烏が鳴くから
帰りましょ

二日目―――The different side.

 私の一日の始まりは、主に二つのパターンに分けられる。
 文明の利器に頼らず体内時計に従って目を覚ますのが、1。今朝はこちらのパターン。手の内の書に栞を挟み、年代物の木の机に置くのが、2。そのどちらにせよ次の行動は、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨く事。
 眠気を引きずる事は殆ど無いのだが、早朝の澄みわたる空気には、水の冷たさが良く似合う。
 蛇口を捻るだけで水が出る、水道とは魔術の一種なのではないか、と戯れの思考。地中に通した管の中を水が流れている、そんな事は知っている。知ってはいるが、こんな森の中の一軒家にまで、科学の恩恵は遍く行き渡っているかと思うと、水脈を探り当てて土を掘り進む、そんな魔術より余程不思議に感じられるのである。
 冷水を染み込ませたタオルをきりと絞り、目尻目頭、鼻、頬と個所を移して拭っていく。

「ここまでを10分以内……」

 時計を横目にキッチンに足を運び、市販のティー・バッグをカップに沈め、お湯を注ぐ。
 味と値段のバランスを考ると、別に1箱幾らの量販店で購入したものでも、目覚めの一杯には十分。これ以上の贅沢を味わいたい気分になったのなら、その時にその分だけの葉を購入すればいい。
 幸いに今の世の中、美味しいお茶の入れ方は秘伝とされず、世間一般に様々な手段で公開されている。知識は共有物、技術は個人所有、進歩した世界の在り方だ。

「……ここまでで15分以内、と」

 紅茶で体温を上げたのならば、また寝室にとんぼ返り。寝巻を制服に着替え、登校の準備を完了させる。
 体温の馴染んだネグリジェが肌から離れていけば、暖房器具の無い寝室の冷気が皮膚の下まで潜り込むようで、この瞬間を可能な限り短くしようと、細かい着こなしの調節も無しに居間へと戻った。
 テレビは有るが、朝のニュースは没頭しかねないのでパス。情報源として使用するのはもっぱら新聞、『朝刊虫の知らせ』は、午前4時には我が家の郵便受けに収まっている。
 隅から隅まで読む事は少ない。大見出しを抑え、気になった記事には少し時間を裂く程度。今朝の場合は、白玉楼通り方面での事故の話題に目を止めた。
 噂じゃ死後の世界に繋がっているとかいう、好んで住む者も居ない土地。近代的ビル群こそ立ち並ぶが、深夜の人口密度は、おそらく過疎村落よりも小さいのでは無いだろうか。

「へぇ、ガス漏れ事故、怖いわねえ……そろそろ30分」

 他人ごとの様な感想だが、知人に向こうで働いている者はいない。親身になって涙を流すなんて事は出来ず、それよりも時計の長針の行き先を気に掛ける。
 今から家を立てば、学校に着くのは35分後。常の例に照らし合わせれば、教室に生徒は1人か2人。始業までの時間を利用して、持ちこんだ本を何十ページかは読み進める事が出来る。
 鞄を手に家を出て、後ろ手に玄関のドアを閉める。

「『Assemble.』」

 居間のキッチンの寝室の灯りが消える、暖炉の火が消える。がちゃりと音を立てて玄関のロックが掛かる、窓の鍵が閉まる。
 今日も平常運転、万事が万事狂い無し。





 校門を潜り、校庭を横切る。のんびりのんびり、徒歩の道のり。雪を踏みわけ、白い息を吐く。
 目的の校舎からは、合唱部の朝練の美声が聞こえてくる。まっすぐ昇降口へ向かう筈だった足は、ふらふらと引き寄せられる様に校庭の一角へ進み、

「~♪ ……あ、おはようございます、先輩!」

 傍で見ているだけのつもりだったのに、挨拶をされてしまった。礼には適う様にと挨拶を返し、邪魔にならない様にそれ以上近づかずに居る。
 一年生ながら、彼女は合唱部でも指折りの美声の持ち主だという。素人耳にもそう思う、あと少しだけ技術を身に付けたなら、彼女は近隣校随一のソプラニストとなるだろう。
 確か、この後輩はミスティアとか言った筈だ。何の妖怪なのかよく分からないのだが、背中の翼を見れば鳥の仲間なのだろうとは推測できる。
 美声で獲物を引き寄せて喰う、などといった伝承は、どちらかと言えば人魚の類に似ている様な……ああ、そういえば彼女は『ローレライ』だった、これも忘れてた。

「……あ、あの」

 然し、何と言おうか本能的に惹かれる声だ。
 人が技術の研鑽の末に辿り着く声とは、それは確かに至高の芸術の一に数えられるものであろう。目に見えぬ筋肉、肺、喉を思うが侭に動かし、自らを一個の楽器にまで高める声楽は、それこそ素人の私がどれだけ真似をしても足元にも届かないものだ。
 だが、彼女の場合は、彼女自身が楽器になるまでは至らない。声量、声質は上級生達と比べて弱く、また未完成。技術を競うのならば、彼女はまだステージに立てない。
 だというのにその声は、歌うばかりか言葉を発するだけで、如何な美声よりも真っ直ぐに心を掴み、引きずろうとする。
 その方角へ歩いていけば、一切の苦しみを忘れ、永劫の安らぎと共にあるだろう。彼女の声は、そんな絶対に有り得ないと断言できる甘美な誘惑を、四方八方に撒き散らしているのだ。

「あのー……先輩?」

 少し周囲に目を向ければ分かる、首は動かさずに視線だけを左右に振る。ランニング中の運動部も、ベランダに出てきている悪ガキ生徒も、喫煙中の教員方も、皆が彼女を見ている。
 どうせなら最前列まで聴きに来れば良い物を、ああして遠くから鑑賞するだけとは勿体無い事だ。折角、始業に余裕を持った日程を組んでいる。暫くは彼女の歌を聞いているのも――

「――ん? ああ、御免なさい。続けて良いわ」

 聴衆の欲の無さを悲しんでいたら、いつの間にか彼女の歌声が止まっていた。上級生が数mの距離で、無言で立ち止まっていたらそれは気にもなるか。邪魔をするつもりは無いのだ、軽く詫びて先を促す。

「いえ、あのー……歌、お好きなんですか?」

 歌が好きか――後輩に投げかけられた問いに、私は不動のままで思案を巡らせた。
 嫌いではない、自分で歌うのも聞くのも、人並みには好む方だと思っている。何もする事が無い夜には、テレビのチャンネルを回して歌番組を探したり、ラジオを聴いたりするくらいには好きだ。だが、そういう一般的な『好き』を、合唱部の彼女が訊ねてくるのだろうか?

「いいえ、そういう訳でもないわ」

 結論として、特別な感情を歌に抱かない以上、ノーと答えるのが妥当だと判断した。
 妙に自分の声が響くなと思って、周囲に目を向ける。校庭が静かだ、運動部の掛け声も無ければ、ベランダからの馬鹿笑いも聞こえない。これは聴衆に悪い事をしてしまった、あまり長い間、彼女の歌を止めておく訳にもいかないだろう。
 私の答えを聞いて、平均より二周りほど小柄なこの後輩は、表情を曇らせた……様に見える。言葉が少なすぎただろうか、傷付ける意図は無かったのだが。
 悪い事をしてしまったかなと思いつつも、今は聴衆の為に、この場を去る事を優先としていて、

「……それじゃ、どうしていつも、私が練習してるのを見に来るんですか……?」

 彼女に背を向け昇降口へと歩き始め、その時にもう一つ付け足された問いに、上半身と首だけ後方へ捻る。
 どうやら私は相変わらずの仏頂面をしているようで、ミスティアは怯えたのか怯んだのか、きゅっと身を縮める。私にそういう、彼女を害する意図はない。身体、精神の両面でだ。
 じゃあ、どういう意図があるのだろう、自問する、
 取り立てて興味が無いのなら、そもそも脚を止めるまでもない。その時間を自分の為に使う。
 何故、興味を持ったのか。それは彼女の歌が聞こえたからだ。とは言え、歌としての完成度を言うなら、彼女の先輩たちの方が数段上だ、それは客観的な評価として正しい筈。歌詞やメロディも、競技の題材としては優秀なのだろうが、盛り上がりに掛ける退屈な曲に聞こえた。
 成程、自己分析は終了した。ようするに私は、彼女の歌には愛着を抱けなかったが――
 四歩で遠ざかった距離を三歩で埋める程、大股で近づき、

「私は『貴女の声』が好きなの。良いから続けなさい」

「え――えっ!?」

 俯き気味なのが気に入らない、顎を引いて顔を上げさせる。額を軽く指で弾いてやってから、同じ速度で教室に向かった。
 ふと気付けば、校庭や校舎の賑やかさは、普段の二割増しくらいで帰ってくる。ミスティアの歌声が復旧したのは1分少々後の事であり、声の色は普段よりもむしろ鮮やかだった。

 教室に到着して自分の席に座ると、珍しく同級生に声を掛けられた。

「アリスさん、大胆だねー……」

「そう?」

 何に対して言われた事なのか、良く分からない。分からないがこの日以降、靴箱に忍ばせられるラブレターが激減した。メモ用紙の入手先が減った訳である、残念だ。





 授業4つを終え、昼休みに入る。進路に合わせて授業科目の変更を受ける我が学び舎だが、私の場合は基本的に、受けられるものは全部受ける。
 知識は多いに越した事はない。役に立たないと思っていても、どこでどのように生きるか分からない。どうせこれだけ詰め込めるのは学生の内だけだ、身分の特権を利用しようではないか。

「……見事な模範的学生だな、午前午後で合計6コマか」

「どうせ学費は同じよ」

「そういう事じゃない、ないんだが……間違ってはいないから困るぞ」

 別に友人が欲しくない訳ではない。ただ、何故か近づいてくる者が少ないだけだ。机に張り付いている彼女、犬走椛は、その例に該当しない珍しい妖怪だった。
 彼女は就職希望の様で、午前は一般教養二つ程度。午後は技術実習か、バイトに出るか部活動か、だ。そんな彼女から見れば、確かに私の日程は、過剰積載に映るかも知れない。
 実際、そういう事も無いだろう。私は学業が終われば、後は家での時間になる。それに、普通の学校ならこの程度の授業数は当たり前だ。翻って彼女は勉学を終えたなら運動、或いは労働を行い、帰宅後も近所付き合いで労働。合間合間に時間が入るだけで、彼女は私とそう変わらないか、それ以上に密度の濃い一日の筈だが。

「……隣の芝は虹色なのよ」

「紫色の芝生の上で野球はしたくないよ……どっかいくのか?」

「屋上。静かだもの」

 今朝、ミスティアの歌を聞いていた為、結局読書を進められなかった事を思い出した。
 平凡な恋物語だが、主人公の恋人の回りに、複数の女の影が見えてきた所だ。盛り上がりそうな部分なのだ。……ちなみに、主人公は女性であり、その恋人も女性である。ドロドロとした愛憎劇であることだなあ、などと古文風に感歎。
 置き去りにされた椛も、不平をこぼす事はない。彼女は私の行動に慣れてしまっているらしい。昼食なら誘っても良かったが、生憎と読書。沈黙が支配する場に、同行者を連れていっても仕方が有るまい。

「……いや、同じ本二冊で品評会を開くというのも……」

「お前の独り言は思考の経路が良く分からない」

「気にしないで、大したことじゃないわ」

 彼女を友人と呼ぶ事は正しいのだろうか。いや、呼んでいいなら喜ばしいのだが。まあ、休日に二人で買い物にでた事もあるし、こうして短い言葉のやりとりもする。これなら一般的な友人の定義に当てはまるのではないか、と信じたい。
 鞄から本を引きずり出して教室を出るまでの間、空腹の椛は学食へと幽鬼の様な足取りで進み始めていた。……普段なら、背筋を伸ばして歩いていくだろうに、どうしたのだろう。
 私自身はと言えば、体調良好の今日の事。歩幅も速度も平常通り、靴に一定のリズムを刻ませる。
 廊下の掲示物は、今日は張り替えられていないらしく、昨日と全く同じものばかり。これもそうだ、これも読んだ、これも読んでしまった、目を滑らせる程度に留めて、人の流れへ興味の方向性を変える。
 教室で感じた違和は、風邪の流行かとも思った。何せ、擦れ違う他の生徒にも何人か、椛と似た様な表情の者がいたからだ。人間よりは妖怪に、妖怪の中でも無機物の怪よりは半獣形の妖怪に、その割合が多かった気がする。
 自分自身が健康体だからだろうか、昼まで気付かなかったのは迂闊だった。帰宅したらうがいくらいはしよう―――

「あたっ」

「あ、ごめんなさい」

――廊下で話をしていた誰かにぶつかってしまった。詫びて直ぐに去ったが、顔を見る事もしていない。誰だっただろう?
 髪を止めるあの大きなリボンは、確か同級生の博麗霊夢の筈だ。近くで何か打ちひしがれていたのは、隣のクラスの河城にとり。その2人を観察する様に、何か嗜虐的な笑みを浮かべていたのは、一年の古明地さとりだったと記憶している。
 我ながら、関わりの薄い人妖の名を、良くぞ此処まで覚えているものだ。先輩達の名前も顔も、普段は意識しないが、おそらくは8割方は覚えている筈。同学年は全員、後輩なら9割程……む?
 先輩と後輩で、記憶しているであろう割合が違う。それはつまり、興味の持ち方に差が有るという事だ。

「……そうか、私は年下好きだったのね」

 独り言を聞く者はおらず、ツッコミを貰う事も無い。屋上への階段を登り、躊躇う事も無く鍵を開けた。うっかり鍵を閉められても、実は私の場合、そこまで困りはしない。





 さて、私の半日を振り返ってみて、疑問を抱いた方もいるかと思われる。起床からの6時間、睡眠時間も併せて14時間(する事が無くて早く寝たのだ)、私は紅茶一杯しか口にしていない。
 それで、健康な体を保てるのか? 空腹で倒れはしないのか、と。端的に言えば、私には食事の必要はなく、本来なら睡眠の必要すらない。
 アリス・マーガトロイドは魔法使いという種族である。
 幻想郷に住む者を大別すれば、人間と妖怪の二種類に分けられる。多数派の人間、少数派の妖怪。私の住む地域では、むしろ妖怪の数の方が多い様にも思えるが、それに私を当てはめるなら、後者に分類されるのだろう。
 だが、私のご先祖――それが何代前かは知らないが――は、人間であった。人間が魔法を、現在の呼び方でなら魔術を身に付けた結果、食と睡眠が不要な存在となったモノ。それが魔法使い、私という訳である。
 かの『幻想の幻想』より更に昔から、幻想郷には魔法が当然の様に存在した。様々な文献に記述が残っているし、昔話の類にも語られている事が多い。歴史の教科書を紐解いてみれば、魔術史と題して数ページばかり、人名十数個が散らばっている。
 然し、今の幻想郷では、日常的に魔術を用いる者など殆どいない。何時の頃からか幻想郷は、内包する存在を、現実的なものへと変えてしまっていたからだ。
 長命の種族は過去に居た。今は、妖怪と人間の寿命に大差が無い。
 空を行くには飛行機という巨大な金属塊が必要になる。自力で飛べるのは、言葉を解さぬ鳥や虫だけだ。
 魔術という知識はあれど、実行する技術を持つ者が殆どいない。魔術が生む奇跡の代価、支払うだけの魔力を持つ者が少ないからだ。
 然し、例外はどの時代にでも存在する。
 例えば、『博麗の巫女』。幻想郷の守護者として定められた彼女〝達〟は、生まれながらに強い力を持つという。それは魔力の最大量であったり回復量であったり(彼女達なら霊力と呼ぶが相応しいだろうか)、勘の良さだったり頭の良さだったり運動神経の良さだったりするらしい。
 妖怪の脅威に、それ以上の脅威として相対するのが役目。そして彼女達は、それを苦とは思わない。彼女達が代々受け継ぐ術の数々は、今の幻想郷に於いて、対抗できる者は十を数えないともされる。……今の幻想郷とは、海の向こうの大陸やら何やら、兎角広い世界を示す言葉である。
 例外というなら、私も例外だ。私の場合は、生まれつき魔術を知っていた。
 赤ん坊がやがて立ちあがって歩くように、私は長ずるにつれて魔術を思い出し、扱えるようになってきた。
 身長が伸びるのに合わせて魔力の最大量も増え、体重が増えるに合わせて魔力の回復量も増え、過去の文献に記された魔術の幾つかも、今ならば十分に再現できるレベルの力を持っている。
 殴り合いなどしたら、非力な私では、校内ですら下から数えた方が早いだろう。
 だが、事が全力の―――互いの存在の否定し合いとなるなら、私に勝るのは校内で1人だけだ。そう、先に名を上げた博麗の巫女、博麗霊夢。客観的に彼女には勝てそうにないが、その他の誰に負ける気もしない。
 飛ぼうと思えば、何時かは飛べるようにもなるかも知れない。今は無理だが。もしかしたら何処かの文献に、小さな魔力消費での飛行技術を発見できるかも知れない。
 得た知識の数だけ、私が出来る事は増える。こんな楽しい事、そうは見つかるまい。だから私は、1人でこうして読書をするのが気に入っているのだ。

「……でも、寒いもんは寒いのよ」

 ここは校舎の屋上、季節は冬の真っただ中。制服は冬服だからと言って、完全に寒風をシャットアウトしてくれる訳ではない。
 習慣だから此処で読書を楽しんではいるが、我ながら半分程意地になっている気がする。雪が積もった時など、座る事が出来ないからと、直立したまま昼休みの終わりまで過ごした。
 そろそろ新しい定住地を見つけよう。いっそ校内に図書室の設立を要求してみようか―――在学中に叶うのか?
 ぱたむ、適当な所で紐の栞を挟み、B級恋愛小説を閉じる。屋上は一応立ち入り禁止の場所、階段を降りた時に教員に出くわすのは御免だ。たしか5歳ごろには使えるようになっていた、探知魔術を発動させて……

「……?」

 屋上に、何か有る気がした。
 何も無い、目に見える範囲では。だが、私の探査網には、確かに魔力の塊が引っ掛かる。いや、塊というよりは図面、複雑な図形を描いた様な……?
 意識して探知範囲を広げていけば、似た様な形状のものがもう1つ、2つ、3つ、校舎の様々な個所に。まだ有るだろうと網を広げていって、その内に私の探査限界距離に達してしまう―――と、いうのと。

 きーん、こーん、かーん、こーん。

「……あ、始業5分前」

 時間的な限界もあり、それ以上屋上に留まっている訳にもいかなかった。
少なくとも昨日、こんなものはなかった筈。昨日の夜から今朝に掛けて設置されたものだろうか。学校に仕掛けられた魔術の匂い、これはどういう目的で用意されたのか?知的好奇心が猫ならぬ己を殺す羽目になろうとは、流石に私も予測していなかった。





 幸運だったのは、今日は6コマ目を終えた後は、先生方もほぼ全て学校を離れる日程だった事だ。生徒の家を回ったり、何処かに出張したり。学校の守りは防犯装置にお任せ。完全に学生がいなくなった6時半ごろ、用務員が鍵を掛けにくるらしい。
 この季節なら、その時間はもう完全に夜。確かに学生は残ってはいるまい。いや、部活動もこの季節だと、明るさと足場を求めて、校外で行う部ばかり。
――或いはこの特異な学校の体質が、餌場として狙われた原因かも知れない。
 校内をくまなく歩き回り、違和を感じたのは、屋上を含めて8か所。校舎を立体的に感じれば、それぞれの間隔はほぼ等しい。
 8つの魔力の塊は、相互に何か繋がりを持ち、魔力を送信しあっている様だった。
 それは、監視カメラの様でもあり、警報装置の様でもあり、何らかのトラップの様でもあった。正体がまだ分からないからこそ、私はそれに気を惹かれた。
 魔力探知の種類を切り替える。生物非生物を問わず〝動くもの〟を捉えていた今までの探査網から、魔力だけを見る、より限定的なものへ。何処から何処へ、どういう目的で魔力が流れていくのか、それを探る為だ。

「……外部から魔力を注がずに作動する……自家発電?違うわね、これは……」

 設置型の術式は、発動時に注がれた魔力が無くなったのなら、外部から補給をしなければならない。ところがこの術の場合は、どうやら術自体が魔力を収拾する事で、術者からの補給を不要としている。
 大気中の魔力を回収するだけでは、最終的に赤字になる。密度が薄すぎる為だ。霊地にセッティングするならば兎も角、謂れも無い土地の学校の大気など、ただの酸素でしかない。
 この術は、術の効果範囲内に存在する生物全てから、継続的に魔力を吸い上げているらしかった。これならば、吸い上げられる側が持ちさえするなら、確かに効率は良いのだろう。一人一人の所有魔力量が微弱になった時代でも、常に200人近くから魔力を吸い上げ続けられる。帰宅して1日休めば、一般人ならばまた、所有する魔力の量は最大まで回復している筈だ。
 ……以上が、私の見立てである。全て正しいという自信はないが、6割方は真実に近づいている筈だ。誰が仕掛けたかは知らないが、あまり気分の良いものではない。撤去できるなら、それに越した事はない。
 とは言え、私の得意とする術の分野は『使役』、自分に権利が有る物を扱う技術だ。他人の土地で、他人が作った術をどうこうするというのは、正直な所、苦手な部類に入る。
 まずは帰宅しよう、明日になったら図書館へ向かおう。過去の文献をあさり、解呪の術を中心に調べ、この魔力塊を除去する。正義の味方を気取るでもないが、自分の周囲にこういう事が起きるのは耐えがた――

 が、しゃあん。

「――……?」

 鉄板を床に倒してしまった時の様な、けたたましい音が聞こえた。校舎の外だろうか、音源はなんだろう。あんまりに、危険な音に感じた。
 近くの教室のベランダから覗いて、考え違いに気付く。私がいた3つ向こうの教室のベランダ、屋上のフェンスの一部がそこへ落下していた。
 あまりに、状況の変化が急すぎる。何が起こったのかを正確に理解出来ぬまま、落下してきた金属フェンスへと掛け寄った。

「斬られてる……!?」

 ニッパーで1つ1つ切断したり、重機で纏めて引きちぎったり、そういう痕跡はない。鋭利な刃物で一息に切断すれば、この様な断面が生まれるだろう、そう推察できる。
 フェンスを、誰が斬るというのだ。意味が分からない、目的が分からない。いや、考えるべきはそこではない。
 誰が、フェンスを斬れるというのだ。
 細くとも金属、戯れに刃物を振り回して切断できる代物ではない。長さも長さだ、普通に手に刃物を持って振り回して、届く範囲を超えている。
 危険だ、と思った。探知魔術も用いる事なく、階段を駆け降りた。昇降口まで駆け降り、靴を履き換え、直ぐにでも家に帰ろうと決めた。一晩過ぎれば、その異常ももしかしたら収束しているかも知れないと、期待を抱いたのだ。





 昇降口の直ぐ外には、見知った後ろ姿が立っていた。長めの髪を止める大きな赤リボン、やや高めの身長、同級生の博麗霊夢だ。彼女は、私が探知を行わずとも感じ取れる程の魔力を、自らの周囲に巡らせていた。
 術の種類も、見れば分かる。『結界』―――外と内を分断する、守りに長けた術。彼女は、何かから自分の身を守っている。
 その〝何か〟が1体ではなく2体だという事に気付くまで、暫く時間が掛かった。私より数m先に霊夢、その数十m先に人影1つ。夜ではあれどその姿は、手にした刃から散る火花に照らされて映し出される。
 成人女性、だと思った。きっとインドア派なんだろう色白で、細身で、出来の良いドールのよう。ここから見える情報には限りが有るが、彼女の手足が、まともな人妖のそれと作りが違う事は分かる。
 柔らかそうな肌、薄くしなやかな筋肉、骨格から華奢な腕が、相応の重量を感じさせる刀を振りまわしている。戦闘行為を行う為に必要であろうと予測されるシルエットから、それは大きくかけ離れていた。
 纏う衣は、袖丈が二の腕の中程までしかないワンピースドレス。薄緑色の布地は、きっと絹か何かなのだろう。白い布を花の形に作り、またレースにして、所々に装飾を散らした彼女の服は、普段着にしては小洒落ていて、フォーマルな場には品格が足りていない。時折こちらに背を向ける時、背面の大きな汚れが目立ち、それが彼女にそぐわぬ風に映る。
 あのフェンスはおそらく、彼女がやったのだ。何の変哲もない刀にしか見えないが、彼女が手にしていたのならそれも頷ける。外見は只の女性だが、まさかその通りの存在だと思える筈もない。
 彼女は、妖怪ですら有り得ぬ程の速度で動いている。生物が、あの様な無理のある速度で動ける筈がない、と私は思っていた。現実に動いてしまっている彼女は、私の知識と常識の遥か外に存在するらしい。
 見えぬ〝圧〟と衝突する度、彼女はか弱い脚に掘削機械も斯くやと力を込めて踏みとどまり、押し返している。
 〝圧〟の正体が、そこにいたもう1体。刀を持った彼女を襲う火花の製作者。
 それを、私はまともに目視出来ていない。黒い風景に黒い線が惹かれる、一瞬一瞬を見ていただけだ。どうやらそれは、彼女を左右から襲っているらしく、そしてどうやら人型の何かであるらしい。
 空間に引かれた黒線を追って、視線を横へと走らせる。一秒程度も有っただろうか、それを観察する機会が与えられた。
 黒かった、としか言いようがない。頭から足首まで、一枚の黒布に覆われている。手足をどれだけ動かしても衣は剥がれず、痩躯に黒は張り付いたまま。周囲に比較対象が無いから確実ではないが、私や霊夢より背は高く、刀を持つ女性よりは低い様に見える。フードの隙間から見えた顔はいやに白く、おそらく面を付けているのだろうと思われた。
 私は動けないし、霊夢も動かない。あの戦いに、割って入る術が無い。
 どちらが優勢なのか、それすらも分からない。
 ただ、見ている事を知られてはいけないと、何故だろうか、悟ってしまう。
 あんなものは、そもそも今の幻想郷に存在出来る筈がない、外れに外れた規格外の常識外れ。座して待てば首を掴まれ、引きずられて何処か知らぬ場所へと捨てられてしまいそう。
 そうなれば私は朽ちた人形となって、倒木に背を預けるのだろう。水気を失った眼球が、眼窩を転がってからりからり。見ているだけでもそうなりかねない、瞬きも出来ず目が乾く。
 そうして、逃げようという思考と、その試みに従わない体との葛藤を繰り返す事数度。黒い影はとうとう脚を止め、周囲に暴風を散らし始めた。
 陸上部の練習風景で見かける、クラウチングスタートの構え。その意図は明明白白、最大の速度で跳びだし、駆け抜ける為のものだ。先程までの視界に止まらぬ速度を、更に増して、自らの質量をそのまま凶器に変えてしまえば? それはきっと、機械仕掛けの巨大な鉄杭となって、刀を持つ彼女を貫くに違いない。
 そう、あの構えを見た瞬間に、私は其処まで想像してしまった。私に理解出来なかった彼女達の優劣は、この瞬間に限っては明確になる。黒い影がスタートを切った時、火花散る戦いは終わるだろう。

 終わった時、私は? ここにいてはいけない筈の私は、どうなる?

 逃げよう、あの2人の決着が付く前に。彼女達から見えない場所まで逃げよう。昇降口に留まっていてはいけない、上の階の教室に隠れるのだ。太陽が再び登れば、影も光に照らされて、居心地の悪さに消え失せるだろう。
 そうだ、時間が解決策となる。此処から逃げれば助かる。私は、足音を立てない様に最大限の注意を払い、且つ迅速にその場を去った つもりで居た。
 10mも行かず、階段が有る。階段は音が響く、慎重に、慎重に。1段、2段、3段、一歩ごとに脚を休ませ、音の反響が無いか耳を澄ませる。
 大丈夫だ、これならいける。4段、5段、6段、更に登り続けて踊り場に辿り着いた。まだ半分でしかない、ここから先はまだ長い。
 自らの安全と成功の確認の為、私は不必要に後方を顧みてしまい、

――ぐしゃ

 その瞬間は私には知覚出来ず、理解したのは、胸と背中がほぼ同一箇所に移動させられたという事。一秒未満の時間の中で、黒い布の隙間に覗く能面が、本来のそれよりやけに白く見えた事。
 なにがおこったんだろうな、なんて、言葉にする暇を貰えなかった。

 電源を落とす様に、全てが消えた。





 霊夢は、妖怪の山の坂道を下っていた。
 時刻は既に8時を回り、街灯に頼っても足元は暗く、雪が轍となって足を掬う。遠くに見る家屋の窓から零れる光には、住人の姿が幾つか、影となって混ざっていた。

「霊夢、助かると思う?」

「助かるわよ、生きてるなら」

 不可視の霊体が、霊夢の脳裏に直接問いかける。そうあって欲しいと祈る様に、また、そうなると固く信じて霊夢は答えた。
 彼女を、アリス・マーガトロイドを運びこんだのは、この聖杯戦争では唯一絶対の安全地帯だ。
 あの場所は、争いの火を不必要に広げ、衆目を集めない為に定められた中立地帯。それと同時に、この戦争の脱落者や、無関係にして巻き込まれた者を保護する場所でもあるという。誰かに伝え聞いた訳ではなく、博麗神社で見つけた書物に記されていた事だ。
 奇遇にもその場所は、霊夢自身が昔から、個人的に知っていた場所でもある。
 成程、あの場所にすむ彼女なら、或いはあの状態のアリスさえ救えるかも知れない。
 彼女の力を、霊夢は幼い頃に幾度か見せられた。個人の人格を抜きにするなら、彼女の力は信用に足るものである。

「運びこんだ時点で、まだ息は有ったけど……結構、神頼みよ?」

「神頼み上等よ、こちとら八百万の神様を扱う巫女さんなんだから。あれだけ苦労して運んだのに、助からなきゃ嘘よ」

 妖怪の山の道中、霊夢は、アリスを自ら背負って歩いた。
 セイバーを実体化させて背負わせた方が楽ではあっただろう。だがその場合、先程の黒い影の気が変わり、戻ってきた時の対処手段が無い。
 セイバーの感知範囲はおそらく霊夢より広いだろうが、あの影の移動速度は未だに上限が見えない。アリスを降ろして戦闘態勢を取る前に、霊夢かセイバーかアリスか、誰かに一撃を加える事は十分に可能だろう。
 その一撃が、先の校庭で未遂に終わったものだとしたら、セイバーすら耐えられない恐れがある。
 霊夢が担いでいけば、セイバーは武器を構えたままで霊夢に同行出来る。万が一、敵サーヴァントの接近を感知した場合、奇襲の一撃を防ぐ事は可能だろう。それが宝具による高速攻撃だったとしても、同様に宝具を展開すれば良い。
 更に言えば、霊夢の意向はどうあれ、セイバーはアリスの生き死にに絶対の執着が有る訳でもない。奇襲を察知したら、最悪でも霊夢だけを抱えて逃げるという手が有るのだ。セイバーが護衛、霊夢が背負って歩くという手段は、両者共に達した結論であった。

「それにしても、ねぇ……霊夢、貴女、あの女とそんなに仲が良かったのかしら?」

「まさか。人生において接点すら数回しか無いわよ」

「じゃあ、どうしてこんなものを貰ったのよ。丁度良いから私が使うけど」

 霊体化した状態では見えないが、セイバーは現在、二振りの刀を所有していた。
 一つは、博麗神社から持ちだした御神刀。飾りとしか思っていなかったこの一振りは、セイバーが手にするや、戦闘に用いるに十分な性能を発揮する様になった。
 これはセイバーの持つ保有スキル『魔術:C』の為だろうか。通常兵器が効力を発揮しないサーヴァントに対しても、魔術的効果を纏わせる事で、斬撃が通る様にしているのだろう。刃が届かない範囲への斬撃も、おそらくはそれの副次的作用と思える。
 そして、もう一振り。博麗神社から持ちだしたそれと違い、神代を思わせる壮麗ながらも重厚な装飾の鞘に収まった長刀。僅かに鞘をずらして眺めた刃は、底冷えする様な霊力を放ち、それ自体が既に人界の宝具といえる代物であった。
 これがナイフや短刀なら、霊夢自身が護身用に持ちたい程だ。何せこの長刀は、魔術的干渉を一切行わずして、サーヴァントにすら傷を与えられるものだったのだから。
 何故このような物がセイバーの手に有るかと言えば、アリスを預けた先で霊夢が与えられたからである。去り際に呼び止められ、押しつけられ、そのまま送りだされた。
 霊夢としても、渡された理由が理解出来ないし、容易く渡して良い代物にも思えない。かと言って、貰ってしまったなら返したくならない程、それは魅力的な武器だったのである。

「良いわね、この刀。適度に重くて、すっぽ抜けが無さそう。反りの浅さも気に入ったわ」

「反りが深い方が抜きやすい、って聞いた事が有る気がするけど……実際どうなの?」

「この長さじゃ居合いはどっちみち出来ないから同じよ。それと、反り過ぎててもそれはそれで抜きにくいわ」

 長刀を背に括りつけて、セイバーは甚く上機嫌であった。新しい玩具を得た子供の様でもある。このサーヴァントは、緊迫した場面でなければ、外見に釣り合わない幼さを見せるらしい。刀に対する寸評を聴きながら、霊夢は、客観的に見た自分の姿を想像していた。
 学校の制服、ただし全身が鮮やかな動脈血と暗い静脈血の混合物に塗れ、それが乾いている。事情を知らぬ者が見れば、死人が歩いているとでも思うか、或いは殺人者が獲物を探しているとでも思いかねない。
 アリスを背負って歩いていた時は、セイバーに周囲を警戒させ、姿を隠しながら歩いていた。あれから何時間か経過したからと言って、こうも不用心に歩いていて良いものか。
 そういえば、不用心と言うなら――

「ねえ、セイバー。近くに他のサーヴァントの気配は?」

「無いわね。少しだけ、感知範囲を広げてみるけど……」

 歩いている訳でもないからこの表現はおかしいが、セイバーが脚を止めた。霊体化したままで、彼女は目を閉じ、精神を静めて集中を開始する。
 セイバーの感知範囲は、通常時で半径200mに及ぶ。だが、彼女の場合は、他の事に意識を裂くと、その範囲が極めて狭くなる。
 例えば、校舎の屋上で術式の検証をしていた時、セイバーはせいぜい数十m程度しか周囲の気配を察知出来ていなかった。一度探知を始めればコンスタントに一定距離を把握する霊夢とは、感知の手段が異なるのだ。
 そして、逆も然り。気を抜けば感知範囲が狭まるなら、集中すれば範囲は広げる事も出来る。現在のセイバーは半径400m、通常時の倍の範囲で、サーヴァントの気配だけを探っていた。

「……見つからないわ、この距離に居ないなら大丈夫。何か有っても、私が反応出来る距離よ」

「なら安心したわ、早く帰りましょ。警察にでも見つかったら厄介だし、早く制服を洗わないと明日が大変よ」

 聖杯戦争、先は長い。そして、明日も学校には普段同様に通わなければならない。敵サーヴァントの襲撃で実行できなかった、校舎に仕掛けられた術式の無効化を行う必要がある。
 更には、その術者の特定、撃破。自分自身の情報を隠蔽しつつ、他のマスターの探索。為すべき事は山と重なっていて、1日は24時間と定まったまま融通を利かせる様子も無い。

「………………」

「ん、どうしたの、セイバー?」

「ちょっとね、うん……あ、気にしないで。気のせいだった」

「……なら、良いけど」

 帰路、セイバーの気配が立ち止まり、霊夢達が降りてきた山の方に意識を向けていた。霊夢達の感知範囲に敵サーヴァントの反応は無く、その日、これ以降の戦闘は、この2人の身には降り掛からなかった。





 白い、白い世界に打ち捨てられていた。
 立ち上がろうとしても床が無いので、手を付けないし足も踏ん張れない。けれど、落下する様子もなかったから、ふわふわと漂う侭に任せた。
 どうして、私はこんな所にいるのだろう?
 首を傾げようとするが、動かない。
 顎の下に手を添えようとするが、腕も動かない。
 自分の体に何一つ、自分が動かせる部分が無かった。
 動かなくても良いかな、とさえ思える。白い世界は少し寒いけれど、こうして横たわっているには楽でいい。
 でも、直ぐに退屈になってしまった。
 動けないから、思考を巡らす。どうして、私はこんな所にいるのだろう?
 こんな空間が本当に有る筈無いから、これは夢か何かに違いない。でも夢と思うには、何か決定的な欠落が有って、目を背けたくなる。
 良く考えれば、どうしても目覚めなければならない理由なんて無いかも知れない。
 目が覚めるから、人は生きようとする。二度と覚めない眠りなら、目覚めようと足掻く意味は無いのだ。そうと決まれば、見たくない物は見ないで、自分の思考の中を泳ごうか――

「……懐かしいですね、こういう光景」

――……誰の声だろう?
 私の漂う世界の天蓋を、ゆったりと揺す振る音がする。初めて聞いた筈の声が、その発した言葉同様、懐かしく耳を擽った。

「眠っていられるならば、それが良いのかも知れません。何も得られない代わりに何も失わない、そこは完全な世界です。完全を外に求めるなんて、自分を知らない人のする事なのに……ええ、自分が完全だと知らない人のね」

 夢を見ているのだとしたら、外から聞こえるこの音も、また私の心が生んだ声なのだろうか。なら私は、この退屈な世界を、完全だと思っているのだろうか。
 いや、確かにこの世界は完全だ。新しく付け足すものがないから、何も知る余地がないだけだ。
 ああ、知的好奇心が帰ってきてしまった。欲が出てきてしまった。何も知る事が出来ない世界にいては、私は退屈で身が腐ってしまうだろう。
 閉じた瞼の下では、周囲の景色がひたすらに上昇を続ける。私が沈み続ける。浮かびあがろうとして、右手を高く掲げて、水を掻こうとして、

「……、あぅ、く、あ゛ぁっ……!?」

 世界の白が、コールタールで塗りつぶされた。穢れ穢れて光を失い、粘度を増し、絡みつく世界。眠りを呼ぶ冷たさは、意識を呼び起こす灼熱となり、身の内に灯る。熱さから逃れようと口を開いても、タールが流れ込むばかりで息が出来ない。
 苦しい。
 苦しい、痛い、苦しい。
 救いは、周囲の黒が重すぎるせいで、私自身の体が浮かび始めた事だった。遥か高みに、明かりが見える。不自然に優しい白ではない、冷徹な蛍光灯の蒼白でもない。火の赤から逃れる為に、そこにある安らぎの緑に手を伸ばし――

「おはようございます、今は午後10時29分。良い目覚めでしょう?」

私の手は、誰かの手を強く握りしめていた。
私とそう変わらない年齢にも見える、ずっと年上の様にも見える。年下でない事だけは確かだろう。
長い緑髪が私の顔の数センチ上で揺れている。顔を覗きこまれているのだ。
視界を遮る頭部の向こうには、文明の利器の電気の光。やや煤けた、茶褐色混じりの白。

 重ねた手は冷たかった。人の体温は有るのに、それを私に分け与えてくれない。小さな傷痕の幾つかを、薄くなった皮膚の感触で知る。その部位だけ、脈が強く伝わる。誰かの心臓の鼓動、生きている。そして、私も生きている。

「生き返った様な心地の筈です。普通ならば死んでいる様な重傷でしたから」

「……あな、た、は?」

 その女性は、首の位置を変えようともせず、口角も最低限の変化に留め、だが良く通る声を発する。覚醒したばかりの私には、その声が少々騒がしく、逃れられるならば逃れたいとすら感じた。

「治療のし甲斐がない患者でした。私が手を付ける前に、もう4割程は回復していましたから。貴女はキョンシーの親戚ですか?神霊を喰らって身を繕う、道士の忠実な部下の。
 ……ああ、2度の催促は必要有りません。ですが、まずは私に思う侭に語らせてください。過ぎ去った過去に想いを馳せるのは未来に絶望する事と同義にはならないのですから」

 私の問いに、答えを返さない。返すつもりは有るのかも知れないが、雑多な言葉がその意思を埋める。
 彼女の目と私の目は、未だに距離の変化を生まない。彼女が離れていこうとしないのだ。

「ですが、未来の形は既に1つ定まった。それはどう足掻いても変えられない事です。喜びなさい、望んでも与えられないものを、貴女は望まずに手にする事が出来た。或いは望みすら、貴女には与えられるかも知れないのです」

「……? ちょっと、待った……」

 話が通じていないのだろうか。言語は理解出来ていても、意思疎通が出来ている気がしない。横から水を流し込んでも大河の流れが変わらない様に、彼女の言葉もまた、淀みを見せない。私が何か言葉を差し挟もうと、飲み込んで無に帰してしまいそうな程だ。

「貴女は、生きていていい。生きる事を選んでもいい。その為に答えられる事は答えましょう、貸せる力なら貸しましょう。求めたまえさらば与えよう。私も万能ではありませんし、立場という枷は存外に重いのですがね」

 緑髪の女は、そこまで語り終えると、私から離れて壁の方へと寄った。首が動かせる、彼女を追って首を傾けると、そこには椅子が一つと机が一つ。彼女は椅子に腰かけ、机に両肘を付いて、

「私は東風谷早苗。此度の第五次聖杯戦争に於いて、監督役を務めます」

 初めて、私に表情を見せた。邪気の無い笑み、純粋な喜びに満ちた笑顔だった。





 何から聞けば良いのか分からなかったから、疑問を抱いた順に、追って訊ねていった。
 最初に確認した事は、私はほぼ確実に死んだのでは無かったか、という事だ。自分の身に何が起こったかは分からない。が、あの瞬間を今振り返れば、私の胴体は潰れていた。常識的に考えて、生物があの様な状態になったら、生命活動を維持できる筈がないのだが。

「運よく死ななかったのでしょう。だから、こうして生きている」

 こんな答えを返されてしまっては、それ以上喰いつく事も出来はしない。実際問題、自分がこうして生きているのだから、あの時に死ななかったというのは確かだ。意識が無くなっただけで死にはしなかった、そう納得する他は無い。

「……じゃあ、何で、私が?」

 では次は、私が殺された――殺されかけた理由だ。確か、私が最後に見たものは、黒と白で構成された殺意の塊。

「私はその場にいた訳ではない、本当の所は分かりません。ただ、貴女を運んできたご友人の言葉に従えば、貴女はサーヴァントの攻撃を受けたらしいですね。
 聖杯戦争は可能な限り秘匿すべし、これは聖杯とサーヴァントの間の契約……いやさ口約束程度のものですが、律儀にそれを守るとは、中々見どころの有る英霊ではありませんか」

「友人……」

「命の恩人の名前を知らないなどとは、薄情と言われても仕方がないでしょう。博麗霊夢、現在の博麗の巫女、彼女です。制服を見ると、貴女と同じ学び舎に通っている様ですが?」

 霊夢、彼女が? 彼女と私に、特別な交友関係は無かった筈だが。
 幾らかでも接点を見つけるとすれば、私の数少ない友人の犬走椛が、確か彼女とも親しいという程度。
 それでも、彼女に助けられたと聞くと、なんとなしに頷けた。彼女は、私だったから助けたというのではなく、誰かが死にかけていたから助けたのだろう。そういう人間に、彼女は見える。平等で、誰にでも同じ態度で接する。
 誰にでも冷徹なのかも知れないとさえ思っていたが、そうでは無かった様だ。ともあれ、命を救われたからには、明日にでも礼を……
 ……待て、彼女という人物を突き詰めて考えている場合ではない。

「ええと、早苗さん?私にはまだ、良く分からないって言うか……その、聖杯戦争とか、サーヴァントとか、何なの?」

 私には、早苗の言葉を理解する為の、前提となる知識が著しく欠けている。彼女が何を語ろうと、それが何処か遠くに存在する、実感無きものに感じるのは、それが理由だろう。

「聖杯、というものが有ります。それは万能の願望機、あらゆる願いを実現する奇跡の具現。ただし、その奇跡を手にする事が出来るのは一人だけ。故に、聖杯を奪い合う戦いが起きる。
 聖杯自身に選ばれた7人のマスターは、サーヴァントを呼びだして戦わせ、競争相手を排除する。そうして最後の1人を選ぶ、それが聖杯戦争。分かりやすいでしょう? 得る為に殺す、原型を保った闘争です」

 私の疑問は半分ほど解決されたが、代わりに幾つか疑問は増えてしまう。この女性の言葉はそうだ、親切丁寧に答えてくれている癖に、分からない事ばかり増えていく。彼女に好きに喋らせていれば、その内、分かる事すら分からない様になってしまいそうで、

「聖杯は、自らが選んだマスターに、闘争の為の武器を与えます。この幻想郷に於いてすら幻想となり、語り継がれる英雄―――いや、英霊。彼女達をこの世界に顕現させ、令呪による拘束を承諾させ、サーヴァント……従者とするのです。
 数多の人妖が如何に足掻こうと為せない、過去の幻想の使役。これこそ、聖杯が万能たる証拠と言えましょう。現に貴女は、自らの知と理解の及ばぬ存在を、既に目にしている筈では?」

 彼女は言葉を緩めてはくれない。私の混乱を余所に、問いの答えを提示しつづける。確かに私は、魔術などといった言葉だけで説明しきれない何かを2体、この目で見た。
 学校の校庭で、砂塵を夜気に巻き上げ疾走する黒衣の死神。
 命を穿つ死神の突撃を、赤々と火花を散らして打ち返していた女性。
 あの時は驚愕が先に立ち、状況を把握出来ずに居たが、時間を経た今は違う。目に僅かにでも留まった光景を再構成し、分析する程度の事は出来た。
 過去の文献には、簡単な命令を実行させる使い魔の記述がある。使役する側がされる側より圧倒的に力量が上でなくては、まともに従わせる事は難しいのだとか。私自身も挑戦してみた事は有るのだが、そもそも使い魔を呼びだす事すら失敗した。
 あの怪物2体は、何れも、現代の人妖とは次元を異にする力を秘めている。あれを使役するなど、人妖いずれの力を以てしても不可能だ。魔術を扱う者としての知識は、万能の願望機などという荒唐無稽な話をすら、理論的に納得のいく物と見なしていた。

「……じゃあ、霊夢は」

「聖杯が、己を得るに相応しいと判断した、7人のマスターの1人です。彼女もまたサーヴァントを従え、他のマスターとの殺し合いに身を投じる――」

「こ……殺し合い?」

「――私の言葉を遮る程、驚嘆に値する事実とは思えませんけれどね。貴女は自分の身で実感したでしょう。サーヴァントは、貴女を容赦無く殺害しようとした。
 ただの発見者でしかない貴女をすら、そう取り扱うのです。敵対者の殺害を、この戦争に参加した者が、躊躇うと思いますか?」

 躊躇わない筈がないだろう、反論をしたかった。
 親しいという訳でもない、ただのクラスメイトの私を、霊夢は助けてくれた。私が彼女に支払える代価などない。そこには好意だけが有った筈なのだ。他者へ無償の好意を差し出せる彼女が、同じ顔で同じ手で、他者の命を奪うなど――

「何も不思議に思う事は無いでしょう。聖杯は、全ての願いを叶える。ここ幻想郷においてさえ不可能とされる自体も、聖杯ならば全て叶えてしまう筈だ。全てを支配する力、巨万の富、天地に渡る知識、願えば失われた命さえ。その為ならば、他者の命の6つくらい、消す事に躊躇いなど持たないでしょう?
 奇跡とはそういうものだ。それを得る為に、どれ程の代償でも支払える。何故なら、自らの支払える代償の総和は、未だに得ていない奇跡には常に劣るのですから。」

――ありえない、と断言できるのか? 誰かを殺してまで叶えたい願いが、彼女には無いと、言い切れるのか?
 理屈で考えれば無理だ、私は彼女の事をそこまで知ってはいない。だが、もしも彼女にその様な願いが有るのなら、

「それとも、アリス・マーガトロイド―――貴女には、望みと呼べる物は何一つ無いと?」

 私と彼女は、最終的な所で分かり会えない人種なのかもしれない。
 東風谷早苗は、愈々以て楽しげに、両手の指を絡め合わせて顔を覆う。その唇から音は漏れてこないが、両肩は小刻みに震えていた。

「ああ、聖杯の意図は全く読めない。流石に狸だ、いや百鬼に勝る妖魔だ。よもやこの戦争にアリス・マーガトロイドを、望みも持たぬ侭に参陣させるとは!
 仕方がないでしょう、全て吐き出さなければ腹が減る事もない。常に何かを残していては、心からの餓えを覚える事などついぞ無かった筈ですからね」

「……どういう意味よ」

 早苗の言葉はやはり変わらず、私の分からぬ知らぬ事を、後から後から増やしていく。彼女はこういう人間なのだろう、その言葉一つ一つを捉まえて、問いただしていく事もあるまい。
 が、何故だろう。今の言葉だけは、そのまま聞き流してはいけない気がした。

「〝殺された〟と知って、どう思いました?
 自らが営々と積み重ねてきた力が及ばず、悔しかったか。遠く及ばない天上の存在に、恐怖を覚えたか。自分がその様な悲劇に出会った事を、悲しいと嘆いたか?
 何れの感情も人としては当然。今の3例にその他数百種の色合いを混ぜて描いた絵こそ、正しく人間の感情です。
 只の7色で描けるのは見栄えが良いだけの虹ばかり……アリス・マーガトロイド、左手の包帯を解きなさい」

 早苗の言葉に、状態を起こして視線を体に落とす。私は、ベッドの上に、包帯をぐるぐると巻き付けられて横になっていた。特に胸の辺りは、皮膚が見える隙間は1ミリたりと存在していない。
 だが、右腕と両脚は無傷。左手には、手首から先だけ、包帯が巻かれていた。
 左手の甲に、焼ける様な痛みが走る。包帯に手を掛けると、それが少しだけ収まる。早く解放してくれと、皮膚にのさばる何かが喚いている……?
 目を瞑って、包帯をもうひとつ巻きつけて、横になったら誤魔化せないだろうか。そう出来るのなら、私は喜んで、今この場で睡眠を取るのに。

「おめでとう、貴女はついに全力で生きる機会を得たのです。7人目のマスター、アリス・マーガトロイド」

 包帯を解いたその下には、三本の槍を重ねた様な、赤々とした文様が刻まれていた。

「……これは?」

「令呪です。サーヴァントへの絶対命令権にして、マスターの証。これが有る限り、貴女がサーヴァントに裏切られる事は無い。
 これを失った時、貴女は絶対の命令者ではなく、一個の人妖となり果てるのです。迂闊に使う事の無い様に。使わずに終わらせられるなら、それでも良い」

 マスターの、証? どういうことだ。聖杯戦争などという訳のわからないものにエントリーした記憶は無い。私には、他人の命と引き換えに叶えたい願いなど……

「怪訝な顔をしていますね? 言ったでしょう、『聖杯は、自らが選んだマスターに、闘争の為の武器を与えます』と。望みを持つ者全てが、その望みを叶える機会を得られる訳ではない。犬猫に生まれれば獅子を喰らう事は叶わないのです。
 貴女は権利を得たのだ、権利を行使する事に何か問題が?
 ……尤も、この権利すら重荷になるというなら、権利の放棄も出来なくもない。幸いにも、貴女はまだサーヴァントを呼びだしていないのですから」

「……その方法は?」

「おや、乗り気ですか? 方法と言っても単純です、私にその腕を預ければ、私の術で令呪を回収する。
 令呪を失いサーヴァントも持たないなら、それはもうマスターでは無いのですから。何、痛みは有りませんよ。爪を切るより簡単に終わります。……それを、本当に望むのならば」

 他者の命を奪ってまでの、どうしても叶えたい願いなどは無い。そんな事を望むくらいなら、私は非日常からの脱却を望む。
 誰かの命を奪うという事は、自分も命を奪われるという事だ。生きているのなら、死にたくないと願わない道理があろうか?

「……それで良いわよ、お願い」

「話は最後まで聞くべきですね、アリス・マーガトロイド。マスターでなくなれば、貴女は聖杯戦争から解放されると思っている。
 おかしな事だ。そもそも貴女は、マスターで無かったのに殺されかけ、此処へ来たというのに」

「あ……!」

「この社は中立地帯、不戦協定を結ばれた場所、目的が円滑に果たされる為の聖地。ですが、この建物を出たどの場所で何があろうと、私はそれに関与しない。隠蔽工作の手伝いくらいならしますがね、サーヴァントの前に立ち塞がるなどと言う愚行は出来ません。
 貴女が此処に立て籠るというなら構いませんが、聖杯戦争の終わりは何時になるやら。数日か、数カ月か、此処へ隠れ潜むというのですか?
 ……そうら、羽音が聞こえてきた。逃がした獲物を取り戻そうと、ハゲタカが空を飛んでいる」

 時計の針が、もうじき午後11時を指し示す。聞こえてきたのは、秒針が時を刻む音だけだった。
 羽音なんて聞こえない、どれだけ耳を澄ましても聞こえない。

「……最後に決断するのは貴女だ。ですが、最大限の助力はします。黒い影に怯えてこの社に立て籠るか、自らの剣と盾を取り、己が全てを尽くして戦う事を選ぶか。
 或いは武器を持たず、然し社に隠れる事もなく、堂々と外を歩いて殺される道も有りますが……?」

 聞こえないのに、聞こえないからこそ、早苗の言葉だけを耳が捕まえ、噛み砕く。
 私は一度殺されかけた、何の手も打たずに外へ出れば、やはり殺されるに違いない。この建物の中は安全だというが、それも早苗がいる時だけかも知れない。
 もしも彼女が外出する事が有れば、本当に此処は安全地帯だと言えるのだろうか。
 私には、身を守る手段が無い。

「そんなの……」

 一つしか、道はないじゃないか。
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