烏が鳴くから
帰りましょ

石頭のお話

 旅は二日目、昼下がり。桜と村雨は、戸塚、藤沢を過ぎて、平塚宿を歩いていた。

「はやー、凄かったね大仏って……なんで、あんなものを作ったんだろ」

「さあな、昔の人間がやる事は良く分からん。が、仏教を大事にしておくのは、為政者としても当たり前だったのだろうな」

 戸塚から藤沢へ向かう途中、二人は少々寄り道をして、鎌倉の大仏を見物してきた。信心深い旅行者達が手を合わせるなか、腕組みをして頭も下げずにいる桜の横で、村雨は居心地の悪さを感じていたが、然し自分自身も仏に祈る理由は無かったのである。
 結果的に不信心者二人は、大仏様の神々しさではなく、観光名所としての価値やら、歴史的意義やらを話のタネにしていた――

「この国の一番偉い人って、神道の元締めじゃなかったっけ?」

「それと張り合いたいのではないか? 神の子孫と崇めはしても、その指示に従うなどまっぴら、とな。だから天皇派の義経公も、不遇に落とされたのだろうよ」

「……確かあの頃って、後白河法皇の院政期だよね」

「ん、そうだったか? てっきりまた、天皇がころころと掌を返していたのだとばかり思っていたが……」

 ――その知識の不確実さに関しては、指摘出来る知識人が居ないのだが。

「そういえば義経公の首は、藤沢にて葬られたと聞くぞ? 奥州からはるばる、四十日も経過した首だ。どんな有り様だったのやら」

「想像したくないねー……その頃ってまだ、魔術もこの国に入ってきてないでしょ? 冷凍保存できないんだー……美男子だったらしいのにね、もったいない」

「そうか? 私は寧ろ、白拍子と北の方の死をこそ悼むが」

「……あなたはそうだよね、分かってました」

 享年三十一、男盛りに果てた武者に思いを馳せる村雨の気持ちは、桜には理解できないらしい。寧ろ桜はといえば、静御前と郷御前への弔意だけを見せて、義経はそこまで惜しんでいないように見えた。

「それはそうだろう、息子を産んで直ぐに取り上げられた女と、娘と共に自害させられた女だぞ。旦那が馬鹿でなければ、子と幸せに生きていくこともできただろう。全く、顔が良いだけの男は駄目だな。煽てられて調子に乗るからああなる」

「……平家を討伐した英雄にそんな事言うの、多分あなただけだと思う」

 鵯越の逆落としに八艘飛び、様々な逸話を持つ英雄でも、女を不幸にすればこうも酷評するのか。一つの方向での徹底ぶりに、村雨も呆れる他は無かった。








 さて、早い朝から歩いていれば腹も減る。茶店を見つけ、それぞれに茶を一杯、それから焼き餅を注文した桜と村雨。焼けた味噌が香ばしい、大きさの割に中々腹に溜まる良品である。

「この後はどうする? このあたり、後はそんなに見るものないよ?」

「ふうむ……大磯は兎も角、小田原までとなると、ほぼ五里か……日が暮れるまでには付くが、二日でそこまで行くことも無いか?」

「んー……だね、無理に行くこともないかも。大磯で早めに宿を取って、明日は箱根でのんびりするのがいいと思う」

「良し、決まり。おーい、茶をもう一杯頼む!」

 今日の残りの道程は一里未満、半刻も掛からず辿り着ける距離と決めた。日が沈むまでは三刻もある。日が沈むと同時に閉店する店は多いが、これなら冷やかして回るにも余裕は十分だ。入口近くで呼び子をしている声を掛け、桜は茶を持って来させる。

「はぁい、ただいま――――お待たせいたしました、どうぞ」

「うむ、すまんな……時に娘子、このあたりに、刀を扱う店などあるか?」

「刀、でございますか?」

「……普段、娘子なんて言葉、使わないくせに……」

 普段も偉そうな口調だが特に今は気どっているなと思いながらも、村雨もまた、刀の必要性は理解していた。
 素手でも化け物じみた強さの桜ではあるのだが、やはり本業は剣士なのである。万が一の事が有った場合、思うように扱える武器が無いのは不便な事だろう。この前の様な化け物が、旅先で絶対に出てこないとは言い切れないのだ。

「刀、刀、さて……ああ、それならば――――いえ、あれはどうでしょう……」

「む、何か心当たりでも?」

 言い淀む娘、その袖を掴んで立ちあがる桜。何時に無く真剣な表情をしているのも、やはり腰に有る筈の重さが感じられないのは心細いのだろうか。

「ああ、あ、あの、お客様? わた、私は仕事の途中でして、あのあの、あのですね」

「教えてはくれんか? これから長い旅をする身故、刀も無しでは心もとない。どうか、私を助けると思って……」

 違ったらしい。確かに、刀が欲しいというのは本音だろう。が、桜の今の目的は、どちらかと言えば茶店の娘に迫る事にすり替わっていると、村雨の目には見て取れた。娘の方も明らかな動転が見えて、声が裏返ったり、言葉が引っ掛かったり、頬を赤くしたりと大忙しである。

「……美しい娘だ、その心もきっと同様に美しいのだろうな。どうだ娘子、刀さえ手に入れば今日は余暇が有る。閉店し、片付けが終わったら……」

「いや、いやあの、そんな事を言われても困ると申しますか、でもでもええと、どうしてもというならお付き合いするのもやぶさかではないといいますか、閉店は申の刻になると」

「はいはい、ナンパしない。それで、刀を扱ってるお店、どこなの?」

 茶店の娘の手を両手で握り口説いている桜に対し、娘の方も泡を喰いながら、なぜか誘いに乗りそうな雰囲気。これでは話が進まぬと、村雨が間に割って入った。

「出来るなら、他のお客さんの目がこれ以上痛くならないうちに知りたいんだけどさぁ……」

「……はっ!? ああ、申し訳ございません、はい! ええと、刀刀刀、刀と言いますとやっぱり刀鍛冶の所が良いかと存じます、はい!」

 桜の手を振りほどき、ぴし、と直立する茶店の娘。不満げな顔の桜を余所に、改まって話し始める。

「ここから大磯宿までの道中、お地蔵様が五つくらい並んでる所から道を横に行きますと、煙をもうもう吐き出している家がございますのですね。そちらに済んでいるおじいさんが、これまた凄腕の刀鍛冶屋だという話でございます……と、言われております」

「ふむ、ふむ。何故、そこまで伝聞系なのだ?」

「それがですね……そこで刀を買えた人の話を、誰も知らないのですよ。包丁や鋏くらいなら、私どもの店でも使ってるのですけれどね」

「ほう? ならばすまんが、その鋏とやらを見せてもらえんか?」

「はい、ただいま!」

 パタパタと足音を立てて引っ込んでいった娘は、直ぐに鋏を持って戻ってくる。一連の会話の間、茶を頼んでも団子を頼んでも老婆が運んでくる為、桜へ恨めしげな目を向けている男が居て、少し村雨は気まずくなる。
 が、そんなこともお構いなし。桜は、受け取った鋏を目の高さに掲げ、その刃を眺めていた。

「……これは、おお……欠けの一つも無い、歪みもない、なんと見事な……これが、数打ちの鋏か……?」

「えと、結構幾つも作って売ってた筈ですから、多分量産型なのではないかと……」

「例えがおかしい気がするが、気にするまい。いや、気に入った! その爺とやらの鍛冶場、見に行くぞ!」

 しゃきん、と心地よい音を立てて鋏を閉じ、桜は膝を打つ。飲み食いの代金の小銭を払う事さえ、時間を惜しむ様にせわしない手つきであった。

「あ、あの、お武家様……それでですね、私はその、閉店時間がですね」

「ごめん、この馬鹿の言う事を真に受けないで、ごめん。後で何回か殴っておくから、ほんとごめんなさい」

「……あれ? あのー、私、申の刻以降は空いてますよー、一人暮らしですよー……」

 支払いが終わり、すっかり自分のやっていた事を忘れて歩きだす桜を、茶店の娘が呼び止めようとする。ここでもまた、頭を下げるのは村雨になるのだった。








 平塚宿の観光は、結局お流れとなった。桜は、目的地に着くまでの僅かな時間すら堪えられないのか、横から顔を見ているだけでも分かる程の期待に心を疼かせている。

「もう、なんでまた、後先考えずああいう事するのさ……」

 村雨からしてみれば、茶店が見えなくなるまでの間、背に娘の怨念染みた視線を受ける事になったのだ。文句を言いたくなるのも仕方がないというものだろう。

「いや、同類の気配がしたのでな、つい。それより今は刀だ刀、そんなことはどうでもいい」

 歯が浮く様な言葉を掛けていた相手も、今の桜には全く興味の無い存在になったらしい。この切り替わりの速度は褒めるべきか、移り気にも程が有ると責め立てるべきか、村雨も暫し悩んだ。
 刀を買う事自体に反対はしない。旅費は少々余裕を持って用意して有ったし、遊興費を少し削れば、そこそこの刀くらいは購入できる筈だ。腰に二本を揃えずとも、それなりに強度のある刀が一振り有れば桜なら十分だろうと、村雨は考えた。
 平塚~大磯間の道のりは本当に短く、歩き始めて四半刻もすると、並んだ地蔵を見つけた。その地点から、道は二つ。一つは幅の広い大磯への道で、もう一つは細く草生して、林の方へと延びている。

「この先か……どうれ、どんな仙人紛いの爺が出るやら、見に行くぞ」

「せめておじいさんとか、老人とか、そういう言い方にしない?」

「呼び名などはどうでもいい、肝心なのは良い刀が有るかどうかだ」

「……あんまり名刀に拘られても、財布が困るからね」

 林は、あまり背の高い木は多くない為か、踏み入っても森の様に暗くはならない。虫は居ても動物の類は少ない様で、獣の気配も声も、臭いも稀にしか察知できなかった。

「で、煙の臭いはするか?」

「うん、丁度風上。多分、何も考えないで真っ直ぐ歩いても着くと思うよ……色々燃やしてるみたいだね、結構凄い臭いになってる」

 村雨の鼻を頼りにするまでもなく、林の少し草が折れた部分を歩いていけば、やがて一件の小屋が見えてきた。小屋とは言ったが、鍛冶屋の仕事場というだけはあり、相応の大きさがある。妙に洋風の煙突が拵えられえて、そこから煙がもうもうと立ち昇っていた。

「誰かいるのかなー……」

「いなければ帰るまで待つまでだ。たのもー」

「あ、ちょっと待ってよ……ごめんくださーい!」

 開け放された戸を潜ると、そこは日常生活に必要な刃物を扱う、小さな店の様になっていた。鋏、各種包丁、針、毛抜き、その他もろもろ。鎌や鍬の先など、農具も置いてある。

「おおお……凄いな、これは凄い……これほどの技量の鍛冶師を知らなかったとは、我ながら不覚だ……!」

 桜は、さっそく包丁の一つを手に取って、あれこれ角度を変えながら眺める。
 まこと見事な作りであった。どれ程に目を凝らそうと、その刃には極小の欠けも見つからない。あまりに真っ直ぐに出来ている為、定規の代わりに使えるのではとも思える程だ。懐紙を取り出し、軽く引きながら触れさせる。引っ掛かりの一つもなく、はらりと紙は切れて落ちた。

「そんなに凄いの?」

「凄い。使わないと分かっていても、この包丁まで買って帰りたくなる程に凄い」

「そうなんだ……だったら、ここに来たのは正解かもね」

 村雨は刃物にはとんと詳しくないが、桜の興奮の度合いから、ここに置いてある品物の出来の良さは窺えた。付いている値札を見ると、どれも良心的な価格である。これならば、旅費に大きく響く事もあるまい。

「……あれ。でも、そういえば……」

 然しながら、一点ばかり気に掛かる事も有る。そこで刀を買った人間の話を、誰も聞いたことが無い――と、茶店の娘は言っていた筈だ。ここに置いてある商品はどれも安価で、どうやらそれなりに売れているらしい。もしや此処の鍛冶師は、刀を作っていないのか?

「んー……あれ? 桜、そっちの部屋、もしかして」

「うん? おお、見るからに何か置いてありそうな」

 包丁一つに魅入ってしまっていた桜と違い、あれこれと目を飛ばしていた村雨は、部屋の隅に、壁と殆ど同化した色の扉を見つけた。半開きになっているそこからは、この部屋と同じ様に、大量の鉄の臭いがする。

「どれどれ、向こうは――――なんと」

 いそいそと次の部屋へ向かった桜は、扉を潜って直ぐ、入口で立ち止まった。声に現れる感嘆が、一段と色濃くなる。
 その部屋は、桜が求めていた通りの品物、刀が有った。壁に所狭しと掛けられ、簡素な木の台に置かれ、抜き身の刀が陳列されていたのだ。大小様々、短いものならば短刀、長い物は合戦でも見られぬ様な大太刀。日の本に存在する、ありとあらゆる刀を掻き集めた様な、そこは正しく刀の都であった。
 これを見た桜の顔は、菓子と玩具を望むだけ与えられた子供の物になる。おお、と言葉にならぬ声ばかり零し、吸い寄せられるように、壁の刀を手に取った。ここが屋内で無ければ、思う存分に振り回しただろう。輝く目が見ているものは、達人芸により叩きあげられた刀身、ただ一つだった。
 丁度、その時である。桜は気配を、村雨は臭いを察知して、部屋の入り口を振りかると、

「なんだ、手前てめぇら。盗人か?」

 暫く遅れて、夢を醒ます慳貪な声。外から帰ってきたものだろうか、一人の老人が、部屋の入り口に姿を見せた。白紙を短く切った、体格の良い男だ。顔の皺の深さは年齢に比例しているものなのだろうが、背中と腰は真っ直ぐ伸びていて、腕も胸も太かった。

「ここにゃあ盗む物なんてねえぞ。置いてあるのは全部――」

「老人、ここに有る刀を譲り受けたい。幾らだ?」

 うさんくさい物を見る様な目の老人の言葉を遮って、桜は己の用件だけを口早に告げる。既に意識は刀にしか向いていない様で、不作法という他は無かった。

「――客か、面倒くせえなぁ……」

「……あれ?」

 だが老人はそれを聞くと、急に目の厳しさが緩んだ。怪しい人間を見る目から、言葉の通り、面倒な客を見る目に。あまりに物分かりが良い為、村雨は呆気に取られた。誰も刀を買った事が無いという鍛冶師。

「ああ、客だ。金なら相応に持っている。脇差一つと打刀――いや、太刀が良いな」

「そうかよ、そこに有るのはどれも同じ値段だ。好きに二つ選びな」

 どんな難物なのやらと思っていたが、吐き捨てる様な口調ながらも、壁を指差し商談を進めていく。あまりに上手く行き過ぎている、村雨に疑心が芽生えた。

「ええと、ごめん。ここの刀、一振り幾らで売ってくれるの?」

 嬉々として刀を選んでいる桜の後ろで、そっぽを向いている老人に訪ねる。は、と一つ、笑い飛ばされた。

「百両だ、びた一文負からねえ」

「ひゃく……!?」

 桜の手が硬直する。村雨は、自分がおかしな汗を掻いている事に気付いた。
 刀を誰にも売らない鍛冶師、成程道理だ。鍛冶師が売らないというより、誰も買えないだけの金額設定なのだから。

「そんな無茶苦茶が有るかぁーっ!!」

 普通の家族が八年は生きていける金額を、刀一振りの価値と定める暴虐。憤る村雨の叫びは、虚しく林に響き渡るだけであった。








「……もう行こうよー……」

「嫌だ」

「そんなこと言ってもさあ……」

 刀が大量に展示された部屋の真ん中で、桜は膝を抱え座り込んでいた。かれこれ半刻程も、村雨は帰還を促しているのだが、どうにも聞き入れる様子が無い。桜の視線は取り憑かれた様に、壁に掛かった刀に固定されている。

「どうしたって無理な物は無理なんだから……むぐぐ……」

「いーやーだー」

 袖を掴んで引っ張ってみるが、どういう技を使ったものだか、床に張り付いた様に中々動かない。軽く持ち上げる様にして引きずって行こうとするが、それでも桜は立ちあがらない。

「あーもう諦めろー! 百両なんて大金がどこにあるのよー!?」

「いーやーだー! 嫌な物はいーやーだー!」

 業を煮やして帯を掴んで持ち上げ運ぼうとするのだが、今度は部屋の扉を掴み、意地でも引きはがされまいとする桜。村雨も非力では無いのだが、力比べとなると勝負にもならない。駄々をこねる桜を、結局動かす事は出来なかった。

「うるせぇ、とっととけえれ!」

「はーい、今どうにかしますからー!」

「絶対にあきらめんぞー!」

「あんたは子供か!?」

 作業場で鉄を打っている老人も、或る程度の間隔で、帰れと怒鳴りつけてくる。これで四回目、殆ど同じやりとりを繰り返すが、全くらちが明かない。

「……はぁ、どうしろっていうのよー……」

 村雨は、完全に途方に暮れていた。桜は力任せにどうにか出来る相手ではないが、百両という金額もまた、簡単に作れるものではない。刀一振りに百両、暴利である。然し、ここが完全な売り手市場である以上、その条件を飲まなくては、この刀を手に入れる事が出来ないのだ。
 桜は、もう完全に意固地になってしまった様で、部屋を出ようとさえしない。このまま放っておくならば、一日でも居座り続けるのではないだろうか。

「……値切れ」

「無理です。ああいう人にそういう交渉、通用した事が無い」

「それでもどうにかしろ! 何日掛けようが構わん、有り金全てはたいても構わん!」

「だから無理だって言ってんでしょうが! 二日目から一文無しで旅するつもり!?」

 美術品だの美人だのに狂う人間の話は聞いたが、名刀一振り、いや二振りでこうなる人間も初めてだと、村雨は呆れながらも抵抗する。財布の中身を空にされては、これからの道中、宿どころか食事さえままならない。まさか毎回野山に分け入り、獣を仕留めて食う訳にも行かないだろう。

「ええい、細かい事は気にするな、とにかく私は動かんぞ!」

 さりとて、この状況で桜を動かす手段を、村雨は何一つ見つけられなかった。その上に、自分はこの我儘人間に契約で縛られている立場なのだと、忘れる事も出来なかった。

「……二日目から江戸に帰りたいとか思うなんて……ああはいはい、分かりました! やればいいんでしょやれば! ただし、二日以上は粘らないよ!」

 仕方がなしに提示した妥協点は、村雨からすれば恐ろしく気の長い話であった。二日も有れば頭は冷えるだろうと、村雨は高を括っているのだ。実際問題、諦めなかったとしても、二日も宿泊機能の無い施設に滞在していれば、雇用環境の改善を当然の権利として要求出来る。それでどうにかしよう、というのが、村雨の考えだった。
 桜を直ぐにつれだすのは諦め、村雨が向かったのは、老人の仕事場。先程から鉄を打つ音が響いているから、場所を間違える事はない。

「……あのー、入っていいですかー?」

 気難しい職人肌の人間には、自分の領域に踏み込まれる事を嫌う者も少なくない。不興を買わないように声を掛けてみれば、

「好きにすりゃいいじゃねえか」

「あ……それじゃあ、お邪魔します……ぅ、わっ」

 ぶっきらぼうに、それだけ答えが返ってきた。一応、否では無い。身を縮めこそこそと、まるで盗みにでも入るかの様に、村雨は老人の仕事場に入り込んだ。
 最初に抱いた感想は、恐ろしく暑い、いや、熱いという事だった。炎天下に締め切った部屋というだけでも熱は籠るのに、ここは鍛冶場、轟々と火を使っているのだ。たった一歩踏み込んだだけで、背中から汗が噴き出した。

「ふわー、こんな所で仕事を……ん?」

 老人は、年の割に筋肉質な上半身を露わにし、金床の上で鉄を叩いていた――いや、音は鉄なのだが、何かが違う。村雨はそれが気になり、目に入りそうな汗を拭いながらも、そっと老人の後ろに近寄る。
 赤熱していた鉄が醒めてきてようやく分かったのだが、それは、地色から赤かった。丹土の様に赤く、やや煤けた斑紋が散らばる、不思議な金属だった。そしてまた不思議な事には、老人の金槌が振り下ろされる度にその赤は薄れ、鉄そのものの様な鋼色に変わっていくのだった。

「おじいさん、これ何なの? 鉄じゃあ無いよね……?」

「……霊亀鋼れいきこうだ。鉄より硬えし、くそ重い。ここ五十年がとこで作れるようになった」

「へー……聞いた事の無い名前」

 赤い鉄――霊亀鋼を叩いて引き延ばし、薄くなると金挟みで折り曲げ、また叩く。叩いても伸びが悪くなってきた頃、老人は、それを火炉に入れた。

「……素人は知らねえだろうよ……『燃えろ』『回れ』」

 火炉に手をかざし、小さく二言呟く。火炉の中で炎が渦を巻き、なおいっそう作業場の熱さは増していく。火の粉が弾けて老人に降りかかるが、慣れてしまっているのだろう、熱がる様子も無いし、肌が焼けている様にも見えない。

「……鉄を溶かして、水銀に人の血を数滴、よおく願を掛けた誓紙を一枚、魔術の火を釜にぶち込んで焼き続ける……作れるようになるまで、三十年だ」

 老人の魔力で燃えているのだろう炎は、木々を燃やしたそれに数倍する激しさで、ぼうぼうと弾ける音を上げる。再び取り出した鉄は黄の混じった赤熱の色であり、冷めれば、一工程前よりやや薄れた丹色と変わっている。

「三十年……私の人生の倍以上だね……魔術から、勉強をしたの?」

「俺が餓鬼の時分は、魔術なんてけったいなもん、毛唐の手先しか使わねかった」

 老人は金槌一つで、金属の棒を、一つの刃物に作り変えていく。村雨からすれば、その技術こそ、魔術よりも高度なものに見えた。
 いいや、老人の技術は、魔術と切り離せないものなのだろう。炎を魔力で燃やす為、火炉は他の同業者に比べ小型である。扱う金属も、先の話を聞くならば、魔術的な素養を持ってして初めて作り出せるのだ。金属は、加工途中の火の温度で、容易く性質が変化する。この老人が鍛冶の道に費やした時間は、最低でも三十年。余人の想像の及ばぬ年月と努力の結晶を魔と呼ぶ事は、そう実体から外れてはいるまい。

「十五から、藩のお侍に倣ってなぁ。毎日、毎日、火を付ける事だけ練習して、練習して……」

「そうなんだ……」

 老人自身の語る、人生の一端は、村雨には興味深いものだった。もう少し聞いていようかとも思ったが――欲が出た。
 どうやらこの老人、気難しげに見えて、わりと話し込むのが好きらしい。村雨の問いにも丁寧に答えるばかりか、自分から聞いていない事まで語ってくれる。予想外に気のいい相手なら、もしかしたら。そんな希望を抱き――

「ねえ、おじいさん。刀の事なんだけど……」

「百両だ」

 ――見事にへし折られた。見た目より気のいい人間である事は分かったが、然し値段の付け方という一点においては、この老人、相当な難物である。
 これでは本当に、二日程、この小屋に滞在する事になる。そう嘆いていた村雨を、老人がおい、と呼びつけた。

「手拭いだ」

「はい?」

「表に出て、干してある手拭い取ってこい。汗が目に入る」

 老人は一心不乱に霊亀鋼を叩く。その間、目を何処かへ向ける事はない。会話中の相手である村雨に対しても、それは同様だ。

「ええと、自分で取りに行っても」

「あの女叩きだすぞ」

「……ちょっと待っててね」

 小走りで小屋の外に出て、ぴんと張られた縄に引っ掛かった手拭いを、幾つか纏めて回収する。自分でやれという気持ちは有ったが、まあ、今は火から離れたくない状況なのだろうと自分を納得させた。自分の側も、どこかの我儘なお子様が、勝手に一室に居座っている訳では有るのだし。

「はい、取ってきたよ」

「拭け」

「……はい?」

「汗を拭けって言ってんだ。額んところだ」

 戻って手拭いを手渡そうとしたが、老人は金槌と金挟みから手を放そうとしない。やはり村雨には目もくれず、短い言葉で命令するばかりだ。
 自分達にも非が有るし、両手が塞がっているから仕方がない。自分に言い聞かせ、村雨はかいがいしく、老人の汗を手拭いで拭いていく。瞼の上の骨の出っ張りの所は、汗が特に引っ掛かりやすいので念入りに拭いた。ついでに、手拭いの一つを捩じって頭に巻いてやり、髪から目まで汗が伝わらないようにもしてやる。

「……気が利くな」

「でしょ? 鳶の人とか、こうしてあげると喜ぶからねー」

 一言だけ、ぶつ切りの様な言葉だが、老人も称賛の言葉を述べる。村雨はそれで起源を直したのか、ふふんと誇らしげな笑い方をして見せた。

「水」

「……自分の足を動かすのって、とーっても大事だと思うんだー」

 今泣いた烏がもう笑う、ではなく、今笑った村雨がもう不満顔。ついさっき小屋の外まで行ってきたばかりなのに、また出て、今度は井戸水を汲んでこいというのか。どうせなら両方を纏めて言ってくれと、余計な手間を感じると疲労の蓄積度合いは跳ね上がる。

「水。あの女叩きだ――」

「ほんのちょっとだけ待ってねー! 直ぐに持ってくるからねー!」

 小屋の外の井戸まで走り、釣瓶を引き上げ桶に移し替える。零さないように慎重に、だが適度に急いで戻る。なんで自分はこんな事をしているのか、村雨もそろそろ疑問に思い始めた。灼熱の部屋と炎天下の野外の往復で、自分の方が汗を拭いて欲しい程であった。
 水の桶を渡せば、老人は片手で金属を火炉に入れながら、もう片手で水を飲む。流石に飲ませろとは言いださなかった事に、村雨は深い安堵を覚えた。これ以上あれをしろこれをしろと言われ続けたら、流石に我慢が持たないと思ったからだ。

「んん、っぷはぁ……おい、餓鬼。飯はどうするんだ?」

 水を一気飲みして桶を放り出した老人は、口元を拭いながら尋ねた。

「え、ご飯? 桜があの調子だし、十丁以上先の大磯宿まで行って買ってくるか……食べない、かな」

「一旦外にでて、裏側から入り直して右、台所だ。肉と米くらいは有るぞ」

「え、いいの?」

 予想外の親切であった。きょとんとして聞き返す村雨だが、直ぐにその真意を理解する。

「……ええと、どれくらい作ればよろしいのでしょうか」

「俺の分は三合だ。肉は干したのを五枚で良い」

「やっぱりね、そうなるよねー……」

 飯を作れ、代わりに食わせてやる。この老人が言っているのはそういう事だ。これまでの展開から考えて、ここで断れば、じゃあ追い出してやるという話になるのだろう。そう簡単に追いだされる桜ではないだろうから、余計に問題がこじれ、刀の入手は遠くなってしまいかねない。唯々諾々、村雨は従う他は無かったのだ。








 端的な言葉で表現する。村雨の料理は、調理経験の少なさから、あまりに順当にへたくそであった。
 合計九合と大量に炊いた米は、水加減を間違えた為にお粥状態であり、火加減が強すぎて気泡が昇ってくる程だ。塩か卵でも混ぜれば食えない事は無いのだろうが、それにしても多すぎる。水を大量に入れすぎた為、本来完成する筈の量に比べ、三割か四割増しとなっている。
 肉は、ただでさえ硬い干し肉を強火で焼いて更に硬くしてしまった。老人が健康体だから良かったが、もしも歯が弱っていたら、これが止めとなって抜け落ちていたかも知れない。最初の何枚かを焼いた時点で違和感を覚えたらしく、他の数枚はそのまま皿に乗せられていたが、これもこれで当たり前だが硬い。そもそもこの老人が作った干し肉、湯に出汁と共に浸して、汁物とする為の作り方だったらしい。

「……このガキ、或る意味凄え」

「うむ、これも一種の才覚やもしれんな……」

 鋏や包丁を置いてある部屋にちゃぶ台を用意して、村雨達は食事を取っていた。刀に張り付いていた桜も、食べ物の臭いがしたら、光に引き寄せられる羽虫の様にやってきた。そして、老人と二人で、神妙な顔をしてお粥を啜っている。

「……私に料理なんかさせるのが悪いんだい」

 村雨は、焼いた干し肉を二枚重ねにして噛み千切りながらふてくされていた。何も二人の意見の統一を、この様な所で見なくとも良いではないか、という事だ。そもそも料理の経験など皆無に近い村雨なのだから、お粥をお粥として食べられる事が奇跡なのだと、本人は主張したいらしい。当然ながらその様な事を口にすれば、尚更憐れみと呆れの混ざった視線を、二重に浴びる事になってしまうのだろう。

「水が多いな、肉は悪くない」

「……好き勝手な事を言ってー……」

 桜は早々に、米にすれば四合分程は平らげて、また刀の展示部屋へ戻っていった。食器は片付けていない。どうやら、これも村雨の仕事にされる様である。

「肉が硬え。なんだこりゃ、木の皮じゃねえか」

 老人の方は、自分が宣言した通りに米三合分の米と、干し肉五枚を腹に収めた。健啖である。こちらも食器は片付けず、村雨の仕事は更に増える。

「うううううう……! あー、もう何なのよー! 私の扱い酷過ぎるでしょー!?」

 真っ赤な夕日に照らされた村雨は、濡らした布で食器を磨きながら、己に降りかかる理不尽を嘆く。旅はまだ二日目、前途多難が目に浮かぶ。作業場の方では老人が、またぞろ手拭いを要求していた。








 江戸の町も夜は早かったが、林の奥の小屋は、輪を掛けて暗くなるのが早い。照明器具というものが、僅かな魚油の灯り程度しかないのだ。食器の片付けさえ終われば、小屋の中で光が有るのは、老人の作業場だけとなってしまう。

「疲れた……そんな疲れてないけど疲れた……」

 日が沈んで暑さは緩和されたが、火炉が唸りを上げる作業場は、日中と変わらない熱気を保つ。その床で村雨は、うつ伏せにぺたんと平たくなっていた。ひたすら小屋の外と中を行ったり来たりして、老人の要求の通りに道具を運び、そして慣れない調理まで。肉体的疲労は薄いのだろうが、精神的疲労が蓄積していたのだ。

「後はもう寝ちまっていいぞ、明日の朝飯はもっとましに作れ」

「あのねぇ……なんで私がそんな小間使いみたいなこと」

「不法滞在」

「分かりました分かりましたー……」

 老人は昼間と変わらず、金属を熱しては叩き続けている。味を占めたのかは分からないが、村雨は朝食の時間も、また下人扱いが決まっているらしい。

「……これだけ働かせたんだから、値引きを前向きに検討してくれても」

「百両だ、まからねえぞ」

 少しでも涼しい床に張り付いたまま、僅かな希望に掛ける村雨。然し老人は、それを一言であっけなく打ち砕く。

「本当にもー……! いいじゃん、少しくらいさあ!」

 骨折り損のくたびれ儲け、今日一日の労働が無意味となった気がして、村雨は非難の声を上げた。手近なところに石でもあれば、投げつけていたかも知れない。

「刀はガキの玩具じゃねえ」

 だが、老人が返す言葉は端的で、重苦しい声から発せられていた。鎚を落ろす間隔がずれ、一度だけ、規則的な音が乱れた。

「……じゃあ、誰になら売るのよ」

「使わねえで、飾っておく奴だ」

 老人の広い背が、こころなしか丸められた様に、村雨には見えた。魔力制御の火炉の光が、月明かりに負けそうな程に弱くなる。

「だぁれとも斬り合わねぇ、何も斬らねぇ。そういう奴になら売ってやる。つまらねえ刀に大金出して拝めばいい。そういう生き方が、人間の身の丈には合ってるだろうよ。刀なんか持つもんじゃねえ、振り回して良い格好しいのガキが使うもんじゃねえ」

「……それは」

「刃物が欲しけりゃ、包丁でも買って帰れ。大根でも人参でもスパスパ切れる、年に一度も砥げば足りる。それで……てめぇでガキ生んで、味噌汁でも飲ませてりゃいいんだよ」

 火勢を失った炉は、鉄を熱するだけの力を得られない。引き延ばす行程が足りず、完成したのは、刃物とも言い難い金属の棒きれだった。老人は苦々しい顔をし、それを部屋の隅へと投げてしまう。

「刀は人斬りの道具だってんだ……あの、くそガキが」

 にわかに立ちあがった老人は、作業場の隅に置いてあった酒壺を掴み、柄杓と合わせて外へ運んでいく。力強い動きだ、彼の年齢を村雨は知らないが、白髪に似合わない怪力と見える。だが然し、今の老人は、己の生業一つを完遂できない程に弱っている――何かが有るのだと、村雨は、その後を追った。
 小屋の縁側に腰掛け、壺から柄杓で酒を掬い、老人は顔に浴びせる様に飲み始めていた。口に入る量より、顔から胸元へ零れる量の方が多い程、荒い飲み方であった。
 村雨は、老人を挟んで、酒壺の反対側に座る。柄杓を老人が手放すまで、口を開く事無く座っていた。酔いが回り赤い顔をし始めた老人が庭先に降りたのを、声で追いかける。

「ガキって……お侍は、元服が済めば刀を下げてもおかしくないでしょう?」

「そういう事じゃねえ、そういう事じゃねえんだよ……とにかく、売らねえぞ。もう、刀を使う奴に、刀は売らねえぞ……」

 喚き散らし、近くに生えていた木を蹴り飛ばし、足取りおぼつかずふらふらと、老人は庭先をさ迷い歩く。それは、自分にしか見えていない誰かに、何かを訴えている様に見えた。一方的な主張である筈なのに、何かを求める声に聞こえたのだ。

「じゃあ、さ……なんで、今も刀を作ってるの? 使う為じゃなく、飾る為だけに?」

「……そうだ、わりいか?」

「もったいない、桜ならそう言うんじゃないかな――そのあとに、アホだ馬鹿だと罵詈雑言が続くと思う」

 へっ、と老人が鼻で笑い、赤ら顔を村雨へ向ける。

「あのガキが馬鹿じゃねえか。わざわざ死にに行くような真似しやがって……けっ、捨てちまえ! 捨てちまえ! 刀なんざ捨てちまえ!」

 酔人に特有の、感情の波の起伏の激しさ。どれだけ叫ぼうが、迷惑だと怒鳴りこんでくる隣人もいない。老人は一人だった。

「……桜が、女だからなの?」

 きっと、何年も一人だったのだろうと、村雨は老人の生を推慮する。招かれない客と長々話し込み、食卓を共にする程には、老人も寂しかったのだろう、と。その老人が、こうも刀を持つ事を否定する。村雨にはその理由が、悲しい程単純なものに思えたのだ。

「アハハ……あれを女だって思ったら駄目。もっと別な、良く分からない何かだって思わないと。近いのは……三十過ぎのおじさん?」

「……なんだそりゃ、その例え」

「酒と女の子とつまらない洒落が好きで、年上より年下ばっかり追いかける」

「ぶっ……っはは、そりゃ中年男みてえな奴だなぁ?」

 少しでも笑えればいい、そう思えたから、本人には小突かれそうな例えも持ちだした。酔っ払いの赤ら顔では、楽しんでいるのか馬鹿にしているのか、その辺りが分かり辛いが、声は少し機嫌を直した様に思えた。

「そうなんだよね、身勝手だし我儘だし、いやらしい事ばっかり考えてるし……でもさぁ、凄く楽しそうにしてるんだよ、いつも」

「……へぇ、そいつはいいなぁ」

「やりたい事だけやってるからなのかな。無駄に行動力が有って、人を引きずりまわすのが大好き。他の人の事なんかあんまり考えないで、自分が望んでる事だけは絶対に叶えようとする……迷いなんて、全く無さそう」

 老人がここに居ない誰かへ訴えかけていた様に、村雨はここにいない桜の事を、今も見ている様に語る。真円から少しばかり欠けた月は、これこそが自らに釣り合うものだと、村雨の心を落ち着かせていた。静かな、静かな夜なのだ。

「刀作るの、楽しいんでしょ?」

「……当たり前だろうが」

「じゃあ、斬れる刀を作るのは?」

「もっと好きだ」

「……作った刀が、使われるのは?」

「……………………」

 庭の草の上に、老人は仰向けに横たわる。まだ眠りはしそうにないが、腹を冷やすのもどうだろう。運んでやるかと、村雨が立ち上がる。

「……あの女ぁ、呼んでこい」

 掌を向けてそれを制止し、老人は、一言だけ要求した。
 突然の事に面喰う村雨だが、直ぐにもその表情は、月光が刺し込んだ様に柔らかく明るくなる。

「うん、待ってて。眠っちゃ駄目だよ?」

 とっ、と軽い足音一つ。蓄積していた精神的疲労は、すっかり消え去ってしまっていた。








「呼んだか、老人」

「呼んだよ、ガキ」

 村雨と話し込んでいた場所から、ほんの少しだけ離れた、庭の隅。老人は、土に刺さった板きれ――卒塔婆の前に座っていた。

「……誰の墓だ?」

「女房だ。四十年近くになる」

「そうか」

 祈る様に目を閉じている老人の後ろに、桜は胡坐で座った。憐れみもせず、何かを聞く事もせず、理解したとたった一言、意思を示しただけだった。
 振り向きもせず、立ち上がりもせず、老人はそこにいる。雲が流れ、月が三度姿を隠した頃、絞る様な声がした。

「ガキ……刀ってのは、何の為にある?」

「斬る為だ」

 迷いは無い、思索の時間さえない。物を見るのに使うのは目だと知るに等しく、刀というものの本質を、桜はそう受け止めていた。

「何を斬る」

「全て」

 老人が、肩越しに振り返る。
 太陽の様な、全てを無粋に曝け出す光ではない。慎ましげな月の光が、桜の黒髪を、夜に溶け込ませていた。黒より暗い濡れ羽烏は、氷像が生を持ったかのような冷たい容貌を、瑕疵一つ無く浮かび上がらせる。

「……人じゃねえのか?」

「人も斬るさ、人でなくとも斬る」

「命をか」

「全てを、だ」

 老人の白髪は、夜から切り放された色だった。重ねた年月を窺える皺、積み重ねた鍛練が形を為した筋骨、それらを際立たせる色である。一息にさえ満たない言葉の問答。けっ、と吐き出す様に、老人は笑った。

「なんで、斬るんだ」

「その他を知らんからだ。剣に魅入られ、剣に取り憑かれた……斬る事は、私という存在の本質だ」

「大げさなガキだ、俺の半分も生きてからほざけ」

 笑いはするが、嘲笑いはしない。乾ききってもいないし、陰く湿ってもいない笑いは、老人が燃やす火の様である。ならば、問いは金槌だろうか。熱した鉄を叩き、形を変えようとする為の。

「……人殺しは、ろくな死に方をしねえぞ」

「畳の上で死んでやる。私は百まで生きるとも」

 教訓めいた脅迫は筆、鉄を震わせる事さえ出来はしない。桜の意思を、動かす事は出来ない。

「刀は盾になりゃしねえ」

「矢を斬り落とせばそれで済む」

 自己、他者を問わず、人を守れないのが刀だと、老人は思っていた。守るべき者の敵を斬ればよいと、桜は一言で断じた。

「人間じゃあ、どうしても斬れねえもんがある」

「斬れるさ。私なら、斬れる。お前の刀さえ有れば」

 凄腕の剣客であろうと、天下の名刀と言えど、石灯篭を斬る事さえ難しかった。魔術の普及と共に、刀を打つ技術は飛躍的に進歩したが、しかし岩までは斬れまいと、老人は言う。

「人だろうが獣だろうが鎧だろうが――お前の刀さえ有れば、私は城をも斬って見せる。尋常の刀では駄目だ、一振りで砕けるなまくらでは駄目なのだ。お前の刀を寄こせ、老人」

 刀が自分に追いつけるなら、この世に斬れぬものは無いと、桜は強く信じていた。己が力、己が技への絶対的信仰は、たとえ千の言葉を以て叩きつけたとして、薄紙ほども歪ませる事は適わない。それこそが雪月桜、壊れた人間であった。

「頑固なガキが、よぉ。石頭は、俺の年になってからにしろってんだ……少し、長話に付き合え」

 老人は、ついに折れた。火と共にいた老人は、桜の様に凍りついてはいなかったのだ。
 いや、もしかすれば本当は、熱意や覚悟というものとは全く関係なしに、老人は決めたのかも知れなかった。

「……俺には娘がいてなぁ。十五で嫁に貰われちまったんだが……これがまあ、じゃじゃ馬にしてもひでえのなんの。ガキの頃から刀振り回して、庭に植えた木を切り倒して回ってたよ」

「女傑だな、刀が近くにある環境が良かったのだろう」

「かもな。十四で武者修行だーって飛び出していって、戻ってきた時には優男連れてやがった。伸ばし放題だった髪も、後ろで一本結びに纏めてよ」

「取られたか」

 うるせえ、と苦笑いをしながら、老人は背後の桜に拳骨飛ばす。右手の甲で軽く払い落し、桜は先を促す。

「綺麗な顔しててむかついたんでよ、その優男にもこんなふうに殴りかかった。ぽーんと投げ飛ばされたうえに、落ちる前に軽く受け止められてな、娘にまで笑われた……そうなりゃ男として、認めねえ訳にゃいくめえよ」

「潔い事だ。手放したくなければ、少し粘ってみても良かろうにな」

「……いい加減、好きにさせてやりたかったのかも知れねえな。あいつを産んで直ぐに女房が死んで、俺一人で育てて……途中からは、俺が逆に世話されてる有り様だったからよ」

 昔日の思い出を懐かしむ老人は、語る事そのものを楽しんでいる様だ。熊が唸るようなごろごろとした音は、どうやら笑い声であるらしかった。

「仲の良い夫婦で、すぐに子供――俺からすりゃ、孫が生まれた。娘によく似た女のガキで、赤ん坊のころからこいつもまた呆れたじゃじゃ馬だ。立って歩くようになった頃にゃあ、落ち枝を拾って父親母親と剣術の真似事をしてたよ」

 こんなふうに、と腕をやたらめったらに振り回す老人。近くに座る桜への配慮が無いのは、酔っているからか、戯れているのか。桜は座ったまま、片手でひょいと捌いていく。

「……だが、娘が連れてきた男は、馬鹿な奴だった。最強の剣客、なんて子供じみた夢を捨てきれねえでよ。俺の刀を見て、これなら大陸でも通用すると思いあがっちまった――娘と二人で、だ」

「お前から見て、腕前の程はどうだったのだ?」

「言っちゃあ悪いが、田舎の道場主って所だったよ。侍はさんざん見てきた、あいつより強い奴だって幾らでも居た……が、娘もあの男も、あんまり無邪気に言うんだよ。俺は最強になる、私はあいつを最強にする、ってな。そんで……三つになった孫を連れて、大陸に渡っちまった。それっきりだ」

「……そうか」

 昔の事と、吹っ切れている様には見えた。表に見える様子の明るさは、酔いを差し引いても、老境の悟りが見えるものだ。だが――その心の奥が、まだ轍になっている事は、桜にも容易に窺い知れた。
 桜は、茶化すような言葉を見つけられなかった。身の程知らずの夢を追いかけた家族の話に感じ入ってしまった、という事ではない。老人の寂しげな様子に同情心を掻きたてられたのでもない。
 もしもこの時に、真実を二人のどちらかが知っていたなら――言い知れぬ哀傷を、自分に説明する事も出来たのだろう。

「生きちゃいるのかも知れねえし、もう死んだかも分からねえ。顔も見せねえで、親不孝の娘に婿だ……ああ、俺は思ったさ。ガキに刀なんか持たせるもんじゃねえってよ。悪い事は言わねえ、刀を置いて家に帰っちまえ、親を泣かすな」

 老人は、本当はもう、諦めさせるつもりは無くなっていた。恐らくだが、この女は諦めないだろう、意地を張りとおすだろうと思っていたからだ。この日出会ったばかりの女の事を、老人は不思議と、芯から理解した気がしていた。

「……親はいない。昔は、両方揃っていた事だけ覚えている。顔も忘れた」

「親無しか、おめえ

「三つか四つの頃、私は一人で大陸の雪原を歩いていた……隠遁していた剣士に拾われ、育てられた。日の本の言葉を話していたから、日の本の名前を与えられた。本当の親の記憶など無い。ただ――」

「……何だ?」

 桜は老人に背を向けて座りなおしていた。老人もまた、振り返ろうとはしなかった。互いに背中を向け、同じ空を見上げ、取り留めも無く話を続ける。きっと、そこに意味などは求めていなかった――会話が続く事さえ、望んでいなかった。

「――おぼろげに、覚えている。誰かが刀を構えて立っていて……その横で私は、木の枝を持って真似をしていた」

 静かな夜であった。人の暮らしから切り放された小屋に、訪れるのは涼やかな風、ただ一人。村雨は就寝し、獣は林に潜み、月を見上げる者は二人しかいない。

「……刀、打ってやる。注文は?」

「刃渡り四尺の太刀、一尺七寸の脇差。柄まで総金属、生涯折れず砕けぬ刃を」

「銘は?」

「任せる」

 やがて、どちらが促すでもなく、自然に二人は立ち上がる。
 桜が戻るのは、あの刀の並ぶ部屋。老人が戻るのは、自らの人生を捧げた作業場。夜が明ければ老人は、要求の通りに刀を打ち始めるだろう。
 恋い焦がれた刀が自分の物となる前夜、桜は、昔の夢を見た。何処とも知れぬ暖かい部屋で、誰とも知れぬ女性の腕に抱かれている夢。
 顔は見えなかったが、羽衣の様に長く柔らかい彼女の黒髪が、確かに桜を包んでいた。








 老人と桜が語り合い、そして老人が刀を打つことを決めた、次の朝。
 その日、老人は作業場に籠りきりになり、外へ出て来ようとはしなかった。桜もまた、老人の横に立ち、金属の形状が変わっていくのを見つめていた。
 二人の間に、言葉などは無かった。ただ、溶かした鉄を霊亀鋼へ加工する作業の折り、血を寄こせと一言だけ、老人が要求したばかりである。桜は無言のまま、短刀で指先に傷を付け、数滴の血を提供した。
 火の粉が散り火花が舞い、火炉は老人の魔力を喰らって、屋根をも焦がさんばかりに燃え上がる。作業場の温度は、摂氏四十度を超えていただろう。

「おい、汗」

「おう」

 老人の額から汗が零れ落ち、眉にまで届く。桜は手拭いでそれを拭きとる。老人は何事も無かったかの様に、鋼を打ち続ける。
 日の出と共に鋼を打ち始めて、今、太陽は中天に達している。老人は手を休める事なく、桜もまた、根を生やしたかのように脚を動かそうとしない。

「ねえ、お昼は食べないの?」

 壁の向こうにまで伝わる熱気に負け、薄襦袢一枚だけ引っかける姿になった村雨が、扉の隙間から顔を出す。

「いらねぇ」

 老人の答えは、振り下ろされる鎚の音にも似て、短く強い声だった。

「だって……朝も、何も食べてないでしょ?」

 村雨は自分の分だけでも朝食を済ませたが、作業場に籠った二人は、今朝から水以外は何も口にしていない。食事の為にその場を離れる事さえ厭うかの様だ。

「日の入りに喰う。その辺りに飯を炊いておけ、五合だ」

「合わせて十合、それ以下では足りんぞ」

 備蓄の米が足りるのか。村雨は、そればかりが気がかりであった。








 台所の米の量を確認して、夕食にはまだ余裕があると判断した村雨は、朝食の残りの白米で握り飯を作る。自分しか食べないとは思わず、少々米を多く炊き過ぎていたのだ。
 前日の失敗を反省し、水分は少なめに。曲げた指に合わせて、炊きあがった米は小さく纏まる。海苔は見つからなかったので、干し肉を外から巻き付けた。塩分を摂取するにはちょうど良いと踏んだのだ。

「はい、せめてこれくらいは食べなさい。体が持たないよ?」

 踏み込んだ瞬間に汗が噴き出すような作業場へ、村雨は握り飯を運んでいく。一人頭二個だが、一つが拳の様に大きい為、腹もちは良いだろう。

「……寄こせ」

 金属を火炉で熱している間は片手が飽く。左手を伸ばした老人に握り飯を渡してやると、一口で三分の一を飲み込んだ。

「……硬え。米も肉も硬え」

「肉に関しては諦めてよ、私が作ったんじゃないもん。はい、桜にも」

 ただ立っているだけの桜は、両手で一個ずつ握り飯を受け取る。口の大きさの違いか、一口で飲み込んだのは四分の一程度で、

「……水が足りんな。芯が残っている」

 老人と同じ様な感想を口にするのだった。








 太陽が山に差し掛かり、小屋が茜色に染まる頃、作業場の火が消えた。
 炎が生む風の音が消えた事を察知して、余熱の残る作業場へ、村雨は脚を踏み入れる。

「どう、なの?」

「ああ……」

 桜は、一振りの脇差を掲げて立っていた。刃渡り一尺七寸、総金属製の一振りは、黒塗りの鞘に収まっている。鞘も見る限りは金属製、それ自体が打撃武器として扱えるだろう、完成度の高いものであった。
 だが、脇差を掲げながらも、陶酔の声を上げる桜の視線は、たった今完成して金床に置かれた太刀へ注がれていた。
 その刀身は四尺、切っ先から根まで全てが漆黒。然し艶消しの黒ではなく、光を当てれば濡れた様に照り返す、艶然とした黒である。緩やかな反りのある刃は肉厚で、きっと並みの刀の倍以上も重いだろう。
 柄は桜の手に隠れて見えないが、おそらく桜は今、全力で手を握りこんでいる。柄は軋みもせず歪みもせず、その剛力を完全に受け止めていた。
 鞘は、腰に指すのでも吊るすのでもなく、背負っている。留め金を外し蝶番で開く様になった鞘では、居合の様に斬る事は適わないだろう。この長大な太刀はそもそも、抜き打ちという用途を、一切考慮されずに作られていた。

「……美しい」

「だろうよ。俺の遺作にする」

 これまでの生に於いて数万回と、数十万回と振るわれてきただろう金槌。己の魂と呼ぶべき道具を、老人は無造作に、部屋の片隅に放り投げる。

「脇差、太刀、共に銘は入れた、『相模玄斎』。号は――まず、脇差は『灰狼かいろう』だ」

「名前の由来は良く分からんが、悪くない」

「その内分かる」

 部屋の中のものを一つ一つ片付ける事も無く、作業を終えたそのままの乱雑さで、老人は部屋の外へ向かう。手拭いで汗を拭ってしまえば、そこに居たのは刀匠ではなく、燃え尽きた一人の男だった。肉体こそ鍛えられているが、年齢相応に枯れた老人がいるばかりであった。
 自分という存在まで燃やして、老人は――玄斎は、刀を打ったのだろう。数十年に渡って燃え続けた火は、今日この日、芯から灰になった。

「太刀は号して『斬城黒鴉ざんじょうこくあ』、城壁だろうが斬れるように作った」

「本当に斬れると思うか?」

「斬れる。使い手がへぼじゃなきゃあな」

「ならば、問題は無いな」

 全くだ、と誰かの口癖の様な事を言って、老人は、普段は使われていない居間に出る。ちゃぶ台を引きずり出し、薄っぺらの座布団を並べ、そして料理中の村雨に呼びかけた。

「おい、腹が減った! さっさと作って持ってこい!」

「はーい、ただいまー!」

 おかずと呼べるものは、僅かな野菜と干し肉だけ。殆ど炭水化物しかない食事が用意されていく。朝から休まず働いていた玄斎、たち続けていた桜の食欲は、脇で見ている村雨を呆れさせる程であった。








 夜。桜はもう、己の刀を抱いて眠ってしまっている。
 幸せそうな寝顔だ、覗き込んだ村雨が釣られて笑ってしまう程に。寝ている隙に刀を取り上げようとしても、これでは指一つ外す事が出来ないだろう。
 軽く就寝前の運動を終えた村雨は、隣の部屋で、玄斎老人が灯りを灯し、何か作業しているのを見つけた。別段、用事が有るわけでも無いのだが、明日の朝にはここを発つ。少しぐらいは良いだろうと、襖を開けた。

「……なんだ、起きてやがったのか」

「これくらいの時間なら、ね……何してたの?」

 老人は机に向かって、何か文章をしたためていた。筆は見るからにぼさぼさで状態が悪く、墨も上等とは言えないのが臭いから分かる。一人で暮らす刀匠には、きっと文字を書く必要など、殆ど無かったのだろう。

「なんでもねえさ、唯の夜更かしだ……そういえばな、ガキ」

「ん?」

「……晩飯は、悪くねえ。だがな、野菜は煮る前に斬るもんだ」

「うぐぅっ……!?」

 村雨に背を向けたまま、老人は、もう半ば諦めの混ざった様な口調で指摘した。確かにおかしいと、村雨も思っていたのだ。桜は食事の間、気まずそうに目を逸らしているし、老人は顔に皺を寄せているし。自分で食べてみても、中心が明らかに生だったのは気付いていた。

「はぁ……おめえ、本っ当に料理向いてねえなあ……嫁の貰い手がねえぞ」

「うぅ……今は男女平等の世の中ですー、料理は男の人がすればいいの!」

「馬鹿野郎。そんな建前、男からすりゃ知ったこっちゃねえんだよ。美味い飯を作れて胸と尻がでかい女ってのが男の好みだと、何十年も昔から決まってんだ」

 肩が上下している、玄斎は笑っているのだろう。外から入り込んできた先進的思想を一蹴して、動物的な領域での本音を語る玄斎の言葉は、無意味に重みが有った。

「大体よぉ、平等だっていうなら尚更、おめえも出来なきゃ話になるめえ。あれの真似して刀振り回すよりゃ、包丁の持ち方から習った方が……」

「あーもーうるさーい! いいの、料理出来なくてもお嫁に行けなくてもいいのー!」

 背を向けている相手に殴りかかる事はしないが、食ってかかる寸前の様相を見せる村雨だが、

「嫁には貰ってやるがお前がうるさい……さっさと眠らんか……」

「あ、ごめん……」

 目を擦り擦りしているのだろう桜の声が、隣室から聞こえた。夜間に叫ぶという迷惑行為を取ってしまった事を恥じ入る様に、しゅんと肩を落として小さくなる村雨。

「……ああ、そういう仲か。そりゃ嫁に行けなくても良いわなぁ」

「――っ! だ、誰があんなのと! だいたい女同士だから嫁は向こうも、ってそうじゃなくて、ああもーっ!」

「だから煩いぞ、静かに寝かせろー……」

「あんたも原因の一端だ馬鹿ー!」

 結局のところ、声量を控えようという結論に至る事は無かった。こいつら良く似てる、騒ぎ散らす村雨は、心の底からそう思った。

「……っく、はは、はっはは……あー、おかしい連中だ。いいじゃねえか、なあ?」

「何がいいのよ、何が」

 玄斎は腹を抱えて笑う。書き物は終わった様で、筆もやはり、無造作に放り出していた。畳が汚れる事など、一切気にしていない。振り返り、大きな手で、村雨の頭をがしと掴んだ。

「賑やかでいいじゃねえか。誰かと飯を食うのも、誰かが隣の部屋で寝てるのも、俺にして見りゃ十五年ぶりだ」

 太く頑強な指だ。だが、見た目程の力がない。ここに居るのは、妻も娘も孫も失った、ただの老人だ。生涯を賭した鍛冶の道を、今日限りで完遂と定めた、何も残っていない人間だ。

「……楽しかった?」

 その非力さが、空虚さが、寂しかった。頭に置かれた手に、村雨は自分の手を重ねる。問うのは、この二日の事だけではない。自分の人生は楽しかったのかと、村雨は聞いたのだ。

「おうよ、俺は良く生きた」

 何も無くなった老人は、身の軽さを誇る様に、また笑った。

「じゃなきゃあ、あんな刀ぁ打てるわけねえさ。なあ?」

 取り上げられた物、捨てた物、数え切る事などは出来まい。だが、心に焼き付いたものだけは無くならない。形として作り上げたものは、決して消えはしない。正道の白銀の光では無いにせよ、玄斎は、一つの道の極みに辿り着いていたのだ。

「寝ろ、朝飯はいらねえぞ」

「……うん」

 灰色の髪がくしゃくしゃと掻きまわされ、玄斎の手が離れていく。一回り小さくなった背に分かれを告げ、村雨は、桜の隣に敷いた布団へ戻った。

「おうい、ガキ」

 襖が閉じられる。その向こうから、玄斎が呼んでいる。

「……なんだ、爺」

 眠い眠いと言いながら、眠っていなかったのだろう。桜は、起き上がらずに答えた。

「口の悪い奴だ……おう、死ぬんじゃねえぞ」

 老人の部屋の灯りが消える。その声も、魚油の煙の様に薄れていく。桜は、小さく笑声を返し就寝した。
 その夜、刀匠・龍堂玄斎は息を引き取った。六十八年、満ち足りた人生であった。








「……あれでよかったのかな……?」

「私に聞くな、弔い方など知らんのだ」

 翌日、昼。大磯宿までの道のりを、桜と村雨の二人は歩いていた。
 早朝、玄斎老人が机にうつ伏せているのを、桜が見つけた。その時には、既に玄斎の体は冷たくなっていた。村雨を起こし、玄斎の死を告げた桜は、普段よりも尚、静かに冷え切っていた。
 刀匠の家ゆえに、農具は幾らでも見つかる。桜はそれを使い、庭の墓の隣に、人が一人収まるだけの穴を掘った。村雨には手伝わせず、縁側で座らせているだけだった。
 玄斎の亡骸を穴の底に埋め、土を被せ、適当な刀を一振り、その上に刺す。刀匠の墓標ならば刀で良いだろうと桜が決めた事だ。村雨は、何も言わずに従った。
 盛り土の上に、壺に残っていた酒を掛け、それでおしまい。念仏を唱える事も、手を合わせる事すら無く、桜はその墓に背を向けた。少しばかり死後の安寧を祈ってから、その後を村雨は追い掛けた。

「本当に、あのままにしておくの?」

「そういう遺言だったからな……全く、死ぬ前夜に遺書を書くとは勘の良い事だ」

 玄斎がしたためていた書は、机の上に畳まれていた。曰く、道具は使われてこその道具、放置して盗まれるままに任せろ。食糧は放置しておけば、獣が入り込んで喰らうだろう。
 それでも、農具や包丁を買いに来る客の為に、桜もまた、小屋の壁に一筆を残していた。玄斎既死、願而勿忘、刃一切不得不斬、と。鋏も鎌も、全ては何かを斬る為に作られたもの。その用途を果たさせずして、刃を錆び付かせてくれるなと書いたのだ。

「……幾つか貰っていけばよかったのに。短刀とかさ」

「要らんさ、私は最良の物を得た。あれに置いてきた全ては、所詮は残りものに過ぎん」

 腰に脇差を差し、長すぎる太刀は背負い、桜はしゃんと背を伸ばして歩いていた。あれだけ執着していた刀も、今の桜にはもう、道の端に落ちた枯れ枝と変わらないものなのだろう。

「大往生という所だな。悲しむ者もなく、本人は満足そうな顔。いやはや、良い死に方だ」

「……桜、本当にそう思う?」

「ああ、思うとも。あの死に顔、お前も見たろうが」

 女にしては随分背が高い部類の桜は、見合うだけの歩幅で歩いていく。村雨は、小走りになりながらそれを追い越し、桜の前に立った。

「ううん、違うよ。そうじゃない、だって――」

 二人が歩を止める。村雨は、そっと桜の頬に手を伸ばす。

「――泣いてるよ、桜」

「……え?」

 白く細く、だが柔らかいとは言えない、旅をする者の手――村雨の指は、水の雫を拭い取っていた。

「そんな筈は、ない。私が、こんなことで泣く、などと……」

 自分でさえ、気付いていなかった。触れられ、村雨に教えられて、桜は初めて、自分が涙を流していた事を知る。抑えようとして目を閉じた。瞼の間から涙は止め処無く零れ、目を開ける事が出来なくなった。

「分からん……分からんのだ、私は……わたし、は――」

 何故、悲しいのかが分からない。何故、涙が止まらないのかが分からない。自分の情動を説明する言葉も見つけられず、怖い夢に怯えた子供の様に泣き続ける桜。

「……いいんだよ、泣いてもいいの。ここに居るから、桜……」

 寄り添う村雨は、桜を座らせて、その頭をそっと胸に抱いていた。


 五十三次の八番、大磯宿までは十丁もない道の上。旅に出て三日目の、風が強い日の事だった。
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