烏が鳴くから
帰りましょ

異能のお話

 魔術――開国と共に日の本に流れ着いた、特殊な技術体系である。数学、識字能力と同様、元は一部の知識階級だけが扱える特権であった。然し、日の本の人間の知識欲は、おそらくは世界に類を見ないもの。ものの五十年の間に魔術は、余程の寒村でさえ、半ば以上の人間が扱えるもの、となっていた。

「ええと、関所の通行許可証、手配良し。『錆釘』宿舎の宿泊申請良し。ああ、路銀の両替、それからそれから……」

 かんかん照りが続く、夏の真昼間。『錆釘』の少女、村雨は、今朝決まった江戸出立のため、方々用意の手を尽くしていた。
 向かう先は西であるという。東海道を進み、伊勢から更に西、古都奈良を超え、京都。頻繁に宿場のある道だ、食糧の事は心配しないでも良かろう。問題は路銀と、思わぬ場面で足止めを受けないか、である。
 『錆釘』は、所属する者が遠地に出向く事を支援するため、各地に支部を置き、簡素な宿泊施設を用意している。そこを使うなら雨風は凌げるし、食事も割安で済む。道中の日程を想定すれば、少なくとも五日に一回は、かなり安く夜を越せる。
 が、当然ながら安さ相応の設備ではあるし、料理も不味くはないが取り立てて美味いともいえない。その事を雇用主である雪月 桜に伝えると、こんな言葉が返ってきたのだ。

『宿のボロさは気にせん。飯盛女の質で選べ』

「そんなもん分かるかーっ!!」

 思い出すだけでも、この無茶苦茶な要求に涙が出そうになる(ちなみに飯盛女とは、この文脈では宿場の私娼の事である)。どこの世界に田舎宿の娼婦の良しあしについて詳しい少女が居るというのか。そもそも何処で調べればいいのだ、そんな話。『錆釘』のおかみさんに聞いても、苦笑いと共に首を傾げられるだけで、何の進展も収穫もなかった。

「蕎麦屋のみんなに聞こうかなー……駄目だ駄目だ、なんかいたたまれない事になる気がする」

 三十過ぎの渋い親父、嬶には尻に敷かれ、年頃の娘には理由なく嫌われ。そんな彼らなら詳しいかも知れないと思ったが、聞いたが最後、彼らの何かに止めを刺してしまいそうな気がした。少なくとも、少女である自分が尋ねるのは、拷問でしかない、と思った。

「はぁ……『錆釘』の情報屋を使う? 流石にこんな事は調べてないだろうしなー……」

 全く畑違いの探し物、がっくりとうなだれて、村雨は歩いていた。

「どけ、どけ、どきやがれーぇい!!」

「ん……? っと、うわっ!?」

 何やら、前方から喧しい声がした。顔を上げると一人の男が、鬼の様な形相で走ってくる。六尺を超える大男、道行く者とぶつかるのも構わず、触れるものみな跳ね飛ばす牛の如き様相だ。反射的に飛び退いた村雨の横を、男は砂煙を上げて突っ走っていった。

「うわ、何あれ……」

「ひぃ、ひぃ……誰か~、そいつをとっ捕まえてくれ~……」

「あら、また一人……あ、あなたは」

 良く分からないものを見てしまった、と思うのもつかの間。男の後を追うように、今にも引っ繰り返りそうに息を切らした少年が走ってきた。顔に見覚えはある。確か昨日、山の洞窟まで案内をした岡っ引きの中で、一番年少に見えた一人の筈だ。

「ぜー、ぜーっ……ありゃ、姐さんのご友人、お見苦しいところを……」

「あれを友人とは絶対に認めない。……じゃなくて、どうしたの?」

「いや、それが……待った、水、喉が――っかー、美味い!」

 ひぃ、と舌を突き出して喘ぎ、腰の竹筒から水を一口。ぐびりと喉を鳴らし、ようやく人心地ついたらしい。岡っ引きの少年は、実に清々しく晴れ渡った笑顔を見せたのだった。その表情たるや、彼らの頭上のお天道様が、自分の未熟を恥じて雲間に引きこもりそうな程で、

「……えーと、私は忙しいからここで」

 なんだか気にしなくても良かったかも知れない。そう思った村雨は、さっさと目的の為に歩き出そうとした。

「ああ、お嬢さんお待ちなすって! うぇいと、うぇいとにござんす! 姐さんにも深く深ぁく関わりのある事なんですってぇ!」

「……はぁ、良く分からないからまず説明お願い」

 すがりつくように村雨を引きとめる、岡っ引きの少年。あまりに必死な様子だった為、不承不承――と、いうのも違うかも知れない。面倒だが、自分の雇い主に関係がある話となれば聞かざるを得ない。聞き流して後で叱責を受けるのは嫌なのだ。

「お話はしますが、先にあいつをとっ捕まえて――あー、何処行ったあんの野郎!?」

「あ、しくじったね」

「しくじった、じゃねえですよぉ~。ああ、姐さんにぶん殴られる……壁だけは、壁をぶち抜くのだけは……!」

 が、二人がやりとりしている間に、当の男は路地にでも逃げ込んだか、其処から見渡しても見つからなくなってしまっていた。岡っ引きの少年が、地面に両手両膝着いて肩を落とす。
 村雨は、然し平然としていた。相手を見失った事を、これっぽっちも気にしていないという顔で、男が去った方角を見やる。軽く顎を持ち上げ、鼻を二度ばかりひく付かせると、

「……もう、やる事はいくらでもあるっていうのに!」

 とっ、と足音は一つだけ。短髪が靡いて地面と平行になる程の速さで、矢弾の様に突っ走り始めた。


「それでまたあの芸者が色っぽいの――おうわぁっ!?」

「何時も買ってるんだからアサリの一つや二つ――きゃっ!?」

「ごめんねー! 通るからねー!」

 村雨の走り方の特徴は、非常に低い姿勢で駆け抜ける事だった。歩幅を極限まで広くした上で回転を増やし、前方に倒れこむのを加速で強引に抑え込むような、地を這う獣の走り。だから、人の群れに紛れてしまうと、よほど近づかれるまで気付かない。
 村雨自身が通行人を避けて走るから接触事故こそは起こらないのだが、突然視界の端に少女が現れ、また瞬時に消える。こんな事が白昼に起これば、立ち話に興ずる大工も、アサリ売りにケチを付ける嬶も、素っ頓狂な声を上げた。
 村雨が追っているのは、人の姿ではない。道に残った、そして空気に残った臭いである。大男との接触はほんの一瞬だったが、あんまり様子がおかしいものだから、日頃の癖で臭いを覚えていたのだ。
 臭いは大路を南に抜けたあと、とある宿の裏道を通り、別な大通りへ抜けていた。通りを変えてからは北へ進んでいる――目的地を過ぎてしまったのだろうか? 考えながらも脚は止まらない。減速は一歩で完了させ、直角に方向転換を合計二回、迷わず追い続ける。

「……いた、あいつだよね」

 大柄な男のこと故、追い続ければ然程苦労はせず、その頭を人ごみの中に見つけ出す事ができた。追手を振り切ったと油断しているのか、道の真ん中をのうのうと歩いている。
 村雨が発見した時点で、距離は二十間もあるだろうか。自分の脚なら五秒も要らない。そう判断した村雨は、息継ぎも程々にまた走り出す。たっ、と一音だけ、裏道に足音。
 大男を避けた通行人が、そのまま道の中央に戻らないで歩いている為か、先程の通りより避ける人数が少ない。見立ての通り、背に喰いつけるかと思うまで、三秒。村雨は、男が見せたおかしな手の動きに、反射的に脚を止めた。
 そのまま走っていれば、一瞬の後には村雨の体が有っただろう場所に、一本の氷柱が突き刺さった――夏、何もせずとも汗の流れる日差しの中で、だ。先端は槍、側面は鈍器の代わりに使えそうな氷柱の襲撃。村雨の背筋まで、氷のように冷たくなる。

「はん、尾けてきてたのはガキか……おいコラテメェ、誰に喧嘩売ってると思ってんだ?」

 のこり十間先、大男が、村雨に右掌を向けて、ニタニタとした嫌な笑みを浮かべ立っていた。その表情を形容するなら、野良犬を集団で虐めている悪がきの中で、特に根性の悪そうな奴の表情とでも言えるだろうか。

「……うわー、こういう人って苦手なんだけどなー……」

 村雨の三年の社会経験では、この表情をする人間は、例外なく悪人であった。この男の場合は表情に加え、左手に抱いた木箱と、村雨に向けた右手とが証拠である。木箱からはあの岡っ引きの臭いが、そして右手からは、いわゆる魔力などと呼ばれる奇怪な力の、その痕跡の臭いが有った。

「躾がなってねえ。金もなさそうだ。殴り心地だけは…良さそうだなぁ?」

 男が右手を振りかぶる。間合いは十間、殴る訳ではない。周囲のざわつきで、お互いの言葉すらまともに聞き取れない距離なのだ。だが村雨は、男の右手に、魔術の予兆を感じとった――周囲の要素を強引に一つに纏めたような臭い。これまで、この予兆の後は必ずと言っていいほど、何か予想し難い事が起こってきた。
 反射的に、右手を顎の前、左手をみぞおちの前に添える。両足に均等に体重を乗せ、前後左右全ての方向に、瞬時に飛びのく為の構えを取る。勝つ算段より先に、逃げる為の道筋を幾つか想定した。

「『吹っ飛べ』くそガキィ!!」

 男が、右腕を大回しに振るう。風斬り音が届きそうな豪快さに、村雨は身を竦ませ――咄嗟に、両腕で顔面を覆った。腕の上から強く殴りつけられたような衝撃、軽量の体が腰を軸に後転する。

「くっ、何!?」

 背を丸め、両腕で地面を叩き、受け身を取る。頭は守ったが、腕の芯まで痛みが響いている。何が起こったかは直ぐに分かった。村雨の足元には、一抱えもある氷塊が落ちていたのだ。

「なんだ、おねんねには早かったかぁ? んじゃ、『ぶっ潰せ』!」

 振り抜かれた拳が、今度は掲げられ、振り落とされる。遅れる事数秒、村雨の頭上に突如、先程飛来したものと同程度の氷塊が出現する。

「わ、わわっ!?」

 側面へ転がり、落下する氷塊から逃れる。子供程度の重量は有るだろうか、しかもやたら表面は刺々しく、潰されれば痛いで済む代物ではなさそうだ。傍目には余裕を持って回避したように映ったかも知れないのだが、その実は、仰向けに倒れたという偶然で助かったようなものだ。

 死ぬことは無いだろう。が、骨の一本や二本で済むかと問われると、頷き難い。跳ね起きた村雨は、防御の構えを解かない。

「ちっ、潰れねえか……『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』ぇ!!」

 それが面白くないようで、男は粗っぽく右腕を振り回す。拳が描く軌道の延長線に、氷塊のつるべ打ち。一つ一つは先程より二回りも小さいが、数が段違いだ。

「……く、痛っ……う、あっ、た……!」

 村雨は氷の礫に襲われながらも、右腕で頭、左腕で腹だけは庇う。防御面積が追いつかない。先程の様に正確な狙いではないからこそ、肩も脚も、周囲の店も、氷礫は無差別に殴り付ける。
 結局、自分がのこり十間の間合いを一歩も詰められていないと気付いた時、村雨は大きく側面へ、其処から民家の屋根へと跳躍した。
 側面移動では三間を、垂直にも一丈を、助走無しで飛び越える脚力は、只人の物ではない。遠巻きにしていた野次馬も、おお、と歓声を上げる。ただ、男の張った氷の弾幕は、その脚力をして一歩も迫る事が出来ない程に苛烈であったのだ。

「尻尾巻いて逃げやがった、野良犬め!」

 男の嘲るような声に、減らず口を返す余裕は無い。痺れて思うように動かない腕のまま、村雨は屋根伝いに逃げていき――

「あー、痛い痛い痛い、痛いー……!」

 臭いは届くが、男の姿が見えない距離まで離れてから、青痣になっているだろう全身の打撲に蹲った。
 拳で殴られている方が、まだ手の皮膚という緩衝材が有るだけ、浸透する衝撃が少ないだろう。男が乱射した氷の粒は、武術家の拳よりもなお硬かった。

「うぐぐ……たかが引っ手繰りのくせにー! あんな強いなんて反則だー!」

 喚いては見たが、どうにもならない。確かにあの大男は、平均的な視線から見て、卓越した魔術師であった。
 一般に魔術師は、自分の体に何か変化を起こす事で、外に働きかけるという手順を踏む者が多い。体を急激に熱し、触れたものを燃やす。体を急激に冷やし、触れたものを凍らせる。体内電流を強めれば、接触した相手に電流を走らせる雷人間の出来上がり、というわけだ。飛脚など、自分の脚を固く軽くして、一日の内により長距離を走る、などという事もして見せる。
 あの男の場合、自分の体の外を、自分の思うように操作するという芸当をして見せた。不可能な事ではない。だが、一般的な教養として身に付けた程度の学では、空気中の水を茶碗に集め、飲み水を作る程度が限界だ。
 男はおそらく、周囲の水を一か所に集め、瞬間的に冷却し、射出していたのだろう。これをするには、よほど専門的な訓練を受けるか、生来の素養が必要となる。
 村雨は、魔術などほんの初歩の初歩しか知らない。身体能力だけで打開できない相手だというのは、つい先程自分で証明してしまったばかりだった。

「ひぃ、はぁ……なんでまた、あたしを置いて走っていくんでさ――ってありゃ!? どうしなすった、そんなまた喧嘩を吹っ掛けられて散々殴られたみてえな有り様で!?」

「……みたいな、じゃなくてそのものずばりなんだよね。悲しい事に。遅い」

 村雨が手酷く打ち据えられて暫くあと、ようやっと岡っ引きの少年が追いついてきた。
 どこをどう走ったものだか、汗の量は村雨より遥かに多い。先程補給した水分は、もう全て流してしまっただろう。

「……で、その服は何よ」

 だが、そんな事よりも村雨が気になったのは、少年の格好だった。わざわざ着替えてきたのだろうか、風通しのよさそうな羽織り一丁を着流しの少年。然し、丈が全く会わないのだ。少年の背丈は五尺五寸といった所だろう。羽織りの方はと言えば、六尺有っても着こなせまいという程、丈が長くてダブついている。

「へえ、ちょっくら勝負服に着替えてきまして……あの引っ手繰りやろう、どちらに?」

「なんでそんな必要あるの? ……ええとね、どこかな……どこかで止まってる。動いてない」

「そうかい、そいつぁいいや!逃げねえでくれるんならどうとでもできらぁ!」

 少年は、やたらと自信に充ち溢れていた。村雨がいうのもなんだが、この少年、はっきり言って体力派ではない。あの大男にさっぱり追いつけず仕舞いだったのだから押して知るべし。

「……私、ぼこぼこにされたんだけど」

 一応、相手の厄介さを伝える為、村雨は腕に出来た青痣を見せた。

「んだとぉ!? 姐さんのいい人に怪我させるとは、ふてぇ野郎じゃねえか!? おお!?」

「誰がいい人よ頭沸いてんのかあんたはっ!!」

 効果がないどころか、寧ろ少年はやる気を出してしまった。いなせにぐわと目を剥いて、出ない力瘤を出そうと腕を曲げる。

「こうしちゃいられねえ、あいつは早い所ふんじばっちまわねえと! 案内してくだせえ、さあさあさあ!」

「いや、ちょっと、応援は頼まないの? ……はぁ」

 案内を要求しながら、先へ先へと進んでいく少年。何処へ行けばいいのかも良く分かっていない筈だ。このあたり、桜に似ているな、などと、迷惑な人間の共通点を発見した気分になる。
 とりあえず場所だけ教えて、後は岡っ引き達に任せよう。そう思い、村雨は臭いを辿って歩き始め――ふと、聞き忘れていた事を思い出す。

「あれ? そういえば……あなた、名前、なんて言ったっけ?」

「あたしでござんすか? いやいや、よくぞ聞いてくれました! 天下に男は幾万有れど、この色男は只一人!」

「口上はいらない」

「ちょっ、つまんねえ」

 妙に抑揚節回しを付けた声で語り出そうとした少年に、ぴしと指を付きつけ食い止める。口をつん尖らせた少年は、一度だけ咳払いをした。

「あたしは源悟(げんご)、岡っ引きの同僚どもにゃあ『八百化(やおば)けの源悟』で通っております」

 腰まで頭を下げながら、目は相手を見たままの、どこか油断ならないお辞儀。陽気な少年は、やはり陽気なままの笑みを見せた。








 逃がした――否、村雨が逃げたのだが――男の臭いは、先刻の通りから大きく動いてはいなかった。鼻をすんすんと鳴らしながら、時折はその場でしゃがみ込みながら、村雨は臭いを辿っていく――と、とある長屋に着いた。
 釘も打てない薄壁長屋で、隣人が耳を澄ませば、内緒話も出来やしない様な狭さ。外から見るだけで、店賃の安さが知れようというものだ。

「あっちゃあ、ここかぁ~……嫌だね嫌だねぇ、面倒くさい場所だ」

「ん、何かあるの? そりゃまあ、あんまりいい雰囲気じゃないけどさ」

「ここは大家が緩くてね、懐も頭も。金が有ろうが無かろうが、ちょいとずうずうしく押せば住まわせちまう。おまけにあんまり催促もしなきゃ面倒も見ねえもんだから、店子が何しようが気付かねえのさ。全く、大家の爺はよぉ……」

 今度は大家もしょっぴいてやろうか、源悟は悪態をつきながら、戸を一つ一つ叩いていく。一軒目の調査は、源悟と腰の低さで競えそうな老婆が出てきて、和やかに終わった。二件目は留守。勝手に戸を開けたが、本当に誰もいない。

「おうい、誰かいるかい、誰かいるかい。開けておくれよ、開けやがれ、開けろってんだこのウスラトンカチめ」

 三件目は、中で何か引っかけているのか、戸が開かない。止むを得ずなのか常のやり方なのかは不明だが、源悟は戸をガタガタ揺す振りながら、中に誰か入れば寝ていても飛び起きるくらいの大声を張り上げる。そう間も開かず、中の方で、のっそりと誰かが動く音。

「うるせぇ、帰れ! 金はねえんだ! ……なんだ、大家じゃねえのか」

「あーっ!」

 荒々しく、それこそ戸を外しかねない勢いで出てきたのは、誰あろうあの大男だった。服装も何も変わっていない。村雨は思わず、男の顔を指差す。

「おう、居るんじゃねえか。あたしゃ同心の傘原様の手のもんでね。ちょいと家ん中、見せてもらいたいと思うんだが」

「やなこった、帰れ。俺は眠いんだ」

「こうして頼んでるんだ、聞いちゃくれねえのかい? あんたの顔は見覚えあるぜ、ついさっきあたしにぶつかってった男だ。奇遇だねえ、その時にあたしゃ、無くし物をしちまったんだよ」

「知らねえな、てめぇがマヌケなだけじゃねえか。帰った帰った!」

 ねちねちと張り付くような物言いの源悟に対し、大男は白を切る。抱えて走っていた木箱は、きっともう何処かに隠してしまったのだろう。知らぬ存ぜぬを押しとおし、この場を抜けられると高を括っているに違いない。
 実際のところ、いくら権力を与えられて居ようが、岡っ引きは所詮、町人か犯罪者上がり。証拠も無しに家探しをして、はい見つかりませんでしたでは済まされまい。大男はそれを盾に取って、このまましらを切りとおすつもりらしい。

「あんたが何と言おうが、あたしゃあんたの顔を見たし、こちらのお嬢さんの鼻もそう言ってる。あんまり難しい事を言うようなら、こちらも無茶を遠さにゃなくなりますぜ?」

 然し、源悟も引こうとしない。空いた戸に身を引っかけ、閉めて逃げる事ができないようにしている。黙り込み、ぎろりと源悟を睨みつける男。暫くの間、両者とも目を逸らす事はなく、

「ようし、売られた喧嘩は買ってやろうじゃねえか!」

 だぶだぶの源悟の羽織を、大男はがしりと掴む。反対側の手で作った拳は、あの氷塊程の威力は無くとも、十分に痛そうだ。殴るぞ、鼻をへし折るぞと、無言の脅迫が込められた拳だ。

「へっ、んなもん怖かあねえや、姐さんにぶんなぐられる方がよっぽど怖え――喧嘩ぁ買ったんだ、つっ返すなよ?」

 大男を、源悟は鼻で笑い飛ばす。少しばかり酷薄になった笑みが――顔ごと、溶けた。何の比喩でもなく、水飴のように、粘性の高い液状に。

「うおっ、おあ、んだこりゃぁ!?」

「へうっ!? 何、なになに!?」

 胸倉を掴んでいた大男は、目の前で体を溶解させていく源悟に、明らかに驚きうろたえていた。村雨も同じだ、何が起こったか分からず、目を見開いて出来事の行く末を見届けようとする。
 不定形となった肉と皮膚。源悟は、それが人間であるとは、輪郭からしか判別できなくなる。そして、その輪郭までもが変異を始めた。溶けた肉の奥にあるだろう骨が、長く、太く、また分厚く変わっていったのだ。
 五尺五寸の痩せ形、それ相応だった源悟――源悟だったものの輪郭は、今は七尺近い巨体のそれへと化けている。
 溶けた肉は体積を増し、形を失う以前より倍も膨れ上がって、骨の上で固まった。皮膚が、人の顔の形状を取り戻した。
 唖然となった村雨が我を取り戻すまでの間に、岡っ引きの少年は、筋骨隆々の巨体へ、完全な変身を遂げたのだ。

「……長屋壊しゃあ大家が泣かあ、外へ出ろ」

 地鳴りのように低くなった声で、一言かぎりの警告。源悟は、自分の服を掴んだ男の手を、力任せに上から掴み返す。巨体相応の大きな一歩で、引っ手繰りの男を長屋の外へ引きずり出した。

「っ、ぐお……!」

「叩きのめして家探ししてやらあ、立て!」

 通りに投げ出され、背中をしこたま打ち付けた引っ手繰り男。呻きながら立ちあがると、目の前に源悟が立っている。咄嗟に腹を殴りつけて――鈍い音はしたが、源悟は微動だにしない。その腹筋は、岩のように硬かったのだ。

「なっ、んだぁ!?」

 二発、三発、男は突きを繰り返す。全てが防御されぬまま源悟の腹に打ちこまれ、そして全てが、源悟を後退させる事すら叶わない。痛むのは男の拳ばかり。指がイカれかけて、痛みに拳が解かれた。

「図体の割にえらいヘボじゃねえか! あぁ!?」

 お返しとして振るわれた源悟の拳は、引っ手繰り男の腹を打ち、片腕の力だけで足を浮かせた。ただ一撃で息がつまり、蹲ろうとする引っ手繰り男。その胸倉を源悟は掴みあげ――引き起こし、同じく腹へ、重ねて一撃。

「ぐえっ……がは、っげ、ぇ……!」

「うわ、エグっ……」

 村雨は一瞬だが、引っ手繰りの男に同情した。腹へ二度、七尺の巨体の怪力で、拳を打ち込まれる。想像するだけでも胃袋がせり上がる。どういう仕組みかは知らないが――いや、理屈は知っているが理解できないだけだ――源悟は、引っ手繰りの男を、殴り合いでは圧倒していた。

 後天的に取得する技術として、今は日の本全域に、魔術の存在は知れ渡っている。だが、それより遥か昔から、稀ではあるが先天的な才として、『異能』と呼ばれるものは存在していた。
 それは決して、生まれ持つ以外に習得の術は無く、また汎用性は魔術に大きく劣る。魔術は、術者が理解している世界の中では、全てを為す可能性が有るのだ。対して生来の『異能』は、ただ一つの分野にのみ特化する。
 『走る事』に特化した男が居たとする。彼の脚は、生まれつき強靭に作られていて、何もせずとも強い筋肉を持つ。その筋肉の使い方を熟知している上に、鍛練による習熟の速さは余人の比ではない。最大筋力は伸びなくとも、持久力ならば何もせずに伸び続け、やがて走行速度は野山の獣すら上回る――これが、一つの『機能』ではなく、『分野』に特化している、という事だ。
 これが『異能』、或いは『特化能』と呼ばれる力。人間でありながら、人間でないものとして生まれた力である。
 源悟の『特化能』は、化けるという分野にある。そのものになれるなら、一切の恣意的な演技は必要ない。源悟は、その身にいくつもの人格と姿を内包し、且つ一つの人格でそれらを統合、切り替えて使用できるのだ。今の源悟は、『巨体の武芸者・徒手空拳の達人』である。肉体も、咄嗟に構築される戦術も、全てが岡っ引きの少年ではなく、武術家としてのそれだった。


「さっさと吐きやがれ、アレは何処に隠した。答えねえんならこのまんま、あんたを殴り続けるしかねぇんだぜ? 俺が聞いてるんじゃねえ。傘原様に預かった十手が、聞きてぇ聞きてぇと喚くのよ」

 立ちあがろうとした男の後ろ襟を掴み、押さえつけながら、源悟は岡っ引きらしい脅しを掛ける。肝の据わらない男ならば、これだけで地に伏し詫びを入れ、要らぬ事まで口走りそうな迫力が有った。有り体に言えば、痛めつけすぎたきらいもあり、治安を守る者としては褒められたやり方ではない。

「ぅげ、ぇ……分かった、分かったってえの。言うから放せ、首が痛え……」

「いいや放さねえ。あんたの様な連中は、手ぇ放しゃすぐ殴りかかってくると相場が決まってらぁ。……もう一度だけ聞くぜ、アレはどこに――」

 自覚が有った為だろうか。源悟は最後に一度だけ、男が自発的に答えるのを期待した。その妥協は隙である。これが優越を付ける行為なら、一片たりと譲ってはならなかったのだ。

「アレ、は……『――――』」

「……っ、危ないっ!」

 答えるそぶりを僅かに見せた男は、掌を返すようにして、ただ一言だけ呟いた。
 少年が巨漢に化けた驚愕から醒め、腹の鈍痛も幾らかは薄れ、引っ手繰りの男は、僅かだが魔術行使に精神を裂く事ができた。人格こそ問題は有るが、この男もまた、卓越した術者である。一言を舌に乗せるだけで、周囲の水分を源悟の頭上に集結、冷却し、氷塊を作り出す。

「え? ぬ、おわっ!?」

 重量五貫程の――明らかに、集めた水より嵩が多い――氷塊が、源悟の頭を狙って落下した。武術家としての広い視野、反射神経は、両腕で頭を庇わせる。だが、生半な防御など、重力による加速を受けた氷鎚には無意味だ。

「ぉお、お……、やりゃあがったな……!」

「あ……えーい、このっ!」

 腕の上から頭を揺らされ、軽い脳震盪の様になり、膝を着いた源悟。咄嗟に村雨は飛び出し、引っ手繰り男へ飛び蹴りを仕掛けた。

「『弾き返せ』『ぶっ潰せ』『ぶん殴れ』……てめぇら、タダじゃおかねえぞォ!!」

 軽量とは言え、全体重を乗せた飛び蹴りは、突如出現した氷の壁に防がれる。分厚い壁だ、二寸は有るだろうか。罅一つ入りもしない。地面に落下した村雨を、脳を揺らした源悟を、続けざまに狙うのは二つの氷塊。一つは頭上から、一つは男の拳から打ちだされた氷は、いずれも砲丸の様に形作られて、恐ろしく頑丈な氷だった。
 源悟は、柱のように太い腕で氷を防ぎ、村雨は持ち前のすばしっこさで、体ごと逃げ回る。的が一つに絞られていない為か、一人で挑んだ時に比べれば弾幕は薄く、回避する事は可能だった。

「『弾けろ』『砕け』『砕け』ぇ! ひゃっはっは、ぶっ潰してやらぁ!!」

「くおぉっ……ぉお」

「きゃっ! ……ぁ、ヤバ……」

 然し、一度有利に立てば、その有利に最大限便乗するのも、この手の悪党の共通点である。男の攻撃は愈々苛烈を極めた。あらぬ方向へ飛んだかと思った氷塊が、爆散し、鋭利な氷片の雹となる。回避しきれず、特に体でも脆い部分だけを守る二人を、金槌の形状をした氷が殴り付けた。重量はこれまでの氷塊に比べて小さいが、防御の隙を突いての的確な打撃。既に脳震盪気味の源悟には駄目押しとなり、村雨もまた、地面がせり上がる様な感覚に襲われる。

「こいつ、強――」

「今更かよ、ガキ」

 気付けば村雨は、手と膝を地面につけていた。視界が揺れて立ち上がれないからだ。改めて、敵の強さを実感する。二人掛かりなら勝てると思った――源悟の強さに圧倒され、手を出し損ねたのが敗因だろうか。
 いいや、違うだろう。村雨が介入できる局面になったのは、男が反撃に移ってからだ。そして、そこから今までを振り返ってみれば、村雨が為したのは不発の飛び蹴り一度だけ。

「……っぎ、いいい……!」

 いくらなんでも、自分が情けなく思えた。多少痛いとかふらつくとかは考えず、立ちあがって男を殴り付けねば、と思った。どうしてそう思ったのかは定かではないが、その時は理由など考えようともしなかった。ただ、『あいつ』ならこの男に勝てるのかも、と少しだけ考えてしまった。
 そう思ってしまったが最後、体の痛みより、地に伏している事の方が苦痛と感じられる。自分が劣っていると証明される様で、我慢がならない。土を掴み、膝を持ち上げ、靴の裏で地面を踏みしめた。立ち上がろうとした。

「うぜぇ、動くんじゃねえよ」

「……は、あれ……? あ、なんで、動かな……」

 その手が、足が地面から剥がれなくなった。氷の枷が、手足を地面に括りつけていた。衣服の上から、隙間をおいて作られた枷は、凍傷こそ生まないが、金属のように硬い。

「あーぁ、くそ。また隠れ家を変えなきゃねえか……てめぇのせいだ、ガキが!」

「あうっ……!」

 立ちあがる事どころか、左右に体を捩って逃れる事もかなわない。防ぐ事も出来ない村雨の顔を、男の草履が蹴り飛ばす。首が無理に上を向かされ、鞭打ちになりかけた。
 小心者ほど、弱者を嬲る事を楽しむ。動けず、防御も出来ない村雨は、男にとっては丁度いい生贄だ。

「ん~、んん、情けねえ声だなぁ? 良い声だ、おらっ!」

「えぐ、っお、ぁが……げ、がふ……!」

 悲鳴の声音が気に入ったのだろうか。村雨の側面に回った男は、爪先で何度も、その腹を蹴り上げる。言葉として成立しない苦悶の呻き声。込上げる吐き気に涙が出ようと、村雨に逃れる術はない。

「止め、止めねえか、この野郎! テメエ、女相手に……っぎあ!?」

 まだ立ちあがれる程回復していない源悟だが、見るに見かねて、地面に這ったまま、男の脚を掴む。その手首を男は踏みつけた上で、鋭い氷柱を作り出し、源悟の手の甲を地面に縫いつけた。

「……けっ、口ほどにもねえ。二度と寄ってくるんじゃねえぞ、ああ?」

 男は、長屋を捨てるつもりなのだろう。通りを、江戸の町から抜ける方向へ歩き始めた。十歩ばかり行ったところで、立ち止まり、振りかえり。

「まぁ、こうすりゃ完全に懲りるよなぁ……――」

 作り出されるのは、一抱えもある巨大な拳の形状、二つ。氷からの成型とは思えない程に精巧な、人間の拳の模造品。重量もおそらく、これまで打ちだされた氷より遥かに大きい。形成から射出まで、時間が有るからだ。
 磔のまま、あれに殴られるのだ。肋も折れるか、いや殴られるなら頭だろう。意識が飛ぶ……だけで、済むものか。必死であがくが、氷の枷は硬く、逃れる事は叶わない。死刑台に乗せられる恐怖とは、こういうものなのだろう。

「――『吹っ飛べ』ぇ!!」

 果たして、氷の拳二つは射出された。一つは村雨に、一つは源悟に。何れも意識ばかりか、体の機能の一部さえ奪いかねない凶悪な速度。
 だが、村雨の体に震えが起きず、涙も流れなかったのは――その臭いを、無意識に嗅ぎ付けていたからに違いない。

 ごうと熱風が、村雨の頬を撫でた。二つの氷の拳は、村雨の二歩手前で、立ちあがった炎の壁に飲まれていた。炎の壁に物理的に阻まれ、砕け、溶けて消えていた。

「何時までも荷物が届かんと思えば……やれ、厄介な事になったものだ」

「……第一声はそれ? 心配くらいはしてよ……」

「ああ、そうだな。大丈夫だったか?」

「遅い。失格」

「すまんすまん、後で倍は心配してやる。それよりも――」

 炎の熱を掻き消すように、ひゅうと涼しげな声が吹く。拘束されて振りむけずとも、村雨は、そこに有るだろう姿を思い描き――安堵と、少しの悔しさを感じた。

「――そこの男。五体満足には帰さんぞ」

 濡れ羽(ぬれば)の髪に黒備(くろぞな)え、雪月 桜がそこにいた。








 氷の拳を防いだ壁は、現れた時と同様に、一切の予兆も無しに消えていった。氷が溶けて生まれた水は、熱されて既に蒸発していた様で、道路はからからに乾燥したままである。

「……このガキ共の飼い主か?」

 立ち去ろうとしていた筈の男は、新たに現れた女が、自分に並々ならぬ敵意を抱いている事を肌で感じ取ったか。開いた両手に魔術の予兆、奇妙な臭いが集まっていくのを、村雨の鼻が捉える。

「うむ、いかにも。首輪を付け忘れたのが失敗だった」

 冗談のように口にしているが、声も目も、酷く冷たい。この怒りの矛先が自分でない事を、村雨は僅かでも疑ってしまう。当座の危機が去った時、次に訪れたのは恐怖心だった。
 引っ手繰りの男と戦っていた時の恐怖は、身が傷つくという具体的な事態へのものであった。今の村雨が抱いているのは、桜という人間の怒りそのものに対する恐怖。無様に叩き伏せられた自分へ怒りが向けられる事に、何故であろうか、村雨は酷く怯えたのだ。

「姐さん、すまねぇ……お届け物も、それに、こちらのお嬢さんも……」

「源悟。自分を知れと何度言えば分かる。勝てぬ相手に喧嘩を売るな」

「ちょっと、その言い方は……!」

 詫びる源悟にも一瞥をくれただけで、桜はやはり声音を変えない。滑る様な足取りで、地に拘束された村雨へと近づいてくる。
 源悟の手が、氷柱で地面に縫い止められている姿が見えないのかと、村雨は訝らざるを得なかった。そうでなくては自分を慕う者を、ああも邪険に扱える筈がない、と。
 咎めだてる声に返事は無い。村雨の四肢の拘束、氷の枷を桜が掴む。指を巻きつけ、拳を作る様に軽く力を込め――びし、と鋭い音がした。枷は握りつぶされて、あっけなく地面から引きはがされていた。まずは両腕、次に両脚。四肢が解放されるまでに、桜はたった四度、右手を握っただけだった。

「……あ、ありがと……って、え、ちょ」

 反射的に礼を述べた村雨を、桜は無言で仰向けに横たえる。傷だらけの無骨な手が、村雨の洋装の裾を捲り上げ、直接腹部に触れた。

「い、痛っ……!」

「……ふぅ、折れてはおらんな」

 腹ばかりを狙われた為か、村雨の肋は無事で済んでいたらしい。内臓も、現時点で大きな痛みがない以上、打撲の影響は有ろうが大きな損傷は無いだろう。医者程の精度は無くとも、桜は手の感覚で、村雨の負傷の度合いをそう見てとった。
 痣に触れられる痛みに顔をしかめながらも、村雨は、確かに聞こえた溜息に耳を疑った。その色は落胆ではなく、そうであって欲しいという憶測かも知れないが、安堵の意を示している様に感じられたからだ。
 まだ体全体に、内側に染み込むような鈍い痛みが残っている。それも、たった一つの溜息だけで、随分薄れた様な気がした。腹の上に置かれた手は、氷に触れたばかりで冷たかったが、ひんやりと気持ちよかった。

 し、と風を裂く音がして、村雨の意識が現実に引き戻される。飛来した氷塊を、桜が左手で受け止めていた。忘れる筈もないのに忘れかけていたが、ここは江戸の町の路上で、自分を叩き伏せた男は、まだ十歩の距離にいる。思いだして村雨は、痛む腹を抑え体を起こした。

「なんだか知らねえが……喧嘩ぁ売ってると見ていいんだな?」

「おう、それで良いぞ。今の私は、酷く不機嫌なのでな」

 距離を確保したままで、先んじて攻撃を仕掛ける。荒事に慣れているらしい男は、村雨達を相手取った時に比べ、一段と慎重になっている。下卑た笑いは消え、真剣味を帯びて細められた目は、これまでさえ本性を現していなかった事を、村雨に、そして源悟に悟らせた。
 一方で桜は、少しばかり声の冷たさが抜けて、平常の諧謔精神が顔を覗かせている。構えは取らず、ただ道を歩くような顔をして、ふらりと前に出た。それが、第二幕の始まりの太鼓となる。

「『吹っ飛べ』!」

 男の初撃は、おそらく最大級の一撃だろう巨大な氷の拳。手を読まれる前に仕留めようという腹で放たれた拳は、桜に届く前に、また現れた炎の壁に阻まれた。本来なら実体がない筈の炎が、巨大な重量物を阻み、叩き落とした。

「……ふっ、らぁっ!」

 その壁をぶち破って躍り出た桜は、落下した氷の拳を拾い上げ、片手で大きく振りかぶる――炎で幾らか溶けたとは言え、直径二尺は有る拳形の氷を、である。指を引っかける部分など、落下の衝撃で破損した、僅かな直角面くらいの者だろう。
 そして、軽々とぶん投げる。山なりの軌道ではなく、地面と平行に、おそらくは男が射出したのに倍する速度で。狙いは過たず、男の腹。

「うぉっ……ぐあぁっ!?」

 巨体を利して踏ん張ろうとするが、然し男の体格で有っても、その剛速球を受け止めるには至らなかった。防御の上から肉を打つ、己の武器の特性で腹を痛めつけられ、跳ね飛ばされる。内臓が揃って腹の中で動くような感覚を、今度は男が味わう事となった。

「くそ、てめぇ……『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』『吹っ飛べ』ぇ!」

 立ちあがる間も惜しいのだろう。男は上体だけを起こし、右腕を振り回す。村雨が一歩も踏み込めずに終わった、小氷塊のつるべ打ちだ。
 前回は少しばかり遠慮や出し惜しみが有ったのかも知れないが、今の男は一切の余裕を捨てている。その数と速度は、一列に並べた弓兵の一斉掃射にさえ似ていた。
 それが、桜には通じない。一撃目を拳で砕き、二撃目を掴んで三撃目の盾にし、四撃目は肩に命中するが、一瞬たりと怯みもせず。続く乱射を破壊し、打ち払い、投げ返し、受け。氷の弾幕に身を投じた桜は、低空を跳躍する様な特殊な歩法で、男との間合いを四歩で踏破する。
 寸秒の攻防、男の懐に潜り込んだ桜は、振り回される右腕を左手で掴み取る。
 氷の枷を握り砕く手だ、男の腕もぎしぎしと軋む。皮膚の上から腕の腱が締めあげられて、指は自然と丸くなり、開こうにも開けずにいる。

「ふむ、良く鍛えてある……術の練度も上々。だが根性が気に入らんな」

「ぐ、ぐうううぅぅっ……! てめ、この……グシャグシャに『ぶっ潰れろ』!!」

 痛みに呻きながらも男は、この状況を好機と取った。相手は自分の腕を掴み、直ぐには離れられない至近距離にいるのだ。
 桜の頭上に、形などもはや考えていないのだろう、歪で巨大な氷塊が作り出される。水を集め、その体積を数倍数十倍にも増し、凍結させた、五十貫を超える奇形の巨塊。下敷きになれば命は有るまいと、男はここへ来て明確に、敵の殺害を意図した攻撃に出た――敵が並みの人間であれば、確実に押し潰して殺す事が出来た筈だった。

「……ふん、他愛ない」

 それさえも、桜にはまるで通じない。右手を掲げ、事もなげに手の平で氷塊を受け止める。投げ捨てようとして、周囲にこれを置く場所がないと知るや、桜は男を忘れたように空を見上げた。
 肘と手首だけを使い、氷塊が垂直に打ちだされる。三丈も跳ね上がり垂直降下に転じた氷塊が、空中で炎に包まれた。高温の為に赤を超えて青く染まった炎は氷塊を完全に融解せしめ、男と桜の頭上に、瞬間的に雨を降らせた。

「凄……あ、え……?」

「うお、俺の、術が……うおああ、ああああ!?」

 村雨は、ただ驚愕し、感嘆し、畏怖する。自分が何も為せぬままに終わった相手を、子供でもあしらうかの様に追いつめている桜。あの炎がなんなのかは分からない。魔術行使に共通する予兆を、村雨の鼻は嗅ぎとっていない。目視するだけで外界に作用する術など、存在するとさえ思っていない。ただ一つの心当たりは有るが、それが桜に該当するものとは、どうしても信じられなかった。
 増してや男は、何が起こっているのか、理解の試みさえ放棄した。自分自身の手はあえなく破られ、腕を掴まれ、逃げられない。混乱し、ただ自分の身を守る為だけに、氷の壁を生成。凍傷をもいとわず、体の前面、首から下に張り付けた。

「あれは私が雇った娘だ。ああも痛めつけたからには、知るも知らぬも知ったことか……」

 だが、もはや防御手段の多寡など、桜の怒りの前には無意味である。腰を落とし、弓を引くように右拳を背面に回す。その構えは武術のものではなく、破壊力という一点を追及したが故に生まれた、有り得ない程に大雑把な構えだった。

「死ぬなよ、後が面倒だ――!」

 源悟の目には、桜の腰から上が消えたように映った。村雨の目は桜の右拳が、男の氷の防壁を、錐のように貫いたのを確かに見た。
 力と速度を極めたならば、そこにもはや技は必要無い。避ける事は叶わず、防御は全て砕かれる。人が人たる所以の知恵を、完全に捨て去った獣の所業。
 残心も取らず拳を振り抜き、伸びきった体。その上に降る砕けた氷は、陽光を受けて輝いている。三尺の髪が靡き、人ならざる何かが翼を広げたようであった。
 綺麗だと――心ならずも嘆息する。秒にも満たない時間で消えたその光景は、一枚の絵のように村雨の目に焼き付いていた。
 ざ、ん。路面を抉って、男が地面に叩きつけられる。五間も後方に飛ばされ、悲鳴の一つを上げる間も無く、男は血の泡を吐いて昏倒した。








「あったたたたったたた! 痛え! 姐さん、痛え!」

「我慢しろ、溶けるまで待つ訳にもいかんだろうが……ほれ、これで良し」

 源悟の手に突き刺さった氷柱が引っこ抜かれる。少々やり方が荒かったが、あのまま地面に張り付けになっているよりは良いのだろう。桜は懐から包帯を取り出して、源悟の手に巻きつけていく。

「……ん? ちょっと待って桜、包帯なんて持ち歩いてるの?」

「いいや、そんな面倒な事はせんぞ。邪魔になるだろうが」

 村雨は首を捻った。桜は包帯を持ち歩くような奇特な人間ではないだろうし、本人もそれを否定しているのだ。では、今こうして、源悟の手に巻かれている白い布は何なのか。

「……一応だけ聞いておくけど、それ、もしかして」

「晒だ、こういう時には役に立つ」

「ああ、やっぱり……巻きなおすの手伝うの嫌だからね」

「え? このままでは風通しが良すぎるのだが」

「え、じゃないよ馬鹿。後先考えなって……」

 やはりこいつは物事を良く考えていないのだろうと、村雨は改めて思った。斬るか何かして一部だけ使えば良いところを全部使ったものだから、源悟の手は毬がくっついたような有り様なのだ。

「……全く、無意味に大きいんだから自覚してよ……」

 はぁ、とため息を零す村雨。これは間違いなく呆れの意味だ、他の解釈の存在の余地は無い。小袖の前の合わせ目が、機能しているとは言え心許無く感じて、掴んで閉じてやりたいと思ってしまう。
 そんな村雨の内心はお構い無しに、桜は引っ手繰り男の長屋を漁っていた。どんがらどんがら、家財の一切合財をひっくり返す音がする。終わった後であの部屋に人が住めるかどうかは、この際考えない事にした。暫くは部屋を荒らす音が聞こえ続ける。
 やがて騒音が止み、桜は木箱を抱えて出てくる。まだ二日の付き合いしかない村雨だが、桜がこうも上機嫌な笑顔をしているのは初めて見た筈だ。目を少し細める以外、笑い方を知らない人間だとさえ思っていたのだが。

「あなた、そんな顔が出来るんだ」

「ふふ、頬も緩むというものだ。これが届くのをどれほど待ったか……」

 箱の中に収まっていたのは、一振りの短刀だった。これもまた黒塗りである。そこは指摘するまいと、村雨は半ば諦めの境地だった。
 それよりも面白いのは、この短刀は鞘も柄も、全てが鋼作りなのだ。これでは重心が手元にずれ込んで扱い辛そうに感じるが、何故このような作りにしたのか、村雨は直ぐに理解した。桜が、短刀の柄を掴み、全力で握りこんでいたからだ。

「見ろ、砕けない。これなら思うように使えるぞ」

「……馬鹿力って、結構困るんだね」

 思うに桜は、全力で刀を振るう事が無いのだろう。万力込めて握りこめば、下手な作りの柄では圧縮され、砕け散る。卓越した剣技を持ちながら、武器が枷になっているのだ。だからこそ、例えそれが短刀でしかなくとも、全力を受け止められる刃物を得て喜ばない筈が無い。縁日で風車を貰った子供のように、桜は短刀を日に掲げ、誇らしげに歩き始める。

「帰るぞ、村雨」

「源悟はどうするの?」

「あれはもう歩けるだろう。私が付いていく意味もない」

「へえ、相変わらず手厳しい……いや、帰れます、大丈夫でさあ。こんな事でまでお手を煩わしちゃあ、預かった十手が夜泣きすらあ」

 源悟は何時の間にやら、元の少年の姿に戻っていた。横になっているうちに脳震盪は収まったのか、足取りはしっかりしている。あの巨体に化けていたのだ、分厚い筋肉は打撲症を軽減していたのだろう。
 かたや村雨は痩躯である。すたすたと歩き出した桜の後を追って歩を速めれば、あちこちの打ち身がずきずきと痛む。それでも無理に歩速を揃えたのは、聞きたい事が有ったからだ。

「……桜。さっきの炎、魔術じゃないよね」

「おや、何故にそう思う?」

「臭いが無い。誰かが魔術を使う時って、周りの空気を一か所に集めたような臭いがする。あの時の炎は、どこにもその臭いが無かったから」

「……本当に呆れたものだ、お前はそこまで嗅ぎ付けるのか」

 短刀の鞘を掴んだ手とは逆、左手の中指で頬を掻きながら、桜はどこか、してやられたという様な表情をしていた。確かにあの炎の壁は、魔術で作り出したものではない。雪月 桜は、そもそも一切の魔術を扱えない人間なのだ。

「では、なんと見る」

「『特化能』、ってやつかなー……って思ったんだ。でもさ、あれも……源悟の変身を見た時に分かった。やっぱり臭いが有るんだよ。その人の臭いが異常に強くなる……体の中から、『その人そのもの』が別に出てくるみたいな、変な感じ」

「ほう、興味深い。で、私の方はどうだったのだ?」

「臭いが何もなかった。いきなり炎が出て、いきなり消えた。あんまり空っぽで、本当にあなたがやったのかも分からないくらい」

「……つまり、どういう事だと思う?」

 特化能もまた、制御に魔力を必要とする能力だ。魔術との違いは、術者の内にある魔力以外を用いる事がない、という事。特化能はただ一つの例外もなく、自らの魔力を外へ押し出す事で発動する。詳細な理論こそ知らずとも、村雨の嗅覚は、それを本能の域で察知していた。

「桜、あなた――」

 では、桜の炎は、どのような力なのだろうか。目視するだけ、外へ働きかける行為としては些細なもの。発動までに支払う労力が、得られる結果に釣り合わない力の答えは。

「――『代償』持ち、なの?」

「ああ、そうだ。物心ついた時には、この目がそうだった」

 後天的に万人が取得出来る『魔術』の技能に比べ、完全に先天的な才である『特化能』は、所有者が極めて少ない。だが、それよりもまた更に――もしかすれば、世界に千人もいないかもしれない程に――所持者の少ない力が有る。
 それが『代償』。後天的に取得出来る異能であり、総じてこの力は『単一機能特化』である。
 桜の『代償』の力は、『目視した個所に炎の壁を生む事』。それ以外の用途の一切は不可能である。作り出した壁は必ず熱を持つし、炎は物理的な強度を持つ為、その中に何かを投げ入れる事は出来ない
 一方で代償持ちは、一切の魔術を行使できない。魔術を発動する為の魔力が、欠片たりと身の内に存在しないからだ。生来持っていた筈の魔力は、後天的に『代償』を取得した瞬間失われる。
 これでも、軽い制約に思うかも知れない。『代償』の力は、発動の際に魔力などを必要としないのだ。力の所有者が望むだけで行使され、一機能に特化している故に、その力は往々にして強大なものとなる。

「……そう、なんだ……な――あ、いや……」

 ならば何故、村雨は言葉を濁し、投げかけた問いを飲み込んだのか。それは、この力の名称、そのものが理由である。
 『代償』の力を得られるのは、既に何かを失ったものだけなのだ。そして、得られる力は、失った物の大きさに比例し、然し決して釣り合わない。心に生まれた空虚、虚無感が巨大である程に力は強まる。だが、得た力は虚無を埋めるのに、あまりに小さすぎるのである。
 身体の欠損ならば軽いものと断じられよう。親類の、無二の友人の、伴侶の命でさえ、きっとありふれた犠牲に過ぎない。当人の精神の破綻を以て、ようやく論ずるに足るだけの力を得られる。
 力の発動に際し、魔力も体力も消費しないのは、世界が既に、多大な『代償』を受け取っているからなのだろう。生涯を費やしても取り返せぬ欠落は、人が支払い得る限度を大きく超えているのだから。

「なぜ、か……まあ、つまらん話だ。景気が悪くなるばかりだぞ?」

 聞くな、という事か。村雨は、そう受け取るしかなかった。歩けと急かされるように背中を叩かれる。少し急ごうかと思い、速足で一歩を踏み出して――

「っ、痛……!」

「……お?」

 氷塊に散々打ち据えられ、蓄積した痛みのツケが回ってきたらしい。急に右足が痛み出し、村雨は反射的に蹲った。

「……大丈夫か?」

「折れてはいない筈なんだけど……ったた……」

 先程まで歩けていたのだから、折れていないのは確かだろう。が、体重を掛けるとかなり痛む。足首を捻った時の痛みに、質は似ているのかも知れない。直ぐに起き上がれず、一度地面に手を着いて、体制を直そうとした村雨だったのだが。

「ほうほう、そうかそうか。歩けないのならば仕方がないなぁ?」

「ん? …………はりゃ、りゃ?」

 体が宙に浮く。一瞬の浮遊感の後、元より高い位置で落下が止まる。膝の下と背中に腕の感触、横抱きにされたらしい。やけに近くに来た桜の顔は、短刀を手に取った時と同じような笑顔。

「……前にも似たような事言った覚え有るけどさ、降ろして」

「歩けんのだろう? これで良いではないか」

「ゆっくり歩けば大丈夫だって」

「なら駄目だな、私は早く帰りたい」

 暖簾に腕押し糠に釘、村雨の抗議は聞き入れられない。ここから宿まで、歩けばどの程度だろう。半刻まではかからないとしても、それなりに距離は有る筈だ。

「おーろーせー!」

「はっはっはっはっは、却下!」

 結局村雨は、宿の二階に上がるまで、桜の腕の中で赤ん坊扱いをされたのである。十四歳という年齢を鑑みれば、まったく顔から火の出る思いであった。








 達磨屋二階、廊下の最も奥の部屋が、桜の宿泊している部屋である。村雨は『錆釘』の宿舎からそこへ通っていく形になっていた。部屋は広いのだから泊まっていけばいいと桜は言うが、村雨にしてみれば、遊女との情交を襖の向こうに夜通し聞くなど、寝不足を引き起こす拷問でしかない。全く検討の余地も無く遠慮したのだった。
 そんな村雨だが、今はその部屋で、布団の上に仰向けに寝かされている。他に部屋にいるのは桜だけだ。太陽が一度てっぺんまで登り、折り返しを始めたころ合いである。

「……本当に、効果はあるんでしょうね?」

「かなりな。少々冷えるが、これ一つで打ち身、腫れ、青痣はたちどころに良くなる」

 村雨の枕元にでんと置いてあるのは、白い軟膏の入った壺。怪しげな薬にありがちな悪臭は無いが、やはり効能書きも無ければ疑いの目は向けたくなる。さりとて、自信に満ちた桜の態度を見ると、どうにも強く出られなくなってしまうのだ。

「というわけだからさっさと脱げ。服の上から塗りたくる訳にもいかんだろう」

「……袖捲りとかでいいじゃない。どうして脱がしたがるのよ」

「私の趣味だ」

「顔蹴るぞ顔。自分でやるからいいってば、もう……」

 が、相手が同性とは言え、肌を曝して身を任せろと言われると、頷き難いのが本心である。打撲の箇所は体の前面ばかり、他人に任せる様な場所でもない。直ぐに逃げ出さないのも体が痛むからで(ついでに言えば、どうせ捕まるのが見えているからで)、そうでなければ今すぐにでも、窓から飛び降りて通りを掛け抜けているところだ。
 結局のところ、こんなやり取りを何度か繰り返した末に、腕と脚だけ塗らせるという事で、不毛な争いは決着を見る。江戸ではあまり流行らない西洋風の衣服は、下着の種類が豊富であり、こういう時に手足を曝すには都合がよかった。

「はぁ……なんでこうなるかなー、もう」

「それは私の台詞だ。打たれ過ぎだぞお前は……これが刃物だったらどうするつもりだ」

「好きで打たれてる訳じゃないですよーだ。あー、ぬるぬるするー……何これ、本当に材料なんなのこれ」

「私も知らん。薬屋に聞いても答えてくれんしな」

 腕に塗りたくられる軟膏は、加減を知らない桜が両手いっぱいに塗りつけているのも大きいだろうが、やけに滑りの良い薬だった。後で紙か何かでふき取りたいところである。材料が不明だと聞かされれば、拭いとりたい欲求は尚更に高まった。

「……桜さぁ、なんであそこに居たの?」

 ただじっとして、腕に薬が塗られていくのを見ているだけ。退屈で仕方がない村雨は、兎角何でもいいから、会話の糸口を探す。

「あの時か。源悟に任せた荷物が届かなかったのでな、散歩がてら人伝に探していたら、引っ手繰りを追いまわしているのを見たと聞いた。よもや、ああも痛めつけられているとは思わなかったのだぞ?」

「ふぅん……じゃあ、知ってたら?」

「近くの家の壁をぶち抜いてでも走ったわ。急ぎの様なら最短距離を行くのが私のやり方だ」

「心の底から、知らないでいてくれて良かったと思いました。頭下げるのは自分でやってね」

 もう少し早く来てくれていれば、と思わないでもなかった。おかげで体はこの通り、あちこち打ち身青痣だらけで、正直寝返りを打つだけでも痛む。
 だが、もしもの話とは言え、知っていれば急いでいたと言われると、不満を言う気も起きなくなる。雪月桜という人間は、きっと自分の言った事はやってのける性質だろう。本当に民家の壁をぶち抜いてやってきた可能性が高い。桜が誰かに謝罪する姿など想像もつかないから、その場合に詫びて回るのはきっと自分になるのだろうとも、村雨は思ったのだが。

「はぁ、源悟も苦労させられたんだろうね……そういえば、いつからの付き合いなの?」

「源悟か。私が十六の頃からだから、二年だな」

「へえ、二年……え?」

「ん?」

 付き合って二日目でこのありさまの自分。二年も付き合っている源悟は大したものだと感心した所で、何か耳を疑うような事を聞いてしまった。その言葉が本当なら、桜の年齢は十八歳という事になる。これまで受けていた印象と食い違いすぎる、有り得ない。村雨は敢えて、年齢の問題を追及する事を止めた。

「え、ええと……うん、何でもない……源悟のあの、変身? あれ、なんなのさ。私とかにも化けられるの?」

「何なのと言われても困るが……あれのおかげで、同心の傘原にも重宝されている様だな。誰にでも化けられるというわけではなく、私やお前になるのは無理だが……私が知る限りで二十か三十以上は、化ける姿を持っていた筈だ」

「そんなに……そこまで自分がいくつもあると、どれがどれだか分からなくならないの?」

「なるらしいな。源悟がいうには、使わないで忘れている姿もあるだろう、だそうな。あんまり姿を増やしすぎたのが失敗という訳だな」

「増やせるんだ、あれ。そのうち、全部見せてもらおうかな。一つくらい、私の国の人間も居たりして」

「どうだろうなあ、あいつのは日の本の人間ばかりだから……と、腕はこんなものだろう、次だ」

 何時の間にやら村雨の両腕は、白い膜に覆われたようになってしまっている。薬でさえなければ、布団に擦りつけてでも落としたいところだ。大量に塗れば効果もあるだろうと考える辺り、桜の思考は年寄りのそれに近いのかも、と思ってしまう村雨である。

「出立な、数日ばかり遅らせる事にしたぞ」

「え、なんで?」

 足首から大腿の付け根まで軟膏を刷り込みながら、脈絡もなく、桜はぽつりと口にした。あと二日か三日もすれば江戸を立つと思って用意をしていた為、村雨は肩透かしを食らったような感覚だった。

「これで歩かせる訳にもいくまいが。まさか、私におぶって行けというのか?」

「いや、言わないけどさ……明日か明後日には治ってると思うよ?」

 骨折した訳ではない、打ち身である。老齢ならば兎も角、若く回復力のある村雨なら、当初の予定の日までには十分傷は治る筈だ。村雨自身はそう見ていたし、桜もまた、同じように考えてはいた。

「いいや、大事を取る。折れてはいなくとも、骨に罅でも入っていたらどうする。はらわたに傷が有ったら? 二日三日での判断は早計だ、馬鹿」

 然し、素人である自分の見立てを信じる程、桜は楽天的でもなかった。これが自分の怪我なら、明日にでも立つと言い出したのかも知れない。怪我をしたのが村雨で、外から見て判別できないものだからこそ、桜は万が一を思ったのだろう。

「んー……分かった」

「そうそう。それでいい……脚は少し痣が少ないな、こんなものだろう」

 上半身に比べ、下半身の打ち身は少ない。それでも、特に痛みの大きかった右足は念入りに軟膏を塗り、桜は手当を済ませる。村雨からしてみれば、暫く動き回る事も出来ない程べっとりと軟膏を塗られただけで、これを手当てと呼ぶのも癪だったが――

「桜って、変な方向にだけ優しいんだね」

「今更か。私は全ての少女の味方なのだ」

 耳をパタパタと指で弄ぶ桜は鬱陶しいが、今回の様な形の好意なら受け取るのもやぶさかではない。もう少し長くなった江戸の町で過ごす時間を、どう使おうかと、村雨は今から計画を立てていた。何もせず、だらだらと寝て話すだけの午後。みいんと一つ、蝉の声。
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