隠れられる位置。ここから動かない限り、直ぐには相手に察知されない筈だ。幾らかの安全を確保された場所から、村雨は近づいて来た臭いの元凶を、そっと覗きこんだ。
 足音だけを聞くなら、少し体重の重い人間のそれである。影の形も、ぱっと一目見るだけならば、人間と思い込む事も有ったかも知れない。然し、やはりその怪物の両腕は、巨大なヒグマのそれであった。半開きで涎を零す口、意思の力の無い目などは、それに知性と呼べる物が備わっていない事を示している。

「……入口、塞がれちゃいました?」

「うん、最悪だ。動くまで待とうか……」

 廊下に繋がるただ一つの場所に、あの怪物が居る。正面から突っ込んでどうにかなる相手でないと言う事は、村雨は、自分の身で散々に知らされている。棚の影から様子を窺い、逃げるか先手を打って怯ませるか、そのどちらかを選べる好機を待つ。
 あの化け物の脅威は、腕と爪の威力もさる事ながら、異常な反射速度にも由来する。二歩の距離が有れば、おそらく今の村雨の全速を以てしても、易々と丸太の様な腕に防御されてしまうだろう。かといって逃げようと考えるなら、智江の脚力が如何程かは分からないが、五歩以上の距離が無ければ、爪の餌食になりかねない。
 現在、怪物との距離は三から四歩という所だろう。どちらの行動に出るにも半端で、危険な距離であった。
 焦慮が募る。桜にこの状況を知らせたいが、叫べば自分達の位置が怪物に伝わる。化け物は少なくとも三匹。桜がこちらへ来れば、残り二匹があの部屋に踊りこむかも知れない。

「智江さん、いけそう?」

「正直、ありゃあちょいと怖いですが……あと三歩、入口から離れてくれれば……」

 ばり、ぼり、と咀嚼音が聞こえてくる。音の瑞々しさからすれば、生の野菜を喰っている音なのだろう。歪に小さな体に長い脚、巨大な腕、幾ら喰おうが体を養いきれない不完全な生物。貴重な食料が減っていく。あれは常に餓えているのだ。
 手の届く範囲の野菜を喰い荒し、一歩。そこから豆を口に運ぼうとして、大雑把な作りの手がそれを零す。腹立ちを示す様に、村雨達が隠れる棚を、反対側から爪が一撃した。幸いにも破壊はされず、倒れもしなかった。ただ、激しく揺れただけだ。
 また一歩、米櫃に爪を引っかけた。床にぶちまけられた白米を、這い蹲る様にして口に入れていく化け物。人間の顔をしながら、人間の様な行動を取れないそれを、村雨はただおぞましく感じた。あんなものが、昔は人間だったのかも知れないと、考えたくも無かった。
 あと一歩、入口から離れて欲しい。そうすれば、化け物の後ろを通り抜け廊下にまで逃げ切れる。そのまま追いつかれずに、あの部屋まで戻る事が出来るだろう。既に走り出す構えは取った。
 然し、村雨の祈りは天に通じない。化け物は向きを変え、自分が一撃を食らわせた棚の方に近付いてきたのだ。まだ、村雨達に気付いてはいないのだろう。気付いているなら、棚ごと叩き潰す様に爪を振るって来かねない。とは言えど、状況が悪化した事に代わりは無い。
 悟られるまい、悟られるまいと息を殺す。身じろぎ一つせず、耳と鼻に全ての意識を集中させる。こうなれば、いっそ見つけられた瞬間、脚に体当たりを仕掛け、そのまま押し倒して走り抜けるべきか――と、逡巡さえ終わらぬ間の出来事であった。
 化け物の頭に、天井の板が落下、直撃する。当然だが、その程度で負傷する様な化け物では無い。が、何事かと上を向いた。

「シャアアアッ!」

「……!? あれは、たしか……!」

 小型の獣の様な、甲高い叫びであった。天井板に遅れる事一拍、見上げる化け物の顔目掛けて落下してきたのは、あの外套の男の右手だった。咄嗟に化け物は、右の爪を以て、その首を叩き落とそうとする。振るわれた掌に掌を打ち合わせる事で、男は側面の壁に自ら弾き飛ばされ、そこから床に降り立った。
 倒立落下により帽子が床に落ちた様を改めて見れば、異相の男である。首から頬の半ばまでを覆う、黒よりは寧ろ茶に近い体毛。開いた口の隙間に、僅かに見えた乱杭歯。長い腕の先には筋張った手。爪は短いが、それは猛禽の様な厚みを誇っている。
 化け物は、男の頭を叩き潰さんと腕を振るう。化け物の背丈はおよそ六尺、外套の男より六寸低い。頭部を狙う横薙ぎの爪は、自然と打ち上げる様な軌道を描く。その下を潜り、男は易々と、化け物の背後を取った。
 そして、大口を開けて喰らい付く。頭を横へ傾け、化け物の背後から、その首を完全に挟み潰す様に。乱杭歯が肉を貫き、血管を切り裂いた。

「……ィッガッ、ギィオ、アギッ!? ギャッ!!」

 ヒグマの腕では、背後の敵を叩けない。化け物は腕を振り回して暴れるが、外套の男には爪が届かない。
 そして、化け物の足が床から浮いた。二十五貫(約90kg)の肉の塊が、顎と首の力だけで持ち上げられた。男が顔を天井に向けた事で、化け物は大きく背を反らせ、喉を天井へ向ける様な形になる。

「ゥゥゥウウオオオオアァッッ!!」

 獲物に噛み付いたまま、男が吠えた。動脈血で顔を染めながら、男の牙は化け物の頸椎に到達した。新鮮な肉と血の臭いに、村雨の食欲が湧きたてられる。一方で、人だっただろう生き物を、人型の生き物が殺す事に嫌悪感も湧く。眉を顰めながら、頬に飛んだ血を無意識に拭い、舐めた。
 化け物の頸椎は完全に押しつぶされ、胴体と頭部が男の牙によって分断される。床に転げ落ちた化け物の頭を、男は足の甲で拾い上げ、毬か何かの様に天井裏に蹴り込んだ。
 残された胴体の腹に分厚い爪を喰い込ませる。手足に比べて弱い肉に指先は容易く沈みこみ、化け物の腹筋は左右に引き裂かれた。男は、屍の腹中から零れる臓物に喰らい付き、首を振って引き千切り、天井を向いて喉を開き、飲み込んでいく。

「うわぁお、こいつは驚いた、まさかまさかまさか――」

 凄惨な食事の光景、床に溢れる血で足を汚す事も厭わず、智江は歓喜を正直に表に出し男の傍らに立った。手を伸ばし、男の首の体毛に触れる。鬱陶しそうに男はその手を払ったが、智江は退く様子を見せない。

「亜人でしょう? 亜人ですよね? それも貴方は……混血種だ、そうでしょう? 嗚呼、嗚呼、こいつぁ凄い! まっさかこの国で見かけるなんて……! ねね、ちょっと手足触って良いですか?」

 伊達で知られた若者に出会った、町娘の様に。或いは、念願の伊勢参りを十数年越しに果たした貧者の様に、智江はこの僥倖に感謝していた。男の二の腕に外套越しに触れ、振り払われてもまた直ぐに、次は背中に触れる。軽く突き飛ばされて血溜まりに尻もちを付いてもまるで堪えもせず、次は正面に回り込み、食事の光景を覗きこむ。

「うん、間違いない。イタチにも似た耳の形状、牙の作り、頑強な四肢に顎と来たならば、ねえ? 容姿や皮膚から察するに、半分はこの国の――」

「煩えぞ女、口を閉じろ」

 智江の胸倉を右手で掴み、男は立ち上がる。女性としては長身の智江だが、この男に掛かればやはり小柄な女でしかない。足が床から浮いた。
 それでも、智江は喜ばしげであった。自分を掴む男の手に触れ、肌の感触、爪の固さを楽しんでいた。それが男の怒りを更に掻き立てたのだろう。左手が拳を作り、止まらない口を潰そうと振るわれた。
 それを防いだのは村雨である。智江を体で突き飛ばしつつ、男の手を、両腕使って真上にかち上げた。床に落下する智江の頭上を、男の拳が素通りする。

「……おい、この――」

「いい加減にしろっ!」

 邪魔をするなと、男は村雨に警告しようとした。村雨は男を見ず、それどころか智江を怒鳴りつけ、更にはその頬を殴り付けた。
 男の拳に比べれば威力は低いとは言え、智江は体勢を崩しており、村雨は同世代の平均より遥かに身体能力が高い。智江は大きく数歩後退し、背を棚に打ち付け、大量の皿と共に床に倒れた。

「……村雨ちゃん? 貴女……」

 頬を抑えながら、智江は上半身だけ起き上がらせる。目の焦点が定まっていない、直ぐに立ち上がる事は出来ないだろう。何が起こったかは分かるが、どうしてそうなったかが分からない、そんな表情を、智江は見せていた。常に浮かべている笑みは、何処かへ消え失せてしまっていた。
 男もまた、奇異な物へ向ける目で村雨を見ていた。受けられた拳を引く事も忘れて、自分より一尺六寸も背が低い少女の突発的な激情に、只でさえ少ない言葉を更に失っていた。

「あ……! あ、ごめん、その……えと、ごめん……」

 だが、この三者で最も動転していたのは、誰あろう村雨である。自分の拳を無かった事にしたいかの様に両手を背に回し、智江から必死に隠していた。詫びる声に、普段の快活さは無い。自分に過失が有ると自覚する者の卑屈さだけが見受けられた。
 割れた皿の中で智江が立ち上がる。破片で切ってしまったのか、掌から幾つかの出血が見られる。表情の抜け落ちた顔のままで浴衣を払い落す彼女に、村雨はまた何度か、ごめんと呟くように繰り返した。

「……さーてさて、戻りますよ。村雨ちゃん、確か臭いは三頭って言ってましたよね?」

「あ……! いけない、早く戻らないと……!」

 謝罪が聞こえていないかの様に、智江は厨房に残った食材の内、調理せずに食べられるものだけを拾い集めた。漬物の桶は重量が有る為、ここでは諦めた――と、外套の男が、片手に一つ、桶を掴んだ。
 村雨は逃げる様に厨房を抜け、廊下を走っていく。二十も数える頃には、あの部屋に戻っているだろうか。その後ろを智江が、そして外套の男が、周囲の警戒を怠らず歩いて追随した。








 避難所の様相を呈する部屋は、咽返る様な血の臭いに塗れていた。部屋の入り口、本来なら襖が閉じている筈の場所に、仰向けに倒れた死体が原因である。
 ヒグマの腕を持つその化け物は、心臓を一刺しに貫かれていた。惨たらしい死体を作る事は、恐怖と混乱を更に煽りたててしまうだろうという、桜の配慮である。然し、出血量までは抑える事が出来なかった。畳は、板張りの廊下は、赤から黒へ塗りつぶされていく。
 何の前兆も無かった、ただ気配を感じただけだ。目を向ければ、そこに化け物がいた。警告も何も無く、先手を取って殺害したが、それこそが最善手であろうと桜は考えていた。
 この化け物は喰らう目的で人を殺し、然して肉の一切れも飲み込めない矛盾した生物だ。生きている限り、意識のある限り、生物を襲って捕食を試みる。生物としての設計が、人間と決して相容れぬ存在なのだ。

「早いな……もう次か」

 最初の襲撃から四半刻と経過していない。幸いな事に今回の死傷者は無いが、然し室内にはまた恐怖と混乱が広がり始めていた。

「ぃい、い、いや……なんでよぅ、なんでまだいるのよぅ……! もう死んだんじゃなかったの……?」

 宿の従業員の一人が、部屋の隅で身を縮めて啜り泣く。彼女は最初の襲撃で、目の前で同僚を惨殺されていた。怪物への恐怖心は、この部屋の誰よりも辛いだろう。従業員の中で最年長だろう老婆が、その肩を抱いて慰めている。

「ねえお母様、怖いです、ねえってば……」

「お前は寝るの、もう遅いのよ……ほうら、安心して、ね……?」

 家族連れの母親は、娘の目に黒い布を巻き、何も見せないようにしていた。子を落ち着かせようとする彼女自身、目に涙を浮かべ、声も弱弱しく震えている。その横では父親が、たった一つの異変さえ見逃すまいと、脇差に手を掛けて目を光らせる。
 気の休まらぬ状況だ。戦場の最前線に在る心持ちで、太刀は鞘に納めず、血を払うだけに留める。刃渡り四尺『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の黒刀身は、荒く振るって欠けも歪みも無い。
 部屋の中央に立ち、耳を澄ます。すると、小刻みな軽い足音がこの部屋を目指していた。村雨が戻ったのだろうと、ほう、と一息吐き出した。

「桜、まだ居る!」

「……は?」

 油断はしていなかった。ただ桜は、自分の連れが無事に戻った事に安堵してしまっただけだ。襲撃に備えていた心と体が緩み、太刀の切っ先を床に向けてしまったその時、先に思い当るべき事を聞かされた。
 しくじった、息を吸い上げて止める。太刀の柄を、再び両手で握りこむ。既に手遅れであった。部屋の隅の壁が砕け、そこから化け物の手が入り込んでいた。

「うわ、ああわああああああああっ!?」

 宿の主人が絶叫する。その足元には二つの首が転がった。啜り泣いていた女と、それを慰めていた老婆の首だ。壁ごと、二人纏めて、首を跳ね飛ばされたのだ。
 常人なら十歩はあろう距離を、桜は一足で半分まで詰めた。化け物はもう一度腕を振るい、宿の主人を庇おうとした若者――腕利きの板前の右腕、そして右脇腹の肉をごっそりと削ぎ落した。

「ぃいえええやあぁっ!!」

 続けざま、宿の主人の頭上に、化け物の爪が迫る。それを、気勢と共に振るわれた太刀が斬り落とす。本当は胴体ごと斬り落とすのを狙ったのだ。自らの失態への焦りが、正確無比の太刀筋を狂わせた。
 然し、化け物の凶行はそれで止まる。壁の穴から室内に入り込んでいた化け物の上半身が、ばね仕掛けの様な動きで、部屋の外へ引きずり出されたのだ。

「ッギイ、ゴ、ガアアアアァッ!? ギャ、ギャアガッ、ガギイイイアアアアァァァァァツ!!!」

 化け物の断末魔、骨が砕ける音、咀嚼音、血の滴る音――ありとあらゆる、人の恐怖心を煽る音。壁の向こうで化け物が解体ばらされ喰われている。抵抗を示す床の振動は、一際大きくぶつりと音が聞こえた時から、ぱったりと止んだ。
 瞬き二つ程の間に、二人が殺された。一人は重傷、直ぐにでも手当をしなければ助かるまい。化け物は一体ではないと、この場の皆が知った。
 未だに戌の刻、夜明けまで四刻。蓬莱屋において生存者は十一名。宿を囲む壁の赤が、心なしか強くなった様な、そんな気がした。








 悲鳴を上げる人間が減ってしまい、寧ろ静かなものだった。親子連れが身を寄せて抱き合い、宿の主人は放心状態で、従業員の血の中に座り込んでいる。桜は己への苛立ちを隠さず、床を強く踏みつけた。

「ああくそ、無駄な死人を……!」

 例え壁の向こうであったとは言え、日本家屋の薄壁だ。あれほどに奇怪な気配の存在、全く気付けない理由も無い。一体を殺し、村雨の無事を確認した時点で気を抜きさえしなければ、まだどうにかなったのではないか。
 いや、実際は無理だっただろう。例え行動が一歩早まったとしても、あと一歩の距離で、やはり二人は首を飛ばされた。助かるとしたら、今現在腹を抉られて瀕死の板前、ただ一人だけだろう。

「おい主人、薬と包帯、針と糸! どこにある、さっさと教えろ!」

「あぁ、ああああ……は? はり、薬、え……?」

 二人分の首からの鮮血の中で、宿の主人は未だに呆けたまま、真っ当な会話も成り立たない。桜に詰め寄られても尚、自分が置かれた状況を理解できず、立ち上がろうともしなかった。

「そりゃあ無理ってもんです、縫い合わせてどうにかなる状態じゃあない。肉がごっそり取られてるんだ、普通じゃあ血が止まりませんよ」

 壁の穴から、智江が室内に戻ってくる。両手に抱えた食糧は、見た限り十分とは言い難い。不幸にして食事を出来る人間が二人――重症患者も無理と考えれば三人減った為、少しばかりは余裕が出来てしまっているのだが。

「……では、どうする。見殺しか?」

 こうなってしまっては、もう混乱を避けるという考えも無意味だ。助けられるなら良いが、助からないなら仕方がない。過ぎてしまった事と、桜は普段の非情の思考を取り戻し始めた。

「いえいえ、ちょいと避けてくださいな……ううわ、浴衣がべちゃべちゃ。もう何色だか分からないですねえこりゃ……」

 だが、桜の思考は剣士の物である。魔術師である智江ならば、この状況はまだ、手遅れとは考えない。腹を抉られた板前の横に胡坐を掻いて、傷口の引き裂かれた肉に指を触れさせた。

「いいですか? 獣の爪や牙ってのは毒を塗った鏃みたいなもんだ、まんま傷を塞いだだけじゃあどうにもならない。傷が腐って肉を落とさない為にゃあ、消毒ってもんが必要なんです……『purification』」

 その詠唱は、日の本の人間には聞き慣れぬ響きであった。単語一つの極短詠唱、智江の指先から無色透明の液体が染み出し、板前の傷口に、膜状に張り付いていく。

「それは……所謂、治癒魔術という奴か?」

「ご名答。『I command』、消毒さえ澄ませば、後は血が流れきる前に傷を塞ぎ、欠けた血肉を補えば良い。『alternative flesh and blood』、このやり方、寿命を年単位で持っていっちゃうから好きになれないんですがねぇ」

 透明な膜の下、傷口の肉が、植物が伸びていく行程を早回しにするかの様に回復していく。形状は歪で皮膚も薄く、元程の強度は無いのだろう事は明白だが、それは桜にして見れば奇跡の様な光景であった。
 傷口の治癒は、極めて難易度の高い術だ。指先の皮膚を切ってしまったという程度なら、皮膚同士を癒着させれば良いだけだから話は早い。だが、肉が抉られたり骨を欠損したり、或いは内臓に負傷を受けた場合は、相当に高位の術者であっても回復させる事は難しい。その理由は偏に、人体の複雑さに在る。
 精確に人体の構造を把握し、適切な箇所に適切な部品を宛がい、正しい比率で調節された体液を補填し、血管や神経の繋がりを忠実に再現する。魔術だけに生を注いでいては、これらの条件を満たして治療魔術を行使する事は出来ない。

「……本職は、医者か?」

 書物からの知識では補えない、真に人体との戦いを重ねた者だけが許される技術。智江の魔術は桜の目に、正しく魔の領域と映った。

「どちらも本職です。生憎と死なせる方が得意な医者ですけれどねえアッハッハ……と、これが限度でしょうか」

 指が離れた頃には、板前の抉れた傷口は、元よりは少ないながら筋肉が再生している。その上に張られた皮膚も、妙に白く毛穴も見えない様な物ながら、紛れも無く皮膚として機能していた。

「あんまり動かさないでくださいよ、内側の方はまだちょいとくっついてない部分がある。明日まで食事は禁止、寿命は多分三年から五年は縮みました。脇腹は痛みが残るでしょうし、腕の方はかなり動作が鈍くなりますが……まあ、生きては行けますよ、ええ」

 酷な宣告だが、命には代えられない。桜も、横から咎めだてする気にはなれなかった。
 智江は板前から離れた場所で、疲労も露わに畳に転がる。治療からそこまでの一連の光景を見届けた桜の下に、村雨が駆け寄った。

「大丈夫だった……みたいだね」

「私はな。他はこの通りだ……食糧はあれだけか? 水は?」

「大分喰い荒された、後は漬物が樽二つ。水は厨房には無かったよ」

「そうか、分かった……かなり辛い状況だな」

 村雨は、ただでさえ白い肌を青ざめさせていた。人間がこうも簡単に死んでいく、死の瞬間をいくつも見せられた、鋭敏な嗅覚は殆ど血の臭いしか捉えない。体よりも精神の消耗が激しい事は、桜には一目で見て取れた。

「暫く寝ろ、脱出手段の捜索は後だ」

「え……? でも桜、今の状況じゃ」

「良いから寝ろ、雇用主命令だ。お前一人寝た所で、戦力はさして変わらんわ」

 気乗りしていない村雨の肩を抑え、無理やり座らせ、仰向けにさせる。布団や枕は無いが、夏ならば寒さを感じる事も有るまい。無理にでも休息を取らせておかねば、後々に何が起こるか分からないと、桜は考えたのだ。自己本位の考え方ではあるが、今ならばまだ弾除けも多いのだから。

「……! おい、お前は……それをどうする気だ、答えい!?」

 宿の主人は、やっと言葉を取り戻した様だ。外套の男に掴みかかっている。男は右肩に従業員の首無し死体を二つ抱え、左手に首を二つ抱えていた――あの怯え啜り泣いていた女と、慰めていた老婆の物だ。

「腐る前に捨てる。喰えねえだろう?」

「お前っ……! 許さんぞ、そんな事は決して!」

「じゃあどうする。放置して、あの化け物を呼ぶ餌にするか? それとも虫を沸かせるか?」

「ぐ、ううぅ……!」

 理屈だけで言うなら、外套の男の言う事は正しいのだろう。言い返せず、だが感情では納得がいかず、宿の主人は歯ぎしりをする。強く握りしめた拳は、爪が掌に刺さったのか血を流していた。小肝ながら従業員を思う、優しい老翁であるらしかった。
 死体が運ばれていくのを、桜は何の感慨も無く見送った。全く妥当な、必要な措置であると思った。少しばかり広くなりすぎた部屋を見回し、ふと気付く。

「……ウルスラ、居るか?」

 返事は無い。ウルスラに見張らせていた市目笠の女が、いつの間にか部屋から消えていた。








「くふふ、くふ……みぃんな皆いいカモね! ……あ、こっちにも有った有った」

 化け物の襲撃で、宿に居た者は皆、一室に集まってしまっている。慌てて走った者などは、財布も部屋に残したままだ。そういう状況下では、欲を出してしまう者もいる。例えばこの女――たまという名の護摩の灰など、好例と言えよう。
 普段は旅の男に目を付け、言葉巧みに擦り寄り宿を共にし、そして夜の間に財布を盗んで逃げていく。どれ程に脆い生垣であろうが、一切傷を付けずにするりと抜ける腕前から、この女は仲間内で、垣抜けの珠と呼ばれていた。
 その珠が何故此処に居るのかと言えば、皆の目が化け物に破られた壁に向いた瞬間、さっと部屋を抜けてきただけの事であった。戻ればあれこれ咎められるかも知れないが、厠へ行っていたと言えばそこは女人たる己の事、酷く追及もされまいと踏んでいる。

「おー、大金じゃん。しかも財布は印伝よ、これは高く売れる……!」

 珠が手にしていた財布は、あの親子連れが部屋に残していた物の様だ。就寝前のこと故、財布を懐に入れていては寝心地も悪いと、風呂敷に包んでいたものであろう。
 桜や外套の男、それに智江などは、財布を持ち歩いている。流石の珠も、人ごみに紛れられない状況では、スリをしようとは思わない。そんな方法よりもっと賢いやり方を、幾つも幾つも知っていたのだから。

「これでー……いち、にいの、さん! きゃーん、あたしったらお金持ち! そうよ、金は天下の回し者っていうもんねー」

 ことわざを少しばかり間違えながら、珠は財布を三つ、お手玉のように弄んでいた。一つが、今此処で荷物から抜き取ったもの。そして残り二つは、従業員の荷物が有った部屋から盗んだ物――つまりは、持ち主が既に死んでしまった財布である。
 死体から直接に金目の物を剥ぎ取れば、悪鬼餓鬼の所業と謗られる。だが、誰ももう見向きもしなくなった物をこっそり拝借するのは、慎ましく謙虚な良い盗みではないかと、それが珠の主張であった。
 期待以上の収入に、思わず天井に届くまで財布を投げ上げてしまい――その財布が、自分の頭上で静止したのを見て、珠は元々丸い目を更に丸くした。

「……盗みは悪い事らしいですよ? 捕まらなかったり、ばれなかったりしても、やっぱり駄目だそうです」

「だだだだだれっ!? 誰なの!? え、お化け? 化けて出た!?」

 声は珠の背後から聞こえたが、振り返っても誰もいない。財布はやはり頭上に浮いたまま、落下して来ようとしない。お役人と幽霊が好きになれない珠は、よもや死人が財布に未練を残したかと冷や汗を掻いた。 
 逃げ腰になっている珠の前で、まず小袖だけが、ついで中身の人間が、透明化を解除する。亡者かとの懸念を打ち消す様に、虚空に突如出現したのはウルスラであった。

「悪い事らしいんですけど……どうしましょう。止めた方がいいんでしょうか?」

「は、はあ? ……いや、あたしに聞かれても」

「そうですか。では、桜に聞きましょう。皆の所へ戻りますよ」

「え、あいやいや待って、ちょっと待って!」

 むんずと珠の手首を掴み、ウルスラは桜達と合流しようと歩きだす。逆方向に体を傾けて、珠はどうにか踏みとどまった。お手玉の最中だった財布を二つ落としてしまったからだ。この切迫した状況での執着に、ウルスラはまた興味を抱いてしまった。

「そんなに、お金は大事な物のですか?」

「え? そりゃあ大事に決まってるじゃないの」

「現状で桜から離れる事は、自分の命を危険に曝す事になると思うのですが。お金とは、命に代えられる程の価値を持っているのですか?」

 実際の所、珠も命より金が大事な守銭奴という訳ではない。ただ、今の危険を甘く見て、盗みを実行に移せる好機であると誤謬に辿り着いただけである。こうして疑問の形にされると、相手を納得させ得る答えが見つからず、珠は渋い顔をする。

「……あんた、なんか変な子ね」

「そうでしょうか? 自覚は無いのですが」

 こういう手合いは、素直に言う事に従えば、あまり厄介な事にはならない。そういう経験則に従い、財布を拾った珠は、腕を引かれるでもなく戻ろうと歩き出す。
 まさにその時、白い縄の様な物が二本、珠とウルスラの首を狙って飛来する。彼女達が、それぞれの生業に由来する直感によって、左右に飛び退いたのは全くの同時であった。
 回避され、後方の壁に張り付いたのを見る限り、その糸は粘着性と強度に優れた物であるらしい。壁の一部が片方の糸に引っぺがされ、射出元へと引きずられていった。

「きゃ、何!? え、蜘蛛!? 蜘蛛のお化け!?」

「これは……西洋魔術の……?」

 ウルスラの知識の中に、これに近いものは存在する。地と水の要素からなる、植物の樹液の粘性を極端に増幅させた糸だ。最も、壁の一部を引っ張って抉る様な力を発揮する物となると、実際に見た事は無い。ウルスラ自身、得意な分野とは大きく外れている為、真似が出来る物では無かった。

「誰ですか? こういう行動を取られると、あまり愉快には感じないのですが」

 返事は返らない。自分に好意を持っている相手で無い事は確かだと認識した瞬間、ウルスラの姿は徐々に消え始めた。
 ウルスラの隠蔽術は、自分自身の体に作用させる時に最高効率を発揮し、衣服などに適用させる場合には魔力消費が大きくなる。その為、完全に姿が消えるとほぼ同時に、ウルスラは身につけていた小袖から脱皮する様に抜けだし、すぐさま壁際でしゃがみ込んだ。
 斜め後方、珠が困惑している声は意識から切り放し、未だに一本伸びている糸の先、射出した術者を探す。姿を隠している訳では無かった為、それは直ぐに見つける事が出来た。
 袖の無い、まるで飾り気も無い一枚の布で作られた羽織の様な衣服――ウルスラは知らないが、諸外国ではレインコートなどと呼ばれる、開発されて日もまだ浅い外套――を身に付けた、一人の少女がそこに居た。肌は浅黒いが、しかし夜の黒に紛れる程に暗い色ではない。髪の色合いは日の本の黒に近いが、この国ではあまり見られない、自然と波打つ髪質をしていた。

「透明化とは、器用な芸を身につけていらっしゃりやがる様ですね。あの『人工亜人できそこない』の餌の挽肉にでもしてやろうかと思いましたが……ええ、あの歩く傍迷惑もはしゃぎ腐るでしょう」

 敬語に、敬意を一切感じない粗野な言葉が混ざる、独特の口調。対象をただの道具か、せいぜいは実験動物としてしか見ない、見下した視線。ウルスラはほぼ直感的に、これが今回の件の原因――の、少なくとも一つでは有ると理解していた。

「捕獲します、動きやがったら頭に風穴ぶち開きますから気を付けて」

「ご親切にどうも。忠告を受けたら礼を返せ、と習いました」

 レインコートの少女が、弓を引く様な姿勢を取る。矢を番える形の右手からは、未だに一本、あの白い糸が伸びたまま。先程見た光景を元に、背後から飛来する壁の破片を、ウルスラは警戒した。
 そして、狙うのは先手では無く、後手。視覚聴覚の両面から完全に隠蔽されたウルスラは、相手に気付かれぬまま接近する事を得意とする。何らかの集団で攻撃を行おうとして空振りしたその瞬間、顎を打ち抜いて意識を落とす。これまでに幾度となく繰り返した戦術は、敵の技量が精確に掴めない時、やはり最も信用のおける攻撃手段である。

「な、何がなんだか分からないけど、とにかくあたしも!」

 斜め後方、珠が何か武器を構えたらしい事は、音を聞けば推測出来た。体格からすれば、小刀か脇差だろうか。何れにせよ、手が二本増えればそれだけ有利になる。心強く思い、右足を前に出して体重を掛け、機と見れば直ぐに飛び出せるように構えた。

「後ろの貴女は要らねえんですよ、この低俗卑賤のみすぼらしいこそ泥風情が……『sublimate』」

 突如、少女の手から伸びていた糸が、大気中に溶けるように霧散した。白い霧がウルスラと珠を覆うように広がり、忽ちに二人の視界を奪ってしまった。無臭の気体である、吸いこんでも呼吸が阻害される感覚は無い。だが、霧の中では、透明化したウルスラも、体の輪郭が浮かび上がり、位置が明確に特定されてしまう。

「成程、こういう手段が有る訳ですか……参考になります」

「余裕ぶっかまして下さってる場合でございやがりますか? 後ろ、後ろ」

 霧の向こう、姿は見えないが、少女が何かを告げる。思わず促されるまま、ウルスラは背後を振り返った。短刀を構えた珠が立っているだけだ――いやに、足元がふらついているが。

「……しまった」

 咄嗟に、機を窺う事さえ捨て、見えぬ敵へと目掛けて走り出す。三歩と行かず、ウルスラは床に倒れ込んだ。
 無臭、呼吸器には無害の煙幕。あまりに優しすぎる術では有るが、その実は肺から手足に浸透する麻痺毒。気付いた時にはもう立ち上がれなくなっていた。おそらく背後では、珠も同じ様に、廊下に倒れている事だろう。
 首も曲がらない。床を見つめていると、裸足の足音が近づく。音はかなり軽い。

「実験動物、二匹確保。くそ簡単な仕事でございましたね」

 ウルスラの首に、糸が束ねられて出来た縄が巻きつく。呼吸と脳への血流を阻害され、間もなく彼女の意識は闇に消えた。








 化け物による再度の襲撃から、三刻程が経過した。
 その間に睡眠を取ったのは村雨と智江、それから親子連れの娘の三人――に加え、未だに意識の戻らない板前で合計四人。桜、外套の男、宿の主人、子連れの夫婦、合わせて五人は一睡もしていない。
 そも、夫婦や宿の主人に至っては、恐怖から眠気も湧かないのだろう。血走った目を落ち付き無く左右に彷徨わせ、彼らは息を殺していた。

「戻らんな、やられたか……?」

 桜は座りもせず、部屋の入り口を睨みつけていた。市目笠の女とウルスラは、これ程の時間が経過しても戻っていない。己の知らぬ所で捕えられたなどとは思いもつかず、襲われて殺されたかと、最悪の想像をしていた。
 探しに行きたいが、この部屋を離れる訳にもいかない。仮に次、化け物が襲撃してきた際、外套の男一人で対処しきれるかどうかが分からない。一体ならどうという事も無かろうが、二体も同時に出てしまえば――また数人、殺される事になるだろう。
 決断しなければならない。他を完全に切り捨てて、自分達だけが迅速に脱出する事を図るか、それとも可能な限り多くを助けて脱出するか。

「村雨、お前ならどうする……いいや、聞くまでも無いか。見殺しは嫌いなのだろう?」

「勿論。目の前で死なれるとか、寝覚めが最悪だもん……ああ、嫌な夢見た」

「……何だ、起きてたのか」

 眠っていると思って問いかけてみれば、期待せずして答えが返る。体を起こした村雨は、疲れ切った表情に反し、顔色は随分良くなっていた。無理にでも休ませた効果は有ったのだろう。桜は、僅かに唇の端を持ち上げた。

「ウルスラは……?」

「まだ戻らん、探しに行く。智江も起こしておけ」

 板前に治癒魔術を施した後、仰向けの大の字になって、智江は高鼾を掻いていた。こちらは悪夢を見ている様子も無く、真に幸せそうな寝顔である。起こせと言われた村雨が、肩を揺する事を一拍躊躇した程だ。結局は敢行し、智江は目を擦り擦り起き上がった。

「んー、朝ですかー……?」

「さあな、赤一色で何も分からん……私は少々部屋を開けるぞ」

 呑気にあくびをする智江にそれだけ言って、桜は太刀を構えたまま、部屋から出ていく。既に『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の刀身からは、完全に血の赤が落ちていた。代わりに桜が立っていた畳の足元は、黒く鉄臭く穢れていた。








 人が死ぬ光景を振り払う為に寝て、夢の中でも人が死んだ。体の疲れは取れても、精神は未だに休まらない。心を擦り減らすような焦燥の中、村雨は部屋の中央で座っていた。壁際では、あの化け物の奇襲を受けた際、察知する前に首が飛びかねないからだ。
 先程から、軽い喉の渇きを感じている。何もせずに座っていると、空腹感も徐々に増してくる。一か所に集められた食糧に視線が向いた――と、宿の主人と、親子連れと、それぞれに目が合った。
 皆、腹は減っているし、食糧は欲しいのだ。だが、自分からそれを言い出す事も出来ず、なぜか牽制しあう様な状況になっている。何て無益な事だろうと村雨は思ったが、同時に、無理のない事なのかも知れないと嘆くように首を振った。

「……はい、ちょっと聞いて。このままじゃあ持たないよ、特に小さい子」

 同じ境遇の者同士で睨み合っていても仕方がない。誰かが切り出せば、周りも行動しやすいだろう。そう考えた村雨は、食糧の分配を提案した。
 一人一人に同じ量の食糧を与え、その使い道は当人に決めさせる。直ぐに食べても良し、後に残しても良し。ただし、この一回で、この場に存在する食糧は全て分配し切る。他の食糧を見つける事が出来なければ、再分配は無し。
 村雨にしてみれば、これが一番平等なやり方だった。提案の時点では、誰かが反対する事も無かった。だから、このまま丸く収まるのではと期待していたのだ。

「……まず、おじいさんと、そこの人。二人分」

「おい、待ってくれ、そりゃおかしいだろう?」

 宿の主人と板前とに、漬物や豆腐などの一部を分配。早速異論が上がる――親子連れの、あの父親だ。名を貫三郎と言うらしい。

「おかしいかな? 私はちゃんと、人数を考えて分けてるつもりだけど……?」

「おかしいだろ、そりゃあ! そいつが飯を喰える状態かよ、どう見ても無理だろう? だったらその分を――」

「お前、なんちゅう事を……! その言い様、許さんぞ、この……!」

 未だに意識の戻らない重症患者に食糧を振り分ける。無意味な行動だという声も、まるで理が無いとは言い難い。然し宿の主人の側からしてみれば、板前は自分の宿で働いていた我が子同然の従業員であり、まだ生きている人間だ。死人同然の言われ方をすれば、怒りを覚えて然るべきだろう。

「許さないからなんだよ!? こんな場所に閉じ込められて、食糧も無くて……大体、なんで宿にこれっぽちしか食い物がないんだ!?」

「お天道様の機嫌に儂がとやかく言えたものか! 竜蔵は生きておる、もうすぐ目も開けるわい!」

「目を開けた所で、腹が抉られてたら同じだろう!?」

 宿の主人が、貫三郎に掴みかかった。殴りつけようと拳を作り、それを必死で理性が留めている。貫三郎の方も、殴られれば殴り返すとの警告か、同じように拳を作り、これ見よがしに掲げていた。

「……ぇ、待ってよ二人とも、ねえ……こんな事で、いきなり喧嘩してちゃ……」

 村雨はその間に割って入り、二人を引きはがそうとする。流石に第三者に殴りかかる程に追いつめられてはいないのか、互いに険悪な視線をぶつけ合いながらも、村雨に従って数歩の距離を開けた。

「ここに居ない奴らの分は、どうするつもりだ」

 争いの気配が僅かに遠ざかった所に、外套の男の低い声が刺し込まれた。言わんとする所は、村雨には分かっている。桜の様に戻る確証がある人間ではなく、あの市目笠の女やウルスラの様に、戻るかどうか分からない者の事だ。

「……当然、一人として数えるよ。生きてるかも知れない――いや、生きてるに決まってるもん」

「それでこいつらが納得するのか? そこで生きてる奴に飯をやるかどうか、それだけで揉めてんだぞ」

 外套の男は、親指で、先程まで争っていた二人の方を指し示す。非難めいた言葉に腹を立てたらしい貫三郎だが、外套の男が睨みつければ、蛇を前にした蛙のように小さくなった。

「する、しないじゃなく……納得してもらう。子供でも大人でも、男性でも女性でも、此処に居ても居なくても、一人は一人だよ」

「お前に何の権利があるんだよ!?」

 喰い下がる貫三郎の事情を、村雨も分からない訳ではない。妻と子が飢え、更には何時襲われて殺されるか分からない状況下だ。自分が守らねばならないという意識が嵩じて、周囲全てに攻撃的になっているのだろう。その点に関しては、村雨は、自分に非難する権利は無いと感じていた。
 だが実際問題、食糧の分配だけは平等に済ませたい。引きさがる事は出来ない。先程の様な睨み合いを、宿の主人に代わり、今度は村雨が繰り広げる事になった。
 まるで方策が見えなくなる。感情を理屈で抑え込める程、村雨は口が上手くない。村雨自身が相手の心情に幾分か同調してしまっている現状では、尚更に解決は難しい様に思える。

「おい、食糧ならあるぞ。足りねえって言うなら特別だ、ただでくれてやる」

 この状況での外套の男の言葉は、その場に居た者の意識を、一瞬で集めるものであった。彼はのそりと立ち上がり、化け物が開けた壁の穴の向こうに手を伸ばし――

「火は無えけど、な」

 肩から切断された化け物の腕を二本、畳の上にごろりと転がした。血は抜けきって、死後硬直も解けた――村雨にしてみるなら、食べごろの肉であった。

「くっ、喰える訳ないだろう!? そんなもの、あの化け物の肉なんて……」

「人間の肉じゃねえ、熊の肉だ。食おうと思えば喰える筈だぞ……生、だが」

 外套の男はそう言うと、化け物の腕に噛みつき、肉を噛み千切る。本当に自分自身で、それが食えるという事を証明して見せたのか。或いは、恫喝目的であるのだろうか。
 それでも、自分から食うと言いだす者は、やはり現れない。人間の胴体から生えていた腕は、やはり人間の物であると感じてしまったのだろう。食糧は少ないが、尽きてはいない。今、共食いの真似事をしたがる者など、居る筈も無かった。

「怪我人や女から食い物取り上げるよりは、この方がマシだろうが……気に入らねえなら仕方ねえな」

 化け物の腕を二本重ね、その上に外套の男は座り込む。帽子を畳の上に置いた。首から頬に掛けての体毛が、口の中の乱杭歯が露わになり、部屋の中の空気が張り詰めた。それは、男が純粋な人間ではないという証拠だったのだから。

「決めろ。そこの女に従って飯を分けるか、化け物の肉を食うか、どれも嫌なら俺に食われるかだ。この図体だ、腹が減ってんだよ」

 皆、粛々と、村雨の分配に従った。








「……ありがとうね」

「あぁ?」

 村雨は漬かりきっていない漬物を口に運びながら、外套の男の隣に座った。ヒグマの骨の一部を楊枝代わりに咥えたまま、男は視線だけ横に向けた。

「二人の喧嘩、止めてくれたじゃない。私、どうして良いか分からなかったから……それに、さっきもさ」

 同じ境遇に置かれた者同士が、食糧が原因で争う様な惨事を、村雨は見たいとは思っていなかった。この男の様に、自分を共通の敵としてでも止めてくれる者が居た事は、期待だにしない幸運だったのだ。
 思えば、助けられたのは初めてではない。智江と共に厨房に向かった時も、この男は天井裏から現れ、化け物を仕留めた。あれが無ければ、無事に部屋にまで戻る事が出来たかどうか――出来たとして、それが何時になっただろう。

「……鼠を狩ってただけだ」

「え……鼠?」

「飯が少なくて腹が減ったから……屋根裏の鼠を追いまわしてた。そしたらあの化け物が出た。美味そうだから狩っただけだ」

「……ぷっ、っく、あははは」

 村雨は、思わず噴き出した。この長身の男が屋根裏で身を縮め、小さな鼠と駆け比べを演じる様子を想像してしまったからだ。何とも似合わず、おかしな光景だろう。

「それでもいいや、助かったし。捕まらないでいた鼠に感謝って所かな」

「捕まえたよ。食う所が少ねえんだよ。腹に溜まらねえんだよ」

 自分は無能な狩人ではないとの主張は忘れない、外套の男。確かに鼠の一匹や二匹では、この男の腹を満たす事は叶うまい。
 一通り笑った村雨は、ふと周囲を見回した。宿の主人やあの親子から、怯えと侮蔑の混ざった視線が、男へ向けられている事に気付いた。

「それに、隠してた正体まで見せて……嫌だったよね、本当なら。自分の生まれを、脅しの道具に使うなんて」

 男に向けられている視線の冷たさは、男の人格だけに由来するものではない。亜人という生物に対する、日の本に特有の差別意識が、その大きな原因なのだ。




 そも亜人とは、人間に近いながら、その上で獣の性質を強く持つ種族を差す。彼らは基本的に、人間より身体能力に優れ、知性も決して劣らない。反面、寿命が短い他、繁殖力に極めて難があり、確認されている個体数はかなり少ない。
 特に日の本には、数百体程度しか亜人が生息していない。その多くは、山や森の奥深くに潜み、滅多に姿を見せる事は無い。その為に日の本の人間は、亜人という存在に慣れておらず、親しみも無い。それどころか、多くは恐怖心と敵意を抱いていた。
 日の本で、亜人が人間に関わる事態と言うのは、多くの場合は悲劇的な結果を招いた。亜人の縄張りを踏み荒らし帰らぬ人となる者、獣と間違え亜人を殺してしまい報復される猟師、近親交配を避ける為に攫われる若い女、等々。そして、それに人間が抵抗し、多くは数の暴力で人間が勝利する。
 自分達より優れていて自分達に好意を持たない存在が、生活区域の近くに潜んでいるかも知れない。過去の日の本では、亜人は伝承の鬼よりもさらに恐れられた存在であった。
 然し、魔術の伝来と浸透により、その力関係は変わる。魔術とは人間の為に作られた技術体系であり、亜人の様な特殊な波長の魔力には馴染まないものなのだ。身体能力の差など如何様にも埋められる様になった以上、亜人に対する遠慮など、人間は一切考えない。ただ、頭を垂れて尻尾を振るのなら生かしてやっても良いと見下した。
 個々人の見解などではない、もはや社会の常識として組み込まれた思想なのだ。例えどれ程に善良に生まれた人間であろうとも、日の本の常識だけで育ったならば、亜人は鞭でしつけるべき存在だと自然に見下す。それが、正しい在り方だと信じているのだから。




「どうでもいいんだよ、どうでも。生まれなんざ糞だ、金がありゃ何でも出来るんだ」

「嘘だよ、どうでもいい筈がない。自分が自分だってだけで、あんな目で見られるなんて……」

 楊枝代わりの骨を噛み砕き、破片と共に言葉を吐き捨てる男。それが本心では無いだろうと、村雨は感じていた。智江の胸倉を掴んだ時の男は、確かに怒りを露わにしていた筈だ。

「……酷いよね、本当に。絶対におかしいよ」

 男の横で、村雨は膝を抱える。長い年月を経て生まれた偏見は、それが理不尽でしかなくとも、覆す事など出来ない。それを良く知っているからこそ、悲しいのだ。

「何で、あの女を殴った?」

「……なんでかな、なんでだろ」

 村雨は大陸の生まれだ。この国を訪れるまで、亜人が忌み嫌われる文化が有るという事さえ知らなかった。それを知ってしまった時の衝撃は未だに忘れる事が出来ないでいる。親身に話し合いに乗ってくれた人が、村雨に笑いかけたのと同じ口で、畜生の子よ穢れた半獣よと他者を罵る忌まわしい光景だ。
 智江を殴り付けた理由など、単純に腹が立ったからでしかない。頭が真っ白になる程に怒ったから、何も考えずに殴ったのだ。強いて理由を上げるなら、我慢が限界に達したのがあの瞬間だったと、それだけの事なのだろう。

「食うか? 無駄に量は有るが、明日にはかなり腐ってるぞ」

「ううん、いらない。やっぱりさ、人の肉じゃないかって思うと……」

「味は熊肉なんだがな……まあ、いい」

 男が差し出した肉を、手で押してつっ返す。それが熊の肉でしか無い事は、過去に自分自身で確かめてしまった。だが、もう一度味わう気分にはなれなかった。

「あなた、名前は?」

「……葛桐クズキリだ」

 つっ返された肉を噛みながら、男はくぐもった声で答えた。

「そう、葛桐……私は村雨ムラサメ、よろしくね」

 名乗り返した村雨に、葛桐はほんの僅か、首ごと顔を向けた。直ぐに視線を外し、自分の食事を継続した。

「ああら、あらあら、二人とも仲良くなっちゃってえ。ひゅーひゅー、お熱いですねぇ」

 束の間の平和を乱す声は、食糧を全て食べつくし横になっていた智江のものだった。相変わらずの、人に安心感を与える笑み――然し、先入観を持って見れば、それは慣れ慣れしく厚かましい表情にも見えた。

「何の用だ、おい」

 葛桐は慳貪だ。無理も無い、智江の葛桐に対する態度は、見世物小屋に珍獣を見に来る客と同じだったのだから。

「用ですか? いやいや、これと言う程の事も無いのですが……ちょいちょい、村雨ちゃん、失礼します」

「え? ……あ、ちょ、何?」

 自分への冷ややかな態度を気に掛ける事もなく、智江は村雨の正面に周り、その顔を覗き込む。村雨は訝しげに眉を顰めた。
 突如、智江の目が、髪の色と同じ程に赤く光った。目を逸らせず、村雨は、じっとその光を覗きこんだ。視界が暗くなっていく、そんな錯覚を受ける。夜の闇の中に提灯が浮かぶような、ぼうと滲んだ光だった。

「『お眠りなさい』、夢も見ずに安らかに。『お眠りなさい』、どうせ何時かは覚める夢。夢の終わりを遠ざけたいなら、素直に寝りゃあ良いんです」

 声が遠くなる。意思に関わらず、瞼を開けて居られなくなる。膝を抱えた姿勢のまま、村雨は横向きに、畳の上に倒れ込んだ。すうすうと、穏やかな寝息を立てていた。

「……てめぇ、何をしやがった……!?」

「『The Hanging Tree』――あの桜という方がここを離れたのは、全くの幸運でした」

 智江が村雨に、何らかの魔術を行使したのは明らかだ。理由を問いただそうと葛桐は手を伸ばしたが、手首に突如糸が絡み付き、首に沿うように締めあげられ、壁に張り付けられる。
 そして、部屋に白い霧が充満する。気付けばあの親子連れも宿の主人も、一様に畳に伏していた。

「やっかいものは彼女一人、乾きで弱るまで放置しましょ。その間の玩具と実験動物も確保ー、私ったらなんて手際の良い!」

 部屋の中、立って動けるのは智江ただ一人。眠る村雨を、壁に張り付いた葛桐を、骨董品にする様に撫で回す。

「アッハッハッハッハ、さーあて彼女が戻る前に運びますよー、『Dimension Gate』!」

 耳の奥に針を刺されたかの様な、甲高い音が響く。部屋に籠る霧が消えた時、そこには誰も残っていなかった。ただ、部屋の中央に、固く閉ざされた鉄の扉が存在するだけだった。








 宿の隅から隅までを歩き回って、桜は幾つかの事を理解した。
 一つには、現状でこの宿以外、赤い壁の内側に取りこまれた施設は無いという事。別な施設へ繋がる通路は、その屋根を中央から叩き潰され、分断されてしまっていた。
 二つには、壁の内側に、水を確保できる場所が無いという事。井戸も風呂場も、おそらくは赤い壁の外側にある。現状、飲み水は一滴たりと存在しない。
 そして三つ目には、宿の中の何処にも、ウルスラは発見できなかったという事だ。呼びかけても声は返らず、然し死体も血痕も無い。屋根裏までは調べていないが、まさかその様な場所に隠れて、桜を欺く理由など無いだろう。

「……まいったな、これは……」

 独り言が多くなる。桜とて人間であり、動き続ければ疲労は蓄積する。他者を守るなどと慣れぬ真似をしては尚更の事、無尽蔵の体力も氷の精神も、僅かずつ削られていた。

「一度戻るか、腹も減ってきた事だ……うむ」

 食物の中から、水気の多い物を選んで摂取。しかる後に半刻も眠れば、また暫く行動するだけの体力は戻るだろう。あの外套の男が居れば、自分が眠っていても問題は有るまい。桜はそう判断し、皆の集まっていた部屋へと戻る事にした。
 常に赤い光に照らされていて、時間の間隔は狂っている。外の音も聞こえない。宿の中は、自分の心音が喧しく感じる程に静かだ――静かすぎると疑念を抱き、桜は短い廊下を走った。

「くそ、こういう事か……!」

 部屋はもぬけの殻となっていた。怪我人を含め、誰一人として姿も気配も無い。部屋の中央には鉄製の扉が、何の支えも無しに一つ、固く閉ざされて立っていた。
 智江が持ってきた筈の食糧は、一欠片も残されていない。すぐさま廊下に出て玄関口まで走ったが、化け物の死体も忽然と消えていた。人間が食える物が、徹底的に排除されていたのだ。つまりは、兵糧攻めである。
 この戦術を誰が仕掛けてきたか、桜はなんとなくではあるが読めた気がした。自分が皆から離れて一人になった瞬間行動を起こした――そうなれば、やはり内部に居た者の仕業と考えるべきだろう。桜の力で貫けぬ防壁、複数の人間を同時に消失させる、この様な芸当をやってのけるからには、腕利きの魔術師に違いない。となれば、明らかに怪しい者が一人居たではないか。

「止むを得ん……まずは寝る、全てはその後だ」

 正体不明の大扉に寄りかかって座り、桜は睡眠だけでも取る事に決めた。食糧も水も無い分、二刻以上は眠っておきたい。いざと言う時に体力が足りぬでは困るのだ。

「村雨……どこへ行った……?」

 目を閉じれば、直ぐに眠気が意識を運んでいく。答えの返らぬと分かった問いを呟き、桜は暫しの仮眠に入った。








 涼やかな風の吹き抜ける、暗い暗い、土蔵の様な空間。床も壁も木では無く、石よりもう少しばかり柔らかい建材で作られている部屋。壁から伸びた鎖を首に繋がれて、つゆという名の女は震えていた。
 露は、村雨達と共にあの部屋に居た家族連れの母親である。十になるかならぬかの娘を抱いて休ませていた所、突如抗えぬ眠気が襲い、目覚めてみればこの様な空間に居たのだ。

「ここは……あなた、どこに居るの? ねえ、どこに……」

 露は、裕福な商家の生まれである。蝶よ花よと育てられた彼女は、何をまかり間違えたか、丁稚奉公していた男と恋仲になった。親の言葉に決して逆らわぬ露であったが、こと恋愛沙汰に関しては生来の芯の強さを見せ、母の口添えも有り、無事に今の夫――貫三郎と添う事が出来た。
 露にとって夫の貫三郎とは、傍にただ居るだけで、無条件の安心を約束してくれる存在である。目覚めた時に、貫三郎が隣にいない。婚姻を結んでからこれまで、一度と無かった事だ。未だに眠る娘を抱えたままで、露は何度も、夫の名を呼んだ。

「おっ、こっちも目が覚めましたかぁ。よーしよし、調節は間違えてなかった、流石私!」

 突如、部屋の戸が勢いよく蹴り開けられ、機嫌の好さそうな顔をした女が、部屋に入ってきた。血の様な赤い髪は、露にも見覚えがある。同じ部屋に非難していた、宿泊客の一人だった筈だ。

「あ、貴女は、確か……智江さん、だったかしら」

「はいはいご名答、杉根 智江と申します。覚えていて下さり光栄の至り……とまあ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょ。ちょいと私に協力して欲しい事がございまして」

「……協力?」

 はい、と智江は答え、壁の一つを軽く叩く。すると、壁は突如色を失い、向こうの景色を映し出した。鉄張りの床と壁に鉄格子、牢屋の中に一人の男が横たわっている。それは間違いなく、露の夫である貫三郎だった。

「あ……あなた!? どうしたの、ねえ……!」

「寝てるだけです、怪我一つありませんからご心配なく……ま、今はって条件付きですけどねぇ」

 智江の声は、それ自体が粘性を持って耳に纏わりついてくる様な、粘っこい音をしている。笑みとは正反対、全ての安堵を根こそぎ攫って行く様な響きに、露は寒気を覚える。娘を智江から遠ざけようと後ずさりするが、直ぐに鎖の長さが限界に達した。

「条件とは、なんですか……?」

「おお、話が早くて何より何より。いやいや、そんな難しい事は申しません。貴女がほんの少しだけ協力してくれりゃあいい話。そう、例えば――」

 これ以上逃げられない所まで下がった所で、智江は露にぐうと近づく。膝を曲げて顔の高さを合わせ、人の良さそうな笑みを最大限に魅せつけながら、続けて吐く言葉は悪辣であった。

「すいませんがちょいと、亜人の子供でも生んじゃ貰えませんかねえ?」

「――!? なっ、何を馬鹿な事っ!?」

 大人しい露が、思わず声を荒げる。夫持ちの女に告げる言葉として、それは度を超えて悪い冗談に聞こえたのだ。まして露も日の本の人間、亜人に良い印象など抱かない。獣と睦み合えと言うも同様の言葉に、怒りを上回る恐怖を抱く。

「いやいや、大丈夫大丈夫。亜人の妊娠期間は短いし、生まれた子供は私が育てます。そうですねぇ、今回の入手固体から考えると……出産までは三か四か月って所でしょう。奥さんまだ私とそう年も変わらないようですし」

「じょ、冗談にも度が過ぎます、ふざけないで! よりにもよって獣の子などと、それに私は――」

 私は貫三郎様の夫だと、強く宣言して顔を張ってやろうと、露は考えていた。急に冷めた智江の表情が、その覚悟を砕く。喉も腕も麻痺し、それどころか呼吸さえ、意識しなければ自由には行えない様な重圧を感じた。

「……ねえ、奥さん。あの部屋、壁も床も鉄で出来てるんですよ。なんでだと思います? 床下がかまどになってるんです」

「竈……ま、まさか……!?」

「鉄の床の下で、竈の火を入れてごらんなさい。鉄はたちまちに熱を持つ、上に置かれた物を焼き焦がす程に。そうなりゃ旦那さん、どうなります? 内臓まで火が通っちゃって、美味しい美味しい焼き肉の完成ですよ?」

 足元全てが灼熱と化す拷問の光景を、僅かにでも露は想像してしまう。生きて居られる筈がない。本当に実行されれば、夫は炭の塊に成り果てる事は分かりきっている。震えは収まらず、奥歯がかちかちと打ち合わされ、気付けば涙が襟を重くしていた。

「なんで、そんな事を……そんな酷い事を出来るのよ、うぅ……!」

 断る術を持たない露は、力の籠らぬ目で智江を睨みつける。良心を僅かにでも持つ人間ならば心も動かされよう、哀れな姿である。

「……なんで、ですか。ふぅむ、強いて言うなら……知りたいから、でしょうか」

 然し、智江は眉一つ動かさないで、真剣味すら見える神妙な顔つきで、答えを真面目に探していた。

「私はどうもね、感性って奴が著しく他人とずれてるらしいんです。他人と幸福は共有できるんですが、不幸ってえ奴をどうしても理解できない。親を殺されたーだの、故郷を失ったーだの、集団で犯されたーだの、そんな感じの一般的な不幸がね。これって中々、本人からすれば奇妙な感覚なんですよ? 周りがびーびー泣き喚く様な状況でも、なぜか笑いが止まらなくて仕方がないってのはねぇ……」

 智江の手が、露の頬に触れた。薬品や火で幾度となく焼け爛れたのだろう、ところどころ皮膚が薄い手。細く長い指は蜘蛛の脚の様で、露はおぞましさに身を竦ませる。

「実体験じゃないから分からないんだと思って、親を殺されてみました。ぜーんぜん泣けやしません。生まれた町を焼き払いました、暖かくて心地好いだけでした。輪姦の憂き目にあえば不幸も体験できるかと思いましたが、向こうが先に疲れちゃってお話になりゃしませんでした。それで悟った訳ですよ、私はどうも欠陥品らしいと。ですが、それじゃあ私と他の人間、他の生き物の違いって何?」

 蜘蛛脚の指が、露の髪に巻き付いた。一房を手の中で纏め、吊り上げ、強引に上を向かせる。額を重ね、智江は笑った。毒々しい、彼岸花の様な笑みであった。

「腹をかっ捌けば分かりますか? 脳みそを捏ねまわせば分かりますか? あと何百のサンプルを見比べれば分かるんでしょうか? 私は知りたい、生物をもっと知りたい。そうすれば、私が頭おかしい理由だって分かるかも知れないんだ……だからねえ、協力してくださいな。若い経産婦ってのは、子宮が正常に機能してる可能性が高くて便利なんです。どうしても嫌だとおっしゃるなら、娘さんにお願いするしかありませんが――娘さん、見た感じで十才になるかならないか、ですよね?」

 固まらない動脈血の様に紅い目が、そして愛する娘に毒牙が突き立てられるかも知れないという恐怖が、露の僅かに残る抵抗さえ奪い去った。滂沱の涙を流し、諦観に目を瞑り、露は一度だけ頷いた。

「ふっふっふ、よーしよしよしご好意感謝します。サーヤ、道具一式持って来なさい! まずは消毒、それから体温のチェック、体液の採集と分離! 数日ばかり検査に使って、それから本格的に実験開始といきましょう」

「……本当に他人の都合お構いなしの脅迫なんかしてやがりくさって、面倒な……はい、智江。器具の一切はもう揃えてございますよ」

 部屋外へ智江が声を向けると、褐色肌のレインコート少女が、荷車の様な物を押して部屋に入って来た。荷車に山と積まれた金属製の道具や透明の筒は、それがどういう用途の物か分からないからこそ、露の恐怖心を余計に煽った。
 髪を掴まれたまま天井を向かされ、口に漏斗を押し込まれる。漏斗の足が喉に届き、吐き気と屈辱感、これから我が身に降りかかるであろう虐待の予感に、露は気絶してしまいたいと強く願った。所詮、叶わぬ願いであった。








 実験に先んずる検査と称しての暴虐を存分に満喫し、智江は、赤い液体の入った硝子の筒を手に廊下を歩いていた。
 白い壁に白い天井、白い床。少なくとも此処は、彼女が宿泊していた蓬莱屋ではない。それどころかこの様な内装の建物は、島田宿のいずこにも存在しない筈だ。
 然もあらん、此処は人里離れた山中の、更に地下に造られた施設。彼女の技術と知識の全てを注ぎ込んだ、おそらくは世界でも最高峰の設備を誇る研究施設なのだから。
 彼女は――魔術師、杉根 智江は、端的に言うならば天才である。常人の数十倍の速度で物事を記憶し、その記憶を常時、同時に数十項目以上参照しながら、別件の思考を行う事が出来る。彼女は常に、自分に最適化された資料を閲覧しつつ、世界を見ている様なものなのだ。
 過去に得た如何なる情報も、彼女は忘れる事がない。そして、例え眠っている時でさえ、彼女の脳内では常に情報が組み合わされ、新しい発想へと昇華されていく。
 但しその天性の才は、歪みきった精神に支えられている。外部から与えられた変化ではなく、生まれ持った奇形の心に、だ。
 他者が感じる不幸に共感出来ず、一方で悦楽は余計な程に感じてしまう、生まれ付いて幸福だけを過剰に与えられた人間。
 不幸という物を知る為に他者を観察し続けた結果、不幸を産む事そのものにさえ愉悦を感じる様に成り果て、外形だけが正常を保つ人間。
 欠落を覆いに自覚する彼女自身が、自分を評した言葉は、『できそこない』であった。

「……ふーむ、流石に血が綺麗だ。野菜中心の食生活、悪くないですねぇ……或いは魚が原因? お昼はアジなんてどーでしょ、大根おろしも添えてね」

「こんな山中に魚が貯蔵されてる訳がないという考えにさえ至らないんでございますかこのすっとこどっこい」

 然しながら、硝子の筒に収まった血液を、外から差し込む日に透かして歩く智江の言葉や表情は、その才智を窺えるものではない。隣を歩くサーヤという褐色肌の少女が、智江の腰骨を拳で殴りつける。智江は一瞬だけ体をくの字に曲げたが、足を止めはしなかった。

「……あのままで良いのでございますか?」

「ん、何がで?」

「あの黒尽くめの女剣士、放置したままで。『Dimension Gate』の防壁も絶対ではないのでしょう?」

 殴った手が痛いのか、拳に息を吹きかけながらサーヤが尋ねる。『Dimension Gate』とは、とある任意の空間二点を繋ぎ合せる転移魔術だ。実行には多数の制約があり、また術の難易度も極めて高いものの、極めて利便性に優れた魔術である。
 事前に用意した多数の魔法陣を起点に、空間と空間を繋げる扉を出現させる。開いている間は誰でも空間転移を可能とし、そして閉じてしまえば術者の意思無くては開かない――と、いう触れ込みの術なのだが、問題も一つ。

「そうですねえ、あの人なんか凄い馬鹿力ですし……気付かれたら、二日もありゃ破られるでしょうねぇ」

 扉は極めて強度が高いが、それが破壊されてしまえば、術自体を解除しない限り出入りし放題なのだ。そしてこの施設、『Dimension Gate』で出入りする事を前提に作っている為、術を完全に解除する訳にはいかない。

「二日、って……とてもじゃございませんが、あの無駄にでかい獣人の検査さえ終わりやがりませんよ? あんな化け物に踏みこまれたんじゃ、まさか迎撃するにしても――」

「飲まず食わずで二日も放置されりゃ、人間どうやっても弱るもんです。弱って、それでも最後の力を振り絞って扉を破って来たのなら、私が仕留めて捕獲すりゃいいだけだ。扉が破れず仕舞いなら、死ぬ寸前で回収してきます。あれだけ鍛え上げられた固体だ、是非とも調べたいし、ついでにあれの子供が欲しい」

「――相変わらず、遠回りな手ばかり選びくさる方でございますこと」

 破られるなら破られてもいいと、智江は考えている。いや――むしろ、破られるだろうと予想をしている。
 宿の周囲に張り巡らした赤の防壁は、少なくとも三日か四日は、食わせた魔力を残したまま機能する。相手が同じく高位の術者ならば兎も角、剣士であるなら、破る事はまず不可能だ。反面『Dimension Gate』の扉は、頑強では有るが、物理的な衝撃だけで十分に破壊する事が出来る。
 智江からすれば桜は、何もせずにただ座して過ごす気性には到底見えなかった。遅かれ早かれ、扉への攻撃という手段を取るだろう。飢えと渇きに苦しみながら、なけなしの体力を浪費して。

「さあてさて、次は村雨ちゃんで遊んできましょーっと。あの子もあの子で、かなーり面白いものを持ってますからねえ」

「人名と遊ぶという動詞の間には、『と』という音を入れるのが相応しいかと思う次第なのでございますが」








 智江の作り上げた研究施設は、決して広いものではない。最上階に智江達の居住区、中層が実験器具等々を置く区画、そして最下層は実験動物を放り込む檻。金属の壁、床、そして扉で固く守られたその階は、滅多な事では脱走者を出しはしない。

「……そろそろ、頃合いでしょうか。とは言っても、この鉄格子が厄介ですが……」

 檻の一つの中、首と手に掛けられた鎖を外し、ウルスラは問題解決の為に頭を回転させていた。
 麻痺毒によって捕獲され、更に睡眠薬まで投与されたウルスラであったが、彼女は暗殺の目的で鍛えられた術者である。大概の薬物には耐性が有るし、体内に入り込んだ薬物を分解する為の術を幾つか身につけている。例えば、血管中の血液を一度破壊、再構成する方式で有ったり、代謝を高めて肝臓任せにしたり、と。
 鎖もまた、彼女の持つ『身体操作』の術を以てすれば、抜けられぬ物では無い。筋力を増幅させた上で、金属部分の継ぎ目を地道に壁と擦りつけ、更に術で炎を起こして炙り、逆に氷を生成して急激に冷やす。それを繰り返す事によって鎖の強度を落とし、腫れて自由の身となった。

「やはり、同じ手が……いえ、もう少し良い方法も有ります、か。何も折る必要は無いのですよね……」

 牢屋の扉も、所詮は幾つかの部品を組み合わせて作った物だ。必ず継ぎ目が有り、継ぎ目は他の部位より強度が劣る。其処へウルスラの指先から、小さな釘の様な物が、幾度も打ち込まれては弾かれていく。
 一撃で鉄格子を吹き飛ばす様な、華々しい術は持たないが、彼女もまた一端の術者である。蝶番が完全に破壊されるのは、それから半刻ほど後の事であった。








 眠りを妨げる者は何もおらず、桜は自分が予定したより長く、三刻ほど眠ってから目を覚ました。
 相も変わらず、誰もこの部屋に戻っていない。死体さえ消えてしまったのは、腐臭の原因が無くなったと考えれば良い事かも知れず――食糧が無くなったと考えれば、損失なのかも知れない。
 これ見よがしに怪しさを漂わせる鉄の扉は、一寸の緩みも無く、支えも無しに、畳の上に立っていた。躊躇せず、拳をそれに叩きつけた。
 鈍い音がして、相応の反動が手に返る。その程度で砕ける拳では無いが、然し扉も動きはしない。見た目通りの強度であれば、一撃では壊せずとも、少々は歪ませる事が出来る筈であった。恐ろしく、固い。
 だが、宿を覆う赤い壁に比べれば、まだ手応えがあるだけ良い。あの壁は物理的な衝撃を完全に吸収してしまう様な感覚さえ有る。あれは壊せない物だと、桜はほぼ直感で悟っていた。

「ふー……ぅらっ!」

 もう一つ、拳を扉に打ち込む。やはり、扉が開く様子は無い。
 扉を破るまで、この調子ではどれだけの時間が掛かるだろうか。水も食糧も無い空間で、然し桜は、未だに絶望などは感じていなかった。
 自分の力で突破できなかった事態は、これまでに一つも無い。ならば今回も上手く切り抜けて見せる。そういう、過剰とさえ言える自信を持ち合わせている桜には、潔く諦めるという考えなど無い。
 何度も、何度も、何度も、骨と鉄がぶつかり合う、硬質の鈍い音が続いた。








 褐色肌の少女、サーヤは、智江に命じられて採取した体液や体細胞などの分析を行う為、中層実験器具区画を歩いていた。捕獲した実験動物の体調、体質の特性を把握しておくのは、彼女達の行う実験では欠かせない事なのだ。
 今回の場合、非常に貴重な生物――亜人と人間のハーフ、雄――が捕獲出来た。あまりに凶暴、かつ怪力である為、完全に眠らせていなければ検温さえ満足に出来ないのが問題では有るが、その不満を補って余りある希少種だ。

「……まったく、あの女は同性の胎ってもんを何だと考えてやがるんでございましょうかね、もう」

 他に捕まえてきた人間に、女が多かった事も、智江を大いに喜ばせていた。亜人は、ハーフになると獣の血が色濃く浮き出るが、クォーターになると一転して、人の血が強く出るという特性がある。その為、天然物のクォーターは、発見からして難しいのだ。
 亜人のハーフの男――葛桐と言う名前だった筈だ――から精子を採取し、捕獲した女の排卵の時期に合わせて、人工的な受精を試みる。そうして出産に至らせて、確実に亜人のクォーターを、何個体か確保しようというのが、智江の腹積もりである。
 が、実験動物を管理するサーヤの立場としてみれば、母体の扱いは慎重を期さねばならず、かなり面倒くさいというのが本音だ。同時に何個体も妊娠させるなどしたら、何をするにも手間が掛かって仕方が無い。
 大体にしてあの女は、妊婦というものの扱いの厄介さを軽視しているのだと、サーヤは内心毒づいていた。本人も体験した事は有る癖に、いや体験した事が有るからこそ、どうという事は無いと誤認しているのだろうか。

「はぁ……一辺腐れた脳味噌を取り出して洗浄して差し上げたい、心の底から……」

 そうは言うものの、あれも主人であると自分の心に言い聞かせ、目的の部屋に到着する。気も狂わんばかりの白壁、白床、白天井に、白い棚と机だけが置かれた部屋だ。棚の中に並ぶ薬瓶や実験器具だけが、辛うじて異なる色彩を与えている。仮に智江が気まぐれで、「この器具も全部白塗りにしなさい」などと言いだしたら、不労運動でもしてやろうかとさえ考える程、居心地の悪い部屋であった。
 まずは血液の分析から。硝子製の透明な皿に、採取した血液を垂らし、特殊な試薬と混ぜ合わせて何分か待つ。魔術的な加工を施された試薬が検出するのは、その血の持ち主の魔力特性や、そもそもどういう種族であるのか、など。
 とは言っても、普通は、そうそう面白い結果など出てこない。重要なのは、これ以降の体細胞の分析であり、血液分析は飽く迄、通例だから行っている様なものだ。
 一人目、あの母娘の内、母親の方。試薬を血液に混ぜ、硝子から研磨したレンズを覗く。示す反応は、もう何かの資料に照らし合わせずとも、祖語一つ無いと断言できる。

「特性無し、種族人間……一般人でございますね、次」

 特性無しというのは、才能が無いという事では無く、一つに偏っていないという事を表す――つまり、平凡かつ理想的という事だ。
 何も面白みのない結果を端的に呟き、二人目、三人目と勧めていく。

「娘の方は……同じ、次。あの盗人女……これも同じ、次。魔術師の女は――」

 ウルスラの血液を分析し始めると、とたんサーヤの顔は、好奇心を刺激された研究者のものになる。

「へぇ……特性が歪な零、珍しい。だからあんな器用な芸当ができる訳で……へえ」

 何度も頷きながら、細筆を用意して、質の悪そうな紙に何事か走り書きを綴っていく。一尺の正方形の紙にして、三枚を綴り終えた後、更に次へ。最後の血は、村雨の物。試薬の反応が出てきた頃、レンズを覗きこむと――

「特性は水で、種族――あんにゃろう、こんな面白い事を黙ってやがりましたかちくしょうめ」

 此処に居ない自分の主に悪態を付きながらも、サーヤが浮かべた笑みは、智江が普段見せているそれに良く似ていた。慈悲を見せてはいるが、その実は対象を物としか見ていない、温情の籠らない笑みだった。
 先程と同じ様に、細筆で走り書き。ただし今回は、小さな紙にただ一行、大きな字で書きこんだだけ。詳細な記述の時間が惜しいというように、書き終えれば筆を放り投げた。
 他の調査などはどうでもいい、とにかくあの灰色頭を見に行こう。レインコートの裾を翻らせたサーヤは、見えない壁に衝突した。

「った……! んな、んですかこりゃ――っが!?」

 全く予想の外の事であり、盛大に尻もちを付き、鼻もぶつけてしまったサーヤ。涙目になりながら、何も無い空間を睨みつける――視線が、首ごと右に振り切られた。左頬に痛みを感じた次の瞬間には、彼女は床と口付けを交わしながら意識を失った。

「成程、そういう訳だったのですか。良い勉強になりました」

 まるで目に映らない為にサーヤはついぞ知る事が無かったが、彼女が血液分析を行っている一部始終を、ウルスラは姿を消して、背後から覗きこんでいたのだ。走り出そうとして転倒したサーヤの頭に、右足甲での痛烈な回し蹴りを打ち込み、意識を歯の一本と共に狩り取ったウルスラは、彼女のレインコートのポケットを探り始める。

「私の特性が零……道理で、こういう芸当ができる訳で……っと、これでしょうか」

 何事か納得した様な面持ちのウルスラが見つけたのは、金属の輪で閉じられた、十数本の鍵の束。どれがどの扉のものか、正直検討も付かないが、おそらく最下層の檻の物であろう。

「……さて、どうしましょうか」

 鍵を手に入れた、までは良い。だが、そこから先をどうするべきか、ウルスラには何の案も無かった。何かに使える物さえ拾えば、他の誰かが次の行動方針を示してくれる、それが彼女の生き方だったからだ。
 鍵は、扉を開けるのに使える。それでは、今から鍵を開けてこようか――と、短絡的な思考に辿り着くが、首を振ってその考えを散らす。
 肝心なのは、檻から脱走させる事では無く、この施設から脱出する事だ。出口を見つけていないのに、足手纏いを何人も抱え込む事は出来ない。自分一人で行動している方が安全だろう。
 自分で考えて行動しろと、桜に言われた事を思い出す。自発的な思考は苦手だが、今こそ、それが必要な時だ。得意で無いならそれ相応に、より熟慮しなければならない。

「……まず、構造の把握をしましょうか。それと、この少女は……」

 意識を失ったサーヤを引きずり、室内の棚に放り込み、戸を閉めた。鍵も掛けられれば良かったが、生憎とこの棚は、鍵穴は付いていない。
 姿も音も消したまま、ウルスラは廊下へ出て歩きだす。昇り階段を探し、登れる所まで登ったら、また最下層まで戻ろうか。散策でもするような気構えながら、両の拳は固く握りしめられていた。








 実験動物を放り込む檻にも、当然だが幾つかの種類がある。収容する動物の体格、習性、力などによって、適切な檻を選ぶべきなのだ。
 例えばあの母娘の場合、石壁や床の、然程広くも無い部屋に、首の鎖一つだけで拘束しているが、それで問題は無い。夫の方は、脅迫用に鉄張りの部屋に放り込んだが、あそこまでする必要は、本来なら無い。何処かの盗賊崩れの小娘は、手足を背中側で縛りつけた上で、大きく体を動かせない、狭い部屋に放り込んである。
 その様に、用途の分かれた部屋の中で、特に頑丈な一室が有る。壁も床も天井も、数センチメートルの厚さの金属で作られた、要塞の城壁にも勝る強度の檻だ。扉の重い事と言ったら、智江の細腕では、強化魔術を二重掛けして漸く動かせる程度である。

「あぁら、そちらはお目覚めですか? やっぱり体大きいと麻酔の効き目が悪いですねぇ……ふむ、ご機嫌いかがで?」

「最低だ、さっさと鎖を解け! さもねえとぶっ殺すぞ!」

「アッハッハッハ、解いたら殺されちゃいますもん、いやですー。まま、楽にして楽にして、今は貴方と遊ぶ時間じゃあ有りません」

 鬼でさえ隔離出来そうなこの部屋には、二人が壁に張り付けられて収容されている。その内の一人、葛桐――外套の長身男――は、乱杭歯を剥きだしにして吠えていた。
 首、肩、肘、手首、腰、膝、足首、合計十二か所を金属の枷で固定されれば、彼の怪力もまるで意味を為さない。解放しろとどれ程に喚いても、目の前で毒々しく微笑む女はまるで聞く耳を持たない。

「……ねね、貴方、貴方。貴方の場合、御父上と御母上、どっちが亜人? この国の人間なら、大概は御父上ってなるんでしょうが……ねぇ、ほら、人攫いとかの事も有りますし?」

「うるせぇ、さっさと鎖を解け、このっ!!」

「おや、お答えになってくれない。それは困りました困りました、それじゃあ……うふふふふのふー」

 出生に関する話題は、葛桐が最も触れられたくない事だ――日の本では、亜人は害獣と同等の扱いを受けている。ガチガチと獅子舞の様に歯を噛み鳴らし、最大限の敵意を示す彼を、智江はやはり鼻にもかけぬと笑いとばす。
 そして、彼が張り付けられているのと、反対側の壁へと向かう――そこには村雨が、両腕を高く上げた状態で、手首を括りつけられて座り込んでいた。
 意識は無い。余程深い眠りの中に有る様で、普通ならば少々の苦痛を感じる体勢だろうに、まるで目を覚まそうとしない。智江の魔術による強制催眠は、村雨の体質に余程適していたのだろう。
 安らかな寝息を立てる彼女の胸元に、智江はそっと、ナイフの切っ先を宛がった。

「ねえ、貴方。質問に答えてくれなきゃ、この子の服を一枚ずつ切っていきます」

「……んな……!?」

「んまあ、見てる分には楽しいでしょうねえ。切る服が無くなったら……あ、いやいや、この白い肌に傷を付けるなんてえ事はしませんよお。ただね、私、男の子でも女の子でもイケる口なんです。眠ってる女の子を弄ぶのって、結構楽しいんですよ?」

 村雨のシャツの端に、ナイフの切っ先が吸い込まれる。切れ味はかなりの物であるらしく、指の先程度の長さの切れ込みが残された。これならば確かに、加減さえしなければ、衣服の一枚や二枚、ただの布切れにしてしまう事は可能だろう。
 葛桐は憎らしげに、小動物ならば睨み殺せそうな程の視線を智江に向ける。だが、自分に害を為せない存在からの敵意など、この女は微塵も恐れないのだ。そしてまた、葛桐には、村雨を赤の他人とする事の出来ない理由が有った。

「……父親が、大陸の出の、グーロ。母親の方は良く知らねえが……この国の、どこかの村の女だったらしい」

「ふむふむ、って事はやっぱり掻っ攫ってきた結果の子供って訳ですねえ貴方。にしてもクズリたあ珍しい、そりゃあの顎の力も納得いくってもんです」

 グーロ、クズリ(イタチの仲間の獣)の亜人の俗称である。西洋諸国の中でも、特に北に位置する国に住む種族である為、本来なら日の本で遭遇するという事は有り得ない。己の強運に、智江は唇の端を吊り上げる。

「結婚や、配偶者を妊娠させた経験は?」

「どっちもねえよ、女なんざ金で買えば良い」

「素晴らしく即物的で共感できますねぇ、はいはい」

 ナイフは鞘に納めないまま、上着の内側へ。代わりに、試験管を一本取り出し蓋を開けると、村雨の首を、くいと上に向かせた。

「……おい、こら、てめぇ。何をする気だ? 答えたろうが」

「大丈夫、大丈夫。毒じゃありませんし、後遺症が残る様な薬でもありません。敢えていうなら……ちょっとだけ、自分に素直になるお薬? ぼーっとさせて、理性を麻痺させるだけ。なんて親切な薬効でしょうねぇ」

 軽く顎に手を添えてやるだけで、健康な歯列の揃った口が開く。智江はその中へ、試験管の薬液を一息に注ぎ込むと、吐き出さないように掌を重ねた。

「おい! てめぇ、放しやがれ!」

「煩いですねえ、大丈夫ですってえの。あんまりしつこいと怒りますよ私……んーん、その点村雨ちゃんは素直で良いですねえ」

 口内の液体を、意識の無い村雨は、躊躇する事さえ出来ずに飲み干した。智江の手が離れ、また顔が床を向く。寝息に乱れも無く、本当にあの薬品は、無害なものであるかのように思われた――その時であった。

「……ィ、ハアァァアアアアァア……」

 その瞬間まで深い眠りに落ちていた筈の村雨が目を開き、唸り声と共に立ち上がった。金属張りの室内に響いたその音は、普段の快活な声では無い。
 それは例えるならば、狂人の類が往来を行く際に上げる、理知を捨てた雑音。赤子が不満を訴える為に、手を振り回しながら上げる喚きにも似ていた。
 手首を繋ぐ鎖を、叶わぬなら壁ごと引きずってやろうとでも言うかの様に、村雨は前へ前へ進もうと足を踏ん張る。金属の壁は、とても彼女の力で壊せるものではないのだが――気迫に智江も、反対側の壁に居る葛桐さえもたじろぐ。
 村雨の顔からは、おおよそ知性と呼べるものが消え失せていた。今の彼女はきっと、本能だけで動いている状態なのだろう――が、ならばその本能、彼女の行動の根幹となる欲求は何なのだろうか。
 葛桐は、それも直ぐに理解する。村雨の目は、拘束されている自分ではなく、自由の身の智江に向いていた。戦える状態に有る者に、今すぐにでも踊りかかりたいと、村雨は全身で願いを表していた。

「……ッハハハ、こいつぁ怖い。もうちょっとお待ちなさい、一日か二日か……それくらいしたら、貴女も満足できる。ええ、約束をしましょ――」

 笑みを引きつらせながらも、智江はやはり、楽しんでいた。この女にとっては、他人の体に起こる異変というのは、全てが興味深い観察の対象なのだ。

「――ぅ、お?」

 だから、その後に見せた狼狽は、村雨に起因するものではない。もっと別な――何か、よほど予想の外に有った出来事が実現してしまった。智江の表情は、そんな困惑を示していた。

「まさか、んな筈は。どんだけの魔術師だろうが、『Dimension Gate』をこうも短時間で――いやいやいや、待てよ……?」

 足音が近付いて来る、鉄の扉の向こう側だ。立ち止まり、息を吐き出した。尋常ならざる殺気が、土石流のように智江に襲いかかる。

「……代償持ち、でしたか」

「いかにも」

 鉄の大扉は、黒太刀のただの一振りで両断され、鐘付きの如き轟音を上げて倒れる。その向こうに居たのは、頭の天辺からつま先まで、黒一色に染められた女であった。
 太刀風が、三尺の黒髪を巻き上げる。智江の目にはそれが、大鳥の翼にも見えた。

「私の連れを返してもらう……ついでに、腕の一本も頂くか」

 これまでの人生、大概は上手く切り抜けてきたが、今回はヤバいぞと智江は悟る。雪月 桜は、おそらくは彼女の生に於いて初めてであろう程、静かに怒り狂っていた。








「……魔術耐性も物理的強度も、十分に備えてた筈なんですがねぇ……まさか、どちらでもない手段を持っているとは思いませんでした」

「反省したか? だが、改める機会はやらんぞ」

 智江のように卓越した技量を持つ魔術師であれば、己の術の支配下にある物体の状況などは、離れていても手に取る様に察知できる。貴重な実験台を幾つも入手出来た事にはしゃぎ、迂闊ながら気付くのが遅れたが、『Dimension Gate』の大扉はドロドロに融解していた。
 もはや扉は扉の役目を為さず、ただ、空間に切り取られた様に『歪み』が有るだけ。そこを桜は堂々と潜り、ここまで降りてきていたのだ。

「この目がな、動かんものには有効なのだ。うっかりと宿一つ焼き払ってしまったが、あの赤い壁さえ消えれば……外は雨だろう、すぐに消える。さて、村雨から離れてもらおうか」

 宿の壁から乾いた木材を剥ぎ取り、扉を埋めるように敷き詰めて、それらを一片に発火させる。念じ目視するだけで炎の壁を産む桜の目なら、火種などは必要無い。いかに堅牢な扉であろうが、形成する素材自体が融けてしまっては、防御の役を果たせなかった。扉を潜った後、畳から廊下へ、そして別な部屋へと炎が燃え広がっていった事は、桜はまるで気に掛けていない。

「……はは、こいつは大変だ。ちょいと嬉しくて舞い上がったばっかりに、こーんな単純なミステイクたぁねえ……っはははは――」

 智江の背を、冷たい汗が伝う。改造亜人を――智江自らが作ったそれなりに優秀な生物兵器を、ただの一刀で斬り殺す怪物が、目の前ではらわたを煮えくり返らせているのだ。刑場に引き出されて斬首を待つ罪人とて、こうも歯が鳴る思いはするまいと、彼女は止まらぬ寒気に苦しむ。

「――アッハッハッハッハハハハハ、こいつぁ良い! ぶっ壊れ気味の身体能力、『代償持ち』でしかも雌と来たもんだ! 体格上々! 超健康体! 年齢的にも申し分無ぁし!」

 だが、彼女もまた狂人なのだ。正常な理性を持つ者ならば、死の恐怖に竦みもしよう、涙も流そう。然し、智江は笑う。楽隊の指揮者のように両手を広げ、身を仰け反らせ天井を仰ぎ、けたたましく笑ってのける。

「これまで、『代償持ち』だけはかっ捌いた事が無かった、作り出す事も出来なかったんだ……記念すべき第一号! 貴女の胎からは、何人を作ってもらいましょうかねえ!」

 万象を不幸と感じた事が無い彼女だ。身に走る恐怖さえが心地好い。ましてや目の前に立つのは、望んでも得られぬ最高の実験台である。智江は、幸福の絶頂に在った。

「そうか。ならば、やりあうか。私が捕まるか、お前が死ぬかだ」

 桜は、背の鞘の留め金を外し、黒太刀を抜いた。刃渡り四尺『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』の、切っ先が智江の喉へ向けられる。あと四歩、桜が踏み込むだけで、柔らかい喉は無残にも切り裂かれるだろう。

「おおっと待ったあ! 貴女とまともに戦うなんざ馬鹿も馬鹿、でしょう? だからね、こうします」

 智江は構えない。代わりに、小さな鍵を懐から取り出し――村雨の手首を、鎖から解放した。

「……どうした、いやに素直だな……まあ、良いが。おい村雨、少しお前は離れて――」

 桜は拍子抜けして太刀を降ろし、未だに俯いている村雨に歩み寄った。本気で暴れまわるなら村雨の加勢は不要、寧ろ太刀の間合いに居ない方が戦い易い。桜は、村雨の肩に右手を置く。

「――ぉ、おっ……!?」

 視界の下端に陰が見え、反射的に桜は飛び退いた。村雨の右足が、天井を指す様に振り上げられていた。
 仮に回避をしくじれば、顎を下から叩き割られていたかも知れない。大概の打撃は防御さえしない桜が、そんな予感を覚える程、その蹴りは鋭かった。頬を撫でる風だけで、肌が切れたかとの錯覚さえ有った。

「さくらぁ……あは、やっと来てくれた……」

 やっと自由になった両手を床に着き、両足を前後にずらし、爪先だけを立てる。腰を高く上げたその形は、肉食の獣が敵を前にして、飛びかかる為に力を蓄える構えであった。

「お前、村雨に何をした……!?」

「なぁんにも。ちょっと素直になって貰っただけです……ええ、ちょっとだけ、ね」

 太刀を鞘に戻し、両足を開き、腰を深く落とす。空手でいう騎馬立ち――馬に跨る姿勢に似た構え――を取り、両手を開いたまま胸の前に置く。桜は、徒手にて迎撃する姿勢を取った。

「ねえ、遊んで、遊んでちょうだい――ねえ、良いよね?」

 音も無く村雨が跳躍する。口が裂けた様な笑みを、彼女は顔に張り付けていた。








 村雨と桜の体重差は、衣服の上から見るよりも、実際は更に大きい。
 桜はゆったりとした和装である上に、筋肉の密度は、並みの武術家の拳なら腹で受け切る程である。対して村雨は骨格から細身であるし、背丈も桜より七寸は低い。体重差はおおよそ五貫から六貫(19~22kg)、村雨の体重は桜の三分の二という所なのだ。
 並みの相手でも、これだけの体重比では有効打を与えるのは難しいというのに、まして村雨が踊りかかった相手は雪月 桜。一端の術者が強化魔術を用いて放った拳を、平然と耐えきる怪物である。

「あは、あははは……! 楽しい、すっごく楽しいよ、さくら!」

 だと言うのに、桜は防戦一方であった。繰りだされる拳足を打ち払い、叩き落とし、避ける事で手一杯となっていた。
 相手が村雨だから、非情な手段に出られないというのは、確かに理由の一つとして有る。だが、それを差し引いても、村雨の攻勢は苛烈であったのだ。
 低い姿勢から飛び込み、膝を拳で狙ったかと思えば、跳躍と同時に蹴りを二つ、鳩尾と喉に打ち分けてくる。抉る様に放たれた爪先を左前腕で受ければ、骨まで鈍痛が響く。右手で足首を捕まえようとしたが、その時には村雨の足は引き戻され、右脇腹目掛けて放たれていた。
 右肘で足の甲を打ち、その蹴りを落とす。村雨は落とされた足で踏み込みつつ、喉を掴もうと右手を伸ばす。
 握手をする様な形で捕まえようと、桜も右手を突き出した。掌同士が触れた瞬間、村雨は体ごと、桜の視界から消え去った。

「むぅ……!」

 姿勢を低くしながら側面へ回り込む、ただそれだけの動きだったのだが、一連の動作が恐ろしく早い。咄嗟に後退し視界を広く取り、右手側に村雨の影を捕えた桜は、右手による裏拳を放った。胸を打ち、瞬間的に空気を全て吐き出させる、動きを止める為の一打である。

「あはは、すごーい。手が落ちないんだ」

「……お前も大概だがな、全く」

 その拳の上に、村雨は易々と飛び乗って見せた。他に回避の手段は幾らでも有るだろうに、その中でも難易度の高い物を選んだ村雨には、さしもの桜も驚愕を隠せない。
 桜は知るよしも無いが、この技こそは、村雨が『人工亜人』と戦った時にも見せた奇手である。先天性の瞬発力と平衡感覚は、敵の凶器の上に安全地帯を見出す事さえ可能とし――更には、自分の攻撃へ転ずる助けとする。
 村雨の右足が高く振り上げられ、桜の頭部目掛けて振り下ろされる。それに対し、桜は右手を振り上げる事で、村雨を天井まで跳ねあげて回避した。
 浮いてから天井に打ちつけられ、そして落下するまでの時間は、いかに俊敏な村雨と言えど動けない。落ちてくる足を掴んで関節を極めようと狙った桜は――ほんの僅かに遅れて、振り上げた腕の手応えの奇妙に気付く。
 村雨は、自分からも跳躍する事で、体を上下逆に反転させながら舞い上がっていたのだ。桜の腕力を足しての跳躍は、易々と天井に辿り着き、一瞬だがそこに逆様に『立つ』ほどとなった。
 そして、村雨は天井を蹴り、自身の身を砲弾と変える。落下速度に脚力の加速を加えて、村雨が狙ったのは桜の頭。拳足ではなく、同じく頭から飛び込んだ。

「ぐおっ……!!」

「あはっ、頭、ぐらぐらするー……あははは、は」

 両者とも額が切れ、軽い脳震盪を起こす。首の強度故か、桜はまだ視界は正常だが、村雨は振り子のように揺れながら立っている。まるで自滅としか言い様が無い攻撃だ。自分が生き延びる事を考える戦い方とは、到底思えなかった。
 そうだ、今の村雨の異常性は、突きつめればその一点に辿り着く。鎖から解放された時、襲いかかる相手は他に二人――智江と、壁に張り付けられた葛桐が居た。なのに村雨は迷う事なく、桜にのみ攻撃を続けているのだ。
 ただ、戦いたいのではないだろう。ましてや、勝ちたいという思いなど持ち合せてはいるまい。

「戦闘狂……それが、お前の本質か」

 村雨が望んでいるのは、より強い相手と戦う事なのだ。それだけが望みだから、自分が傷つく事など意に介さないし、弱いと見て取った相手は目に入らない。今、この場で最強の敵――雪月 桜の他に、村雨の目は何者も映していないのだ。
 完全に立ち直る前に抑え込もうと、一歩の間合いを桜が詰める。右手を取り、投げを掛けようとしたが――そこで、桜の動きは止まってしまった。
 桜は、敵対する者を叩き伏せる技であれば、数十数百と列挙する事が出来る。然し、相手を傷つけないように無力化する技術には乏しい。自分はどの技を選び、村雨を止めればよいのか、桜は分からなくなってしまったのだ。
 僅かな躊躇の間に、村雨が息を吹き返す。回復速度もまた、桜が見てきた数々の敵の中でも傑出している。左手が目を抉ろうと伸びてきた、咄嗟に手首を掴んで避けた。

「……おい、頭を冷やせ! お前はそれ程に血が見たいか――っが、ぐぉ……!」

 両手を掴まれても、次は足。逃げられぬならば逃げられぬまま、村雨は桜の腹部へ、靴の爪先を繰り返し叩きこむ。
 蹴りの一発ごとに、桜の足が僅かに床から離れる。大きく動けない状況から、片脚の動きだけで生み出されるその威力は、雲を付く巨漢とさえ紛うばかりであった。

「如何です? 中々に面白い趣向でしょう――いえ、まあ、私も正直予想外だったんですけどね、ここまで極端なの。私も巻き添えっての覚悟の上だったんですが……世の中はなかなかに面白いもので」

 先程から高みの見物を決め込んでいた智江が、一方的に蹴りを受け続ける桜に、嘲笑うように語りかける。
 ここまで、横から桜に手を出す機会は幾らでも有った筈だ。なのに、その手段を選ばなかったのは、観察者に徹していたかったからだ。かたや金剛無双の怪力、かたや疾風迅雷の敏捷。この二人の戦いは、それが例え片方が戦法に枷を付けられていても、非常に見ごたえが有った。
 然し、戯れは十分に堪能したからなのだろう。二人から二歩離れた位置に立ち、智江は間隔の広い拍手を鳴らした。

「さてさて、桜さん。助けようとした相手に、こんな目にあわされるとは思わなかったでしょう? 全くだ、普通の人のする事じゃあ無い……例え理性を飛ばそうが、こんな発想、普通なら有り得ないんだ」

「長口舌なら聞く耳もたんぞ……っぐ、が、お……!」

「蹴られながら強がっても迫力ありませんよお? ……ま、お聞きなさい。貴女も知っといた方が良い事なんだから」

 桜の腹に打ち込まれた蹴りは、もう何十発になっただろうか。肘や膝を間に挟んで威力を殺してはいるが、それも積み重ねれば、やがては内臓にまで響いてくる筈だ。硬く食いしばった歯の隙間から、桜の苦悶の声が漏れ聞こえる。
 翻って、智江は、硬い床を靴の踵で叩きながら、実に平静そのものである。語り調子も、寺子屋の筆子に書を読み聞かせるように、明朗ながら落ち着いた様子であった。

「ねえ、村雨ちゃん。貴女の生まれの事は聞きませんでしたが、顔立ちなんかを見りゃ、大陸の方の生まれだってのは予想が付きます。付きますが、その中でもズバリ……イェニセイとツングースカの流れが合わさる、あの辺りの出身でしょう?」

 村雨の蹴りが、足を床に縫いつけられたかの様に止まった。掴まれた腕から桜に伝わる力も、智江のただ一言で失われた。

「……煩いな、黙っててよ」

「いやん、怖ーい。その態度、肯定と受け取ってよろしいんですよねぇ? いやはや、あの辺りはかなーり寒いそうで。流石に今は無きロマノフ王朝の元臣民達さえが、冬に薪切らせば余裕で死ねるとかなんとか……でも貴女、きっと薪を集めた事も無いでしょ? 火を起こして暖を取るなんて行為は――いいや、暖炉の有る家さえ知らないと見た。外から眺める程度の事ならしたでしょうがねえ」

 手首を掴まれたまま、村雨は己の身を抱く――震えている。北国の話を聞かされ、寒さを覚えたとでも言うのだろうか?
 違う、現実は夢想に比べれば、あまりに非情である。智江の指摘は、全てが正しかった。そして、村雨には、それが恐ろしくて仕方がなかった。鈍麻した理性でさえ、この先の言葉を聞く事を恐怖した。恐怖しながら、村雨は震えるばかりで、智江の口を塞ぐ事は思い当らなかった。

「銀色とも見紛う、白雪の凍土に紛れる灰色の体毛。頑強な四肢、顎。人に数倍――いやさ数十倍、数百倍、数千倍に及ぶやも知れない嗅覚。食事の嗜好はどうでした? 雑食ではあったでしょうが、大きく肉食に傾いていませんでしたか? 味覚は大雑把でしたでしょう?」

 桜は、初めて村雨と出会った夜の酒宴を思い出していた。あの夜の村雨は、生焼けの肉も良く焼けた肉も、まるで無差別に喰らってはいなかったか? いや、それどころか寧ろ、生焼けの部分を好んで食していた覚えさえある。

「反射神経、動体視力、スタミナ。荒く見えつつ、然して吸い込まれるように急所だけを狙う戦闘思考。そして、理性の枷から解放されれば親しい物にさえ襲いかかる、並み外れた凶暴性――いや、闘争への渇望とも言い変えましょうか。本当にその子は素晴らしい。私が探し求めてやまなかった、至宝の一つと呼んでさえ過言ではない!」

「……やめて、やめてよ! それ以上、やめて……」

 もはや、腕を掴んでおらずとも、村雨に抗う力は残っていない。床に腰を落とし、膝を腹に抱えるように身を縮め、望めぬ慈悲に与ろうと哀願する。然し、他者を虐げる事に楽しみを見出す智江には、その哀れさは寧ろ、舌禍を煽る物でしかない。

「異常な凶暴性で人間とぶつかった結果、生息域は今じゃ極少、個体数なんざ三千もいるか分からない希少生物。幾多の伝承に忌み嫌われた怪物――」

 そして、無情にも、それは告げられた。

「彼女こそ、Canulus marchosia――分かりやすく言うならば、人狼。獣型亜人の中で、最も危険な種族の一つです」








 一口に亜人と呼んでも、その形態は様々だ。陸を馳せる半獣半人もいれば、空を飛ぶ鳥人もいる。おおよそ人とはかけ離れた外観の虫人もいるし、一節には西洋の海には、鰓呼吸が可能の魚人もいるとされている。
 遥か南西の大陸では、獅子の亜人が神と同一視され、長らく王位に有った。獅子の胴に人の顔の石造は、彼らの勇猛果敢を湛えて作られた碑石でもあるのだ。巨躯、怪力無双、勇猛。獅子人は生まれながらに、最良の戦士たる種族である。
 遥か東の新大陸では、荒野を山岳を遥か高みより見下ろす、鷲人の一族が、文化の担い手となった。西洋諸国より伝来した知識は、開拓者の手により東西に、そして鳥人達の手により南北に広まった。
 また、欧州のとある国の伝承によれば、蜘蛛女は美人が多いが、然し顔を隠したがるのだという。長らくその理由は定かでは無かったが、実際に接触して尋ねた或る者の言によれば、目の集光能力が高すぎて眩しいからなのだそうだ。
 僅かに一端を覗き見るだけでも分かる様に、亜人は、人の世界と深く関わりながら存在する。生息数こそ少ないが、彼らの生命力、純粋な人間には無い野生の力は、歴史の新たな局面を切り開く原動力として作用してきたのだ。
 亜種を忌み嫌う地域など極めて少ない。せいぜいが大陸の極東、五指の龍が納める古王朝と、隣国の小さな島国――日の本程度である。それも、生息する亜人の個体数が少ない為に、長い歴史に於いて相互理解が測られなかった故の無知でしかない。


 然し、何事にも例外は存在する。全ての亜人種が、人間に快く受け入れられている訳ではないのだ。
 例えば、蛇人。楽園の蛇の例とはまた違うだろうが、彼らは非常に狡猾であり、俊敏であり、更には体内に猛毒を持つ者が多い。咬傷から回った毒で苦しむ獲物を、縦長の瞳孔で見下ろす様は、嫌悪と恐怖の対象となった。
 例えば、熊人。彼らは善良だが小心であり、些細な刺激で我を忘れがちになる。獅子人にも劣らぬ巨体に加え、比類なき腕力と鋭い爪は、レンガの壁も抉り取りかねない。彼らに悪意が無い事を知りながらも、人は自然と彼らを遠ざける。
 その他にも、気性や習性など、人が敬遠する種族は多々有るが――それらの上に、最も恐ろしい種族として君臨するのが狼の亜人、人狼である。


 彼ら人狼の最大の脅威は、自らが亜人である事を隠し通す、変化の能力である。大概の亜人は、誰が見ても分かる程度に、人間と異なる部分が存在する。耳や体毛、爪、牙、瞳孔などの形状が、顕著な例として上げられよう。
 人狼は、それらの特徴が極めて薄い。例え専門的な知識を持つ者でさえ、市中にて擦れ違った程度であれば決して気付かない程だ。その特性故に、長らく人里に住んでいた人狼が、何かの折に正体を現した時など、「人狼に噛まれて成り果てたのだ」と言う迷信が広まる原因となった。
 そしてまた、人狼は非常に凶暴であり、大型動物を好んで捕食する――この括りの中には、人間も含まれる。死肉より新鮮な肉を好み、群れで獲物を延々と、時には丸一日でも追いまわして捕える。獲物を素直に諦める事などは、決して無い。何処へ逃げようが鋭敏な嗅覚で追いつめる――家屋に逃げ込もうが、人の形をした捕食者の前には無意味なのだ。
 瞬間的な速力ならば、彼らに勝る獣も居よう。だが、一日に馳せる距離で彼らに勝るのは、平地を行く駿馬だけだ。しかも人狼は、雪原であろうが、速度を大きく落とす事なく走り抜ける。
 魔術という学問が確立するまで、彼らとの遭遇は、そのまま死を意味した。広く魔術が普及した今でさえ、人狼一頭に対しては、十人以上を以て立ち向かうのが鉄則である。自然が設計をしくじり作りだしてしまった、最悪の人喰い――人狼の学名を決定した生物学者は、彼ら種族に対し、この様な評価を下した。








「……何故、彼らは強大な獲物を好んで喰らうのか? 人を喰うよりは、鹿でも襲って食っていた方が良いのではないか? 散々に学者連中の頭を悩ませた問題は、捕獲された一頭の人狼が、端的な言葉で晴らしてくれました。『強い奴と戦うと、己が強くなるのだ。強ければ、より強い奴と戦えるのだ』……ああ、なんて大馬鹿な連中でしょう! 戦いの為に戦いを望む、腹ごしらえなんざおまけに過ぎないなんて!」

 膝に顔を埋め、耳を手で塞いでも、智江の声は村雨に聞こえている。忌むべき己の本質を、人喰いの獣の本性を暴く、腑分けの短刀のように突き刺さる声が聞こえている。
 止めて、もう言わないで。幾度心の中で繰り返しても、声帯が麻痺したように言葉が出ない。身を隠す場も無く、だからせめて、顔だけでも隠してしまおうと、村雨は無益にも足掻いていた。

「ねえ、桜さん、桜さん。私がその子に投与した薬は、望まぬ事は決してさせられない、極めて現実的な薬なんだ。彼女は誰の意思でも無く、自分自身の意思で、貴女に襲いかかった。きっと彼女は――貴女を殺して、あわよくば喰いたかったんだ」

 智江は、何一つ間違えていない。最初こそ、智江の喉を引き裂きたかったが、桜の姿を見た瞬間、その思いは消え去った。あの腹を裂き、眼球を抉り、者言わぬ骸に変えてしまいたいと――その時の村雨は、心から願ったのだ。

「……村雨、そうなのか?」

「聞かないで、来ないで……!」

 真偽を問う桜の声一つが、懲罰の鞭となる。我が身の浅ましさ、血の醜さに悩まされた事は幾度か有った――だが、こうも苦しめられた事は無かった。肺腑を刻む様な痛みの錯覚で、息を吐き出す事さえ覚束無い。
 如何なる神の差配であろう。人が人を殺す事を、村雨は激しく忌み嫌っている。だのにその村雨自身が、どの生き物よりも凄烈な殺人衝動を抱いているのだ。

「何時か村雨ちゃんは、となりで寝ている貴女の喉を、発作的に噛み千切るかも知れない。優しい子だって事は分かる、きっと大声を上げて泣くでしょう。でもね、やめられない。貴女の次に、別な誰かと親しくなって――何時かまた、殺してしまう。だからね、離れなさい。どちらも不幸になるよりゃ、幸せになる道を別に探した方が良いでしょう?」

 遠くない未来、自分が誰かを殺めてしまうだろうという確信を抱きながら、村雨は日の本に渡った。三年の年月、月に一度の衝動を抑えて生きてきた。もう、自分は大丈夫なのだと、腹の何処かで安心をしていた。

「……村雨」

 崩れ落ちた際の位置関係のまま。桜は、村雨を見下ろすように立っている。喉が震え、ただ一度叫ぶ為だけに、数度の呼吸を必要とした。

「離れてよ、どっか行ってよぉ! だって、だって私は――」

 あの日、美しい黒に絡め取られた日から、その衝動がまたふつふつと湧き上がりはじめた。そして、満月の夜――或いは、血の穢れを降す夜――初めての殺人を試みて、寸前で止められた。


 ――誰かを殺した事はあるか?

 言葉を濁し、逃げる様な答えを返した、あの日の事を覚えている。今の村雨には分かっている。あの時の自分が、本当は何を言いたかったのかと。

「――私は、あなたを殺したい」

 きっと、最初から自分は、彼女に惚れてしまっていたのだ、と。








「お取り込み中、申し訳ありませんが」

「――っぇ、あ、あっ!?」

 何も知らぬものが見れば、さぞや異様な光景であっただろう。膝に顔を埋めたままの姿勢で、村雨の体が浮き上がった。咄嗟に脚を伸ばして床を踏もうとしたが、やはり踵だけが浮いている。両腕は頭の後ろで、肘を重ねるように組み合わされていた。
 それは、対象を不必要に破壊せず拘束する為の、関節を極める技術であった。両肩に、首に圧迫感を覚え、村雨は体を動かせなくなる。

「何者……って、聞くまでも無いですよねぇ! ああくそサーヤ、逃がしちゃいましたね……!?」

 さも悔しそうに、智江が床を強く踏みつけた。その癇癪もどこ吹く風とウルスラは、どこから見つけたか、欧の学者風の白衣を纏って姿を現した。右腕は、村雨の右肩と首、更には肘を曲げさせて右手首を同時に抱え込み、左腕は左肩の下から潜らせて後頭部を抑つける。身体強化の魔術を用いての拘束は、亜人の力を以てしても振りほどけない程、硬く食い込んでいた。

「遅れました、桜。部屋が多かったもので」

「私は真っ直ぐ歩いただけで此処に着いたぞ。はっ……全く、なんという場面で出てくる奴だ。何処へ消えたかと思ったら」

 宿の中を探しても見つからず、檻に放り込まれたかも分からず、ウルスラへの心配とて桜は忘れていなかった。だと言うのに当の本人は、常と変わらず、しれっとした口調で現れたのだから、桜も思わず笑ってしまう。

「お邪魔でしたか? でしたら、一度離れてやり直しますが」

「いいや、完璧だ、良くやった。そのまま放すな、抑えていろ」

 脚以外は動かせない格好の村雨に、桜が近づく。顔を背けようとしても、頭を掴んで、それを許さない。無理に自分の方へ顔を向けさせながら、自分はと言えば、苦々しげな表情の智江を見た。

「まったく、面白い話を聞かせてもらったぞ。成程、今にして思えば納得だ……ふむ、そういう事であったか。だがな、智江とやら。離れろとはまた、どういう料簡だ?」

 桜は、もはや努めずとも平静であれた。連れの無事が確認できた事で張りつめた気も緩んだか、言葉もどこか普段のように、高圧的ながら鷹揚な響きが混ざる。

「――んっ、んぇ……!?」

 そして――そして桜は、身動きの取れぬ村雨に、背をやや曲げて唇を重ねた。有無を言わさず、嫌も応も無く、一方的に与えられる愛情行為。こんな事が何時かも有ったな等と、村雨は場違いな思いを抱いたまま、身を硬直させていた。
 だが、あの時の様に、互いを絡めて貪り合うようなやり方ではない。触れて柔らかさと暖かさを味わうだけの、初々しい口付けを、これ見よがしにしてのける。見せつけられた智江は、全く不興の様子だ。

「良いか良く聞け、村雨は私のものだ。こんな良い女、お前なんぞに誰がくれてやるか」

 あまりと言えばあまりに真っ直ぐで、意味を一つしか取れない言葉を吐いて、桜は誇らしげであった。天地に己に、恥じる事など何一つ無いと言わんばかりに胸を張って、不敵な笑みを浮かべていた。

「大体だな、人狼だろうが悪魔だろうが邪神だろうが知らんわ、私を殺せる者がいる訳無いのだから。それに殺意を向けてくる狂犬を、甘噛みを覚えるまで調教するのもまたいっきょ――ぉおごっ!」

 晴れやかな宣言は、村雨の蹴りで寸断された。顎を左爪先で捉える、正確無比の一撃である。

「あっ、あんたはまたこういう事を、この、この―――っ!!」

「どうどう、どうどう……落ち着きませんね」

 一瞬で、怒りやら羞恥やら入り混じった感情が沸点に届き、村雨は顔を朱に染めていた。腕が動かせるなら、きっと殴りかかる方が速いという事で、そちらを採用していただろう。ウルスラが馬を宥めるように声を掛けたが、効き目が有る様には見受けられない。

「おお、痛い痛い。お前、まだ薬が抜け切っていないな? が、活きが良くて何より何より。当座の問題はお前では無く――」

 左手で顎をさすりながら、右手で拳を作り、桜は低く馳せた。向かう先は、部屋の出口の扉――智江がこっそりと扉を閉め、桜達を閉じ込めようとしている所であった。

「そりゃばれますよねー、チキショウ!」

「当たり前だこの阿呆がぁ!」

 万力込めて振り抜かれた拳、騒動の元凶への初撃は、寺社の鐘の様な重低音を鳴らし、智江を扉ごと三間は吹き飛ばした。手応えはまだ軽い、仕留めた訳ではないだろう。だが、もう桜は、不慣れな守戦を続ける必要は無い。
 ここから先は、敵を問答無用に破壊するだけの戦い。それこそは、桜の最も得意とする所であるからだ。








「……落ち着きましたか?」

「ああ、うん……正直、まだ、誰かに噛みつきたくてしょうがない」

 戦闘の舞台が廊下に意向した事で、鉄の部屋の中は極めて静かになる。ウルスラは、村雨の関節を極めたままだった。
 驚かされるやら、腹が立つやらで薄れかけていた村雨の殺意が、また首をもたげる。幾らかは戻りかけているが、未だに薄っぺらな理性では、本能からの欲求を遮断し続ける事は出来ない。

「では一度、落とします。目が覚める頃には、薬も抜けているでしょう……多分」

「多分って……もう少し安心できる台詞を考えてよ……」

「もう考え過ぎて頭が疲れましたので。やはり慣れない事をするものではありませんね」

 拘束は硬い。おそらく村雨の力では、どれ程暴れても振り払う事は出来ないだろう。無理に抵抗すれば腱を痛めるか、最悪、関節が外れかねない。これだけ強力な押さえつけ方をしながら、ウルスラはあまりに普段通り、淡々と話している。
 暫しウルスラは、虚空に視線を飛ばし、何かを探している様な顔になった。五つも数える頃には、探し物を見つけたのか、視線を村雨の後頭部へと運ぶ。

「……私も、貴女は好きですよ。人狼でも、なんでも、割と」

「うん、ありがとう――割と、が要らなかったかなー」

 桜から向けられる好意とは別種、顔を赤くせずに正面から受け止められる感情。村雨の胸は、日差しを浴びたようにじんわりと暖かくなった。ただ二人に好かれているだけの事、自分は何も変わっていない。なのに、それが救いになるのだ。

「証拠に、私も口付けましょうか?」

「積極的に遠慮する」

「分かりました……では、暫くお眠りを」

 他人と違う時間を生きている様な、何かとずれた相手ではあるが――悪くない友人ではないかと思うと、村雨は嬉しくてたまらない。首に回されている腕に力が込められ、脳への血流が遮断される。意識が遠のく瞬間は、眠りに落ちる時の様に安らかであった。








「っくぁ、か~~~っ、効いたぁ……!」

 全力で殴り抜かれた腹を抱えながらも、智江は存外に容易く立ち上がり、桜に背を向けて廊下を走っていた。
 魔術師である彼女は、肉体の強度は決して高くないが、それを補って余りあるだけの身体強化魔術を使える。更には、ただの布でしかない衣服まで、鎧の様に硬化させる事で、桜の狂拳から内臓を守る事に成功したのだ。
 然し、智江は脂汗が止まない。腹も服も、鉄板並みの強度まで引き上げた筈だった。だと言うのに、腹の内側では、消化器系全てが衝撃に驚き、てんでに震えたりせり上がったりしている。
 兎に角、この場所では駄目だ。もっと広く、トラップなども用意してある、迎撃用の空間に移動しなければならない。一歩ごとに靴裏から暴風を起こし、自らを前方へと吹き飛ばして智江は走り――がくん、と右肩に衝撃。追いつかれ、桜に掴まれた。

「あだっ!? っく、『erupt』!!」

 肩から、魔力を単純な衝撃に変えて放つ。手を打ち払う事には成功したが、触れられた瞬間、軽く筋肉の一部が潰された。
 右肩を抑えながら振り向き、一歩だけ後退し、智江は桜と対峙した。もはや逃げる事さえ、この相手には難しいと判断したのだ。痛む右肩を抑えながら、智江はやはり笑っていた。

「……っはは、あの子より貴女の方が、よほど獣染みてますねぇ。何を食ったらそうなるんです?」

「米と肉だな、それ以外は要らん……そうら、無駄口叩くな!」

 廊下で、大太刀は振り回しづらい。自然と桜の攻撃は、拳によるものに統一される。大きな踏み込みから、小指が上を向くまで捩じりこむ右正拳が、智江の胸の中心を捉えた。
 加減を捨てた桜の前には、人間の体重など毬も同然。暴れ馬に跳ね飛ばされたかの様に、智江は床を転がった。強化魔術の防壁も、肋骨が折れないようにするのが限界で、肺が痺れて呼吸が浅くなる。

「はは、酷い……たった二発ですよ、二発……それでこのザマたぁ、なんて、なんて……ッハッハッハッハッハァ……!!」

「楽しそうだ、なっ!」

 開いた三歩の距離を、桜は大きな跳躍一つで埋め、床に這う智江の後頭部めがけ左足を振り下ろす。辛うじて避けはした智江の目の前で、床に罅が走り、白い石材が破片となって飛び散った。

「おお怖っ! 『water』『wave』『wall』!」

 その罅を指差し、三単語の即興詠唱。大気中の水分を一点収束、激しい震動を起こさせながら打ち上げる――さながら、小規模の間欠泉のように。足を持ちあげられ、僅かだが桜が体勢を崩した。
 打ちあがった水は天井付近で固体化、常温の氷という奇妙な物体となり、桜の足目掛けて落下する。左腕で弾こうとすると、それの一部だけが突然液体に戻り、桜の腕を飲み込んでしまった。

「お――お?」

 左腕前腕に、一辺が二尺の、水に満ちた立方体が括りつけられたのだ。桜がどれ程の力を持とうと、重心の外側に自重並みの重量物が有っては、どうしても体は傾く。既に姿勢を崩してしまっていた桜は、左半身から床に倒れ込んだ。

「こういう地味な手こそ優秀って訳ですねぇ。『Mica in mist, Diamond in drizzle――』」

 転倒した桜が、左腕を低く下ろして立ち上がるまで、殆ど時間は掛からなかった。然し智江はその間に、次の一手を用意する。単語の組み合わせだけでの行う簡易・即興の詠唱では無い。己の中に確と定められた世界解釈による、魔術師の完全な定型詠唱――

「――『I send the command NYCTOPHOBIA』」

 桜の視界から、全ての光が消え失せた。
 智江が用いたのは、幻術『ニクトフォビア』――世界を騙す術である。
 物体を視認する為には、それに反射した光が目に届くという行程を踏まねばならない。この幻術はその段階の内、〝光が物体に反射する〟事を禁じてしまうのだ――大気中の塵の一つに至るまで。
 効果範囲は、最大数十間の範囲で術者の任意に定められる――今この瞬間は、桜を中心とした半径一間の円柱。その中は、梟にさえ見通す事は能わぬ真の闇となる。

「くそ、多芸な奴だ……!」

「いや何、まだまだ出し物は途中ですよぉ?」

 立ち上がり、左腕の水塊は膝に叩きつけて破裂させ、桜は何も見えないままに走った。先程まで智江が居た筈の空間を、思い切り右腕で薙ぎ払う。手応え無し、避けられたと知った。
 然し、この程度の苦境などは物の数にも入らない。見えない敵とならば、つい最近戦ったばかりだ。あの時に比べて、寧ろ音が消されていないだけやりやすい。桜は、風の流れと足に伝わる振動に意識を集中させ、智江の位置を割り出そうとする。

「おや、動かなくなった。大方、声が聞こえていれば大丈夫ーとか考えてるんですかねえ? はっは、私はここですよー」

 探るまでもなく、口を閉じていられない性質の智江は、自ら居場所を明かした。迷わず、桜は馳せ――両肩を、腹を、何かに強く打ち据えられた。

「――っあ、が……!?」

 肩は何も問題ない、前進する勢いを殺されただけだが、問題は腹。村雨に散々蹴りつけられ損傷が蓄積した部位に、不可視の衝撃を与えられては、さしもの桜も目を見開き喉を引き攣らす。

「だから、途中だって言ったのに……そうら、次、次ぃ!」

 桜の体を打ち据えたのは、三つの拳大の鉱石であった。何れも無色透明で、だが硝子の様に脆いものではない。智江の魔力を喰って高速飛翔する鉱石の威力は、生半な鍛え方であれば肉をごっそりと抉り取られる程だ。
 闇の中から抜け、天井を削りながら旋回、再び円柱の中心へと飛ぶ。鈍い衝突音に僅かに遅れて、再び闇の外へ姿を見せる。
 その殺傷性能は、もはや鈍器に類するものではなく、寧ろ石斧の様な荒い刃物に近付いているらしい。桜の皮膚を裂き、血に染まり、透明鉱石は紅玉へ化けていく。

「アッハッハッハッハ……さー、また次! 『decompression』!」

 それでも、智江は手を緩めなかった。敵に対して、一種の信頼染みた認識を抱いていたからだ。
 桜は、この程度では死なないどころか、膝を付かせる事さえ出来ないだろう。喜ばしいが、それは困る。智江は、桜を生け捕りにしたいのだ――可能ならば、四肢を除いた機能は完全なままで。
 動けない程度まで弱らせる。その為に引きずり出したのは、十数丁の短銃であった。物体圧縮の術を掛けてもち歩いていたそれは、解凍の命令を与えられると、智江の腕の高さに浮かんで二列に並んだ。

「変なところに当たったらごめんなさいねー、ファイアァ!」

 二丁を掴み、撃つ。単発銃だ、弾込めはせずに投げ捨てて、次に二丁。長篠の三段打ちの様に、休みなく銃声を鳴らし、鉛玉を叩きつける。狙いは闇の中心、腰から下の高さ――足を砕くつもりなのだ。
 最後の二丁を撃ち切り、投げ捨て、床に転がる十六の短銃。立ち昇る硝煙を息で散らし、床に転がった金属の小筒――新式弾薬に用いられる、薬莢という部品――を蹴り飛ばし、智江はほくそ笑む。

「おお、反動が気持ちいぃ~……L・B社の新式銃、流通もまだの特注品ですからねぇ」

 火薬の爆発で加速された鉛の塊は、貫通力という点だけで見れば、下手な魔術の乱発をも大きく上回る。鉱石による斬殴打が通用しない相手だろうが、これならば十分に膝を砕き、地に這い蹲らせるに足る威力が有る。

「はてな、何か物足りない、ふーむ……」

 それでも、何か頭の片隅に、釣り針の様に食い込んで抜けない疑念が有る。自らの目で、ひれ伏した獲物を見届けてやろうと、『ニクトフォビア』の闇を解除し――

「――勘弁してくださいよ、もう……!」

 光の戻った桜の周囲は、炎の壁に覆われていた。
 智江が撃ちこんだ十六の弾丸は、全てがその壁に阻まれて床に落ち、融解を始めている。透明鉱石三つは砕け、無数の破片となって散らばっていた。
 桜の目、『代償』の力は、視界範囲内に炎の防壁を創り出す――そこが完全の無明であろうが、目を灼く鋭光の中であろうが、構わずに。桜は何も見ぬままに攻撃を予知し、鋼の鎧にも勝る防御を展開したのだ。

「……太鼓持ち、芸は終いか?」

 炎の壁が砕けて消え、智江の背後に、天井までの高さで再形成される。背に感じた熱に反射的に振り返ってしまい、すぐさま理性で視線を引き戻せば、そこには鬼の形相の桜が居た。

「アッハハハ、ヤッベ――」

 左胸に拳が撃ちこまれる。智江は、己の肋骨が砕け散る音を聞いた。衝撃に肺が強制圧縮され、喉を大量の息が、血と共に掛け抜ける。
 後方に吹き飛ぶ事さえ許されない。灼熱の壁に背を叩きつけられ、焼かれ、智江は無残に床に倒れ伏した。








 桜は、口内に溜まった血を床に吐き出した。
 負傷と呼べる負傷を負った事など、果たしていつ以来だろうか。称賛を――勿論、勝者としての高慢から生まれる物だが――送りながら、桜は脇差に手を伸ばした。
 脇差・相模玄斎『灰狼かいろう』。一尺七寸の刃は改めて見れば、獣の牙の様に癖のある反りをしていた。

「……人の悪い爺め、知っていたなら早く言わんか」

 逆手に構え、振り上げる。智江はまだ動いているが、立ち上がる事も、床を転がり逃れる事も出来ない。切っ先を首筋に向けて振り下ろし――背後から何かが飛来する。反射的に刃の行く先を、智江の首から飛来物へと切り替えた。
 弾かれ床に転がったのは、切れ味鋭そうな鋏。投擲、いや射出したのは、桜の後方三間程の位置に立つ、褐色肌の少女――智江の助手、サーヤであった。

「もう一人、居たのか」

「侵入者様、そこの腐れ頭の駄目女を引き渡してくれやがりはしませんか?」

 相手をまるで敬わない敬語で、自分の主人の引き渡しを要求しながらも、彼女の足は酷く頼りなくふらついていた。意識を取り戻してすぐ、戦闘音を聞きつけて駆けつけたのだろう。完全に体を回復させる時間など無かったに違いない。
 それを見逃す桜ではない。まるで警戒には値しないとばかり、言葉も返さず笑い飛ばし、興味の対象を智江に戻した。

「……舐めてくださるんじゃあねえっ、『short circuit』!」

 背を向けた桜へ、サーヤは走り寄る。レインコートの袖から、右手で一本の金属棒を抜き取った。途端、火中の栗が爆ぜた様な破裂音。金属棒が赤熱する。
 多大な電圧を掛け、熱を金属に纏わせる、猛獣鎮圧にさえ有用な攻性魔術。それが桜の背骨目掛けて付き出され――後ろを向いたままの桜は、たった一歩だけ左に体をずらし、それを呆気なく回避する。

「こんちくしょうがぁっ!」

「お前、弱いな」

 空振りした腕を返して外側へと振るい、桜に帯電金属を触れさせようとするサーヤ。やはり届かず、肘を下から蹴りあげられ、唯一の武器を手放してしまう――それを認識する前に、高く上がった桜の爪先が、喉を目掛けて突き出された。

「げ、ぁ……っ!?」

 気道を押しつぶされ、息を吸う事も吐き出す事もままならない。痛みと苦しみで蹲ったサーヤを、大上段に脇差を構えて、桜は見下ろした。

「邪魔をするな……片腕貰うぞ」

 桜は、智江を殺そうとしていた。それを邪魔する者は、どの様な手段でも排除しなければならない。初めて見た顔、名も知らぬ少女であったが、それに刃を向ける事も躊躇わない。怒りは時として、人の心を食いつぶす。
 か、と一声の下に放たれた斬撃は、過たず少女の右肩へと落とされ――跳ね起きた智江の右前腕を、断面に一つのささくれも無く斬り落とした。

「ぉ……」

「は――ば、馬鹿ですかあんたはっ!?」

 サーヤは、床にうつ伏せにされていた。足を掴まれ引きずり倒されたのだ。波打つ黒髪に血の雨が降る。転げ落ちた智江の腕を、思わず少女は罵倒した。

「『freeze』……あーくそ、すっげえ痛い……」

 斬り落とされた腕が、智江の腕の断面が、瞬間的に凍結する。出血はそれで収まったかも知れないが、智江の顔は酷く青ざめている。
 脂汗を流し、軽度の貧血で膝を振るわせながら、智江は壁に寄りかかって顔を上げた。それが――理論的には説明できないが――桜には、近づいてはならぬ物に見えた。自分自身が気付かぬまま、一歩後退していた。

「……参りました」

 その眼前で、跪き、床に額を付ける智江。

「とっ捕まえた人、全員返します。宿に仕掛けた遮蔽結界も解除します。役人を呼んできてください、素直にお縄に掛かりましょう」

 あまりに諦めが早く、そして駆け引きも何も無い、全面的な降服。普段の間延びした声は、その面影を完全に潜めていた。

「智江さん、あんた……」

「いいからほら、貴女も頭下げなさい」

 無事に繋がっている左手で、少女の頭も同じように床に押し付ける。その様は無防備で、上から刀を振り落とせば、首を飛ばす事は容易い筈だ。だが、桜は構えを取ったまま、一歩と近づこうとはしない。

「虫が良い話だな」

 追い詰められた今、提示する条件ではない。桜がその言を聞き入れる、理屈も道理も無い筈だ。

「ええ、私もそう思います……ので、私の首くらいならどうぞ、ご自由に。その代わりと言っちゃなんですが……この子、ちょっと逃がして上げられませんかね?」

 道理も何も、そんなものは最初から持ち合せていないのが、智江という女であった。我欲の為に、他者の命も尊厳も踏みにじり、一顧だにしない悪徳の塊。それが惨めに額づいて許しを乞うている。

「断ると言ったら?」

 桜の殺意は未だに消えていない。然し――

「刺し違えましょう。私と、貴女と」

 体を起こした智江は、隣に控える少女さえ知らなかった顔をしていた。遠い目標を手繰り寄せる為、自らの全てを投げ打つ事さえ厭わない者の――それは、決死の覚悟の色だった。

「駄目……殺したら、駄目!」

 迷いを覚えた切っ先が、行く末を定めない内に、桜の後方から声がした。聞きなれた声である。振り向かずとも、誰であるかは知れた。

「もう、大丈夫なのか?」

「多分ね、多分。それより桜、刀を納めてちょうだい」

 村雨の声音は、あの狂熱の余韻も無く、程良く冷えて在った。桜の肩に触れ、腕をそっと下ろさせる。

「……何人死んだと思っている。お前とて、何も無かったという訳ではあるまい」

 三人が化け物に殺され、一人が重傷を負った。村雨も薬物を投与され、後遺症は無いにせよ、本心とは裏腹に――本性には沿うが――桜と戦わされた。生かしておけばまた同じ事をするだけだと、桜は言う。

「それでも、殺すのは駄目。あなたは役人でも何でも無いでしょ、殺したらあなただって罪人だよ。それに……私が嫌なの、文句有る?」

 桜と智江の間に、ぐいと身を割りこませて、村雨は両手を広げる。何時かも有った図式だが――あの時と違い、村雨に怯えは無い。寧ろ桜を気圧さんばかりに、一本芯の通った強さを見せていた。

「……いいや、異論は無い。思うようにしろ」

 桜は、笑って刀を修めた。床に伏す二人を、もう忘れてしまったかの様に、施設の入り口へと歩いていく。

「帰るぞ、腹が減った。今日は派手に散財といこうではないか」

「じゃ、牛鍋でも頼んでみる? 洋風の料理店、確かこの辺りにも出来てた筈だし」

 その後を村雨が追い――暫く遅れて、智江とサーヤの拘束を済ませたウルスラが続く。
 『Dimension Gate』の歪みを潜って、焼け残った宿の跡地に着けば、中天に太陽が輝いていた。暑い、暑い、夏日の正午の事であった。








 翌日の事。役人に智江を引き渡した桜達は、宿を変えて体を休めていた。元の宿は黒焦げの炭となり、屋根すら無くなってしまっていたからだ。
 桜は睡眠不足に空腹、疲労の三重苦、今日一日は部屋に籠るらしい。ウルスラは街の様子に興味を持ったのか、夕暮れまで散歩してくると言い残し、ふらりと何処かへ出て行った。そうなると退屈で仕方が無いのが、負傷も殆ど無い村雨である。
 次の宿場の事でも調べておこうか、それとも道中の携行品でも買い足そうか。いずれにせよ、からりと晴れた良い日だ。表に出ると、風が雪原の臭いを運んできた――言うまでも無いが今は八月、夏の真っ盛りである。

「あ、葛桐……えーと、あっちかな」

 生き物には種族に固有の臭いがあり、村雨に言わせるならば、クズリは『雪原の臭い』なのだ。人が混ざって薄れていても、こう特徴的な体臭であれば間違いはしない。
 果たして村雨は鼻が示す通り、葛桐が茶屋の店先で、団子を食べている所を見つけた。向こうも気付いているらしく、帽子の下から鋭い目を向けてくる。

「や、もう行くの?」

「観光じゃねえからな、ここじゃ稼げねえ。最近の京はヤベえと聞いた、金の臭いがする」

「あはは、一貫してるねー……」

 店先に腰掛けたままでも、葛桐の長身は、直立している村雨と然程変わらない。ほんの僅かだけ、村雨が腰を折り、目線の高さを合わせる。あまり良くない話を聞いた気がして、眉を顰めた。

「表立っては……まあ、大した事ねえらしいがな。幕府側が大量に武器を掻き集めてると聞いた。攻め込むのか攻めて来るんだかは知らねえが、まさか稲刈りに使う訳じゃねえだろう」

「武器って……なんで今更? よりによって天皇みかどのおひざ元で……?」

 団子の串を楊枝の様に咥え、相変わらず重い声で、ぼそぼそと葛桐は話す。その内容は、村雨にはついぞ聞き覚えの無い事であった。
 旅に出て此の方、あまり情報集めに力は入れていない――が、少なくとも出立前に、『錆釘』の情報屋から、京の様子はある程度聞き出していた。その時には、この様な物騒な噂など無かった筈だが。

「……どこで聞いたの?」

「馬借が運んでた荷から、火薬の臭いがした。あまり褒められた品じゃねえ、脅しを掛けたら吐いた」

 鉄砲の一丁たりと江戸に持ちこんではならない、という時代はとうに過ぎ去ったが、やはり今も、鉄砲という最新兵器は、厳重に売買に規制が掛けられている。幕府が――いや、その上に立つ政治機構、『日本政府』が――厳しく目を光らせている危険物を、大量に西に運ぶその理由。村雨にも、やはり多くは見つけられない。

「暫くは静かなもんだろうがよ、長くは留まらねえ方が良いぞ。さっさと行って、さっさと家に帰っちまえ」

 茶をくうと飲み干し、葛桐は勘定を済ませて立ち上がった。横に立つと、やはり威圧感が尋常でない男だ。襟を立てた外套に鍔広の帽子と、炎天下にはとてもそぐわない格好は、これからも続けていくらしい。
 村雨は、少しだけ葛桐の境遇に、寂しさを覚えた。自分と同じ、この国では忌み嫌われる種族でありながら、葛桐は姿を隠す手段を、変装以外に持ち合せていないのだ。人の心の持ち様が変わるまで、十年や十五年では足りるまい。人より短い寿命の半分以上を、差別を受けながら生きる事になるのだろうか。

「ねえ、大陸には渡らないの?」

「あぁ?」

 極東を離れれば、むしろ亜人は、その能力故に重宝される。葛桐程の怪力であれば、それこそ引く手数多で金には困るまい。
 自分自身が、人に紛れ込む事に長けた人狼であるからこそ、化けられない葛桐の境遇を哀れに思い、また無為に力を殺す事になると考えてしまう。より良い生き方は、いくらでも見つけられるだろうに、と。

「……向こうじゃ花見が出来ねえだろうが」

 葛桐は、たったそれだけ答えた。あまりにもあっさりとした、重さの無い答えであった。
 だから、村雨もそれ以上、余計な事は言えなかった。頷き、歩き去ろうとする葛桐の背を見送り――

「あ、待って!」

 ふと、一つばかり思いついた事があった。懐から一枚の紙を取り出し、指先を軽く噛み切り、血で判を押す。軽く仰いで乾かし、畳んで葛桐に押し付けた。

「はい、これ」

「なんだこりゃ?」

 寄こされた紙を開いてみると、こまごまとした文字が並んでいて、読むのが億劫になる。畳み直して訪ねてみれば、村雨は自分の思いつきに、この上も無く満足気な表情をしていた。

「『錆釘』への紹介状。京都に行くんでしょ? だったら、そこの受付の人にでも渡せば、割と簡単に話は進むと思う」

 に、と白い歯を見せる笑い。口内の歯列は、人の物から形を変えて、イヌ科生物の牙へと変化している。村雨が人の街で、この姿を見せたのは、ここ二年ばかりでは初めての事であった。

「……給金は?」

「悪くは無いよ。読みたいと思った本は買えるし、小腹がすいた時に焼き餅を買うのに躊躇しなくて良い。大きめの仕事が有ったら、次の月は結構楽に過ごせるね」

 暫し葛桐は、視線を空に飛ばし、思案顔を見せていた――が、この話の旨味を十分に理解したらしい。良しと答える代わりに深々と頷き、

「乗った。気が聞くじゃねえか、村雨」

 野良犬が尾を腹に巻きかねない、鬼の様な裂け口の笑みを、葛桐は作ってみせた。彼が笑ったのを見たのは、この時が初めてだった。
 人混みに紛れても、頭一つ飛び出している葛桐はかなり目立つ。その姿が消えてしまう前に、村雨もまた、自分の買い物を済ませる為に歩きだしていた。獣二匹、生きていれば何処かで出会うだろう。長々と言葉を交わす必要は、何処にも存在しないのだった。








「表を上げい」

 田中城城下町、藤枝宿の奉行所はこの日、槍持ちと封術者達が醸す、物々しい気配に包まれていた。奉行、本郷ほんごう 光成みつなりもまた、僅かな緊張を多大な威厳に隠していた。
 光成の言葉に顔を上げたのは、二人の女である。砂利に敷いた筵に跪いていた女の、片方は、右前腕が中程から切り落とされていた。

「欧人、杉根すぎね 智江ちえ、並びにサーヤ。化け物を使役し、蓬莱屋にて三名を殺害した。相違無いな?」

 光成は、右手に持った扇子を智江に向け、その罪状を問う

「相違はございません。が、不足なら多々ございますねぇ」

 捌きの場に引き出された魔術師の女は、まるで恐れ入った様子も無く、微笑みながら言葉を返した。

「ほう、不足とな? 申せい、何が足りぬ」

「数でございます。この度の一件で三人、まではまず正解。然しながらそれ以前、江戸の街にて同様に二名を殺害しております。また、あの化け物の材料は人間。あれも合計で六が死にました。これも私の罪状と数え上げるに、異論など無いと思いますが?」

 場に控える与力、同心達に、ざわめきが立つ。己の悪行にしらを切る者なら幾らでも見てきたし、馬鹿正直に平伏して、罪を認める者もまた居る。だが、自分の罪を誇るかの様に並び立てる悪党は、これはそう見られるものではない。

「果ては、あの『人工亜人』を完成させるまで、重ねた失敗は十数余名。この国を訪れて日は浅くとも、合計で三十以上は殺害を済ませております。誘拐、放火、窃盗、婦女への暴行、詐欺に恐喝、美人局。大概の悪事は楽しみました、御調べがどうにもぬるい様で――」

「黙れ、余計な口を叩くでないわ。……しからばその方等、無辜の民を傷つけ苦しめ、悪逆非道の限りを尽くした罪は重い。市中引き回しの末、鋸挽を申しつける」

 光成は、この捌きは早く済ませるに限ると、急ぎ足で刑を告げた。これ以上、この女の口が動く事は、許してはならぬと感じたからである。
 人の罪を捌き、或る時は命をも奪う役職に居るこの男は、堅物ながら正義感に満ちていた。己の悪を矜持とする者の存在を、部下達に長々と見せる事が、光成には耐え難かったのだ。

「……ひったてい。馬上にて晒し、江戸まで運べ。執行は江戸にて行うものと――」

「おそれながら、お奉行」

 同心に脇を抱えられながら、智江は失った方の腕を光成に向ける。場の者の汗も引く程に、冷え切った声であった。

「捕えられてより今まで、大人しくはしておりましたが……どうにも貴方達、魔術師の扱いが下手な様ですねえ。魔術封じの結界を張るのは良い、術者を複数集めて崩されないようにするのも良い――が、一人一人が下手糞に過ぎるんですよ」

 庭の木に雷が落ちた様な、轟音が奉行所の内に鳴り響いた。智江に触れていた同心二名は、何れもが泡を吹いて、仰向けに倒れ込んだ。体内の電流を極度に増幅させ、触れた者を感電させる攻性魔術。光成を除いた全ての役人が、刀を、或いは槍を構えた。
 罪人の逃亡を許さぬ為に、お白州には、魔術を封じる事に長けた『封術師』が控えている。常ならば三名も居れば足りる所を、凶悪犯を捌く場だという事で、十人は動員していたのだ。彼らの作る結界の中では、魔術を発動する事はおろか、魔力を体に集める事さえ不可能である筈だった。

「……何を望むか」

 この場に控える総員で望むならば、智江を処刑する事は可能だろう。然し、犠牲は相応に払う事になる。十人がかりでも魔術を封じる事の出来ない相手――本物の、格の違う魔術師を一人殺すのは、刀を持った賊徒の二十人よりも厄介なのだ。
 だが、同時に光成は、この女の考えが分からなくなった。逃亡を図るのであれば、ここに引き出された時点で失敗だ。牢に入れられて直ぐ、または、役人の手に引き渡されたその瞬間、決行すべきだろう。
 敢えて、この場に出る事を望んだのならば――それはつまり、奉行に何事か述べようという企てであろうか。

「この国は弱い。魔術の理解度は薄く、また練兵の程も兵装も、列強と比べれば悲しくなる程に貧弱です。そりゃあ今の世の中、侵略戦争なんてのは流行りませんがねぇ。ちょいと何処かが本気を出せば、この国は藁の様に吹き飛ぶんだ。勤勉な国民性は買いますが、しかし追いつくには……あと、二十年くらいは掛かるんじゃあないですか?」

 もはや、往生際の良さなどかなぐり捨てて、智江は本性を露わにした。連なる早口は、そうせんと念じなければ聞き取るにも支障を来す程であったが、光成は何とか、一語と落とさず耳に入れた。

「……私ならそれを、五年は縮められる。どんな貧弱な男でも、腕一つで人間の首を落とす――そう、亜人の力を持たせて魅せましょう。魔術もそう、和洋ごちゃまぜの体系を一度整理し、新たに専門の学問所を設立する事を提案します。欧州でも受けられない世界最高峰の教育、私ならこの国の言語で披露出来ますよ?」

 智江の語る内容は、下級役人達からすれば、命惜しさの戯言でしかない。国だ何だと言い出す誇大妄想を、真面目に聞き入れる理由は無い。直ぐにでも、江戸まで運ばずこの場での処刑が最善手と感じられた。
 然し、光成は、その戯言にも一片の理を見出していた。諸外国よりの訪問者とも接する機会が多かった彼は、自国の劣等を肌で感じる機会も、また多かったのである。そして今また、自国の術者の無能を、己の目で見せられたばかりだ。

「五年、私に与えなさい。これからは、誰を殺さずとも続けられるくらいにまで、研究は進んでいます。どうしてもと望みますなら、明日までにまず一つ、私の技術力をお見せしましょう。さて、如何に?」








「ねえ、桜。あの時、本当はもう、殺すつもりは無かったよね……?」

「ん、やはり分かるか? そうだな、その通りだ」

 買い物も済ませ、宿の畳の上で、村雨はうつ伏せにへたばっていた。兎角、屋外も屋内も暑いのである。その横では桜が、黒の襦袢一枚で仰向けになっていた。

「……なんで? いや、良い事だよ。これからも、ああしてくれればいいんだけど……ほら、なんとなくね」

 村雨が桜を制止した時、既に桜は、脇差を振り下ろせる間合いに居た。本当に殺意が有ったのなら、あの場で腕を振り下ろすだけで良かった筈だ。そうしなかったのは、村雨には喜ばしい事でも有ったが――やはり、本心が分からねば気にはなるのだ。仏心が芽生えたのだとしたら、諸手を上げて歓迎せねばなるまい。

「私はな、あんな女と心中するのは御免だ」

 寝返りを一度、桜がうつ伏せになり、村雨の頭の側に移動する。首を上に向ければ、その顔は、苦々しさと愉悦が五分ずつという奇妙な物になっていた。

「殺そうと思えば殺せた。心中とは言ったが、私が死ぬ事も有るまい……が、手足のどれかは持っていかれる、それでは大損ではないか」

 桜は、杉根 智江という女に、今も激しい怒りを抱いている。だが一方で、何かねじれた友誼の様な――同調、共感の様な感情も覚えていた。

「良いか、村雨。手負いと子連れの獣は手ごわい、それはお前も知っているだろう。だがな、本当に恐ろしいのは――」

「恐ろしいのは?」

 桜は、自分の顔を指差し、氷の面を少しだけ溶かして薄い笑みを作る。それだけで、村雨には十分な答えであった。気恥かしくなり、桜の額に張り手を一つ。ぺちん、と間抜けな音がした。








「アッハッハッハッハッハ、あーくそ怖かったー! 生き延びたー!」

「死ぬかと思った、今度こそは死ぬかと思った……! 確実に寿命が十数年は縮まりましたよこのどチクショウ!?」

 日も届かない牢の中に、高らかな笑いが一つと、涙交じりの怒り声が一つ響いた。
 智江とサーヤは、一度牢に戻されて、奉行の沙汰を待つ事となった。その場で殺される事も、刑の執行を何時と定められる事も無かったのだ。急場しのぎの弁舌が功を奏した形となっただろう。
 あの時、桜と無理にでも戦っていれば、確実に自分は死んでいただろうと、智江は確信している。それならば一度捕まり、どうにか弁舌で切り抜ける事が出来れば――という考えも、正直に言えばかなり不安要素の多い案であった。
 何せ、悪党即ち死すべしの愚直者や、決まり切った手順を踏まねば気が済まない頑固者相手では、そもそも話を聞いてさえ貰えない。聞かせる事が出来た所で、その内容に価値無しとされれば、やはり無残に屍を晒す羽目になる。自分が不利な場面では、言葉の力は大きく減算されるのだ。

「いやはや、ハッハ……どーにかこーにか此処は切り抜けましたねえ。流石は私! 天才!」

「テンサイはテンサイでも災いの方でやがりましょうがアンタは! ここだけ凌いでどうすんですか!?」

 第一関門、奉行の説得は、完全とは言わないが成功した。おそらくはこの後、幕府のお偉方にでも掛けあうか、或いは政府軍部にでも話を持ちこむかで、暫くは時間が飽く事になるのだろう。智江達の処遇が決まるのは、それからだ。
 あの言が有用とされれば、少なくとも幾らか結果を出すまでは生き延びられる。無用とされればそれで御仕舞、死体は磔で晒される事になるだろう。
 かと言って、運良く誰かが智江の提案に興味を持ち、それに力を貸して結果を出した所で、その時点で用済みとされたならば? 引き回しが無くなる程度で、隠密裏に殺されるという最後が待ちうけているに違いない。
 直ぐに死ぬか、暫く後に死ぬか、運良く生き延びるかの三択で、最初の一つだけは無くなった。だが、まだ残り二つの内、可能性としては前者が大きい。

「ああもう、こんな事ならもう少し安全な獲物だけに目を付けてくれれば……大体アンタは高望みなさりすぎだって前々から言ってんでしょうが! それを聞かないからこうなる訳で――」

「だってー、なんか良さそうな子見つけちゃったら? 手を出さないと損な気がしますし? 趣味と実益って奴で、ねえ? あーほらほら、泣かないの」

 不必要に腹の据わった智江と対照的に、サーヤはまだ、震えが止まらない様であった。加害者として何人も殺している少女も、自分が死ぬかも知れないとなれば、恐怖を感じるものであるらしい。安堵と共に溢れてきた涙を、何度も何度も拭っている。頭を撫でてやろうと、智江は右手を伸ばし――そもそも、右手が無い事を思い出した。

「誰が泣いてますかこの間抜けの銀紙目玉! 欲張って無意味に大量に捕まえようとするし! お陰で脱走はされるし、私も蹴り飛ばされて棚に詰め込まれちまいましたよ! おまけにあんな女に殺されかけて、腕まで落として来て……っ!」

 智江は何も言わず、サーヤの体を抱き寄せた。背に回される手は、やはり一つだけ。抱え込む力も、まるで物足りず――少女の目に、また涙が滲んだ。

「……私が、私のっ……そんな、馬鹿な事で、腕まで無くして……!」

 実験動物の管理――つまり、捕まえた人間の管理は、サーヤの仕事であった。投薬の量、鎖の選定等々を見誤らねば、そもそも一人目の脱走者を許す事は無かった。その因果が巡り巡って、最終的には自分を庇う形で、主の腕を奪った――それが、彼女には悔しくてならなかったのだ。

「良し良し、いいんですよ。四本腕が三本になった所で、どーせ他の人間よりゃ一本多い。私の腕はここに有る……なーんにも困りゃしませんって」

 泣きじゃくるサーヤを抱きしめながら、智江は、彼女と出会った時の事を思い出していた。


 この褐色の少女が生まれたのは、大陸東南部に位置する島々の一つである。裕福な島とは言えぬながら、日々の生活には何ら困窮せずに居られる程度には、自然豊かな土地であった。父母が採ってくる食糧は多種多様で、彼女に飽きを覚えさせなかった。
 だが、或る時、彼女の住む集落を疫病が襲った。発症すれば高熱に見舞われ、全身の皮膚が爛れ、やがては死にいたる。感染力が高く、また致死率は極めて高く、僅か一月の内に、彼女の集落は半壊した。そして、少女の家族も、一人残らず、その病に感染した。
 父母兄弟が死に、自分自身も高熱で身動きが取れず、腐臭の漂う家に放置されて――霞む目の中に、赤い二つの目を見つけた。次に目覚めた時、サーヤの熱は引き、爛れた皮膚も回復を始めていた。
 感染の危険を知りながら少女を抱き上げ、運び、希少な薬品を投与し、治療する。まるで自分には利の無い行為だったが、その時の智江には――当時は、この偽名も用いていなかったが――不思議な事に、損得勘定がまるで思い浮かばなかったのだ。
 サーヤと言う名は、彼女が回復してから与えられた名だ――少女を侵した熱は、記憶の一部欠損という後遺症を残したのである。


「私はねぇ、あの桜さんに感謝してるんですよ」

「……かん、しゃ……?」

 少女の感情が収まるのを待って、智江の左手が、サーヤの背から離れる。波打つ髪を指に絡めて、手櫛で梳き通した。

「ええ、感謝。漸くね、私は見つけられた。もうこれ以上、誰かの腹をかっ捌く必要も無いでしょう」

 自分自身の欠落の、その理由はとうとう見つけられなかった。先天性の異常ならば、理由を求める事さえ無意味なのかも知れない。死後に頭蓋を切り開けば、きっと自分の脳髄は、一部分が抉れたり潰れたりしているのだろう。
 だが、欠落を埋める物は見つけた――いや、ずっと前から見つけていたのだ。
 生まれてついぞ不幸を感じなかった女、自分の死に際してさえ不幸を知らなかった女が、凶刃に己の腕を曝した理由。自分の身を捨ててまで、この少女を助けようとした理由――それは、少女の死こそが自分の不幸だと、気付いたからに他ならない。
 少女を生かす為であれば、腕の一本や二本どころか、四肢の全てさえ惜しくは無い――だが、自分の死は惜しい。自分が死ねば、少女が嘆き悲しむ事を知っているから。そして、彼女と共に居られなくなるから。
 つまる所この女は、サーヤという少女を、酷く愛してしまっているらしかった。

「おおう、我ながらロマンティストな」

「………………?」

 酷薄な自分にはまるで合わぬ考え方だと自嘲しながら、そのちぐはぐさも心地好くて堪らない。満ち足りた生に一つの傷が生まれた、それが喜ばしくて堪らない。
 幸福の大きさは、きっと振り子が決めるのだろう。不幸を感じた事のない彼女の振り子は、実は一度も、幸福の側にも振れていなかったのだ。彼女の生に於いては、ただの一度も、本当の幸福など存在しなかったのだ。
 腕を失った苦痛が、少女を失うかも知れないという恐怖が、彼女に幸福という概念を教えた。そして今はこの幸福を、決して手放したくないと心から願っている。

「さーあて、生き延びますよー! 見苦しく無様に不格好に、石に齧りついてでもねえ」

 探し求めていた不幸に漸く辿り着き、赤髪の女――ジーナ=ファイネストは、最高に幸福だった。



 大井川の増水も収まり、今日も人足の輿や肩車で、旅人達は西へ東へと渡って行く。
 八月二日、快晴。桜と村雨の道中は、これで丁度十日目。多難多楽の旅は、まだまだ続くのであった。
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